「歎異抄」第5条です~

 

ゆるゆるいくよ~♪

 

 

 

 

 

誰も言っていないのがとても不思議なのですが

 

親鸞の存命中は浄土真宗の寺はない

 

ってことを想像してくださいw
(寺はもちろんあったが、親鸞の想定するそれと、世間一般のそれはまったく違う)

 

 

 

これは実は当たり前のことなのですが

 

いま浄土真宗のお寺がこれだけありますと

 

 

 

浄土真宗の寺があるのが常識

 

になってしまうのですね

(現在2万以上あるそうです。明治初期の廃仏毀釈運動前はもっとあったことでしょう。参考までにセブンイレブンの店舗数が21000)

 

 

 

 

現代の歎異抄の「翻訳者」は

 

お坊さんや学者さん、作家さんです

 

 

 

お坊さんで考えますと分かりやすいのですが

(シリーズの後半で触れると思いますが、論文や著作で主張される学者さんや作家さんも似たような世界です)

 

 

 

お寺のヒエラルキーが当たり前

 

の世界で、頑張って住職まで上り詰めたのですw

(↑言い方なw)

 

 

 

すなわち

 

お寺での

つらい修行

厳しい師弟関係

神格化された開祖

ってのが当たり前

 

の世界を体験されてきたのです

 

 

 

 

「歎異抄」の現代語訳が「湿っぽく」「厳しく」とらえられるのは

 

このへんに理由があるとにらんでいますw

 

 

参照:

 

 

 

 

 

ただ、しつこいのですが

 

親鸞存命中は浄土真宗の寺はなかった

 

のですよ~w

 

 

 

いま浄土真宗のお寺で

 

どういった修行がなされているかを私は知りませんが

 

 

 

そういった「修行」はすべて

親鸞亡き後に誰かがつけ加えた

 

わけですw

(念のために言っておきますと、現在の浄土真宗のやり方を批判する意図は1ミリもありません。檀家さんを率い、お寺を経営していくというのは、お金も修行も必要ですし、なによりも信者さんが「それ(葬式やちゃんと修行を積んだお坊さまなど)」を求めている面があります)

 

 

 

ですので、現在の(歴代の)浄土真宗のお坊さまがご体験されたような

 

お寺での

つらい修行

厳しい師弟関係

神格化された開祖

 

ってのは「親鸞存命当時はなかった」のです

(お弟子さんの受け取り方もありますので、もちろん「まったくなかった」とは言いませんが、少なくとも「念仏だけでOK牧場!」という絶対他力のスタンスの親鸞自身には「集う場所」はあるけれど「寺はなかった」と言えます)

 

 

 

 

 

 

話を戻しまして

 

第5条に沿っていえることは

 

念仏は供養のためにあるのではない

 

ということでした

 

 

 

親鸞のひ孫の覚如は「改邪鈔(かいじゃしょう)」

 

「某親鸞閉眼せば賀茂河に入れて魚に与とうべし」

(おいらが死んだら、賀茂川に捨てて魚のエサにしてくれ)

という親鸞のことばを紹介しています

 

 

 

このことばだけでも分かっちゃうことは

 

親鸞は明確に

 

葬式は要らない

供養は要らない

お墓は要らない

戒名は要らない

読経は要らない

法事は要らない

 

 

これらを行う寺は要らない

寺が要らないので弟子も要らない

弟子が要らないので寺のヒエラルキーも要らない

ヒエラルキーは要らないので厳しい師弟関係や神格化された開祖も要らない

 

というスタンスだったことです

 

(「悟り=フォーカス27以上の体験」は「この世はゲーム(そらごとたわごと)である」と分かっちゃうことなので、歴代のいわゆる「覚者(フォーカス27以上の体験者)さんはこのようなスタンスになります)

 

 

 

 

 

さらに、覚如は

 

「いよいよ葬喪(そうそう)を一大事とすべきにあらず。もっとも停止すべし」

(葬式や法事などくだらねえから、さっさと止めちまえ)

 

とも言っています

 

 

 

 

 

同じような意味合いで

 

「まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず」(親鸞聖人御消息)

(死に方は往生の妨げにはならない。亡くなった方の顔を見て安らかだから往生間違いなし、などということは今でも言われることですが、そうではない。臨終の姿や様子で往生が評価されるわけがない翻訳元)
 

もそうですし

 

 

 

今回やってる「歎異抄」第5条の冒頭の

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。

(親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません)

 

にも通じるところなのですね

(ちっちゃい字の「雑談」が多くなって申し訳ないのですがw 開祖の親鸞やひ孫さんがこんなことを言っちゃってるので、浄土真宗のお坊さまのご心中は察して余りありますw)

 

 

 

 

 

で、ようやく今回の「イイタイコト」まで来たのですがw

 

 

 

○親鸞は「非物質の世界」、とりわけ「フォーカス27(ヘミシンク用語。いわゆる成仏の波動域)」以上をじっくり正確に体験し、ガイドさんにも会った

 

 

○「フォーカス27」以上の世界を体験すると、この世を悲観せず、むしろ「おおらか」にとらえるようになる

(「内向的な性格傾向」などは関係がない)

 

なのよ~w

 

 

 

 

 

ですので、現代語訳にアリガチな「湿っぽい」「厳しい」解釈

 

俺なんか愚禿(おろかなハゲ)だ…

ダメなやっつなんだ…

でもきっと、こんな俺でも救われてるんだな…

 

ではなくw

 

 

 

 

 

いや~ん俺って煩悩ばっかw

てか、お前らも煩悩ばっかw

比叡山の僧侶も煩悩ばっかw

 

でも、それでいーのよw

煩悩を消せないのがダメなんじゃなくて

煩悩を味わいにこの世に来たんだったのよw

 

「フォーカス27」がちゃんとあって

肉体を卒業したら誰もがもれなく100%その軽〜い波動域に還れるシステムを知っちゃうと

 

そもそも誰もが救われてるし

あの世で救われるか?なんて心配も必要なかった

 

物事すべて白黒つけずに

グレーで良かったんだわ!

 

 

って「明るく」「カラッ」とした解釈に「ごく自然に」なるのですw

 

 

 

 

参照: