おはほわーい、じゃぱにーずぴーぽー!

 

 

 

 

 

さあ、さっぱり進まない『歎異抄』ですが

 

そろそろ前進しましょうw

 

 

本文と意訳を挙げます。

 

 

第三条【注釈版本文】
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと。仰せ候ひき。


【意 訳】
善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。
そのわけは、自力をもって作(な)した善行をたのんで往生しようとしているような善人は、阿弥陀仏の本願力だけを、
ひとえにたのみ、おまかせをするという信心のない人ですから、本願のみこころにかないません。
けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ驕慢(きょうまん)な自力の心を改めて、
阿弥陀仏の本願他力をたのみ、おまかせするならば、本願力の御はからいにょって、
真実の悟りの境界(きょうがい)である真実報土に往生をとげさせていただくことができます。
あらゆる煩悩を、身にそなえている私どもは、どのような修行をしてみても、
生と死の迷いから離れることができないことを憐れみたもうて、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏でした。
その本願の御本意は、煩悩具足の悪人を救うて、完全な仏陀にならしめるためですから、本願をたのみ、
他力にまかせっきている悪人こそ、第一に往生すべきものです。それゆえ、善人でさえも往生をさせていただくのだもの、
まして悪人はなおさらのことであると、仰せられたことでした。

(【聖典セミナー「第三条」悪人正機の伝承】より)

 

 

 

昨日、「3条」には親鸞独自のロジックがあり

 

「ユーモアの視点!」

 

がないとそれは見抜けない、と指摘申し上げました。

 

 

唯円の執筆当時は

 

当然「読み手」はそれを理解していたはずです。

 

 

 

「ユーモア」の視点で、親鸞のロジックを読み解きますと

 

3条は「前半」と「後半」に分かれる!

 

ことに気づくのです。

 

 

こうなります。

 

ぼやーっと眺めるだけでけっこうですw

 

 

さあ、モーゼよ切り開かん!

 

 

【前半】

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。

 

善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

ざざーっ!

【後半】

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと。仰せ候ひき。


そのわけは、自力をもって作(な)した善行をたのんで往生しようとしているような善人は、阿弥陀仏の本願力だけを、
ひとえにたのみ、おまかせをするという信心のない人ですから、本願のみこころにかないません。
けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ驕慢(きょうまん)な自力の心を改めて、
阿弥陀仏の本願他力をたのみ、おまかせするならば、本願力の御はからいにょって、
真実の悟りの境界(きょうがい)である真実報土に往生をとげさせていただくことができます。
あらゆる煩悩を、身にそなえている私どもは、どのような修行をしてみても、
生と死の迷いから離れることができないことを憐れみたもうて、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏でした。
その本願の御本意は、煩悩具足の悪人を救うて、完全な仏陀にならしめるためですから、本願をたのみ、
他力にまかせっきている悪人こそ、第一に往生すべきものです。それゆえ、善人でさえも往生をさせていただくのだもの、
まして悪人はなおさらのことであると、仰せられたことでした。

 

 

「ざざーっ!じゃないだろう、ララァ…

なぜそんなことが分かるんだい、坊や?」

 

っていうシャア大佐は、まずはもちつけ。

 

(なんだよこの企画w)

 

 

 

 

ところでんででん…

 

 

 

みなさんは

 

「いきなり話し出す人!」

 

って見たことありますか?w

 

 

フツーはありませんよね?

 

一緒にいる人がいきなり話し出したら怖いですw

 

 

 

フツーは

 

「誰かに話しかける」ために話し出す!

 

に決まっていますよね?

 

 

 

そう!それは

 

「会話!」

「対話!」

 

と呼ばれるものです。

 

 

 

 

 

『歎異抄』も同じです。

 

親鸞も「いきなり話し出した!」わけではないのです。

 

 

弟子からの質問や雑談などの

 

「会話」や「対話」の流れ!

 

で「3条」も生まれたに決まってるんですよ。

 

 

 

…ということは?

 

 

 

 

【前半】部分の直前の「会話」を想像でおぎなえる!

 

ということなんですね。

(こういうの、「資料絶対主義の論文の世界では無視、軽視されます)

 

 

今一度【前半】をご覧ください。

 

【前半】

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。

 

善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

 

 

これ、「いきなり話し出した」のではないので

 

この直前に

 

何らかの「質問」、あるいは「雑談」

 

があったはずなのです。

 

 

じゃあ、おぎなってみようぜ!

 

『歎異抄』補完計画♪(←お前元気だなw)

 

 

 

「質問」なら…

 

「親鸞先生、質問があるにゃ!(←弟子の1人・猫被房)世間では『善人と悪人では、やっぱり善人の方が先に往生するにゃ!』って言ってますが、先生はどのように思われますかにゃ?」

 

 

「雑談」なら…

 

「しかしまあ、親ワン先生…。(←弟子の一人・棒当房)近ごろ世間では『善人』や『悪人』っていうレッテル張りが流行ってますワンねえ…。『善人の方がまず往生するだろう』みたいな議論ですワン…」

 

 

的な的なところではないでしょうか?

 

 

 

そして、こうした「質問」ないし「雑談」に

 

親鸞は答えたわけですが…

 

 

 

にゃんと!親鸞先生…

 

 

「ユーモアで答えた!」

 

のです。

(↑斬新か!)(←いやマジで)

 

 

 

この【前半】部分は

 

全部ユーモア!

 

なんです。

(↑そろそろ怒られるぞ!)(←いやいや、どう読んでもそうなるのよ)

 

 

 

 

参照:『歎異抄』シリーズ

 

 

 

 

【なぞなぞ】

○〇◎゜oO。●
このいろんな丸の中で一番小さな丸はどーれだ?

 

 

【昨日の答え】

「(自分や生物が写っている)写真」