Jinkhairのバイカーへの道

Jinkhairのバイカーへの道

こちらは香川県坂出市にある理容室「Jinkhair(ジンクヘアー)」のブログです。店主が好きな「80年代HR&HMのアルバム紹介、ライブレポ」や「カメラ」「バイク」のことなど、日々の出来事などを気ままに書いております。

一旦退院してまた再入院せよとの医師の指示で仮退院することになった私。

本来なら、このまま入院した状態で本格治療に入った方が、私の体調の悪化や感染症などの恐れの点から優先される筈なのにと疑問に思ったが、私の方も2日間でも家に帰れれば、これからの長期入院に向けて色々準備もできるし、うどん屋にも行ける(笑)

看護師にそれとなく聞いたら、これまでの治療とここからの治療は使う薬剤とかがかなり違ってくるため、一旦区切りをつけた方が病院も都合がいいんだとか。

 

14日、15日の2日間、医師は家で安静にしておくようにと言われたが、どっこいそういうわけにはいかない。

この入院期間にやれなかった仕事が山ほどあるのだ。

すぐさま店に行って帳面の整理、自販機の補充、ポスター作製、など私しかできない作業を済ませる。

更に自損事故で行きそびれた帯状疱疹の「K田病院」、事故の後1回しか行ってない「Mえだ整形外科」にも行かないといけない。

河田病院の医師は前回行った血液検査の結果から、私の血液に異常があると気づいたらしい。差し支えなかったらその病名を教えてくれと言ってきたので正直に答えると「今の状態は感染症に最も気を付けにといけない時期だから深く針を刺す治療は避けた方がいい」と飲み薬のみでの治療となった。

「Mえだ整形外科」では相変わらずよくわからないリハビリを受けたが、ここに最低5回来なければ保険金がもらえないの(笑)

と言うことでまた退院したら正直にあと3回通います(笑)

 

もちろんうどん屋にも行った(笑)

今回一番好きな「あかみち」に行きたかったが時間的に難しく、土器の「つづみ」さんとドンキの向かいの「ROOKIE」に。

    (インスタより写真いただきました)

どちらもしっかりとした麺で満足!

 

アッという間に2日間は過ぎ、再入院の16日を迎えた。

部屋は一旦リセットされているのでどうなっているか不安だった。

個室希望とは伝えていたが空きが無ければまた大部屋になる。

 

しかし病院に来てみたら同じ南病棟の559号室を用意してくれていたので嬉しかった。

この部屋は南向きで景色もいいし、日当たりも良すぎるくらいだし、部屋のレイアウトもカスタマイズしやすいから気に入ってたのよ。

 

さて、再入院した16日は何もせずに過ごして、明くる17日から本格治療に入った。

その前に血液内科のM岡部長から、私と妻に対して私の今の病状、病気の詳しい説明、そしてこれから行治療の詳しい説明と副作用などを1時間ほど時間をかけての説明があった。

これまではぼんやりとしていた病気の事、治療法の事がよくわかった。

これらは私たちにわかりやすいように作っていただいたプリントの一部。

 

これは、私にNRASという遺伝子異常があると言うことを示している。
 
その遺伝子異常により正常な造血が行われていないと言うこと。
 
その治療に「アザシチジン」という注射と「ベネクレスタ」という飲み薬を併用することで効果を上げることができるという。
 
その2つの薬剤の治療の後、ペグフィルグラムチムを注射して1クールがが終わるという。
 
それをずっと繰り返すことになる。

つまり完全に治すことはできないが、進行を遅らせ、押し戻すことによって少しでも延命を図ろうとする治療になる。
 
この治療にしても必ずうまくいくという保証はない。
ここには挙げなかったが、様々な副作用も待ち構えている。
しまし、もうここまできたらやるしかないというのが今の状況である。
 
いよいよ始まる抗がん剤治療、果たして効果は?
その副作用に私は耐えられるのか?
 
                        つづく

HCUに2泊し、回復してきた私。

医師から「命の危険があった」と言われてもピンとこない。

そんなに悪かったという自覚がない。

すぐにでも普通病室に移ってもいいのではないかと思った。

しかし、医師の感覚は違った。

私が心不全を起こしたことにより、かなり慎重な対応が必要と考えたのだろう。

HCUでは「ベッド上安静」と「バランス測定」が課せられていた。

この「ベッド上安静」とは基本ベッドの上で横になって安静にしていなければならない、という決まり。

 

もちろん歩いてトイレに行くこともできない、そもそも色んな計測機器が繋がっているためベッドの上でも動きが制限される。

その不自由さと言ったら…。

これはHCUを出て個室に移った後の写真、HCUではスマホはおろかすべての持ち物の持ち込みが禁止され、保管もできない。
これはまだマシになった方で、多くの計測機器に繋がれ、そのケーブルやチューブを絡ませないように動かなけれなならない。
 
うっとうしい!

 

尿はチューブで外に出せるが、大便はおむつの中にして看護師に替えてもらわないといけない。

そのバツの悪さと言ったら…。

それで私は「ベッド上安静」が続く間、極力食事を取らないことにした。

次の日、HCUから普通病棟に移されたのだが、「ベッド上安静」と「バランス測定中」は継続したまま。

すぐ近くに看護師がいない分余計に不便になってしまった。

因みに「バランス測定中」とは飲む水分と出る水分(尿)を測定して比較するというもの。

なので水を飲むときはメモリの付いたコップでいくら飲んだか記録しないといけない、ペットボトルのお茶等を勝手にゴクゴク飲んではいけないのだ。

 

めんどくさい!

 

ある日若い看護師とぶつかった。

その若い看護師はとにかく余裕が無いというか杓子定規というか、かなりきつく当たってくるので私も大人げなく反発してしまった。

私は自損事故で胸を強打しているので中途半端な姿勢が一番痛い。それで、ベッドの枠に片足を乗せて座っているだけで「それはベッド上安静ではない」とどやしつけてくるのだ。

これだけでどやされる(笑)

 

これにはさすがに私も切れた。

「俺だって生きてるんだよ、生活があるんだ、ティッシュにてを伸ばしたり、冷蔵庫に手を伸ばすことだってあるやろう!ずっとひっくり返って寝てるわけにはいかないんや!」

 

つまり、食事の時に座る以外はずっと仰向けに寝ておれ、と言うのだ。

そんな事できますか?

 

とにかくこの「ベッド上安静」の束縛が早く取れることを祈っていたのだが普通病棟に移ってからもなんと10日間も続いたのである!

もう普通に動けるのに、歩けるのにこの制約が取れない。

リハビリのスタッフが毎日病室に来て、まるで80歳のじいさんにさせるような足の曲げ伸ばし運動をさせる。

私としたらもうバカらしくてもどかしくて、なんならこの5階の病棟走って一周したろか!と思ってしまうのだが、これも何らかのデータになるのだろうから真面目にやらないといけない。

前任のY本医師の後に主治医になったのは新任の若いT岡医師、この病院に来てから多分初めてのやや難しい患者としてかなり慎重に、いや慎重になりすぎているのかも知れない。

しかし「ベッド上安静」まで少しずつ心電図や酸素の管などの制約が一つ一つ取れて自由になる感覚はなかなか嬉しいものだった。

それまでは尿の管、心電図のコード、酸素の管、酸素飽和度を計るコード、点滴のチューブなどが身体から出ているのでちょっと体勢を変えようとすると時などもこれらが絡まないようにキレイに束ねながら動かないといけない。

このストレスと言ったら…

 

便の方は自宅から持ってきてもらった履くタイプのおむつにしてすべて自分で処理した。

合わない看護師にしてもらう程屈辱的なモノはないからだ。

 

そしてやっと尿の管が抜かれた。

しかしまだ自由というわけではない。

尿は尿器にして、大便は勝手に部屋のトイレでせずに看護師を呼べというのだ。目の前にトイレがあるのに(笑)

一度こっそりトイレに行ったら間が悪く看護師が入って来て注意された(笑)

 

それ以来爆速でトイレを済ますようになった(笑)

 

その不自由さは4月10日の「ベッド上安静」の解除まで続いたのである。

「ベッド上安静」の解除からも心電図のケーブルは付いたままだったが携帯タイプの発信機になったおかげで自由に動けるようになった。

 

しかし医師からはまだこの部屋から出てはならないと言われた。

1回の売店はおろか、同じ階の部屋を出てすぐの自販機コーナーやラウンジにも行かないでくれと。

もう、どこまで慎重やねん!

病棟一周走って回ったろか!

 

まぁ、しかしここは素直に従っとくのが得策と我慢したけどね(笑)

 

ある日、主治医の上司で血液内科の部長であるM岡医師から意外な申し出があった。

だいぶ体調も落ち着いてきたので一旦退院して再入院したのち、本格的な抗がん剤治療を始めると。

 

昨日まで部屋を出るのも禁止って言ってたのに退院やて?

まぁ、こっちはその方が色々準備もできるし有難いが…

 

そして4月14日気に入っていた個室の荷物をまとめて一時退院することになったのである。

 

                       つづく

3月27日、3月一杯で移動してしまうY本医師.の話を聞きに病院に赴いた私だが、体調が悪くそれどころではなくなった。

そしてそのまま入院となってしまったわけである。

 

話は少し遡る。

2回目の骨髄検査の結果が出たとY本医師から説明があった。

今回の骨髄検査は検体を専門の機関に送り、時間はかかったがより正確な検査が出来たのだという。

 

それによると私は「骨髄異形成症候群」MDSという状態なのだという。

これをわかりやすく言えば、骨髄には造血幹細胞があり、造血を行っているが、私の場合染色体の異常により正常な血液が作られなくなり、それが増殖することにより、正しい血液を駆逐してしまい、結果血液が足らなくなり身体の機能に障害が出るというわけである。

そしてその悪い血液の割合が20%を超えるとそれは「急性骨髄性白血病」と呼ばれる。

つまり「骨髄異形成症候群」を放っているといずれ「白血病」になってしまうというのだ。

「白血病の前段階です」口数の少ないY本医師ではあるが、それはハッキリ宣言された。

そうなれば、一刻でも早く治療を行わなければならない。

治療には最低2週間の入院とそれ以降通院で抗がん剤を投与し続けることが必要なのだという。

 

それで私は4月7日からその治療を開始する予定でいたのだが、この日体調不良で入院したことにより、もうそのまま治療開始まで入院することにしたのである。

 

入院してすぐHCUに入れられたが、とりあえず回復したので一日で出られたので普通病棟で過ごしていた私だが、そのに更に体調悪化が襲う。

 

毎日定期的に看護師が来て「体温」「血圧」そして指に小さな器具を挟んで「酸素飽和度」を計りに来る。

「酸素飽和度(SpO2)」は、血液中のヘモグロビンがどの程度酸素を運んでいるかを示す割合。健康な人の正常値は96〜99%で、95%以下は軽度の酸素不足、90%以下は呼吸不全の疑いがあるそうなのだが、この時私はこの値が80%少ししかなかったのだ。

 

にわかに看護師が慌て始める。

酸素マスクを当てられ、ストレッチャーに移されてレントゲンを撮ると言われて移動させられたのだが、その時私は意識が朦朧としていてハッキリ思い出せない。

 

やがてレントゲンが撮れたらしくそこの医師が写真を見せてくれた。

これはもちろん私の肺の写真ではないが、正常な肺はこのように黒く透き通って見える。

しかし、肺に水がたまった状態の肺はこのように白く写るのだ。

 

その時の私の肺は両方とも真っ白、全体に水が溜まっている状態だったのだ。

 

「このように肺に水が溜まってしまっています、これでは酸素が正常に取り込めなくなってしまいます、早急に水を抜かないといけません!」

 

ストレッチャーは更にHCUに向かう、もう嫌だのなんだの言ってる雰囲気ではなかった。

HCUの着くと5、6人のスタッフがわらわらと集まって問答無用で身ぐるみ剥がされ、尿の管を入れられHCUの衣類を着せられた。

そして心電図、酸素飽和度、血圧計、などの機器を付けられ、そして今まで見た事もないような大きな酸素マスクを装着された。

それは水中眼鏡を上下逆にしたような黒いしっかりした造りで鼻と口を空気が漏れないようにがっちり装着されたかと思うとものすごい風圧で管から空気が送られ、強制的に酸素を肺に送り込む特殊な酸素マスクだった。

これは私に使用された酸素マスクではないが、大体こんな感じだったと思う。

朦朧としてはっきり覚えてないのだが、多分この風圧で強制的に酸素を送り、肺に溜まった水を除去する目的があったのだと思う。

 

「これで一晩過ごすのか…」

意識が朦朧とした状態ながらげんなりした私だが仕方がない。

 

しばらくして目が覚めた、それが何時頃なのかはわからないが、駆け付けた妻と娘がいた。

そして初めて会う若いイケメンの医師がいて、説明してくれた。

「小比賀さん、心不全を起こしていたんです、命が危ない状況だったんですよ!それで肺に水が溜まってたんですが、それも尿になってキレイに出ているようですね」

この若いイケメン医師は後で循環器専門のK口医師だと知った。

 

心不全…

 

初めて聞く病名ではないが、何故自分が?

