【歎異抄】第5条やってます~

 

 

 

第5条の冒頭は

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。

(親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません。)

(【ジーナ訳】おいら親鸞は、死んだ両親の供養のために念仏を唱えたことは、一度たりともないよ。

そんなものはムダムダw
意味がないんだよw)

 

 

 

ですです

 

 

 

では、親鸞はなぜこんなことを言ったのでしょうか?

 

 

 

こういった「そもそも」のところを解説されている方を私は知らないのですが

 

現代にも通じるメチャクチャ大事な所です

 

 

 

 

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
(親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません。)

 

と、親鸞はなぜ言ったのか?といえば

 

 

 

そういう世の中の常識に基づいた質問や雑談があったから

 

に決まっていますw

 

 

参照:

 

 

 

 

 

そして、

 

親鸞の「この言葉」を

唯円はなぜ紹介したのか?

 

といえば

 

 

 

思い出してください

 

親鸞の教えと「異」なって広まっていることを「嘆」いて書かれた「文章」

 

という「歎異抄」の性質があります

 

 

 

 

 

つまり

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
(親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません。)

 

「逆」のオシエが広まっていたのですw

 

 

 

 

 

「逆」ですから

 

亡くなった人の供養のために念仏が唱えられていた

 

わけですw

 

 

 

 

 

こうしたことって現代でもやっていますw

 

 

お葬式で、お坊さまが「南無阿弥陀仏」と唱える

 

のを聞いたことがあると思いますが

 

 

 

ビックリしちゃうことに、開祖の親鸞は

 

親鸞は「念仏を亡き人の供養に使ったことはない」

 

と言い切っているのですw

 

 

 

 

 

そして、唯円は

 

お葬式や法事で「南無阿弥陀仏」と唱える

 

当時の人々への批判

 

のために、親鸞のこの言葉を紹介したのですね

(正確には「先祖供養をやりだした、当時の浄土真宗のリーダーたちへの批判)

 

 

参照: