歎異抄第5条よーん♡

 

長いよーん♪

 

 

 

さあ、元気にいきましょう!

(↑元気なのはいいことw)

 

 

 

 

今回も歎異抄からいったん離れ

 

六角堂の夢告の「行者宿報の偈(げ)」

(通称「女犯偈にょぼんげ」)

 

について私見を述べていきます

 

 

 

なぜなら、この「女犯偈にょぼんげ」を書き残したとき

 

親鸞は悟った

(フォーカス27以上を体験した)

 

ことが分かるからです

(議論はいたしませんm(__)m)

 

 

 

 

 

ところが、歎異抄の初めにも触れたのですが

 

「女犯偈にょぼんげ」についても

専門家の先生方が「分からない」とサジを投げちゃっている

 

のですw

 

 

 

しつこいですが「女犯偈にょぼんげ」は

 

親鸞が悟った

(フォーカス27以上を体験した)

 

という親鸞の人生のハイライトの場面の1つです

 

 

 

親鸞の研究者にとっては

 

本来ヨダレを流しながら読むところですw

 

 

 

なので、「女犯偈にょぼんげ」について考えることは

 

ひいては「歎異抄は分からないものだ」「分からなくてよいのだ」などと

 

なぜ専門家の先生らーがサジを投げちゃうのか?

 

という疑問に答える一助になるのですね

 

 

 

 

 

では、「女犯偈にょぼんげ」を再掲します~

 

行者宿報設女犯

行者宿報ニシテタトヒ女犯ストモ
我成玉女身被犯

我玉女ノ身トナリテ犯セラレン
一生之間能荘厳

一生ノ間ヨク荘厳シテ
臨終引導生極楽

臨終ニ引導シテ極楽ニ生ゼシメン

 

(親鸞)上人が女性を犯すのであれば

私が美しい女性になってお前に犯されてあげましょう

そして一生の間お前を守り

お前の臨終に際しては引導を渡して極楽へ導きましょう
(梅原猛「梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍」 より)

 

 

 

 

 

次に、親鸞の「偈(げ)」のこれまでの確認です

 

○物質の世界がいかに変化しようとも、非物質の世界は変わらない

○800年前の親鸞が六角堂で体験した非物質の世界と、現代のヘミシンカーさんはじめ、非物質の世界の探索者さんが体験する非物質の世界は「同じもの」(階層の違いはあるけれど)

 

 

○非物質の世界の、いわゆる「成仏にして悟りの波動域フォーカス27(以上)」の「描写」は、現代人でさえ困難をともなう
○ましてや、ことばも概念も極端に少ない鎌倉時代に、親鸞自身が体験した非物質の世界を、教養の少ない民衆に伝えることはほぼ無理な話

 

○フォーカス27を、現代語で「ひとこと」で頑張って言うならば「普遍愛」「無償の愛」「無条件の愛」「広大無辺の愛」
○フォーカス27の世界を民衆に「こまごま」伝えようとしてもムリなので、29歳の親鸞はひとまず「偈(げ)」として、「ひとこと」で分かりやすく伝えようとした


という流れでした

 

 

 

 

 

さて、親鸞の「女犯偈にょぼんげ」について

 

現代の専門家の先生方のご意見はどんなもんでしょうか?

 

数ある研究の中のごく一部ですが、このような感じです

 

 

 

思うに、「行者宿報の偈」は親鸞にとっても、すぐにはよく分からないものであったのではないだろうか。

現在の我々が長い間かかってそれを追い求めようとしているのと同様、親鸞とてもその意味がすぐに飲み込めたという確証はない。

(本願寺派西勝寺・山田雅教さん)

 

親鸞はこのお告げを受けて、ひとまず意外な感じがしたはずである。

彼が祈ったのは後世のことであり、結婚のことではなかった。

それなのにお告げでは結婚の可能性が正面に押し出されていて、極楽往生はその次ぎである。

(筑波大学・今井雅晴さん『親鸞と浄土真宗』)

 

自分をもてあましやりきれない者は、いつか自分自身を見限り見捨ててしまいます。

自分自身を見捨てそうになっていた聖人に対し、太子の言葉は思いもかけない不思議な言葉でした。

(真宗大谷派太子山上宮寺さま)

 

 

 

名誉も権威も知識も十分におありある先生方に「いいがかり」をつける気は毛頭ないのですが

 

ちょっと「逃げ過ぎ」のような気もしますw

 

 

 

歎異抄もそうなのですが、偉い先生が「分からない」と言われますと

 

後輩は困っちゃうのですよw

(しかも論文で)

 

 

 

このシリーズを書くにあたり、歎異抄や女犯偈(にょぼんげ)についての書物や論文にいくつか当たりましたが

 

「筆者は分からない」と書く

「親鸞も分からなかったのではないか」と推測する

 

っていう箇所が散見されます

 

そうやって書くことが、長年流行っているのかもしれませんw

 

 

 

 

 

しかし、「分からない」と言われるのも仕方のない話で

 

世界中のヘミシンカーさんが体験、記録、発表している

 

フォーカス27(以上)の世界

 

を、知識でも全然いいので理解し

 

 

悟り=フォーカス27

 

と定義すると理解がはかどるのですが

 

 

 

フォーカス27とかって言いだすと

 

一般的には「神秘体験(宗教体験)」ととらえられ、親鸞は体験していいけれど、研究者はしてはいけないうえに、学問の世界では「排除」「軽視」「無視」の対象になる

 

のですね

(当の親鸞は神秘体験をしたにもかかわらず、親鸞の研究者はいわゆる神秘体験を「していない」という前提で文章を書いている。これはヘミシンク誕生以前は「非物質の世界が客観的に体系化されていなかった」ためで、仕方のないことでもあります)

 

 

 

 

 

ただ、専門家の先生方のご意見を「参考」にさせていただくと

 

「勘違い」が明らかになり、歎異抄の理解がより深まりますので

 

あえて挙げさせていただきました

 

 

 

 

すでに長いので、続きは次回w
 

女犯偈についての「勘違い」を確認します~

 

 

歎異抄第5条でーす

 

文字ばっかでーすw

(長文はイヤなのですが、どうしても長くなっちゃいます_| ̄|○

このシリーズの間はどうかおつき合いくださいm(__)m)

 

 

 

 


「夢告(むこく)」とは、言葉の通り「夢のお告げ」です~

 

1201年、親鸞29歳のとき

 

聖徳太子創建の京都六角堂で3度目の「夢告」を体験しました
 

(引用元)

 

 

 

上から見ると六角形!

 

(引用元)

 

 

 

 

比叡山を降りた親鸞は、六角堂で100日の参籠を始めました

 

その95日目の夜明け前に観音菩薩(当時は聖徳太子と同じとされた。このブログ的には「ガイドさん(自分と同一・同質の非物質の存在)」)があらわれ、夢告を受けました

 

 

 

その夢告は「偈(げ)」として伝えられました

 

げ【偈】
〈梵〉gāthāの音写。仏語。

経典中で、詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩ぼさつをほめたたえた言葉。

4字、5字または7字をもって1句とし、4句から成るものが多い。

(デジタル大辞泉)


 

 

 

原文はこんな感じです

 

行者宿報設女犯

行者宿報ニシテタトヒ女犯ストモ
我成玉女身被犯

我玉女ノ身トナリテ犯セラレン
一生之間能荘厳

一生ノ間ヨク荘厳シテ
臨終引導生極楽

臨終ニ引導シテ極楽ニ生ゼシメン

 

(親鸞)上人が女性を犯すのであれば

私が美しい女性になってお前に犯されてあげましょう

そして一生の間お前を守り

お前の臨終に際しては引導を渡して極楽へ導きましょう
(梅原猛「梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍」 より)

 

 

 

 

 

香川県の僧侶、千葉憲文さん

 

当時、女犯への戒めから僧侶は妻帯を禁じられていました。
しかし、縁によってもし戒を破ったとしても仏さまは見捨てないというお告げを受けたのです。
このお告げは親鸞聖人の個人的な問題を解決するだけでなく、一般の民衆をも救いの対象であることを意味します。
『在家にあって妻をめとっていたとしても、本願念仏ひとつで往生できる。』
修行生活を送ることのできない民衆も、お念仏によって往生できることを保証するメッセージだったのです。

 

と言われ、私もその通りと思います

 

 

 

 

 

また、西蓮寺さま

 

人は、煩悩を断ち切れず、欲望に振り回されながら生きています。

煩悩を断とうと仏道修行に励むのですが、どうしても断つことができません。

夢の中での観音菩薩のことばは、性的欲望で表現されてはいますが、あらゆる煩悩を含んだ意味でもあります。

 

と言われていますが、これもまったく同感です

 

 

 

 

 

修行僧さんは、煩悩が「ない」か、アテクシらーよりも「薄い」

 

というのが当時も現在も、僧侶への一般的なイメージです

 

 

 

でも、そんなわけないじゃん?

 

だって人間だものw

(じなを)

 

 

 

 

早ければ10代で寺に入る修行僧たちにとって

 

性欲は最大の煩悩とされました

(当時は男性優位の時代でした)

 

 

 

 

 

ところが、親鸞はこの夢告によって

 

性欲はあって( ・∀・)イイ!!

煩悩はあって( ・∀・)イイ!!

 

煩悩は消せるものではないので

煩悩を消去、軽減するとされる修行も意味がない

 

逆に肉体を持った人間として生まれたのは

煩悩を味わい

煩悩に振り回され

煩悩とうまくつき合う

という面もあるのよね

 

つまり

「悟り」と「煩悩」は無関係

である

 

ということが分かっちゃいましたw

 

 

 

 

で、ここから先が、改行少なめの「ビックリばなし」になるのですがw

 

これ、ヘミシンクでフォーカス27(以上)をゆっくりまったりじっくりとっくり体験してきた人が語る言葉と同じ

 

なわけなのですw

 

 

 

つまり

 

親鸞はヘミシンクでいうフォーカス27を体験した

 

ということが類推できるのです

 

 

 

 

初めて聞いた方は「んなわけがねえだろ!」と言われる方もいらっしゃるのでしょうが

 

これまで「親鸞とヘミシンクを絡めて語った人がいない」のでびっくりしちゃうと思うのです

 

 

 

 

 

ブッダは「ある種の瞑想」にて悟ったとあります

 

瞑想で目指し、到達するところは、もちろん「非物質の世界」です

 

一方、ヘミシンクは、誰もが気軽に簡単に「非物質の世界を歩く」ためのツールです

(ヘミシンクも、一種の瞑想ではあります)

 

 

 

じゃあ当時の親鸞と、現在世界中のヘミシンカーさんが体験した(している)世界は同じじゃ〜んw

 

 

 

 

親鸞は瞑想の達人、あるいはコツをつかんだ人だったのでしょう

 

親鸞はヘッドホンもプレイヤーもなく、もちろんヘミシンク音もない環境で

 

フォーカス27へ到達しました

(ヘミシンカーさんも、たとえばフォーカス27へ何度も行き、その波動域に慣れますと、ヘミシンク音なしの「無音」状態でフォーカス27の波動域に意識を合わせることができます)

 

 

 

ただ、フォーカス27の描写は、現代人でさえ困難をともないます

 

まして800年前の鎌倉時代の親鸞が表現しようとしてもムリですし

 

周囲の理解不足により、誤解されて受け取られる心配も大いにあります

 

 

参照:

 

 

 

 

 

現代用語でさえ、フォーカス27を「ひとこと」であらわすならば

 

普遍愛

無償の愛

無条件の愛

広大無辺の愛

 

って言うしかありませんw

 

これがことばの限界ですw

 

 

 

「概念」「ことば」が極端に少なかった800年前

 

親鸞はフォーカス27をとっくりと体験した後で

 

「偈(げ)」として分かりやすくまとめて

「ひとこと」で表現した

 

のではないでしょうか?

(私だったらそうしますし、逆にそれしかなくない?w)

 

 

 

 

 

 

親鸞の、この「偈(げ)」に関しては、多くの研究があります

 

次回は「研究者の立場」と「非物質の世界を体験した親鸞」との「乖離」をながめ

 

今回の私の主張を補完してみよっかなっとw

(↑もう勝手にしてくれw)

 

 

 

 

 

参照:

流れ的に「フォーカス27をこまごまと説明してみた」ほうの記事を再掲いたします~w

長い引用ではありますが、釈迦や親鸞はじめ、古今東西の覚者と呼ばれる人たちが体験した世界です

現代の概念を使った下の説明でさえ、フォーカス27の1億分の1しか伝えられていないですw

そもそも「圧倒的な愛に包まれる」感覚は、言葉にしようもないのですが…

釈迦や親鸞がぶち当たったであろう壁w、「概念や言葉が極端に少なかった時代、国語算数理科社会の義務教育を受けていない人々に、フォーカス27の世界観をこまごまと説明しようとする」大変さ、無力さが伝われば十分です

 

どうぞ~

 

――――――――――――

 

 

 

 

「悟り」を定義しちゃおう!

 

っていうニッコニコで元気な企画です~w

 

 

 

「悟り」とは「特殊で苦しい修行を経て仰ぎ見る、特別にして深遠なる何かw」

ではなくw

 

目に見えない世界(フォーカス27以上)を正確に理解した上での「気づき」であり「心境の変化」である

 

 

 

で、ヘミシンクの「フォーカス」の概念を用いますと

 

「悟り」についての理解がはかどるんです~

 

 

 

さて、今回はいよいよ「F27」です

 

 

 

いわゆる「成仏」のレベルです

ご存じない方は、ぜひご一読をおススメします

 

後日あらためて述べるでしょうが、F27の存在を証明することはできませんが

世界中のヘミシンカーさんらーがほぼ共通のものを知覚しているのですね

 

 

 

引用元は、毎度TSTさまです

m(__)m

 

 

 

 

F27

 

「輪廻の中継点」といわれるところです。ここに来て初めて次のステップに踏み出すことができるといわれています。次のステップとは、

1) もう一度人間として地球に生まれ変わる

2) F27でヘルパーとして働く

3) トータルセルフに帰還する

4) 地球以外の別の生命系に生まれ変わる

などがあるといわれています。そのために、F27でさまざまな準備をするのです。

準備をするエネルギーの場として、次のようなものがあり、ブルース・モーエンの「死後探索シリーズ」のなかでも、紹介されています。

 

1) レセプションセンター(The Reception Center)

死後、物質世界から非物質世界へスムーズに移行できるように、その人が違和感を持たず安心できるさまざまな状況や場所が再現されているところ。

多種多様な人々を満足させるため、それぞれに合ったありとあらゆる環境が用意されています。

モンローがF27を訪れたとき「公園(The Park)」と呼んだ場所や、初めてここに来る人たちを受け入れる「受け入れの場」、救出活動時に使用する「発着場」などがあります。

また、著者が探索活動中に体験したサミーという名のヘルパーがいる「サミーのレストラン」などもあります。

 

2) 癒しと再生センター(The Healing and Regeneretion Center)

通称「ヒーリングセンター」。肉体を失う過程で受けたショックやトラウマなどを癒すための場所。

病気や怪我で亡くなった人などは、F27に来たとしても地上で受けたダメージを引きずり、そのままでは回復できない場合があります。受けたダメージ自体は肉体の死とともになくなっているのですが、心の想いは消えていません。

そのために、死の過程で受けた精神的・エネルギー体的ダメージを癒し、取り除いていくため、適切な自然環境を整え、病院や温泉、レクリエーション施設といった、その人が一番受け入れやすいさまざまな癒しの場が用意されています。

ここには大きな水晶(非物質的なもの)があり、癒しの大本となるエネルギーを放っているといわれています。

 

3) 教育トレーニングセンター(The Education and Training Center)

通称「教育センター」。ヒーリングセンターで癒しを受け、F27の世界に適応できるようになると、次のステップに向け、自分が得なければならないテーマをシミュレーション体験なども交えながらこの場所で学んでいくといわれています。

 

4) 計画センター(The Planning Center)

地球生命系の活動を調整(コーディネイト)するところ。地上へのエネルギーパターンの流れと、地上からF27への情報の流れを管理しています。地球上で起こる事象について、タイミングをアレンジしながら導入やリセットを行ないます。

「発明の場」で創られた新たな考えやエネルギーパターンに対し、タイミングを調節しながら誰でもアクセスが可能な意識のネットワークを使って地球に導入したり、地上の人間意識から上がってくるすべての情報をモニターしながら、C1からF27もしくはそれ以上の領域を含む地球生命系の活動を調整しているといわれています。

 

5) そのほかの場

計画センターでふれた「発明の場」は、この世の中に必要とされるあらゆるものが生み出される場です。物だけでなく、アイディアや技術などが、あらゆる要望に応じて生み出されます。

また、エントリーディレクター(通称エド)と呼ばれる存在が人間界への入国を管理している、「人間界への入国管理場」と呼ばれる場があり、人間界へ転生を果たすまでのプロセスを観察することもできます。

「データの場」と呼ばれ、人類のデータや、地球上で起こったすべての出来事が納められている場もあります。アカシックレコードとも呼ばれるところです。

さらに、コーディネイティング・インテリジェンス(通称CI/シーアイ)と呼ばれるF27全体を維持管理し、調整し、コーディネートを行なっている存在たちからさまざまな情報をもらうこともできます。

 

6) 向こうのモンロー研(TMI/There)

F27にもモンロー研究所があります。ここにも水晶があり、探索時の集合場所や活動拠点として親しまれています。

 

7) 地球のコア(アースコア)

ここを訪れる理由は、地球コアの意識と各フォーカス・レベルの意識をつなぎ、お互いのエネルギーやその世界だけでは得られないさまざまな享受をもたらしあうためです。

さらに、F34/35へ行く前には、この地球のコアのエネルギーと結びつくことが必要といわれています。

地球のコアには、鉄の結晶があるといわれています。また、そこにいる知的生命存在たちとコンタクトし、地球についての情報をもらうこともできます。

 

 

 

ブルース・モーエンさんの「表現」とは違うものもありますが、私が探索したもので「あ、これ同じやつじゃん」っていうのがけっこうありましてw

上の引用と共通するものもありますが、私の「表現」で一部ご紹介しますと…

 

 

「レトリーバルの門」(鳩にエサを与えないで!)

レトリーバルした存在さんをここに連れてきますw

門のところには、その方のガイドさんや縁者さんたち(C1=この世で生きていらっしゃる方も含める)が大勢でお出迎えしてくれまして、拍手と大歓声の中、その方はたいてい「えへへw」って笑ってますw

こっちは「なー!ウソじゃなかったろーん!来てよかったろーん!」ってニヤニヤしてますw

 

 

「サミーのレストラン」(明太子スパゲティ1400円)

他のフォーカスでは「交信ポイント」という活動の拠点を作るのですが、私の場合F27には作りませんでした

なんかすごすぎて、作る気が起きなかったんですよねw

で、すでにある施設を利用させてもらっていましたw

サミーのレストランもその1つでして、以前やらせていただいた「ガイドとの対話」や「ガイド拝見」などはここでやらせていただきました〜(ガイド拝見をまったく別の方に目撃されたこともありまして、へぇ~、やっぱすつながってるねえとw)

 

 

「総合湯治システム・富士の湯」

モーエンさんのいう「癒しと再生センター」の、私バージョンですw

しょーがない、そう知覚しちゃったんだものw

ここではありとあらゆる形態の温泉があり、ゆっくりと傷ついた魂を愛そのもののエネルギーで癒します

私は富士山を眺めながらの露天風呂が好きで、よく入りますw

風呂上がりに瓶のコーヒー牛乳飲みながら、ガイドさんと卓球とかねw

日本ですなあw

 

 

「いのちの図書館」(はだしのゲン上映中)

「教育トレーニングセンター」にあたるところでしょうか(もはやどーでもいいw)

F15にあった「いのちの球体」は私個人の情報でしたが、この「いのちの図書館」は地球人全員バージョンですw

超巨大なドームで、果てがありませんw

中に入ると白が基調の部屋があり、壁にはディスク様のものががずら〜っと並んでいます

このディスクは情報記録体でして、ディスクを取り出して手をかざすと、知りたい情報がやって来ます

もち「悪用厳禁w」なのですが、ここに入れる存在さんは「普遍愛」を理解した方ばかりなので「逆に悪用なんて怖くてできねえよw」って分かってますw

ここは他にもたくさんの部屋があり、ある部屋では映画館や劇場のような空間もあり、そこでは今回の人生を振り返ったり、また、生まれ変わる際に前もっていろえろなシミュレーションを行ったりします

 

 

「フォーカス移動発射システム・Get back Jojo」

F27より波動の軽い、あらゆるレベルの場所へ行けるところです

ここではすべての存在は「人間のかたち」から離れ、「緑の球体」になります

明日ご紹介するF34~49へも、ここから出発します

 

 

 

 

 

我慢できないのでw先取りして少し書いちゃいますが

 

早い話、ブッダもイエスも親鸞もF27(以上)をしっかりちゃっかり体験しちゃったわけですw

 

ただ、当時は「フォーカス・レベル」はもちろん「概念」自体が極端に少なかった時代で、「こんなん言えるわけねえだろw」と、とうてい言葉で説明できるものではなかったのですね

 

 

 

また、ちなみにですが

 

「私はもう輪廻を終えました」

「私はもう人間に生まれ変わることはありません」

「私はこれで最後の人間の世界を過ごしています」

 

とかっていう方は

 

善悪優劣なく、100%もう一度人間やりますよw

 

 

そういうことさえ言わなくなるんですよ~w

 

はーい、第5条長々とすんまそ〜んw

 

 

 

今この部分やってるよ~ん♪

 

 

 

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、

ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々。

             

(それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。

ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、仏の方便によってご縁のある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。)

 

(【ジーナ訳】もし、念仏というものが「私は良いことをしているぅぅぅ!という自力で頑張っちゃう善」であるならば、亡き両親をも救えるという理屈なんだろうが、それはそもそも念仏を勘違いしているぞ。

 

念仏は「ありがてえなあ」という感謝の心境の発露であり、それは自力でも他力でもなく、ただガイドさんに任せ切る「絶対他力」の心境なんだ。

 

「非物質の世界」に思いを馳せ、ガイドさんをはじめとする「非物質の存在たち」の応援を感じれば、この物質の世界でどんな苦しみの人生を歩もうとも、時間・空間・物質の制限を超えた縁がはたらき、結果的に他人を救うということもあるだろう。

ただね、初めから「人を救わん」というのは傲慢であり、お前が自力でそいつを救うのではなく、そいつが絶対他力に目覚めたら、そいつは自然に救われるんだよ。

と親鸞はおっしゃった。

 

 

 

 

 

【ポイント】

①親鸞は「善悪」ではなく「絶対他力」の話をしている

②念仏を「供養」に用いているリーダーへの批判

③親鸞のフシギ体験と、ヘミシンカーさんの非物質体験は同じ

④フシギ体験をすると「善悪はない」「自力は要らない」と気づく

 

 

 

①②ときて、今日は

 

③親鸞のフシギ体験と、ヘミシンカーさんの非物質体験は同じ

 

になります~

 

 

 

このへんもまた、私ジーナの完全オリジナルの解釈になります

 

ヘミシンク未体験の方からすると怒るor嘲笑するところかもしれませんw

(議論はしませんので、ご批判等はご自身のフィールドでぜひ)

 

 

 

ただ、冷静になると分かるのですが

 

鎌倉時代と現代とでは「物質文化は大いに変化」しましたが

 

「非物質の世界は変わらない」のですね

 

 

 

これは非物質の世界が時間、空間、物質の縛りから解放されているからです

 

 

 

時間でいえば、時間「軸」がないわけです

 

つまり、歴史年表のカタチをとることがなく

 

 

 

すべての(無限個の)過去、現在、未来は

「いまここ」に畳み込まれている

 

のが非物質の世界なので

 

 

 

③親鸞のフシギ体験と、ヘミシンカーさんの非物質体験は同じ

 

に決まっているのです

 

(親鸞だけでなく、他のいわゆる「覚者」さんと呼ばれる方々も同様です)

 

 

 

 

 

では、「親鸞のフシギ体験」を確認してみましょう

 

「三夢記(さんむき)」って呼ばれてます

 

 

 

 

1191年親鸞19歳、磯長(しなが)の夢告


1200年親鸞28歳、無動寺大乗院の夢告


1201年親鸞29歳、六角堂の夢告

 

 

 

「夢告(むこく)」とは、言葉の通り「夢のお告げ」ですw

 

このうち信憑性の非常に高い、3つ目の「六角堂の夢告」を見ていきましょう

 

 

 

建仁三年四月五日の深夜、 明け方に親鸞聖人が夢のお告げを受けられた。

「六角堂の本尊である救世観音菩薩が、 厳かで端正な顔立ちをした尊い僧のお姿を現し、 白い色の袈裟を着けて広大な白い蓮の華の上に姿勢正しくお座りになり、 聖人に、もし行者が過去からの因縁により女犯の罪を犯してしまうなら、 わたしが美しい女の身となりその相手となろう。 

そして一生の間よく支え、 臨終には導いて極楽に往生させようとお告げになり、 そして、これこそがわたしの誓願である。

そなたはこの真意を広く説き伝え、 すべての命あるものに聞かせなさいと仰せになった。

そのとき、 聖人が御堂の正面から東の方を見ると、 険しくそびえ立つ山があり、 その高い山に数え切れないほど多くの人々が集い群がっているのが見えた。 

そこで仰せの通り、 その山に集う人々すべてに対し、 誓願について説き聞かせ終わったところで、 夢から覚めたのであった」

(「御伝鈔」第3段より。翻訳は長久寺さま

 

 

 

今回は「六角堂の夢告」全体を眺めました

 

次回は下線太文字のところを

 

重点的に確認していきます

 

 

 

あ~めんどくせぇw

(↑って言うな!w)

(↑でも、地味ですが面白いと思いますw)

 

 

 

参照:

 

第5条ですが、順調に長引いてます~w

 

 

 

 

 

親鸞のスタンス、すなわち歎異抄の構図はこうです

 

世間=自力=善(人)

親鸞=絶対他力=悪(人)

 

 

 

 

①親鸞は「善悪」ではなく「絶対他力」の話をしている(したい)

 

わけです

 

 

 

善悪

善人悪人

 

ということばの磁力に重点を置きますと

 

 

 

苦悩し葛藤にあえぐ親鸞w

 

って読み間違えちゃいますので留意されてください

 

もっと軽いノリよ~w

 

 

 

 

 

今日はポイントの②

 

②念仏を「供養」に用いているリーダーへの批判

 

です

 

 

 

これは結局

 

念仏とは一体何か?

 

を再確認することになりますw

 

 

 

 

 

念仏とは、一体何なのでしょうか?

 

 

 

結論をいえば、それは

 

ありがとうございます

という感謝の発露

 

ですですw

 

 

 

歎異抄第1条に

 

念仏申さんとおもいたつこころのおきるとき、即ち摂取不捨の利益に預けしめたもうなり

(念仏称えようと思いたつ心のおきた時、おさめとって捨てられない、絶対の幸福に生かされたのです)

(翻訳元)

 

とあります

 

 

 

この青文字の念仏申さんとおもいたつこころのおきるときところを

 

 

 

ありがてえなあ!という感謝のこころのおきるとき

 

と言い換えても

 

現代人にとって何の違和感もありません

 

 

 

もちろん「有り難し」という言葉自体

 

仏教由来という説もあり、当時もすでに広く使われていました

 

 

 

ですので、親鸞の意図として厳密には

 

「念仏」と「ありがとう」は違う

 

のは重々承知の助ですが

 

 

 

ほとんどの現代人にとって「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える行為は疎遠であり

 

むしろ「ありがとう」ということばの方がなじみ深いので

 

 

 

ありがてえなあ!という感謝のこころのおきるとき

 

 

 

 

親鸞の意図をくみ取り、現代語として十分言い換えられるとみなす

 

のが妥当と思われます

 

 

 

 

 

…というよりもw

 

 

 

親鸞亡き後の念仏者とそのリーダーさんたちが

 

ありがとうございます

という感謝の発露

 

から

 

 

 

念仏を供養に使うw

(死者の霊を慰撫、鎮魂するための念仏=いわば「葬式念仏」)

 

など、念仏そのものを歪めてしまっていましたw

(くり返しですが、現在の浄土真宗を批判する意図は1ミリもないです)

 

 

 

つまり、歎異抄のこの部分は「自力の念仏」へのアンチテーゼとして

 

②念仏を「供養」に用いているリーダーへの批判

 

をしているわけです

 

 

 

 

 

さて

 

「念仏」とは、ありがとうございますという感謝の発露

 

であり

 

 

 

ありがてえなあ!という感謝のこころのおきるとき

 

絶対の幸福に生かされる

 

と親鸞は主張していますが

 

 

 

では、親鸞は

 

どのような体験をしてこう主張するに至ったのか?

 

 

 

親鸞のことばでいえば

 

どのような体験をして「浄土のさとり」を得ることになったのか?

 

 

 

このシリーズのハイライトとしてそのあたりをみていこうかなと~

(たぶんもうすぐ終わりますのでm(__)m)

 

 

歎異抄の第5条やっとります~

 

 

なんとなーく今回から

 

シリーズの【後半】に入ります

(↑やっとかw)

 

 

 

 

難しい語句もありますが

 

説明などはそのつどするとして

 

順番に読んでいきましょう

 

 

 

ということで、今日はこの部分です

 

 

 

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ

(それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。)

(【ジーナ訳】もし、念仏というものが「私は良いことをしているぅぅぅ!という自力で頑張っちゃう善」であるならば、亡き両親をも救えるという理屈なんだろうが、それはそもそも念仏を勘違いしているぞ。
念仏は「ありがてえなあ」という感謝の心境の発露であり、それは自力でも他力でもなく、ただガイドさんに任せ切る「絶対他力」の心境なんだ。
)

 

 

 

 

 

翻訳は載せた通りですので、ポイントをいくつか

 

重複しちゃってたらごめんなさい~w

 

 

 

①親鸞は「善悪」ではなく「絶対他力」の話をしている

②念仏を「供養」に用いているリーダーへの批判

③親鸞のフシギ体験と、ヘミシンカーさんの非物質体験は同じ

④フシギ体験をすると「善悪はない」「自力は要らない」と気づく

 

あたりです

 

 

 

 

 

今日は①親鸞は「善悪」ではなく「絶対他力」の話をしているです

 

ここは第3条でもふれましたが

 

たくさんの解釈者さんが誤解されているようなので

 

我々読者も迷ってきたところですw

 

 

 

歎異抄をつらぬいている構図はシンプルです

 

 

 

世間=自力=善(人)

親鸞=絶対他力=悪(人)

 

ですですw

 

 

 

ここを「感情抜き」で「淡々と」とらえると迷いません

 

 

 

 

「感情たっぷり」の「濃厚A級味噌ラーメン」ですと

 

親鸞は自らの苦悩や葛藤を吐露され

同席していた筆者唯円も心打たれて涙した…

 

ってなっちゃいますw

(文語体なので、もちろんそういった解釈も可能です)

 

 

 

 

 

フォーカス27(以上)を体験した親鸞は

 

この世に善悪・優劣はない

自分の力でやった!ということは何1つない

 

と「悟り」ましたw

(このスタンスを「自然法爾じねんほうに」とか「絶対他力」などと呼びます)

 

 

 

ですので、親鸞が「わが力にて励む善」と言っているのは

 

世間や、当時の真宗のリーダーへの皮肉

 

でもあるのですw

 

 

 

 

 

ここでいう「皮肉」とは、どういうことでしょうか?

 

っていうのは、過去にも書いた記憶がありますが

 

第5条の文脈で、簡単に振り返れば

 

 

 

【世間】

世間では、念仏を唱えて亡き人を追善供養(葬式や法事)をしている

これが「大多数の常識、価値観、正義感」でもある

ゆえに、これが「善」であり

自力で追善供養や怨霊鎮魂を行う者が「善人」である

 

【親鸞】

親鸞は、フォーカス27で生まれ変わりのシステムを体験し

それ以上のフォーカスで命は綿々と1つに繋がっていると理解し

誰もが全員すでに救われているので供養の意味はなく

また、この世に「善悪はない」と知った(そらごとたわごと)

ゆえに、「供養」「善悪」を語ることは無意味だが

これは「超少数派のスタンス」なので

「世間」からは「親鸞は悪人だ」ととらえられちゃう

 

 

という背景があります

 

 

 

なので、親鸞が自分自身のことを

 

「煩悩具足のわれら」

「他力をたのみたてまつる悪人」

 

と「自称」しているのは

 

 

 

俺なんか煩悩だらけの悪人なんだ…

 

とクヨクヨしているのではなくw

 

 

 

俺のスタンスは「世間」さまから見れば

煩悩だらけのクソ坊主で、大悪人だろうなあw

 

って、「笑って」言っているのですw

 

だから、「皮肉」なわけです

(「(笑い)」「(笑)」「(w)」「(草)」という表記が誕生したのはここ最近であり、それまでの読者は「現場の雰囲気は察する」しかなかった)

 

 

 

 

 

なぜ、ここの「皮肉」のところをクドクド書くかといえば

 

ここを「親鸞の皮肉」と解釈されている方がいないからですw

 

 

 

 

具体的には

 

「善悪はないと親鸞は分かっていて、それでも世の常識に沿ってあえて善悪を語る親鸞の面白さ、おかしみ、ユーモア、諧謔」

 

という私の解釈が

 

これまでの数ある解釈と「決定的に食い違う」からですw

(親鸞と唯円(とその他モブ)(←モブって言うなw)の再会は「涙涙のしんみり対談」なんてものはあったにしても一瞬で終わり、基本的には「ユーモアあふれる笑いの絶えない対談」だった)

 

 

 

 

 

「この世に善悪はない」というのは

 

「非物質の世界(フォーカス27やそれ以上のフォーカス)」

 

を、体験せずとも知識として知っていれば

 

それが「解釈の基本的スタンス」となって歎異抄の理解がはかどるのですが

 

 

 

歎異抄で、親鸞は「善(人)」「悪(人)」と言いまくっているwので

 

これまでの解釈者は「善」「悪」の解釈にこだわってしまっている

 

のですね

(「悟った人=F27の体験者がすごい」のではありません。「この物質の世界は仮の世界であり、私には還るところがあるんだ。だから、のんびりのんきに過ごしていいんだなあ」と分かっちゃうことが親鸞の本意であり、素晴らしいことなのです)

 

 

 

 

親鸞はすでに

 

世間さまでいう「善悪」

 

などにこだわっておらず

 

 

 

「善悪」は個人の主観であり

んなもんどーでもいいわw

 

ってなスタンスなのですw

 

 

 

親鸞がイイタイコトは

 

「自力」は無意味で「他力」だよ

もっといえば「絶対他力」のスタンスでいいんだよ

 

ということです

 

 

 

「絶対他力」とは、「念仏」でいえば

 

念仏でさえ「自力」で唱えるのではなく

 

思わず念仏を言いたくなった

(念仏申さんとおもいたつこころのおきるとき)

 

ってな感じです

 

 

 

「出来事」でいえば

 

出来事は「自力」で努力はするけど

 

結局何もかもガイドさんのはからいだ(った)なあ

 

ってな感じですw

 

 

 

なんもかんもガイドさん(自分と同一、同質の非物質の存在)との共同作業なので

 

当然、出来事は「ただ在る」だけで「善悪はない」わけです

 

 

 

 

 

「善悪を言う」のは、周囲の「世間」さまであって

 

「善悪を言わない」はずの親鸞が「善悪を言う」と、それは「皮肉」になる

 

のですw

 

 

 

「絶対他力」のスタンスの親鸞の

 

「善」「悪」ということば

 

を「皮肉」としてとらえず

 

 

親鸞は「本気で善悪を語っているのだ!」と頑張って考えちゃうw

 

ので迷子になるのですね

 

 

 

(これでも分かりにくいかも南蛮なので、さらに捕捉しますと…

 

どんな堅苦しい書物にも共通していることがあります。

それは、どれほど堅苦しい書物であっても「ユーモア、あるいは皮肉が、どこかに入っている」という点です。

面白いもので、論文や小説をのぞいては、これはほぼ100%と言ってもいいです。
 

上で述べたとおり、「善悪」と「絶対他力」は意味としても、生きるスタンスとしても「矛盾」しており、そもそも相容れない概念です。
それを「同列」に述べること自体、本来は親鸞のような知識人としてはあり得ません。

「同列」に述べるとムリが生じるからです。


ただし、自分の「イイタイコト」を述べたい場合に、「ユーモアや皮肉」として「イイタイコトの反対の概念」を持ち出すことがあり、これは一般的に広く使われている手法です。

 

たとえば、「西洋のザンギリ頭は超少数派だが、平等思想で、開明的で、髪も洗いやすいのでおススメだ」というイイタイコトがあったとする場合、「ちょんまげ」を「イイタイコトの反対の概念」として提示することができます。

そのとき、ザンギリ頭の人が「日本古来のちょんまげをみな結っているが、あれは身分制のなごりであり、古臭く、髪も洗いにくいものだ」と「反対の概念」を提示し、そこで「まあ、俺なんぞ世間さまから見れば、日本人の魂を捨ててしまった悪人って言われちゃうけどさ」と言えば「ユーモアや皮肉」となって周囲のザンギリ頭の賛同者をクスッと笑わせることになるのです。

 

親鸞のイイタイコトは「絶対他力」であり、「善悪」は「イイタイコトの反対の概念」として出しているだけなのですが(そもそも矛盾していますし)、「悪人正機説」というご立派な名前がついたおかげもあり、ここが「ユーモア」「皮肉」とはとても思えなくなってしまっているのかもしれません。

 

「善悪」と「絶対他力」を同列に取り上げ解釈しようとすると、この2つの概念は矛盾していますので「歎異抄は分からねえ」ってなるのです。

ポイントはじつにシンプルでして、「善悪はマクラ話」「絶対他力がイイタイコト」なだけです。

 

歎異抄は、唯円が「同時代に生きる浄土真宗の信者さん」に向けて「ひとえに同心行者の不審を散ぜんがため(ひとえに親鸞の教えを学び求める同志の不審をはらしたいから)」書かれました。

そんな目的の本が分かりにくいはずがありません。

「面授の弟子」と言いますが、親鸞と実際に出会い、直接教えを聞いた人が歎異抄のこの部分を読んだ場合、「ああ、親鸞先生はたしかにこんなこと言って、俺たちを笑わせてたよなあ!」と、ムリなく読めたわけです)

 

 

 

 

 

参照:

 

 

 

あ~

 

長っ!

(ごべーん!)

 

 

さて、先に進みまして

 

歎異抄第5章のこの部分です~

(サクサク行くぞ!w)

 

 

 

いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。             

(そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏に生まれて助けなければなりません。)

(【ジーナ訳】誰もがこの人生で、まず「自分自身がすでに救われている」ことを知ることがもっとも重要で、他人をレトリーバル(救おうと)するのは、自分が肉体を卒業して、いわゆる仏さんになってから考えればいいのよ。)

 

 

 

ここは親鸞、「レトリーバル」の話をしています

 

レトリーバルとは何か?

 

については、これまでけっこう書いています

 

 

 

下の3つの参照記事のどれかを読んでいただければ

m(__)m

 

 

参照:

 

 

 

 

 

 

 

親鸞は明らかに、ヘミシンクでいう「フォーカス27」を体験しています

 

なぜそれが分かるのか?

 

といえば

 

 

 

いわゆる成仏、悟りの波動域ですが、そこを体験しますと

 

大前提として

 

 

 

すべての存在は「すでに救われている」

 

ということが分かっちゃうからです

 

 

 

 

レトリーバル「する」側は

 

救いに行っている感はあるけれども

 

実際にやっていることは

 

 

 

もっと楽チンチンなところ

もっと波動の軽いところがあるよ~

 

って「気づきを促す」ことだけです

 

 

 

つまり、レトリーバル「される」側は

 

「気づきを得る」

 

だけなのです

 

 

 

 

 

これが「大前提」で

 

この世の人間が「自力で救われようとする」のでもなく

 

ましてや念仏を唱えたりすることで「誰かを救おう」というものでもない

 

 

 

なぜなら「みな元々1つ」であり

 

すべての存在が「すでに救われている」のだから

 

「供養(救う)」のことなど考える意味がない

 

と言っているのですね

 

 

 

 

 

 

当時は(現在もですが)

 

この世があまりにも苦しいために

 

とても「ゲーム」とは思えず

(「ゲーム」という概念のなかった親鸞の言葉では「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと」)

 

 

 

この世で救われたい!

(現世利益を得たい)

 

あの世でも救われたい!

(極楽、浄土、天国へ行きたい)

 

と願う人々が多く

 

 

 

ついでに、亡くなった人が

 

あの世で救われたのかどうか?

(追善供養しなきゃ)

 

あの世で救われていないから

この世の私に祟っているのではないか?

(除霊、鎮魂しなきゃ)

 

という発想する人も多く

 

 

 

その願いをかなえるための方法として

 

仏教がありました

(仏教を導入した聖徳太子の目的とは違うかもですが、当時の日本政府が仏教を取り入れた目的の1つがそもそも怨霊鎮魂でしたので、ある意味必然の流れではありますw)

 

 

参照:

 

 

 

 

 

親鸞は

 

すべての存在は「すでに救われている」

 

という「大前提」が分かっちゃった

 

のです

 

 

 

現在、歎異抄を読むときは

 

誰かの解説付き

 

で読むことになります

(このブログがそうであるようにw)

 

 

 

ただ、歎異抄の解説者の中には

 

仏教導入の「流れ」に取り込まれ

 

この「大前提」をすっぽ抜かして解説されておられる方

(つまり「人間は救われていない」スタンスで語る方)

 

も多数いらっしゃるので、留意されてくださいw

(↑はい、今日の余計なひとこと~w)

 

 

 

 

 

 

 

…ふぅ

 

さて、シリーズも⑩ということで

 

キリがいいので【前半】はここまでとしまして

 

次回からシリーズ【後半】に入ろうかなっとw

 

 

(引用元)

 

 

 

思わず長いシリーズになってしまいまして

 

さらに長文の記事も増えて「いいね!」も順調に減っておりますw

(シーッ!w でも、みなさまのコメント、マジで励みになっておりますm(__)m)

 

 

 

11月ぜんぶ歎異抄になりそうな勢いでw

 

本来ならここらあたりで

 

エロい記事でも書いてテコ入れを図るところですが

(↑テコ入れの方向性が間違ってるぞw)

 

 

 

気にせず行きまあす!

(↑あっそうw)

 

いわゆる成仏と悟りの波動域

 

ヘミシンクの「フォーカス27」

 

の補足です~

 

 

 

忘れちゃいそうですが、いま歎異抄やってるよ?w

(↑正直忘れかけてたわ!w)

 

 

 

 

歎異抄第5条で、親鸞はこう言っています

 

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。

(この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも称えたことは、いまだかつてないのです。)

(【ジーナ訳】おいら親鸞は、死んだ両親の供養のために念仏を唱えたことは、一度たりともないよ。

そんなものはムダムダw

意味がないんだよw

 

 

そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。

(なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。)

(【ジーナ訳】その理由は、フォーカス27の「生まれ変わりシステム」で分かる通り、死んだ両親とは何度も父母きょうだい等の関係を、この世で何度も繰り返しているからだ。

いわば、「同じクラスの中で何度も席替えをしている」ようなものさ。

 



ここまでの言葉だけでも

○葬式や供養、お墓、読経、お寺、弟子ぜーんぶイラネ
○輪廻転生は「システム」としてただ在るだけで、「悪」ではない


と「親鸞は分かっちゃった」ことが分かりました

 

 

 

これはヘミシンカーさんなら分かる通り

フォーカス27を体験してきた人が言うことば

 

なのですね

(F27はヘミシンクの概念で、輪廻の中継点、いわゆる「成仏」の波動域)





「逆」から分かることは

 

フォーカス27を知識としてでもご存じない人

 

あるいは、歎異抄でいえば

 

「親鸞の教えを歪めた当時の真宗の指導者たち」は

 



葬式や供養はこうやって…

お墓の配置はこうすべきで…

このお経が一番優れていて…

寺での修行はこんなことして…

あの寺より弟子をたくさんとるぞ…


輪廻転生は苦しく悪いもので、早く解脱を目指しましょう!

私などは、今回で最後の人間やってるんですよ…

なーんて、迷いの世界でたくましくお金や名声を得ようと頑張っているのですね

(善悪、優劣なし)

 





さて、親鸞の言葉

 

そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。

(なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。)

(【ジーナ訳】その理由は、フォーカス27の「生まれ変わりシステム」で分かる通り、死んだ両親とは何度も父母きょうだい等の関係を、この世で何度も繰り返しているからだ。

いわば、「同じクラスの中で何度も席替えをしている」ようなものさ。

 

から、もう1つ分かることがあります

 

 

 

それは【ジーナ訳】でも出ていますが

 

「席替えシステム」

 

と、私が呼んでいるところです

長いので小文字でまとめますw



 

【席替えシステム】

 

「席替えシステム」は、大きな「生まれ変わり」のシステムの一部です。

「演劇学校」の「クラス」で定期的に行われる「席替え」をイメージすると分かりやすいかもりんです。

 

「私本体」を表現する「おおもと(クラスター)」があり、おおもとの非物質の「私本体」は、「私A」「私B」「私C」…とデータを分割しました(「私本体」の「分割体」)。

「分割体」にすると、マンガ『NARUTO』の分身の術よろしく、物質世界において効率よく「勉強」「学び」「体験」ができるからです。

 

分割体「私A」「私B」「私C」…たちは、物質世界での体験がそれぞれ異なるため観察者の角度によっては別人格のようにもみえますが、分割体たちはみなおおもとの「私本体」の一部であることを理解しています。