そしてなぜ肺に水が溜まったのか?

 

やがて、あの大きな酸素マスクは取り外されたのでホッと一息つくことが出来た。

 

それからHCUに2泊しただろうか?また普通病棟に戻れたのは戻れたのだが、「ベッド上安静」「バランス測定中」が課せられ、なかなか自由に動く事ができない日々が続いた。

 

そして計画していた抗がん剤による本格的治療は私が心不全をおこしたことにより大幅に遅れる結果となってしまったのである。

 

                       つづく

河田病院の医師によれば次週に本格的な注射による治療が必要とのことで私はちょっと早めだが病院に向かった。

直接病院に行くのではなく、仁尾のうどん屋に寄ってから行こうと仁尾に向かう坂道を下っていた。

 

その日はなんとなく頭と身体がシャキッとしない感じで車を運転していいた。

 

そして…

突然「ガガガガガガッ~!」

と激しく車体が左に沈んだかと思うとコンクリートの橋に激突した!

 

側溝に落ちたと言うことはすぐに理解できた。

エアバッグが全部膨らんでいる。

胸を打ったのか痛い…

とりあえず外に出る。

 

こういう光景は見ない方が幸せだ…

 

後ろを走っていた兄ちゃんが「額から血が出てるで!大丈夫か?」

と声をかけてくれて救急車も呼んでくれた。

額もどこかで打ったのか血が流れている、足も痛い。

 

私は警察に連絡した。

騒ぎに驚いて出てきた隣のおばあさんに住所を聞いて伝える。

側溝に落ちた車はコンクリートの橋に激突してそのはずみで側溝からは出ているのだが、斜めに停まっているせいで道の半分をふさいでしまっている。

普通車は通れるが、大型トラックは通れないのでいきなり渋滞を作ってしまった。

 

何とか車を動かせないかと試みる。

エンジンはかかるものの前輪が完全に曲がってしまっていて全く動かない。

そうしているうちに警察や救急車が到着。

救急車に一旦乗って色々聞かれるが病院に搬送するまでもないと救急車を降りたら後はいつもお世話になっている車屋さんや保険会社との連絡をしながら警察との対応。

 

私が落ちた側溝は倉庫のような建物に面していて、どうも人はいないようだ。

警察官が向かいの民家の方に声をかけてみると、その倉庫は向かいの方の所有物だと言うことが分かった。

奥さんが出てきてくれてしばらくすればご主人も帰ってくるという。

 

それにしてもこの斜めに停まった車をどうにかしないといけないと警察官がジャッキのような器具を使って手動で車を動かして真っすぐに停めた。

これで大型車も通れる。

もちろんこの時点でレッカー車は呼んでいるのだが、観音寺から来るというので少々時間がかかっている。

 

やっとレッカー車の到着と思ったら、車体の損傷が予想より酷く、乗ってきたレッカー車では運べないので一旦帰ってクレーン車を持ってくると帰ってしまった。

左側の損傷が激しく、車輪の軸が完全に曲がってしまっている。

 

3月と言えど小雨が降り、風もあるので結構寒い。

警察官2人がずっと交通整理をしてくれている。

妻が車で迎えに来てくれていたが、車内で待つのは悪いような気がして寒い外でクレーン車を待つ。

 

そして待つこと数十分、クレーン車が到着。

どうやって吊り下げるのかな?と思っていたら、ホイールにバンドのようなものをかけてうまい事持ち上げるではないか!

クレーんで吊り上げられるクラウン(6009)ロック号、大事にしてたのにな….。

 

レッカーの兄ゃんによれば、もうこれは廃車だろうと言われた。

残念だが損傷が大きく修理は難しいだろうと予想された。

一瞬の気の緩みがこうゆうことになる。

 

激突したコンクリートの橋

今回損傷があったのは側溝に渡したコンクリートの橋の一部とそれにかぶせてあった鉄板を飛ばしてしまったことくらいでその他に大きな損傷は認められなかった。

人や大事な建造物に損傷を与えなくてよかった。

かぶせてあった鉄板は遠くまで跳ね飛ばしてしまった、人や車がいなくて良かった。

 

所有者のご主人に丁重にあいさつし、連絡先も伝えた。

温厚そうな方で特に気にしている様子はなかった。

後は保険会社が対応してくれるだろう。

 

事故処理が終わったようなので、妻の車で地元の整形外科に向かう。

結局帯状疱疹の治療には行けなかった。

整形外科でハンドルにぶつけたか痛い胸のレントゲン写真を撮ったり、よくわからないマッサージを受けたり、湿布薬をもらって帰宅した。

 

そして2日後の3月27日。

この日は3月一杯で移動する主治医のY本医師に今後の話を聞く予定だったので病院に向かうのだが、この日は朝からひどく体調が悪い。

病院に妻に送ってもらい、車椅子に乗って受付を済ませると、すぐに内科処置室に案内されベッドに寝かされた。

 

覚えてないのだが、結構熱が出ていたらしい。

ベッドに寝た状態でY本医師や膠原病のN島医師も来てくれたが、まともに話を聞く状態ではなかった。

 

そして、そのまま入院となってしまったのである。

 

                              つづく

随分長い事、ブログをお休みしてしまった。

体調が悪かったこともあるが、あまりに多くの事が起きすぎてキャパオーバーになっていたということもある。

 

申し訳ないが、同窓会のお話は前回で終わりということにしていただく。

それではこれまでに私に起こった事を簡単に書いていくと…

 

前回「またも入院」と書いたが、それが何回目の入院だったかはもうわからなくなってしまった。

体調を崩すようになったのが昨年の11月、それから3月まで5回入院をしている。

どれも1週間程度の入院だが、自宅に帰っても体調不良は変わらず、起きれずに仕事を休んだり、全く食欲が無く丸2日、3日何も口にしなかったりとかで体重は43㌔まで落ちた。

 

 
痩せて極限まで極限まで細くなってしまった太もも
 
 

 

新年1月3日の同窓会は幹事として何とかやり切ったのだが、その後3日間寝込んで店の仕事初めの5日も休み、結局7日まで休んでしまった。

とにかく身体がだるい、しんどい、何もやる気にならない。

1日24時間あるとしたら23時間布団で寝てて、後の時間はトイレ、か何か口にしてるか…という状況。

 

3月の初め5回目の入院の時、脇腹に「帯状疱疹」が出来た。

ある時暑くて、Tシャツをまくり上げて身体を拭いていて脇腹に赤い発疹が出来ているのに気づいた。

 

帯状疱疹の初期、これが後にエグい状態になる(笑)

 

帯状疱疹のピークの写真はエグ過ぎるので載せない。

私はすぐに看護師を呼んでこれを報告し、すぐに帯状疱疹の薬、アシクロビルの点滴を開始して快方に向かったのだがこれは後々私を苦しめることになる。

 

しかし、何故ここまで頻繁に体調を崩すのか?

