おはジェネレーション!

 

 

 

『歎異抄』が続いています。

 

 

今日はまた「意訳」全文を出します。

(原文はおとといの記事をどうぞ)

 

とても退屈でしょうが、青色部分下線部だけでも拾ってくだされば。

 

 

 

【意訳】

「念仏を申していますが、喜びの心は薄く、天におどり地におどる喜びの心が湧(わ)いていませんし、
また急いで浄土へまいりたいと思う心が起こってこないのは、どういうわけでしょうか」と、おたずね申しあげたところ、
聖人は、「親鸞もそれをいぶかしく思っていたが、唯円房、そなたも同じ心であったか。よくよく考えてみると、
天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身を思うにつけても、
いよいよ往生は一定(いちじょう)の身であると思います。

というのは、喜ぶべき尊いおみのりをいただいて、喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばないのは、煩悩のしわざです。

しかるに仏は、このような私であることをかねてからお見とおしのうえで、煩悩具足の凡夫を救おうと仰せられているところですから、

他力の悲願は、このように浅ましい私どものためであったと気づかされてますますたのもしく思われます。
 

また急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて、ちょっとした病気でもすると、もしや死ぬのではなかろうかと心細く思うのも煩悩のしわざです。

久遠の昔から、ただ今まで流転しつづけてきた迷いの古里(ふるさと)は、苦悩にみちているのに捨てにくく、

まだ生まれたことのない浄土は、安らかな悟りの境界(きょうがい)であると聞かされていても、慕わしく思えないということは、よくよく煩悩のはげしい身であるといわねばなりません。

まことに名残はつきませんが、娑婆にあるべき縁が尽きて、どうにもならなくてこの世を終わるときに、かの浄土へは参るはずのものです。
いそいで参りたいという殊勝な心のないものを仏はことにふびんに思われているのです。

それを思うにつけても、いよいよ大悲の本願はたのもしく仰がれ、この度の往生は決定であると思いたまうべきです。
念仏するにつけて、天地におどりあがるほどの喜びもあり、また急いで浄土へ参りたいと思うようならば、
自分には煩悩がないのであろうかと、かえっていぶかしく思うでしょう」と仰せられました。

(【聖典セミナー「歎異抄」第九条~他力の悲願~】より)

 

 

 

この第9条は「問答形式」でして

 

最初に唯円の「質問」があり

 

その後はすべて親鸞の語った「答え」です。

 

 

そして、この『歎異抄』は、著者唯円による

 

「同時代人への批判」

 

になっています。

 

 

っていうか、そのように読まないと理解できないのです。

 

 

 

第9条は、しばしば

 

唯円の「感動」や「学び」

「親鸞の人間性」を語っている

 

と言われます。

 

 

それはそうなのですが

 

そんなショボいことを唯円は言いたいのではないのです。

 

 

 

語弊があるかもですが

 

唯円は怒っているんですよ。

 

 

 

「誰に」対して怒っているかと言えば

 

「同時代の人」

 

です。

(とくに親鸞亡きあとの当時の真宗の人々)

 

 

 

「何に」対して怒っているかと言えば

 

「亡き親鸞の教えが異なって伝えられていること」

 

です。

 

 

 

では、分かりやすいように

 

青色部分下線部を抜き出します。

 

 

(親鸞は「躍り上がる喜び」が湧かないことを)

いぶかしく思っていた

 

天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身

喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばないのは、煩悩のしわざ

他力の悲願は、このように浅ましい私どものためであったと気づかされてますますたのもしく

急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて

いそいで参りたいという殊勝な心のないもの

 

いよいよ大悲の本願はたのもしく仰がれ、この度の往生は決定である

自分には煩悩がないのであろうかと、かえっていぶかしく思う

 

 

 

繰り返しですが、唯円にはけっして

 

「親鸞を貶める意図」

 

は1ミリもありません。

 

 

むしろ

 

「親鸞ってすげーんだぜ!な!」

 

と誇っているのです。

 

 

 

当の親鸞は「自分自身を卑下し嘆いている」ように見えますが

 

じつはまったくそんなことはありません。

 

 

むしろ「煩悩だらけの自分」を

 

「往生決定!」

 

と確信さえ持っているのです。

 

 

 

自分を卑下しているような表現ですが

 

これは親鸞ではなく唯円が書いた文章なのです。

 

親鸞の表現に流されないよう留意して読むことです。

 

 

 

 

親鸞の言葉は

 

この身このままで「すでに救われている!」

 

ことが分かっちゃった発言なのですよ。

 

 

 

 

 

…ということは?

 

 

 

唯円がわざわざ親鸞とのこの会話を持ち出して

 

文字に残したということは

 

 

「同時代の人の多くが、この逆!」

 

だったからです。

 

 

だから書いたわけですよ。

 

でなければ書きません。

 

 

これは「般若心経」でも同じでしたね?

(参照:般若心経「色受想行識」その6「是という再定義法」

 

 

 

 

この視点がないと迷子になるのです。

 

 

 

また、昨日【大前提】で触れましたように

 

唯円にとって

 

親鸞の言葉は「すべて正解!」

 

なのです。

 

 

唯円がこの会話を持ち出したのは

 

逆を行ってる当時の人々に対して

 

「正解」を提示している!

 

わけです。

 

 

 

親鸞自身がどれほど

 

「自分を卑下している表現」

 

をしていても

 

それは「親鸞の表現方法」であって

 

筆者は唯円です。

 

 

解釈をする場合、親鸞の表現に引きずられないよう留意が必要なのです。

 

 

 

唯円にとっては同時代人に対して

 

「正解」を提示したい!

 

という強い思念があるのですね。

 

 

 

 

 

では、この視点でもう一度今のところを読んでみましょう。

 

(かっこ)で唯円のホンネの部分を補足します。

 

 

親鸞は「躍り上がる喜び」が湧かないことを

いぶかしく思っていた

(君たちが悟りと思っている「躍り上がる喜び」は悟りじゃないよ?)

 

 

天におどり地におどるほど喜ばねばならないことを、そのように喜ばないわが身

(君たちが目指している「躍り上がる喜び」なんて、鎮まっていいんだ)

 

 

喜ぼうとする心をおさえとどめて喜ばないのは、煩悩のしわざ

(君たちが否定・消去・軽減しようとしている煩悩はあってもいいんだ)

 

 

他力の悲願は、このように浅ましい私どものためであったと気づかされてますますたのもしく

(君たちは非難するけど浅ましくたっていいんだ。えっちでいいんだ

 

 

急いで浄土へ参りたいというような思いがなくて

(君たちが大事に思う「非物質界」の浄土よりも「この世」が大事なんだ)

 

 

いそいで参りたいという殊勝な心のないもの

(君たちが大事に思っているマジメさ・真剣さなんていらないんだ)

 

 

いよいよ大悲の本願はたのもしく仰がれ、この度の往生は決定である

(親鸞の姿勢で往生決定なんだから、世間の人の多くは逆のことをやってるよ?)

 

 

自分には煩悩がないのであろうかと、かえっていぶかしく思う

(煩悩の否定・消去・軽減なんてしょせん無理だし、意味ないんだよ?)

 

 

 

文字多めで、ほんとすんません。

 

もう少し続きますw

ごめんねごめんねー!