非物質の世界に還るとそのことを自然に思い出し、物質世界でどのようなネガティブに見える関係性を体験しても、非物質の世界に還りますととても仲が良いですw(なので、今生での人間関係での後悔や罪悪感は100%必要ありません)

 

その分割体「私A」「私B」「私C」…たちが「演劇学校」に所属するところをイメージしてくださいw

「同じクラス」に入った分割体「私A」「私B」「私C」…たちは、物質世界に降り立つ前にいろえろ話し合います。

 

(私A)「私は今度、母親役をやってたくさん子供を産んで、虐待してみたいなあ♡」

(私B)「あ、じゃあアテクシは私Aの子供役やるよ。虐待された体験はまだしてないから、楽しそう!♡」

(私C)「ほいではおいらは私Aの2番目の夫役にするかなw。私Bとは義理の父親になって、相当こじれて長年ギクシャクした人間関係を体験してみたい♡」

みたいなw

 

分割体はこうして定期的に「席替え」を行って、家族や親せき、友人、パートナーなどの「役を入れ替える」ことをします。

 

「クラスでの席替え」を繰り返し、「勉強」「学び」「体験」が進んでいくと、次に「学年が上がり、学年全員が再振り分けされるクラス分け」がなされます。(←あくまでもイメージですからw)

 

そんなことを繰り返していくうちに、たとえば、分割体「私A」が、物質の世界のかたよった愛のなかで、十分に普遍愛を見出しました。

「私A」の「演劇学校」の「卒業」が近づいてきたわけです。

 

ただし、「その演劇学校で体験し尽くした」だけで、「卒業」することにも「学校に残る」ことにも「善悪、優劣」はありません。

これは「システム」なだけで、どの存在もいずれ全員「その演劇学校を卒業」することが分かっているからです。

ですので、「私A」も「演劇学校」から「卒業」しても、かつて同じ釜のメシを食った同じクラス、同じ学年の存在たちを愛し続けることに変わりはありません。

 

 

 

 

これはフォーカス27(いわゆる成仏、悟りの波動域)の「教育トレーニングセンター」と呼ばれるところの一部にあります

 

通称「教育センター」。ヒーリングセンターで癒しを受け、F27の世界に適応できるようになると、次のステップに向け、自分が得なければならないテーマをシミュレーション体験なども交えながらこの場所で学んでいくといわれています。

(引用元TSTさま)

 

 

 

 

 

ぜひとも留意していただきたいことは

 

この「席替えシステム」は、アタマで理解しやすいように単純化して説明するためのごく小さなモデルの1つであり、「これがすべて」「これしかない」というものではない

 

地球内外への転生や、肉体を持たない特殊な転生等も多々あり、あくまでも大きな「生まれ変わり」のシステムのごく一部のモデルである

 

ということです

 

 

 

「生まれ変わり」のシステムは思ったよりもけっこう壮大にして、かなり精緻巧妙です

 

人知では及ばない、人間のことばでは表現しようもないことが非物質の「普遍愛」の世界では、がっつり行われているのですねw

 

 

 

 

 

この頁では

 

○輪廻転生は「システムとしてただ在る」だけで「悪」ではない

○「解脱(生まれ変わりをしない選択)」を特別視する必要は1ミリもない

 

ということが確認できれば十分です

 

 

親鸞はフォーカス27(以上)を体験したことで



輪廻はあるけどこだわらなくてよいのだ
つまり解脱にもこだわらなくてよいのだ

なぜなら「輪廻・解脱システム」は「ただ在る」だけで
そこに善も悪もないからだ


ということが分かっちゃいました

 

 

 

 

で、順番としては、いわゆる成仏の波動域である

 

「フォーカス27とはどんな世界なのか?」

 

ということを説明するべきなのですが

 

これ、もう昨年の「般若心経」のときに少し触れちゃいましたw

 

 

 

ですので、リンクを貼るにとどめます~

 

興味がある方はご覧ください↓

 

 

参照:

 

 

(「どこかの都市の観光案内の書物やサイト」を思い出していただければ分かりやすいのですが、リンク先の情報もいろえろ書いてますが、当然ながらこれでも「フォーカス27の1億分の1以下しか伝えられていない」ですw

これが「文字で伝えられる限界」ってやつです。

シリーズの後半を先取りして言えば、この「非物質の世界をこまごま伝えようと発信するほど、周囲は発信者を基地外と認識する(つまり、誰も信じてくれないw)」ってことを想像してみてください。

現代のヘミシンカーさんはネットや書物などで非物質の世界の情報を共有できるので「ああ、けっこうみんな似てるものを見てるのね、面白いねえ!」ってな感じですが、ネット、書物はおろか義務教育さえない鎌倉時代の民衆に、フォーカス27以上の非物質の世界の話をする際、あなたならどうしますか?w

そうですそうです!「こまごま言うほど誤解され、伝わらない」ので、「愛の世界があるんだよ~!」「みなさんすでに救われているんだよ~!」「この世界はいわば幻で、善悪はなかったんだよ~!」って、ざっくり「ひとことで言い切る!」ってことを、まずはするしかないのですね。

これがシリーズ後半のテーマの1つになります。親鸞のユニークで、天才的な行動に注目してくださいw)

 

 

 

 

 

「フォーカス」というのはヘミシンクの概念なのですが

 

ヘミシンクは、左右の耳から異なった周波数の音を聞くことで右脳と左脳の同調をはかり

 

「非物質の世界を探索する」ためのツールの1種です

 

 

 

古今東西、これまで数知れないほどの修行者(瞑想者)さんが挑んできた「非物質の世界の探索」ですが

 

ヘミシンクの開発によって、誰もが手軽にお気楽に体験できるようになりました

(人により「得手不得手」はあるようです)

 

 

 

世界中のヘミシンカーさんが「非物質の世界」を探索してきていますが

 

その報告内容は、国や人種、世代、宗教観を超えて、驚くほど似通っています

 

 

 

 

 

そして、ヘミシンク開発のごく初期段階で分かったことは

 

○非物質の世界は「重層的」であること

○人間には「非物質の存在(ガイドさん、透明なヘルパー)」が一緒であること

○波動が軽くなるにつれ「肉体」「空間」からの解放(意識の拡大)、次に「時間」から解放される波動域があること

 

ですです

 

 

 

これ開発の初期段階ですよ?w

 

これだけでもヘミシンクというツールが「それにゃ。」ということが分かります

 

(↑いや、猫語すぎて分からんわw)

 

 

 

自力での瞑想では「(瞑想のコツを体得した)ヒトを選び」「時間と労力」がかかったことでしょう

 

 

 

 

 

フォーカス27以上の説明は上のリンク先に丸投げしちゃったのでw

 

最後に、このブログの冒頭に提示しています「各フォーカスのまとめ」を載せておきます

(「C」はコンシャスネス、「F」はフォーカスです。

ちなみに、ヘミシンクの開発者のロバート・モンローさんは「フォーカス10」を発見した際、はじめ「フォーカスA」って名付けようかな~と思ったそうです。それくらい「名前」「名称」は「どうでもいい」ものなのです。「目に見えない世界」を表現するためには、名前がないと不便なので名前を付けただけなのですね。

歎異抄やってますので「念仏」ということばが頻出していますが、名前や名称にこだわりがあると、たとえば「いや、題目の方が力があるのだ!」とか言い出す方がいらっしゃるのですが、名前や名称には何の力もありません。

この物質の世界で重要なのは、いつだって「体験」と「感情」です。

念仏でいえば「念仏(≒ありがとう!)を言いたくなったそのときの感謝の想い」こそ素晴らしいことなんだぜ!ということです)

 

 

 

 

 

この世は目に見えるものから目に見えないものまで重層的に、同時に「いまここ」にあります。ヘミシンクではそのような層を便宜的、体験的に「F=フォーカス」という用語を用いてあらわしています。ヘミシンクで知覚が開けると、様々なフォーカスを体験することができます。

C1 =この世。F1とも。普段はここにフォーカスしている
F3 =心と脳が同調している状態
F10=肉体は眠り、意識は目覚めている状態
F12=空間と物質(肉体)から解放された状態
F15=時間から解放された状態
F21=この世とあの世の架け橋。いわゆる三途の川の手前
F22=薬物中毒、せん妄など、C1で肉体はあるが意識はここにある状態

F23=ここから死後の世界。ここは独りぼっちが多い
F24、25、26=信念体系領域。とらわれ領域。宗教、性欲や食欲、快楽、趣味、仕事や殺し合い等の信念にこだわっている。集団が多い
F27=輪廻の中継点。いわゆる成仏
F34、35=人間としての輪廻の出入り口。トータルセルフ(IT:I/There)や宇宙人もいる
F42=ITたちの集まり、ITクラスターの世界
F49=ITクラスターの集まり、ITスーパークラスターの世界。源。「孔」があり、その先はなかなか行けない

 

 

 

次回はフォーカス27について、もう少しだけ捕捉します~

 

飽きた?w

ごめんねごめんね~!