発熱、身体のだるさ、極度の食欲低下、味覚異常、血圧低下、腎盂腎炎、等々。

主治医のY本医師の意向であの痛い骨髄検査をやったが、Y本医師によれば「染色体に何かの異常がある、何かあるのだがそれが詳しくわからない」との返答。

結局、発熱すれば抗生物質、血圧が下がればそれを上げる治療、という風に対処療法が精一杯で、何故このような異常が続いているかはわからずじまい。

Y医師は「個人的な意見だが、もっとおおきな病院に行って相談するのもひとつの方法かもしれない」と本音を語ってくれた。

しかし、今更もっと大きな病院と言っても…

私はずっとこの坂出市立病院を利用しているし、いい病院だと思っている。

大きな病院、例えば香川医大とか、日赤とか高松中央病院を指すのだろうけど、市立病院にも医大の医師は来ているし、医大で診てもらったからすぐに私の病気が分かるとも考えられない。

 

そんな私にY医師は2回目の骨髄検査を勧めてきた。

あの痛い骨髄検査をまたやるのかと、私は渋ったがY医師は今回の検査ではその採取した骨髄をもっと専門的な機関に送ってより詳しく調べてもらう予定だと、それに保険はきかないから20000円ほどかかること、詳細に調べるので2か月ほどかかることなどを告げた。

私はそれを聞いて益々乗り気ではなくなったが、Y医師が珍しく割と強くるのでやることにした。

 

記憶があいまいなのだが、これが3月中旬までの出来事だったと思う。

3月18日、周期的に激しく痛む帯状疱疹に悩んだ私はペインクリニックなるものがあることを知り、近くのクリニックに電話するも今週は予約で一杯と告げられ、それならばと観音寺の「河田病院」まで出向くことにした。

思ったより大きな病院で色々扱っているみたい、初めて行く病院だが看護師さんも丁寧で優しいし、いい病院なんじゃないかと思う。

 

そこで私は背中にブロック注射をしてもらったおかげで激痛からは逃れられたが、医師はこれで終わりではない次週にはもっと本格的な注射をしないといけないという。

それは造影剤を入れ、間違えないようにレントゲンを見ながらやるんだという。

それをやれば数か月から数年効き目が持つらしい。

それは是非してもらいたいと次の水曜日、病院に行く前に仁尾のうどん屋に行く途中事件は起こる…

                                つづく

私は当初、今回の2回目の同窓会は乗り気ではなかった。

 

それは何故かというと、13年経ったとはいえ、2回目の同窓会は前回よりインパクトが弱く、多くの参加者を望めないのではないかという心配。

もし参加者が50人にも満たないという事態になったら恰好がつかない。

それと、これは私自身の問題だが最初の同窓会で「やり切ってしまった」という「燃え尽き症候群」

前回の同窓会にはとにかく持てるエネルギーと情熱をすべて注ぎ込んだ。

アレをもう一回やれと言われても…と思ったのが正直な感想である。

私は2回目の同窓会をやろうという声に対して消極的な態度を取り続けた。

しかし他の役員たちの声にほだされ、重い重い腰を上げたのだった。

 

13年経ったとはいえ、2回目なのでやるべきことは分かっている。

ホテルを押さえ、案内状を発送する。

前回参加者の住所は控えているが、それ以外の同級生の住所は不確定、しかし前回参加者だけをターゲットにしていたのでは確実に先細りする。

前回の13年前とは大きく我々の環境が変化している。

特に県外に移り住み、家庭を持っている同級生はこちらにいる実家の親がすでに亡くなり、実家自体も無くなってもう帰省する理由もないという事例も出てきた。

そう、私もであるが「帰省する側から子供たちの帰省を迎える側」になってしまって、正月に自由に動ける立場でなくなっているのだ。

 

前回は各組の役員を決め、何度も役員会を開いては対策を練ったが、今回は結局そういう機会を設けることはできなかった。

 

しかし今回は13年前とは違う心強いツールがあった。

それはLINEである。

今現在ほとんどの人がスマホを持ち、このLINEアプリを利用しているのではないか?

 

前回もメルマガのような事はしていたが、この段違いに使い勝手のいい現代のツールを利用しない手はない。

早速LINE上に同級生限定のLINEグループを作成して数人の同級生と始めたところ、アッという間に100名に迫るメンバーが集まった。

LINEグループはメンバーがメンバーを招待できる仕組みになっているので私が直接知らない同級生もその方を知っている同級生が招待できるのだ。

もちろん、LINEグループに参加してくれた同級生が皆同窓会に参加してくれるわけではなかろうが、このことでなんとなく行けるんじゃないだろうかと初めてこの2回目の同窓会に手ごたえを感じたわけである。

 

話は変わる…。

 

さて…

またもや入院である…

ずっと体調は良かったんだが…

 

先週の月曜日仕事終わりごろ、ちょっと熱が出た。

ただ、高熱というわけではなく37度台後半。

明くる火曜日には熱は引いててうどん屋に行ったり、買い物したりいつもと変わらない休日を過ごした。

明くる水曜日も定休日なのだがなんとなく朝からダラダラしてしまって私には本当に珍しいのだが、一日どこにも出かけず、何も食べずにずっと寝ていた。やっぱりここら辺からおかしかったんだろうね。

 

そして次の日の木曜日、やはりなんとなくしんどいけどまぁ大丈夫、と朝普通に準備して店に出かけた。

店の裏の駐車場に車を停め、5段くらいある階段を上った時に突如として頭がクラクラして歩くのも辛くなり、置いてあるベンチに座り込んでしまった。

「こらあかん!なんだこれは?」

とにかく裏口から店に入り、控室でひとまず休むことにした。

そして、その後トイレに行った後、立ち上がれずにそのままトイレの前でひっくり返ってしまったのだ。

「これはおかしい!なんでこうなる?」

思い起こされるのは昨年の入院中、同じようにトイレに入っている最中に血圧が急激に低下して集中治療室(HCU)に入れられたことだ。

あの時は看護師が「えぇっ?うそ~っ!」と叫ぶくらい低く(上が50前後)危篤状態の数値であった。

 

「あの時に似ている!」

前回退院する際、M岡医師に「これが病院内で起こったからまだいいようなものの、同じことが出先で起こったら命に関わりますよ!もし起こったら迷わずすぐに病院に来てくださいね!」と脅されていた?のを思い出した。

 

「救急車を呼ぶか?」

それ程でもない気もするが、立てなければそれも致し方ないだろう。

病院に行けばこれは当然入院になるに違いない。

それなら少しでも準備しておいた方がいいのではないか?

少し、落ち着いてきたので血圧を計ってみる。

上が60。

やはりかなり低い。

常には上が150あるのに…。

 

しばらく休んでいると、少し落ち着いてきたので救急車ではなく、妻に車で送ってもらうことにした。

「悔しい!」

11月からの長い入院でかなり損害が出てて、それを取り戻さないといけない、更に値上げをした直後の大事な時期だっていうのに!

今回はどれほどの入院になるのか…。

車窓からの景色が異様に眩しい!

後で調べると血圧が低下しているときは、網膜への血流が不足するためこういった現象が起きるらしい。

 

前もって病院に電話して事情を説明していたおかげで待つこともなく、すぐに内科処置室に運ばれベッドに寝かされた。

今回は個室は空いていなく、大部屋。

 

前の主治医であるY本医師(山ちゃん)は他の仕事から手が離せず、すぐに来れなかったが、別の見覚えのある医師が…。

あ!あれはHCU推進派?のI定医師ではないか?

 

マ、マズイぞ!(笑)

 

                    つづく

ブログ投稿が滞ってしまっている。
2回目の同窓会もとっくに終わっているというのに(笑)
 
その前に我がレブルについてお知らせしようと思う。
1月27日火曜日、3年間所有していたレブル1100DCTはバイク王にドナドナされて行った。
 
 
まぁ、寂しいと言えば寂しいがほとんど乗らなく(乗れなく)なった大型バイクを持っていても、と決断した。
これを書いている2月1日現在、体調は随分よくなって以前の状態に戻りつつあるが、レブルに乗って遠くまでツーリングに出掛けようとは正直思わない。
バイク王の兄ちゃんがレブルをトラックに積み込んでいる時に近所の知り合いのT原さんが通りかかって状況を言ったら「それは寂しいですね~」と言ってくれたが、私は「所詮、機械ですからね」と答えた。
今はそう思わないと、変に感傷的になっても仕方ないとそう思った。
 
 
さて、ここからは同窓会の話の続きである。
 
 
役員達の地道な努力によって参加者はじわじわと増えていった。
また同級生だけではなく恩師の先生方にも出席してもらおうと各組の役員が3年時の担任だった先生にコンタクトを取り参加のお願いに回ることになった。

私の担当は前に紹介したY地先生

 
Y地先生はJinkhairと同じ町内に住んでおられた。
7組のもう一人の役員、H田さんと先生宅を訪ねた。
卒業して約30年、しかし先生はホントに変わってなく当時のままだった。
聞くと、同じ教員をされていたご主人を早くに亡くされて、今はお一人でお住まいなのだそうだが、高松にいらっしゃる教員の娘さんの子供(孫)達の世話をするため、毎日のような高松に行ったり、スポーツジムに通ったりして忙しく充実した毎日を送っているそうだ。
同窓会にお招きしたところ快く了承していただいた。
この時初めて私が近くで店をしていることをお伝えしたところ、今現在通っている美容室が閉店すると言うことでJinkhairに通ってくださることになったのだ。
 
他の組の担任の先生も何名か出席していただけることになったのだが、その先生方に出席のお願いをする段階になって…
「○○先生(男)と△△先生(女)にも声をかけるんか?」
「そら、そうやろ〇組と△組の担任なんやから」
「そらマズイで」
「えっ?なんで?」
「あの二人当時××しとったらしくて、だいぶ噂になっとったんやで、鉢合わせたらマズイやろ」
「えっ?そんなことあったん?全然知らんかったわ!」
 
というわけで一応両方にお声がけはしたが、片方の先生は来られなかった。
 
その他、色々な企画を実行した。
会の中で当時の写真などをスライドショーで流したらみんな喜ぶだろうと考えて、役員から当時の写真を集めた。
すると元生徒会長のF岡君からなんと3年の時の文化祭の歌合戦のビデオが残っているとの情報が寄せられた!
「歌合戦」とは文化祭の目玉の一つで、全学年、全クラス対抗の合唱コンテストのようなもので、その年の課題曲、そして選曲自由の自由曲の2曲で競われ、予選では各学年3クラスずつが文化祭当日の決勝に進める。
決勝では予選を勝ち抜いた各学年3クラス、計9クラスが激突し総合優勝を争うのだが、当然ながら強いのは「音楽科」
当たり前と言ったら当たり前なのだが、音楽科は「それ」を専門にやっているわけだから他の「素人」のクラスに負けたら音楽科の沽券にかかわる!、と毎年本気でやってくる。
そしてほとんどの年で音楽科が総合優勝をさらってゆくのだが、この年は私が3年7組が音楽科3年9組を破り、総合優勝を果たしたのだ。
その時の動画が残っていると言うのだ。
当時、肩に担ぐくらいの大きなビデオカメラしかなかった時代。
よくそんなものが残っていたものだ。
聞くと当時の放送部の部員が撮影したものらしい。
 
羽目を外しすぎた3組の自由曲「狙い撃ち」
 
優勝した私が7組の自由曲「森のくまさん」右のワンピース姿の少女役はY地先生(笑)
 
このVHSに残された動画をソフトを使ってパソコンに取り込み、編集してスライドショーに追加、そのほか故人を追悼する動画や現在の坂高の様子などを追加して完成させたスライドショーを同窓会の中で上映すれば皆喜ぶのではないか?
 
スライドショーは「永遠の絆」と名付けた。
 
 
 
卒業アルバムをスキャン、プリントして切り抜き…
 
台紙に張り付けて一人一人名札を作製、こうすれば30年経って誰かわからなくても大丈夫(笑)
 
同窓会当日の受付の様子
 
その他色々な企画、工夫を凝らしていよいよ同窓会当日、2013年1月2日を迎えた。
 
集まった同級生は120名、計画段階でホテルの担当者から「全体の3割集まればいい方ですよ」と言われ、いやいやもっと集まるでしょと内心思っていたが、キッチリその通りの数字になった(笑)
 
卒業して30年、初めて行われた学年同窓会。
実際の同窓会の様子は割愛するが、それはそれは盛り上がり、同窓会は大成功!
参加してくれた同級生は皆喜こび、感謝してくれた。
 
 
同窓会が終わっても作業は終わらない。
 
撮影したスナップ写真をCDに書き込んで、参加者全員に発送。
 
 
 
 
先生方へのお礼には「デジタルフォトフレーム」を選択、同窓会での写真を保存して発送した。
 
同窓会の終わりに10年後の開催を約束したが、10年後の2023年は新型コロナウィルスの蔓延のため見送られ、今年の開催になった。
 
今年の2回目の同窓会も100名の同級生を集めて大成功!
今回も皆喜び、感謝された。
 
実は今回の2回目の同窓会に私は乗り気ではなかった。
 
 
                                         つづく
案内状作成に向けて大きな役割を果たすことが期待される全卒業者名簿「松濤会名簿」

これさえあれば案内状作成問題は解決したようなものではないか。
しかし事はそう簡単にはいかないのだ。
全卒業生の住所録と言ってもそこに記載されている住所が必ずしも正確(卒業生が居る)とは限らない。
卒業して間もない卒業生であればそのまま実家か進学や就職で転居していても調査が可能だし、実家に届いたとしても親が「あんた、こんなん来てたでぇ~」と子に伝える事も期待出来るだろう。
しかし、卒業して30年近くも経ってしまえば何度も転居して調査も届かなくなるし、実家も存在するかも分からない。
ちなみに名簿は学校が直接作成しているのではなく「サラト」と言う名簿作成会社に委託して制作している。
その会社では住所確認のために葉書を各卒業生に送り調査を行うのだが、一度返信がないと「住所不明者リスト」に入って住所録は氏名のみで空欄になる。
またこのご時世、個人情報を開示するのを嫌がってあえて住所等の個人情報の掲載を断っている卒業生もいる。
なので単純にそこに書いてある住所に案内状を送ればいいと言うわけではないのだ。
しかし、我々にはそれ以外に方法がなかった。
取り敢えず、そこに書いてある住所に案内状を送ってみて、そこに本人が居ればラッキー!
親か誰かの眼に止まって知らせてくれる事を祈るしかない。
 
その頃は各クラス2~3名の役員も決まり、定期的に会議室を借りて役員会を開くまでになっていた。
とにかく今は一人でも多くの同級生に同窓会の事を知ってもらい、参加してもらうことが最重要課題となる。
学年同窓会と称して実際は全体の1~2割に満たない参加者数ではあまりに寂しいではないか。
 
この時点で開催日2013年の1月2日、坂出グランドホテルの会場は押さえることができていた。
以前、ホテルの担当者と何度か打ち合わせをしてゆくうちにこんなことを言われた。
「卒業30周年の同窓会なら3割集まればいい方でしょう」と。
いやいや!2年も前から準備してるんだから少なくとも半分の200人は集まるだろう!と思っていたのだが、その考えはどうもかなり甘かったようだ。
そして、いよいよ案内状の発送に漕ぎつける事ができた!
発送は8月頃だったか?
 
 往復葉書の返信先はこのJinkhairにして、葉書が帰って来ればレジ横の壁に組別また参加、不参加別に分け、まるで昔の喫茶店のコーヒー券のようにぶら下げて一目で状況がわかるようにした。
 
一体どれくらい返信はあるのか?
そして参加者は何人いるのか?
毎日郵便配達員が来る度、期待を寄せる。
そんな期待をよそに「宛先不明」の葉書や不参加の返信が来る度、陰鬱な気持ちになるが、そんな中「参加します」の返信を見つけると心が踊る!
 
しかし、あんなに案内状を送ったのにも関わらず参加者数は伸びなかった。
 
さて、どうするか?
何度目かの役員会で話し合われた結果「こうなったら選挙ではないが、人海戦術、電話作戦しかない!」と言うことになった。
つまり、返信のない同級生は参加するかどうか迷っている可能性があるから、直接連絡できる者は手分けして説得に当たろうと言うわけだ。
 
私の担当は7組。
7組の中でまだ返信のない何名かの同級生に直接電話をかけて参加をお願いすることにした。
 
その中に「H谷君」という同級生がいた。
H谷君は色白で真面目で穏やかな性格で誰からも好かれる性格の人だった。
H谷君は現在関東在住で大手の運送会社に勤めているらしい。
自宅に電話にかけるも出られないので、職場にかけてみた。
電話をかけてみると女性が電話口に出た。
私はなるべく怪しまれないように自己紹介してH谷君に取り次いでもらえるように頼んだ。
しかし、その時私は大きなミスをしていたのだ。
なんと彼の名字の「読み」を間違えていたのだ。
つまり私の名前小比賀なら「オビカ(正)、コヒガ(誤)」のように。
当然電話口の女性は不審に思ったのだろう。
「同級生なのに名前の読み方を知らないのですか?」
「あ、いや!30年ぶりなので、あの…ちょっと…」
しどろもどろになりながら言い訳をしたが、なんとかH谷くんに取り次いで貰えた。
そして電話口から聞こえてきたのは聞き覚えのあるH君の穏やかな声だった。
そして、連絡してくれてありがとう、でもその時期はそっちには帰れないから出席はできないとの返事だった。
H谷君に参加してもらうことは出来なかったが、久しぶりに彼の声を聞き、遠方で元気に頑張っているのを知り、なんだか嬉しくなった。
 
他の役員も精力的に電話をかけて参加を呼び掛ける。
その中でよく聞かれたのがひとしきり誘ってみた後「じゃあ、誰が来るの?」という質問だった。
これは特に女性に多い傾向だろうか?
出席してみて仲の良かった同級生がいないと不安。
分からないことはないがこれに随分悩まされた。
 
