「仏教の変化」でやんすw

 

 

 

目次w

 

○「仏教の常識」
「信仰」について
「仏教の変化」について

○「釈迦の教えのゆがみ」
「根本分裂」について←いまここw
「釈迦の実像」について

○「無智亦無得」
「お経」について

「玄奘三蔵の実像」について
「無智亦無得」について

 

 

 

 

釈迦の死後100年も経つと

 

仏教者たちの間で「ケンカ」がはじまりましたw

 

 

 

俺が死んだら俺の教えの解釈でケンカしろ!

 

とは、釈迦は言わなかったのですが

(↑当たり前だろw)

 

 

 

お坊さまだって人間よw

 

 

 

 

ケンカの内容ですが、主に2種類でしたw

 

 

 

①釈迦の悟った通りの修行をして、釈迦の感知した「悟り」とやらを、俺たちも「個人で」目指そうぜ!

 

②釈迦と同じ「悟り」を目指すのは当たり前だ。しかし、それだと仏教者しか悟れないじゃないか。「仏教を知らない人たちに仏教を広く知らしめる」ことも、釈迦の思いだったに違いないだろーが!

 

ってな感じです

 

 

 

①を上座部仏教

②を大乗仏教

 

と呼びます

 

 

 

そして、これを「根本分裂」と呼びます

 

 

 

 

 

ここで一応「結論」に戻っておきますとw

 

 

 

現在の仏教者さんは

 

早い話「釈迦が説いたこと」ではなく

 

 

 

「ケンカ別れした仏教者たちが説いた教えや修行」

 

にこだわり、とらわれているのです

(で、もちろん「それでいい」です)

 

 

 

 

釈迦本人とはほとんど無関係なことを

 

説いたり、修行したりしているので

 

けっこうムチャクチャでもあるのですw

(↑ちゃんといいますと、これが「仏教は自由である」ということで、善悪優劣はもちろんありません)

 

 

 

 

 

上座部と大乗は「同じ仏教」というくくりではあるのですが

 

「全然違う宗教w」

 

といっても言い過ぎではありませんw

 

 

 

東南アジアのお坊さんに「女性が触ってはいけない」

 

みたいなことを聞いたことがあると思いますが

 

あれは上座部仏教だからです

 

 

 

先月も書きましたが

 

日本の僧侶は結婚していいw

(つまり女性に触っても、触られても良い♡)

 

ので、少なくとも日本の仏教者に上のような戒律は通用しませんw

(↑「仏教は自由」なので、悪い意味で言っているわけではありません。しつこいですが念のため)

 

 

 

 

参照:

 

 

 

 

 

 

【おまけ】

あ!

 

ご質問です~

 

 

 

 

 

 

Aさん、ありがとうございます~

m(__)m

 

 

 

むかし、こういうの作ってまして↓

 

 

 

この頁に【ヘミシンカーの心得】っていうのがあるのですが

 

参考にされてみてください

 

 

 

 

 

まず、2つ目のご質問の

 

「これは私のたんなる妄想なんじゃまいか?」

 

というのは「ヘミシンクあるある」ですねw

 

 

 

これについては、いちおうこの記事で触れています↓

 

 

 

 

「リモートビューイング」

「フィードバック」

 

 

この繰り返しが間違いありませんが

 

これを公開でやる方はあまりいませんw

 

 

 

私の場合はブログを書きだしてから「そういう流れ」になり

 

「外れまくったらどうしよう」と怖かったのですが

 

「この世界にダイブしたい!」というパッションが勝りましたw

 

 

 

 

また、最初のご質問ですが

 

これも以前書いていますので再掲します

 

 

 

 

長いのですが、興味あればご一読されてみてくださいませ

m(__)m

 

 

 

 

 

【コチラ】に私のLINEのバーコードを貼っておりますので

 

よろしければ、そちらより「お友だち登録」していただければと

 

「仏教の変化」だすーw

 

 

 

 

 

「教え」は歪みやすい

 

ってな話っす~w

 

 

 

 

『歎異抄』は親鸞の死後20年経って書かれた

 

と言われます

 

 

ここから分かるシンプルなことは

 

「20年で親鸞の教えが歪んだ」

 

ということです

(正確には、親鸞存命中から「親鸞の教えは歪められていた」w)

 

 

 

 

 

釈迦の死の翌年、弟子たちが集まって

 

釈迦のことばをまとめようぜ!

