(お返事をさせていただかないスタンスで大変恐縮ですが、コメント励みになっておりますm(__)m)

 

 

 

いわゆる「覚者」と呼ばれる方々のイメージは

 

一般的には「聖人君子」であり

 

 

 

言葉を変えれば

 

真剣!

深刻!

マジメ!

 

っていう感じです

 

 

 

そのイメージで

 

もう一度眺めてみましょう

 

 

 

 

深刻なイエス

(引用元)

 

 

 

マジメな仏陀

(引用元)

 

 

 

真剣なムハンマド

(引用元)

 

 

 

真剣な法然

(引用元)

 

 

 

マジメな栄西

(引用元)

 

 

 

深刻な親鸞

(引用元)

 

 

 

真剣な道元

(引用元)

 

 

 

マジメな日蓮

(引用元)

 

 

 

真剣な一遍

(引用元)

 

 

 

…とまあ、誘導するかのようでしたがw

 

真剣!深刻!マジメ!

 

な、彼らのイメージは一般的でしょう

 

 

 

これはなぜか?

 

といえば

 

 

 

彼らは神格化されている

 

からなのです

 

 

 

 

 

このシリーズの②でも触れましたが

 

『歎異抄』を読んだ現代人でも

 

「等身大の親鸞」

 

という表現をしていて

 

 

 

裏を返せば、それだけ

 

神格化されている

 

ということが分かります

 

 

 

 

 

後年の読者が

 

『歎異抄』に「等身大の親鸞」が描かれていることに「驚いた」のはなぜか?

 

といえば

 

 

 

「フツーの人間」の親鸞が描かれ

神格化された親鸞のイメージが崩れた

 

からに他なりません

 

 

 

 

 

ここがじつに「キモ」でして…

 

後日改めて触れますが、ここでは

 

 

 

『歎異抄』の筆者唯円は

 

「等身大の親鸞」に実際会って

 

 

 

「等身大の親鸞」の姿を

神格化せずにただ書いた

 

ということを確認するにとどめましょう

 

 

 

 

勝手に「神格化」したのは

 

後世の指導者たち、信者さんたちであり

 

 

 

そのことによる

 

 

覚者だってフツーの人間なんだ…

うちの開祖様、教祖様がフツーの人間…

 

などということはありえない!

 

 

という

 

「前提」

「願望」

「思い込み」

「刷り込み」

 

が後世の信者さんにはあるようなのです

 

 

 

 

 

人が集う宗教「団体」では

 

ヒエラルキーが必須

 

になりまして

 

 

 

ヒエラルキーの頂点は

 

聖人君子のような人物

 

でないと吸引力がないからです

 

 

 

 

 

 

神格化され、聖人君子に決まっている!

 

という「思い込み」があるので

 

 

 

たとえば、『歎異抄』で

 

親鸞自身が思い悩み

 

自身のことを「煩悩愚禿の悪人」

 

などと表現していることが

 

 

 

「驚き!」

 

になってしまうわけです

 

 

 

 

いやあ、しかしね…

 

上の「覚者」さんの誰もが

 

 

 

フツーの人間に決まってるでしょう!

 

ってのw

 

 

 

 

 

「特別視」

「神聖視」が極まりますと

 

認知も歪んだものとなります

 

 

 

 

 

おいおい述べますが

 

こと親鸞に限って言えば

 

 

「俺は弟子を一人も持たない」

 

って

 

 

「ヒエラルキー」

「師弟関係」を明確に否定

 

しています

 

 

 

すなわち、あえて「悟り」という表現を使えば

 

「ヒエラルキー」や「師弟関係」を通じて

「悟り」は得られるものではない

 

ということです

 

 

 

 

 

開祖の親鸞は、それが「分かっちゃった」のですが

 

実際にお寺を経営していく人々は

 

「ヒエラルキー」や「師弟関係」を導入せざるを得ず

 

 

 

導入しちゃったからには真剣、深刻、マジメな「修行」を設定することになり

 

その開祖のすがたとは

 

 

 

真剣、深刻、マジメがトップスピードに入った「聖人君子」

 

でなければならなくなるわけですw

 

 

 

 

 

今日は

 

○神格化された「覚者のイメージ」は後年つくられた思い込みであり、覚者たちは「普通の人間」であった

 

ということを確認しました

 

 



ここまでの【まとめ】

○『歎異抄』は理解できなくてよい、という空気がある
○『歎異抄』には「等身大の親鸞」の姿が描写され、後世の人々にはそれが驚きであった
○『歎異抄』の筆者唯円は「読者に分かってもらえる」と確信して筆をとったので、後に発禁処分になったり、『歎異抄』は理解できなくてもいいという雰囲気は、筆者唯円にとってかなり想定外であるはず

○「覚者の姿」の一般的なイメージは「聖人君子」である