同窓会に対しての思いは人それぞれだ。
二つ返事で出てくれる人もいれば、消極的な人もいる。
私は今回幹事をしているのだから前者の方だが、後者の気持ちもよくわかるのだ。
それには色々な理由が考えられる。
当時あまりいい思い出がない。仲のいい友達もいなかったから会いたいという同級生もいない。当時いじめられた。
また現在おかれた自分の立場というのも影響してくる。
久しぶりに会えば当然現在の仕事の事、家庭の事などの近況を報告し合うことになる。
仕事も家庭も充実していれば堂々と同窓会に参加できるが、例えば失業中、離婚した、など何か「引け目」があるとしたら参加しにくい気持ちになるのは致し方ないだろう。
 
また、なんとなく面倒臭い、というのも分かる。
私もいつの頃の同窓会かは忘れたが何度か誘われてもほったらかしにして結局参加しなかったこともある。
 
私だって高校時代いい思い出ばかりあるわけじゃない。逆にみじめで情けない思い出の方が多いし、今になって「何やってたんだろう?」と高校時代の自分の愚かさを恥じるばかりである。
もちろん仲のいい友達もいたし、会いたいと思う同級生は沢山いる。
懐かしい昔話に花を咲かせるのも楽しいだろう。
 
私たちは社会に出て色々な人に出会って言わば「揉まれて」来た。
その過程の中で我々は鎧を着たり、仮面を被ってきたのではないか?
同級生との付き合いはそんな鎧や仮面の必要のない、かけがえのない安心感を感じさせてくれる。
だって彼らは昔の自分の恥ずかしいところ、未熟なところ、カッコ悪かったところもみんな知ってるんだから、今更カッコつけてもしょうがないじゃない(笑)
何十年振りに会ったのに「お~○○!」「お~久しぶり、元気にしとったん」「今なにやっとん?」と気安く話しかけられる関係、それは同級生以外ではなかなか難しいんじゃないだろうか?
 
同窓会というのは、そんな同級生との再会や語らいの中、自分がこれまでどうやって生きてきたのか、彼らがどうやって生きてきたのかを語り合う中で、自分のこれまでの人生を振り返り、噛み締めて、またこれからも続く人生の何らかの道標になるヒントをくれるものじゃないだろうか?
 
色んな考えがあって「今さら同窓会なんて何の意味があるの?」と言う意見も聞くが、少なくとも私はそう思っている。
 
皆さんはどうだろうか?

前途多難な同窓会開催に向けて歩み出した私。

一体何から手を付けたらいいのか?

プチ同窓会に参加した同級生を中心にとにかくその輪を広げてゆくことにした。

当時はラインなどはなく携帯メールが主流の時代、それらや電話で少しずつ賛同者を増やしてゆくしかない。

考えたのは最低1組男子1名、女子1名の役員を決めて、彼らにその組の男女の同級生の勧誘などを担当してもらうこと。

私たちは各組の元学級委員や役員をやってくれそうな方に連絡を取って役員になってもらえるように頼むことから始めたのだが、なかなか色よい返事をもらえない組もあって困惑していた。

 

ここで坂出高校の当時の私の学年の構成を説明しておこう。

組は1組から9組まであって1組から8組までが「普通科」9組は「音楽科」と言って音楽を専門に学ぶ科。

1年時は1組から8組までの「普通科」は皆一緒、2年時から選択で「理数系クラス」と「文系クラス」に別れ、1組、2組は「理系」、3組から8組までが「文系」でそれぞれ3年時までクラス替えがある。9組は一クラスなので当然1年から3年までクラス替えはない。

私は文系なので文系の3組から8組までの同級生とは割と交流があった。

しかし1組、2組の「理系クラス」とは交流は低い。

プチ同窓会で集まった同級生は皆「文系クラス」ばかりだった。

なので必然的「理系クラス」の同級生との交流は薄く、役員任命にはてこずる結果となったのだ。

そしてもっと困難だったのは「音楽科」であった。

「音楽科」は先述の通り1年から3年まで他のクラスとの組替えもなく、普段「音楽棟」という別の校舎で音楽の授業を受けているので我々「普通科」の生徒と殆ど交流はない。

「音楽科」はその名の通り音楽を専門に学ぶ「科」であり、普通科の授業やシステムとは全く違っていて、入学時にも筆記試験の他に各々が専門にする声楽やピアノなどの楽器の実技試験があったりする。

卒業生はその後音大などに進み、著名な声楽家や演奏家になられた方も多い。

修学旅行も我々が信州などを巡る旅であったのに対してヨーロッパに演奏旅行に行くなど、同じ坂出高校の同級生であっても別の学校に通っている生徒のような感覚も正直あった。

「音楽科は今回の同窓会からは除外してもいいのではないか?」との声もあったが、それはいくら何でも気の毒だろうと、何とか音楽科の方たちも一緒に同窓会をやろうと当時の学級委員をされていた方を中心に声をかけてみたのだが「仕事が忙しい」との理由で色よい返事は得られなかった。

 

ある時こういうことがあった。

私は昔から扁桃腺が弱く、赤く腫れだすとすぐに悪化し高熱が出ると言うことを繰り返していた。

大阪時代からずっとそういうことを繰り返していて、当時はいつも行く耳鼻科があったのだがこちら(香川)に帰って来て、さぁどこに行こうか?となった時タウンページを見てよさげな耳鼻科を見つけてそこに通うことにしたのが丸亀の「T内耳鼻科」だったのだ。

そのT内耳鼻科は自宅からは遠く、凄く流行っていて患者は多いものの先生も親切で看護師もテキパキしていて回転が早く、大勢患者が待っていても待ち時間が少なく、点滴を打ってもらえばすぐに良くなることが多くて喉の具合が悪くなりだすと仕事前に良く通っていた。

看護師も多くいて、先生の奥さんらしき女性が受付にいて何度か応対してもらったこともある。

 

音楽科へのアプローチに難航していたある日、積極的に協力ししてくれている8組役員のT畑さんからこんな情報が寄せられた。

「丸亀の川西のT内耳鼻科の先生の奥さんて、音楽科の同級生のK薙さんなんだよ」

「ええっ!T内耳鼻科の奥さんなら医院で何度も会ったことがある!でも元々音楽科の人とは交流や面識がない上から全く気が付かなかった!」

そうなら一縷の望みを託して彼女に同窓会への協力を頼んでみよう!

