平成年30年

11月8日晴れ 朝食後、一昨日にひどい宿に泊まったと若主人に話したら、「あ〜あ、あそこに泊まったのですか?」と笑った。宿の名前は言わなくても、お遍路さんや遍路宿の中では、周知の宿だった。逆打ちのお遍路さんには伝えるけれど、順打ちのお遍路さんには伝えようがないとも言った。外に出ると、本当に目の前に浄瑠璃寺があった。参道入口の左に、正岡子規の『永き日や 衛門三郎浄瑠理(璃)寺』の句碑があった。句碑は、読めないくらい削れていたが、横にはっきりと書いた木柱が立てられている。早朝は静かで気持ちが良い。今月7日と8日は、2人の伯父の祥月命日でもあるので、静かに鐘を突いた。境内には、おかけ下さいと『説法石』があった。お釈迦様が説法された、インド霊鷲山の石が埋め込まれていると説明文があった。20番鶴林寺の山号の霊鷲山は、インドの山の事かと思った。『佛の足跡』とか『仏手花判』という、仏の指紋だという石も置かれていた。他の霊場にはない不思議な境内だ。ゆっくりお参りをして、納経所に行ったら住職夫人と思われる方が、とても丁寧に対応してくれた。「境内は気持ち良いお寺ですね。」と言うと、笑顔で納経してくれた。北海道には、観光で来たことがあるそうだ。47番八坂寺は、田園の緩やかな道を1キロもないところにあった。役行者が開基だと伝わるので、1,300年の歴史がある由緒あるお寺だ。『地獄の途』『極楽の途』という面白い小さなトンネルの中に、それぞれ地獄極楽の絵が描かれているのでくぐった。真っ暗な本堂の地下には、びっしりと全国の信者から奉納された阿弥陀様が、『万躰阿弥陀仏』として安置されていた。続いて、5キロ弱先にある48番西林寺を目指した。46番から51番まで距離もなく、今日は余裕でお参りが出来ると思っていた。道路沿いに、『四国霊場遍路大先達衛門三郎札始大師堂左参道』の看板が見えた。ここは、焼山寺を下った先にある『杖杉庵』で見た、お大師さんに詫びている衛門三郎のゆかりの地なので、番外札所にもなっている。お遍路をする前から、ここは是非参拝をしたいと思っていたので、立ち寄りお参り出来て良かった。小さなお堂に納札箱があり、きれいにお祀りされていたが、納経所は見当たらなかった。参拝後、西林寺に向かったが、どこでどう間違ったのか道を間違えてしまった。左に行けば10数分で着くところを、右に曲がってしまい、まったく別の道を歩き、霊場でない同じ名前の西林寺に行ってしまった。境内の様子が違うので、停まっていた車に訊ねたら、札所の西林寺は6〜7分のところだと教えてくれた。実は車での所要時間が6〜7分との事なので、何と往復15キロの道を間違って歩いてしまった。以前読んだ本にも、同じ間違いをしたお遍路さんの話が載っていたが、私も同じ失敗をしてしまった。油断した訳ではないけれど、あの宿の不平を言ったので、ばちが当たったのかなと、戻りながら苦笑した。