 

 

第5条進め進め~!

(↑飽きて来たw)

(↑お前が言うなw)

 

 

 

 

 

これまで、「歎異抄」や「般若心経」を、ヘミシンクの概念とリンクさせて表現した人がいないので

 

とっつきにくいかもしれませんがお許しください~
m(__)m

 

 

 

 

 

(原文)

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。

そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。

いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。

 

(ざっくり翻訳)

供養のために念仏したことはない

理由は、亡き父母たちとも、これまで何度も父母きょうだいとなって生まれ変わっているから
供養のことは仏になってから考えればよく、今は供養のことはどうでもいい

 

ですが

 

 

 

 

 

親鸞は輪廻転生を「悪」ととらえていない

 

 

 

このことは

 

「親鸞の悟り」

「親鸞のスタンス」

 

を考えるうえで最重要事項の1つなのですが

 

親鸞の研究者さん、私の知る限りだーれも言われてないのがほんとうに不思議です

 

 

 

 

長くなるので、詳しくは「参照記事」にゆずりますが

 

「輪廻転生」自体は、ヒンドゥー教も仏教も認めています

(というか「輪廻はあるのが大前提」って感じですw むしろ、「復活システム」を採用しちゃったキリスト教は輪廻を認めていない。キリスト教以前ですと、古代ギリシア人のほとんどは輪廻を受け入れていないが、プラトンは輪廻を認めました)

 

 

 

 

 

話はここからでして

 

ヒンドゥー教も初期仏教も

 

輪廻は「悪」である

 

ととらえていたのです

 

 

 

なので、当時の修行者さんらーは

 

輪廻から脱する「解脱」

 

というものを目指したわけです

 

 

 

 

 

ところが、やがて修行者の中で「瞑想の達人w」があらわれ

 

ヘミシンクでいうところの「いわゆる成仏の波動域」

 

私がいうところの「いわゆる悟りの波動域」

 

フォーカス27

(とそれ以上のフォーカス)

 

を体験しちゃった人がわらわら出てきまして「大乗仏教」が発生しました

 

 

 

 

 

たくさんの著述、記録から

(↑ここは後日触れます)

 

親鸞も同じくフォーカス27を体験したことが分かっています

 

 

 

フォーカス27の詳細は次回以降にしますが

 

結論から言いますと

 

親鸞はフォーカス27(以上)を体験したことで

 

 

 

輪廻はあるけどこだわらなくてよいのだ

つまり解脱にもこだわらなくてよいのだ

 

なぜなら「輪廻・解脱システム」は「ただ在る」だけで

そこに善も悪もないからだ

 

ということが分かっちゃったわけですw

 

 

 

参照:

 

 

さあ、先に進みましょうw

(↑遅いぞ!)

(↑まあまあw)

 

 

 

 

第5条冒頭で、親鸞は

 

親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。

 

(親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません。)

 

(【ジーナ訳】おいら親鸞は、死んだ両親の供養のために念仏を唱えたことは、一度たりともないよ。
そんなものはムダムダw
意味がないんだよw
)

 

と述べており

 

 

 

「その理由」として

 

 

 

そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。

いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。

 

(というのは、 命のあるものはすべてみな、 これまで何度となく生れ変り死に変りしてきた中で、 父母であり兄弟・姉妹であったのです。

この世の命を終え、 浄土に往生してただちに仏となり、 どの人をもみな救わなければならないのです)

 

(【ジーナ訳】その理由は、フォーカス27の「生まれ変わりシステム」で分かる通り、死んだ両親とは何度も父母きょうだい等の関係を、この世で何度も繰り返しているからだ。
いわば、「同じクラスの中で何度も席替えをしている」ようなものさ
)

 

と言っています

 

 

 

 

さて、ここでまた「重大な事実」を指摘しましょう~

 

それは

 

 

 

親鸞は輪廻転生を「悪」ととらえていないw

 

ということです

 

 

 

 

このことは、前回紹介した親鸞のいくつかの言葉でも分かるのですが

 

上の第5条のロジックだけでも分かります

 

 

 

つまり

 

供養のために念仏したことはない

理由は、亡き父母たちとも、これまで何度も父母きょうだいとなって生まれ変わっているから

 

供養のことは仏になってから(フォーカス27へ還ってから)考えればよく、今は供養のことはどうでもいい

 

 

 

もし、輪廻転生が「悪」ならば、このような表現をせず

 

はやく亡き父母の供養をしよう!

 

と言っているはずです

 

 

 

 

 

しつこくて恐縮ですが、「逆」に言えば

 

はやく亡き父母の供養をしよう

と主張する指導者、団体が存在した

 

から、親鸞のこの言葉を、筆者唯円は紹介したのです

 

 

 

 

 

ざっくり言えば

 

「念仏だけで十分なんだよ!」という「専修念仏」を唱えた親鸞に対し

 

「いやあ、実はもっと必要な修行があるんだよ…うへへ」という「専修賢善」を言い出した指導者、団体があらわれた

 

ので

 

 

 

大正解の「親鸞の悟り」

大正解の「親鸞のスタンス」

 

を、唯円は歎異抄に載せたのですね

 

 

参照:

 

 

 

 

 

親鸞は輪廻転生を「悪」ととらえていない

 

ですが

 

親鸞研究の最重要事項にもかかわらず

 

この点を指摘されている方を私は知りません

(「厳しさ」「湿っぽさ」にかたよると、この点を軽視、無視してしまうのかもしれません)

 

 

 

 

 

ちなみに

 

輪廻転生は「悪」って、なしてだっぺ?

 

っていうエバラギ県民の声はもっともです

 

 

 

前回

 

煩悩は消せるわけねえし

むしろ煩悩を味わいにこの世に来た

 

という親鸞のスタンスを紹介しましたが

 

 

 

ヒンドゥー教や初期仏教で、修行者は

 

とにかく解脱!

 

を目指していました

 

(ウッカリ!)

 

 

 

釈迦の四苦八苦「生老病死」の

 

 

がまさにそれで

 

ざっと言えば

 

 

 

この世に生まれたのは

ウッカリ輪廻転生しちゃったからだ

 

この世の苦しみから逃れるには

輪廻から脱して解脱するしかない

 

解脱こそ人間が目指すべきもので

解脱者は尊敬にあたいするお方だ

 

解脱には煩悩を消さなくてはならないが

肉体があるから煩悩も生じる

 

だから煩悩は「悪」で

煩悩を生む肉体も「悪」なのだ

 

肉体を痛めつければ煩悩も消えるかも南蛮

ならば厳しい修行こそ「悟り」への道だ…

 

ってな感じですw

 

 

 

 

 

親鸞はフォーカス27(以上)を体験したことで

 

この思想から解放されたのですね