 

そして私はT内耳鼻科に向かった。

いつもいるわけではないが、幸い奥さんは受付にいた。

そして恐る恐る声をかけてみた。

「あのう…つかぬことをお伺いします…僕は坂出高校の卒業生の小比賀と申しまして、こちらの奥様も同級生だとお聞きしたのですが…」

「えぇ、えぇ、その通りです、私はもう何年も前から小比賀さんのことはわかってましたよ!」

「えぇっ?そうなんですか!」

「はい、最初に来られた時からわかってました。小比賀さんは結構目立ってましたからね(笑)でも、小比賀さんは私のこと多分ご存じないと思ったんで声はかけなかったんですよ」

そうだったのか!まさか最初からバレてたなんて(笑)

でもそれなら話は早い、同窓会の事、音楽科の参加者がなかなか集まらない現状の事などを話すと、彼女は連絡先の分かる同級生に声をかけてみると協力を約束してくれた。

そして結果的に音楽科から大勢参加者してくれることになったのだ。

私の傾奇者(かぶきもの)振りも少しは役立ったって事なのか?(笑)

 

同窓会の実現に向けて(雲を掴むような)と表現したが、実は同窓会に向けて力強いツールが存在したのだ。

それは坂出高校全卒業生の住所録である「松濤会名簿」

 

 
名簿は学校創立の大正時代から最近の卒業生まで掲載され、5年ごとに発行されている。
 
 

 

実はこれを書いている時点で第二回同窓会は2026年1月3日に大成功のうちに終わっているのだが、このまま続けることにする。

 

       つづく

前回は私がいかに下らない高校生活を送ってきたかを知って貰うために恥ずかしい写真をお見せしたり、恥ずかしい出来事をご紹介した。
 
尚、皆様にご心配いただいた私の入院だが、12月12日に退院して仕事復帰はしている。
ただ、はっきりした原因がわかっていないため有効な治療もできない状態ながら、とりあえず体調が安定しているので医師に頼んで退院としてもらった。
医師はこのまま医大などの大きな病院に転院して調べてもらう方がよいと、もし前にあったような血圧の急低下がまた起こった場合、病院内なら処置ができるが、もし病院外や出先で起こった場合、命にかかわると釘を刺されたが…。
しかし、このまま私不在で年末を迎えたら店は大変なことになる。
「無理はするな!」と言ってくれるが「はい、そうですか」というわけにはいかないのだ。
 

そんな高校生活も終わりが近づいてきた。
同級生達は皆受験勉強、受験準備に余念がない。
それを余所目にのんびりしていた私に先生が「本校から理美容学校に進んだ生徒がいないのでそういう学校と繋がりがない、だからこれを見て自分で探せ」とリクルートの専門、専修学校の分厚い本を渡された。
その中から何校かに資料請求の葉書を出し、最終的に大阪の「高津理容美容専門学校」に入学することに決めた。
学校に入学すると同時に理容店に住み込みで働きだし、それから何軒か店や会社を変わりながら大阪には18年いて、36歳の時、香川に帰ってきた。
髙松の大手チェーン店で5年間勤めたのち今の「Jinkhair」をオープンさせ、今に至る。
 
今から15年前、私が45、6歳の頃か、ある一人の同級生が連絡の取れる同級生を何人か集めてプチ同窓会をやろうと持ちかけてきた。
同級生が経営する居酒屋で何度か行われたプチ同窓会、それは大いに盛り上がって楽しかった!
卒業以来28年ぶりに会う同級生も何人かいて、皆それぞれの人生を生きてきたんだなぁと、懐かしくも嬉しい気持ちになれたのだ。
 
第一回プチ同窓会
 
第二回プチ同窓会
 
第三回プチ同窓会
 
回を重ねるほど盛り上がるプチ同窓会、そこで勢いに乗った私は「2年後、オレ達は卒業30周年を迎える、それを記念して学年全体の同窓会をやらないか!」と大胆な提案をしたのだ。
しかし、元生徒会長のF岡君が「小比賀よ~、それはなかなか難しいんじゃないかの~」と言う。
確かにこれまで学年全体の同窓会は一度も行われていない。
学年どころか私のクラスは卒業してすぐに一回クラス同窓会はあったと思うがそれ以降一度もないし、他のクラスも似たり寄ったりではなかろうか?
私も長く大阪に出ていたので数人の同級生の消息しか知らなかった。
 
そんな状態で400人もいた同級生にどうやって声をかけて集まって貰えればいいのか?
 
確かに難題が山積みしていることは確かだ。
 
しかし、酒が入った勢いと言うか、無理だと言われれば逆にムクムクと気持ちが沸き起こって、「よぉ~し!じゃあやったろうやないか!あと2年もあるんやからなんとかなるはず!2年後の正月に『卒業30周年記念同窓会』と題して学年全体の同窓会を実現させるぞ!」と宣言してしまったのである。
 
勢いとはいえ宣言してしまったモノは仕方ない、やるしかない!
しかし、どこから手を着ければいいのか?
その時はまるで雲をつかむような話であった。
とにかく賛同し協力してくれる仲間を増やすことだ!
そうすればその輪が徐々に広がり大きなムーブメントになるはず。
とりあえずプチ同窓会に参加してくれたメンバーに協力をお願いしてそこから始めることにしたのだ。
そんな時期だったかな?
前の記事に書いた小学校の同窓会があったのは。
 
そこで同じ坂高に進んだ同級生もいたので協力を求めたのだが色よい返事は貰えなかった。
そして唯一、幼稚園から高校まで一緒だったK南さんに同じような相談をしたところ、こんなアドバイスを貰った。
「同窓会を成功させるには当時の人気者を味方に入れないとダメよ」と。
「確かに!」と思うと同時に、自分は生徒会の役員でもなかったし、学級委員もしたことがない、それどころか前に書いたような中途半端な恰好だけのエセヤンキーで同級生から顰蹙をかうような高校生活をしてこなかった生徒だ。
そんな私が今になって学年400人の学年同窓会の幹事だって?
正直、分不相応と言うか、おこがましいと言うか、人によっては、イヤ!誰もが「なんでアイツが?」と思われても仕方ないことだと思った。
正直そう思ってしまうと気持ちがひるむ。
しかし、あれだけ公言しておいて今更「やっぱり無理っす!」と白旗上げる方がよっぽどみっともないではないか。
 
同窓会開催予定まであと2年。
2年あればなんとかなるはず。
私は賛同してくれた仲間と一緒に2年後の同窓会に向けて模索を始めたのだった。
 
               つづく