十善戒に不悪口とあるのにと、自分でも可笑しかった。西林寺へは、すれ違う人に何度も聞きながら歩いた。調剤薬局にも入って受付で訊ねたら、薬剤師が笑顔で道路に出て、丁寧に教えてくれた。やっと到着した西林寺の本堂に、50代くらいに見える女性がいた。金髪を背中まで垂らした外国人女性で、般若心経を唱え英語でも呟いていた。「スピリチュアル」とか「マインド」とかの単語は聞き取れたが、何をお祈りしているのだろうかと思った。般若心経は、目をつぶって聞けば、日本人のように聞こえる。一人で歩き遍路をしているようだった。西林寺の納経所には穏やかなおばあさんがいて、娘さんかお嫁さんらしい女性と二人で、丁寧に対応してくれた。49番浄土寺へも、また違う方向に向かって歩いてしまった。途中、婦人に浄土寺への道を訊ねたら、まったく反対だといわれた。どうも今日の方向感覚はおかしい。西林寺まで数キロ戻り、標識を注意深く確認しながら、久米小学校前を通り越した。三叉路で地図を見ていたら、乗用車が停まった。「どこへ行きたいんだ?」と聞かれ、「浄土寺です。」と返事をしたら、「乗れ!送ってやる。」と言ってくれた。歩きたいのでとお断りしたら、この先の信号を右に行けば良いと去って行った。お遍路さんは、道中みんなに見守られているのだなと感じた。浄土寺にも正岡子規の句碑があるというが、見逃してしまった。写真で良く見る有名な、空也上人像が安置されているらしい。空也上人像は、奈良の六波羅蜜寺だけだと思っていたが、ここにもあった。非公開なので見られないのが残念だが、口から阿弥陀仏6体が出ている強烈なインパクトがある像だ。浄土寺の納経所で、50番繁多寺への道順を教えてもらった。2キロ弱なので、何とか納経時間までに間に合うかなと先を急いだ。道標を見落とさないように注意して歩き、時間内に間に合いひと安心した。参拝を終えて納経所に行くと、先ほど西林寺で見かけた金髪の女性がいた。「般若心経が上手ですね。」と言ったら、納経所の女性もニコッとした。薄暗くなってきたが、51番石手寺に向かった。5時までの納経時間には間に合わないが、門前まで歩いておきたかった。今日はゆっくり歩いて、石手寺まで納経する予定だったが、道を間違えて3時間以上ロスしてしまった。歩けばこんな事もあるさと、以外にがっかりしなかった。石手寺に着いたが、辺りが暗くなりバス停を見付けられず、石手寺前のファミリーマートでタクシーを呼んでもらった。宿泊先は、松山駅に近い『ホテルクラウンヒルズ松山』だ。四万十市で宿泊した際、紹介してもらったチェーンのホテルで、素泊まりで予約していた。大浴場があり、夕食のカレーライスが、数量限定ながら無料なのも好印象だった。大浴場に気持ち良く入った。カレーが終了していたので、近くの飲食店に行って、名物の鯛めしを食べた。隣の菓子店で、坊っちゃん団子とマドンナ団子も買ってみた。色が違うだけで、同じ味だった。

 

 

46番浄瑠璃寺

 

句碑/正岡子規

 

浄瑠璃寺/本堂

 

説法石

 

インド霊鷲山の石を埋め込んだ石のベンチ

 

インド霊鷲山の石

 

佛の足跡

 

佛手花判/佛の指紋

 

樹齢千年!

 

籾大師

 

道標

 

47番八坂寺

 

地獄の途

 

極楽の途

 

標石

 

衛門三郎札始大師堂

 

札始大師堂

 

札始大師堂内

 

間違って行った同じ名前の西林寺

 

48番西林寺

 

西林寺/本堂

 

西林寺/大師堂

 

標石

 

49番浄土寺

 

お大師さん

 

標石

 

道標

 

50番繁多寺

 

繁多寺/大師堂

 

坊っちゃん団子&マドンナ団子

 

 

 

平成30年

11月7日晴れ 朝食に行くと、Sさんはすでにチェックアウトしていた。6時半には出て行ったというから、1日10時間以上は歩くのだろう。逆打ちだから、大宝寺から鴇田峠を行くのだ。呆れるしかない。身支度を整えてリュックを預け、岩屋寺に向かった。『古岩屋荘』近辺は、紅葉がきれいで撮影スポットになっているらしく、カメラを携えている観光客が多かった。岩屋寺の入口に『まだこれからじゃ 岩屋の坂と人生は』と、大きな看板が立っていたので、思わず笑った。朱塗りの極楽橋を渡り、辿り着く岩屋寺への石段は、何段あるのだろうか。『南無大聖不動明王』の旗がたくさん立てられていたが、とても急な石段できつかった。なるほど、看板の通りだ。山門の前に、微動だにせず托鉢をしているお遍路さんがいて、ドキッとした。最初は人形かなと思った。初めて遭遇したが、どんな理由で托鉢しているのか。後半最初の霊場なので、気分を新たに初めて鐘を突いた。「ゴ〜ン!」と気持ち良くて、清々しかった。その後本堂、大師堂を参拝した。寺名の由来か、垂直に切り立った岩に囲まれるように建っていた。逼割禅定(せりわりぜんじょう)や、法華仙人が修行していたという急な梯子の岩場もあったが、登らなかった。鐘楼から崖の上に小さな石仏が見えるとテレビで放送していたので、同じ場所から見渡したが、確認できなかった。写真に撮り拡大をしても石仏はなかったので、台風等で倒れたのかなと思った。それにしても、崖で囲まれた岩屋寺の壮大さに圧倒される。本堂から下りてくると、まだ托鉢しているお遍路さんがいたので、これも縁と思い小銭を布施した。帰り道に出ると、『宇和パーク』で出会ってから、数回会った男性お遍路さんが地図をながめていた。今日は、『桃李庵』に宿泊するのだと言う。私はその先の46番浄瑠璃寺門前の『長珍屋』まで行く予定だと言うと、「え〜、これから長珍屋まで!」と大声を上げた。長珍屋までは、『いやしの宿八丁坂』から岩屋寺を往復して向かうと、40キロ以上ある。三坂峠越えもあるので無理かと思ったが、仙人のようなSさんに触発されて歩いてみようと思った。宿に戻り、部屋に忘れたタオルを受取り、リュックを背負って国道33号線を進んだ。外国人の親子とすれ違ったが、流暢な日本語で「こんにちは、ガンバッテ!」と声を掛けてくれた。よくプロ野球選手が、スタンドの応援が力になると言うが、単なるリップサービスだと思っていた。しかし、毎朝カミさんからLINEに届く応援メッセージが、本当に歩く力になると身にしみて分かっていたので、この親子の声掛けが嬉しかった。無精髭のIさんとすれ違うかなと期待したが、ついぞ会わなかった。疲れて、ゆっくり休んでいるのだろうか。突然、北海道のY君から電話が鳴った。彼は、私より先んじて区切りでお遍路を始め、二度で38番まで納経している。私の様子が気になるようだ。「頑張っているよ。早く再開して追いついておいで。」と、歩きながら伝えた。午後の早い時間に『桃李庵』の看板を過ぎたので、『長珍屋』の宿泊予約で良かったと思った。三坂峠を登っていくと、背後から青年お遍路さんが急ぎ足で抜き去っていった。リュックを背負っていなかったが、速いなぁと思ったらスッと消えた。峠の遍路道に入ったようだ。峠の頂上付近で、荷物を積んでいた運転手さんが、峠を下るより脇の道を行けば、一時間早く下りられると教えてくれた。しかし、陽も陰ってきて道標のない道に迷っても困るので、御礼を言ってそのまま車道を歩いた。すれ違う車も少なく心細い思いもしたが、軽トラックのおじさんに、「頑張って!」と声を掛けられ気持ちが和らいだ。松山市に入ると急に交通量が多くなり、狭い歩道に危険を感じながら慎重に歩いた。浄瑠璃寺まで2.8キロの標識を見てやっと安心したが、陽が落ちてきた。『長珍屋』に着いたのは、夕方5時近かった。よく歩けたなと思ってiPhoneの万歩計アプリを見たら、58,000歩を超えていた。『長珍屋』は本によく出てくる人気の遍路宿で、立派な大きい建物になっていた。洗濯機、乾燥機もたくさん備えられてあり、高野霊木を使用したという新館の部屋は立派だった。大浴場を独り占めしてゆっくりと入ったが、とても気持ち良かった。夕食の大広間にはお遍路宿らしく、お大師さんをお祀りし、掛け軸や仏具、納め札等をたくさん飾ってあった。他にも宿泊者はいたが、大広間での夕食は自分一人だった。

 

 

紅葉があざやかでした

 

入口にあった看板です

 

石柱に不動明王が立っています

 

きつい石段が続きます

 

極楽橋

 

45番岩屋寺/山門

 

岩屋寺/本堂

 

岩屋寺/大師堂

 

岩屋寺は断崖にあります

 

鐘楼

 

法華仙人が修行した岩場

 

道標

 

三坂峠へ/国道33号線

 

標石

 

三坂峠から望む松山市

 

おもしろい看板

 

左右どちらに行けば良いのか迷いました

 

長珍屋

 

 

平成30年

11月6日晴れ 5時半頃、隣の部屋のFさんという若いイタリア人女性が、薄暗いなか出発して行った。若い外国人は、素泊まりで旅をしている人が多いから朝は早い。6時過ぎに朝食を持ってきたが、ほとんど食べずに早々に外に出て、思いっきり深呼吸をした。無精髭のおじさんはIさんと名乗り、一緒に鴇田峠に向かった。宿にコップがなく、歯も磨けなかったと、途中の湧き水で口をゆすいでいた。帰宅後にネットで検索したら、何年も前からかなり辛辣な苦情の多い宿だった。お遍路の身で口にすべきではないと思うが、真剣に改善してもらいたいと思った。大きな鳥居の『三嶋神社』を参拝し、『延命山厄除大師』という石柱のある大師堂の前を通った。無精髭のIさんは神社、大師堂の他、神仏に縁のありそうな建造物を見かけると、片手を立てて「南無大師遍照金剛」と必ず3回唱えて通り過ぎた。周囲に民家を見かけない木材の作業場では、青々とした細い木を束ねて、屋根のあるプールに何百束も立てかけてあった。無精髭のIさんは、お正月の松飾りの製作中ではないかなと言ったが、こんな山奥で作るのだなと妙に感心した。「歩くのが速いね。」と何度も言われたが、私には言葉の意味が分からなかった。無精髭のIさんは一時間歩いたら、少し休憩をとるらしい。急がないので、今までゆっくりと歩いてきたのだ。山道でも休むことなく歩く私と、ペースが合わないらしい。リュックから細長い袋が飛び出していたので、納経用の掛け軸だろうかと訊ねたら、なんと尺八だと笑った。霊場では、お経を唱える代わりに尺八を吹いてきたという。「虚無僧の流派だよ。」と教えてくれた。聴いてみたかったが、峠を登る途中で聴く事は叶わなかった。『鴇田峠遍路道』『大宝寺7.8粁』と刻まれた新しい標石の前で、お互いに写真を撮った。無精髭のIさんに、柿街道で買った柿を貰い、かじりながら歩いた。峠の途中、自前でお遍路休憩所を作った老人に出会った。近くに小屋も建てたので、是非お茶を飲んで寄って行けとさかんに誘うので、先を急ぎたかったが従った。郵便局の退職者で、悠々自適の生活をしているようだった。話しが長いので、無精髭のIさんに目で合図して、納札を置いて去った。これもご縁だと、五円玉を通したリボンをいただいたので、杖に結んだ。まだ、今夜の宿を予約していなかった。久万高原町は宿が少ないので、早くしたら良いと言われた。早速電話して、宿泊したかった『いやしの宿八丁坂』を予約した。下坂場峠を越えてしばらく登ると、『だんじり石』と書かれた立て札があった。お大師さんが疲労と空腹で、地団駄を踏んだという大きな岩だ。見た人がいるのだろうかなと思うが、これも伝説だから仕方ない。無精髭のIさんが石の上にあがったが、足跡はないと地団駄を踏んで見せた。鴇田峠の頂上に着く前に、「お腹が空いて動けないので、おにぎりを食べるから先に行って。」と無精髭のIさんが言った。「じゃあ、頂上で待っていますから。」と言って、ほどなく着いた頂上のベンチで、パンを食べながら20分程待っていたが、なかなか登って来なかった。私とペースが合わないので、ゆっくり歩きたいのだなと思い、あとは下るだけなので心配ないと一人で峠を下った。徐々に広い道に出て久万高原町に入り、ようやく大宝寺に着いた。元号の大宝を寺号にしたという由緒あるお寺で、鐘楼が2つあり驚いた。お大師さんが訪れた時に、天台宗から真言宗に改宗したお寺らしい。ここまで、ようやく霊場の半分まで歩いた。後半は減っていくだけなので嬉しい。無精髭のIさんの宿は、大宝寺近くに予約していたらしいが、私の今夜の宿はさらに4キロ先の『いやしの宿八丁坂』だ。早い時間に着いたら、45番岩屋寺に行けると思い急いだ。『いやしの宿八丁坂』は、大宝寺と岩屋寺の中間にあり、打ち戻りするのに便利で評判の良い宿だ。トンネルを通ると、前方から十夜ヶ橋で出会った青年にすれ違った。「まだ岩屋寺に間に合いますよ。」と、数珠をいくつも巻いた右手を挙げて笑った。午後3時半過ぎに宿に着いたので、リュックを預け、岩屋寺へ歩き始めた。1キロ程過ぎると、足に水ぶくれが出来たようで痛くなり、諦めて宿に戻りローソンに行く事にした。宿から3〜4キロあるというので、タクシーを呼んでもらい向かった。久万高原町は町の条例で、コンビニがなかなか許可されなかったそうだ。運転手さんが話を聞かせてくれて、さらに代金の端数90円と、ニッキ飴を一袋お接待してくれた。宿は快適そのものだった。部屋はきれいで、シャワートイレが設置してある。洗濯機と乾燥機は無料で、宿泊しないお遍路さんにも、無料でロッカーを提供していた。打ち戻りするお遍路さんに、重いリュックを預かってもらえると評判の宿だ。オーナーがお遍路経験者で、お遍路さんの気持ちがよく分かっているからこそのお接待だ。夕食が美味しくて、とても満足した。夕食時には、何と!お遍路を22回歩き、富士山に57回登ったという行者みたいな83才の老人がいた。Sさんと名乗るスーパーお遍路さんで、同じテーブルに座った。多くのお遍路さんは、だいたい7週間前後で回るのが普通だ。しかしSさんは約33日で一周するので、1日50キロ超歩く日も多々あると話した。そんなに歩けるモンですかと、みんなが訊ねたらこんな話を聞かせてくれた。何周目かに、あるお寺の納経の順番待ちをしていた。納経帳をたくさん抱えた団体の添乗員さんが、「お先にどうぞ。」と親切に譲ってくれたそうだ。それを見ていた住職が、「受付順だから順番に並べ。」と頑として受け付けなかったそうだ。そこで一悶着あり、「団体さんは、本人が並ばなくてもいいのか。」と詰め寄ったら、「屁理屈こくな!」と身を乗り出したという。そこでSさんは、「それなら納経はもうしない。」と納経帳を投げつけて、その後は納経をせずお遍路をしていると笑った。だから時間にとらわれず、早朝から宿に入る日没までずっと歩くという。とんでもないスーパーお遍路さんだ。割り込んだわけでもないので、納経してあげれば良いのに、ひどい対応の納経所があるものだと、みんなが怪訝そうに聞いていた。そんな事があっても、お遍路を続けているのが凄いなと思った。雰囲気も所作も穏やかで、人生を達観したような老遍路だった。陶芸をしていて、3センチ位の小さなお遍路さんの信楽焼を、みんなにプレゼントしてくれた。フロントにたくさん飾ってあったが、宿にも毎回たくさん置いて行くらしい。お遍路の経験が豊富なので、たくさんのアドバイスをもらった。それにしても昨日の宿は最悪で、今日の宿はとても良かった。このギャップは何なのかな。宿泊費もこちらの方が安かった。

 

 

標石

 

三嶋神社

 

延命山厄除大師

 

鴇田峠へ

 

下坂場峠/標識

 

文字が読めないくらい古い標石

 

葛城神社

 

遍路小屋に貼ってありました

 

だんじり岩

 

無精ひげのIさんが地団駄を踏んだだんじり岩

 

大宝寺のある久万高原町への道標

 

鴇田(ひわた)峠/頂上の看板

 

44番大宝寺/山門

 

本堂への石段

 

大師堂

 

お地蔵様

 

いただいたお遍路さんの信楽焼

平成30年

11月5日晴れ 56号線を歩いて、内子町に向かった。内子町は『伝統的建造物群保存地区』があるので、少し遠回りだけれど行ってみた。『内子座』は靴を脱ぐのが面倒で、外観だけ写真を撮った。さらに『商いと暮らし博物館』を見て歩いたが、少し期待外れだった。観光客も、ほとんど見かけなかった。44番大宝寺まで43キロの看板を見たときに、ようやく半分近く来たとため息が出た。国道と並行して川が流れている。橋の欄干で休んでいたおばあさんに、川の名前を訊ねたら、「小田川じゃ。お遍路道はここを曲がるけれど、行けんからまっすぐ行ったら良い。」と教えてくれた。まあ7月の水害の被害が、ここかしこにあるモンだ。大瀬という地区を過ぎた道路沿いに、『曽我十郎首塚登山口』と刻まれた看板を見つけた。「曽我兄弟かぁ。」日本三大仇討ちで有名な、曽我十郎の首塚があり、祀られているらしい。十郎の家来が首を故郷に持ち帰ろうとしたが、時化に遭い首が傷み始めたので、この地の山中に埋めたという。時代劇が大好きな私としては見逃すわけにはいかず、是非にと登って行った。すぐに奉納された大きな朱塗りの鳥居があり、そこからが長かった。急な坂道を2〜30分登った先に、ひっそりと小さな鳥居と祠があった。800年以上経た今でも、地域の住民に大事にされているのだなと感じ入った。お参りして早々に下り、元の道に戻った。ほどなく、『梅津停留所』と書かれた休憩所に着いた。しっかりした造りの休憩所で、『お寄りんかい 一休み一休み』と看板が掛けられている。中を覗くと、お大師さんを囲む88ヶ所の納経の額が掲げてあった。利用したお遍路さんの納め札が、たくさん貼ってあり、時計も掛けてあった。国道を進むと、柿の収穫をしていた。あちらこちらの道路沿いに、1皿100円で柿を盛って売っている。後で聞いたが、ここの道は『柿街道』というそうだ。町村合併で、内子町もとても広範囲だ。前日予約していた、旧小田町にある宿に着いた。鴇田峠の登り口にあり、農祖峠とどちらを歩くか迷っていたので、宿で訊ねようと思っていたのだ。玄関らしき入口が見当たらない。外のベンチで、若い外国人の女性がスマホをいじっているので、「エントランス?」と声をかけたら、無言で指を差した。ガラス戸に小さな入口の文字があったが、とても玄関には見えなかった。戸を開けると、しばらくして「いらっしゃいませ、どうぞ。」と、私と同じくらいの男性が出てきたが、猫が2匹いて「うわっ!」と顔をしかめた。私は、猫が大の苦手なのだ。急勾配の狭い階段の2階の部屋に案内されたが、ギョッとした!遍路宿として百年ほどの歴史があるらしいが、とても・・・これ以上は書く気にならない。猫アレルギーもあるので、キャンセルして、先の民宿に行こうかと思っていたら、4日前に出会った無精髭のおじさんが入ってきたので、やむなく我慢した。宿の男性は、鴇田峠を行くのが本来の遍路で、大宝寺の住職もそう言っていると力説する。無精髭のおじさんは農祖峠を行く予定だったらしいが、一緒に鴇田峠を越える事にした。夕食を持ってきたが、猫の臭いが強くてほとんど食べられなかった。布団も湿っぽかったので、使わずにウィンドブレーカーを着て寝たが、とても眠られなかった。

 

 

道標

 

松山が近くなってきました

 

標識

 

商いと暮らしの博物館

 

館内

 

保存地区の街並み

 

内子座

 

内子座

 

小田川

 

十郎神社/登山口

 

登り口にある鳥居

 

十郎神社

 

十郎神社

 

梅津停留所/お遍路休憩所

 

 

 

 

平成30年

11月4日晴れ 朝食後、近くのセブンイレブンに寄って、56号線をスタートした。西予市は、冬に雪が降ると聞いた。靄がかかり、朝は手が冷たくて、手袋が欲しいなと思った。9時半を過ぎて陽が暖かくなると、汗ばんで暑くなるので面倒な気候だ。道路沿いにある遍路小屋で、トイレに寄った。歩きかけたら、昨夜、宇和パークで出会った同世代のお遍路さんが追いついてきた。通しで全部巡拝するという。この後、3回も会った。国道56号線を行くと、鳥坂峠への分かれ道に出た。どうしようかと歩いていたら、一台の乗用車が駐車していた。年配の女性が窓を開け、「お接待させて下さい。」とカロリーメイトの小箱を渡してくれた。「私たちもお大師さんを尊敬しています。」と、小冊子を添えた。新興宗教の広報をしているようだった。水害後の鳥坂峠は危険だから、国道を行った方が安全だと教えてくれたので、峠へ行くのは諦めた。トンネル手前をしばらく歩いていると、背後からリュックに白衣の御宝号の部分だけ縫い付けて、お遍路さんが走り去って行った。青年だけど、すごいお遍路をしているなぁと感心してしまった。鳥坂隧道というトンネルの前には、国土交通省が設置した『反射タスキ収納箱』があったので、2本借りてトンネルに入った。出口にあるボックスに返納するようになっているが、これもお遍路さんの安全を支えてくれるお接待だと思った。トンネルを過ぎると、大洲市に入った。思ったより早く大洲に入り、街の中を歩いて行くと、大洲城が遠くに見えた。橋の手前で外国人の女性に、「ガンバッテ!」と声を掛けられ手を振った。広い大きな川を渡るとき、通りすがりの婦人に川の名前を聞いたら、肱川だと教えてくれた。7月の肱川の氾濫で、何度もニュースに出ていた川だが、氾濫するような地形には見えなかった。予約した『オオズプラザホテル』には、チェックイン時刻前に着いたので、リュックを預けて近くの十夜ヶ橋に行った。ここの橋は、お大師さんの伝説の中でも一番有名で特別な橋だ。番外札所の永徳寺をお参りして納経し、十夜ヶ橋の下に降りた。写真でよく見た光景で、お大師さんが寝ている。橋の上では杖を突かないという元になった橋だ。少しの間、静かにベンチに座わりあたりを眺めていた。永徳寺に戻り休んでいたら、本堂に張り紙がしてあった。水害で本堂の戸の上部まで水位が上がり、あと1センチで御本尊の弥勒菩薩に水が被るところだったと書いてあった。復興の寄付を募っていたので、私も少額だけれど寄付をしたら、『感謝』と書かれたしおりをいただいた。このお寺には、無料の『通夜堂』がある。復興の寄付をしていた若い青年が、通夜堂に泊めて貰うと言ったので、どのような感じなのか覗いたら、充分立派な建物だった。ホテルにはコイン洗濯機の設置がなく、すぐ近くのコインランドリーを教えてもらった。ホテル内のレストランは休業のようだったので、帰りがけにローソンでおにぎりと缶ビールを買い、部屋で簡単な夕食にした。

 

 

道標

 

走って行くお遍路さん

 

鳥坂隧道

 

看板

 

反射タスキ

 

反射タスキを2本借りました

 

標石

 

英語標記の道標もあります

 

肱川/大洲市

 

番外札所/永徳寺

 

水害の水位を示す張り紙

 

永徳寺

 

道路標識

 

なで大師

 

現在の十夜ヶ橋

 

欄干のお大師さん

 

お休みしています

 

お大師さん

 

何枚も布団を掛けられていました

 

十夜ヶ橋の下で

 

通夜堂/永徳寺

 

復興のしおり/表

 

復興のしおり/裏