 

って作業がなされましたが

 

文章にせず「記憶と暗証」によるものでした

 

 

 

この時点で、すでに「ヤバいw」のですが

 

次に仏教者が集まったのは、なんと

 

 

 

釈迦の死後100年後

 

でしたw

 

 

 

もうダメだらー

 

ってのは静岡県民でなくとも思うところですw

 

 

 

 

著作がとても多い親鸞でさえ20年で歪みましたw

 

釈迦の死後、誰かが頑張って「阿含経」を編纂しましたが

 

「100年」経ったら「もうダメ」よw

 

 

 

 

 

ちなみに、今から100年前って誰か知ってます?

 

 

 

清浦奎吾が内閣総理大臣ですよ?w

シャモニー冬季オリンピックですよ?w

谷崎潤一郎が『痴人の愛』連載開始だってよ?w

日本でメートル法が採用だってよ?w

孫文が神戸市で講演ですってよ?w

(引用元)

 

 

 

 

 

ね~?w

 

現代人でさえ「100年前」を振り返っても

 

キ、キヨウラケーゴ?

ダ、ダレソレ?

 

ってなるんですw

 

 

 

 

これは100年前になると、誰もが

 

「幼いころの社会の空気感」を持っていないためです

 

 

 

まして

 

ネットも動画も写真もなく

文章にもせず

記憶や暗唱、伝聞に頼った

 

2400年前の仏教者たちは

 

 

 

釈迦って人がいて

神のような人だった!

 

くらいの神格化された認識なんです

(↑神じゃなくて仏なw)

 

 

 

 

 

そうですそうです~

 

なので、当然ですが

 

釈迦の死の100年後にはすでに

 

 

 

「仏教者たちが対立」

 

しちゃってましたw

 

 

 

飽きそうなので、次回いったんQK~

 

 

 

 

 

【おまけ】

予想通り

 

「仏教の変化」っす~w

 

 

 

 

 

「お前らみんな仏になれ!」

とは「釈迦は言っていない」

 

八正道も解脱も涅槃も説いたけれども
「八正道こそが解脱や涅槃の道だ!」

「お前ら今生のうちに解脱や涅槃を目指せ!」

とは「釈迦は言っていない」

 

ってことなんですが

 

 

 

じゃあ誰が言ったのか?

 

といえば

 

 

 

釈迦の死後の

釈迦の弟子たち

 

そして

 

後世の仏教者たち

 

ですですw

 

 

 

 

じつは「釈迦の教え」とされているものは

 

かなりあいまい

 

ってことを知っておいてくださいw

 

 

 

なぜなら、釈迦は

 

ひと言も、ひと文字も残していない

 

からですw

 

 

 

 

現在「釈迦の教え」として伝わっているものは

 

すべて伝聞である

 

ということですw

 

 

 

「伝言ゲーム」の怖さw

 

は、もう言うまでもありませんね?w

(3人目から、しっかり歪みますw)

 

 

 

 

 

釈迦が亡くなったとき、弟子の誰かが

 

「やーれやれ、これでうるさいことをいう奴がいなくなった!」

 

と言ったそうですw

 

 

 

それを聞いた摩訶迦葉(まかかしょう)さんって人が

 

なぁーにぃ!

こりゃイカン!

早いとこ釈迦の言葉を集めなければ

釈迦の教えが歪められてしまう!

 

ってことで弟子たちが集まりました

 

 

 

これは釈迦の死の翌年に集まりましたが

 

文章にはせず「記憶と暗唱」にもとづく作業でした

 

 

 

ね?

もう「伝言ゲーム」なんですw

 

 

 

 

集まった方々は「ちゃんと記憶、暗唱できた」でしょうが

 

「それを聞いた彼らの弟子たち」に

 

正確な記憶や暗唱は期待できないのです

 

 

 

 

 

【おまけ】

かわいい組み合わせシリーズ

 

 

「仏教の変化」を書いてますー

 

 

 

 

「仏教」の辞書による「定義」はこうでした

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

 

これが一般的なイメージですが

 

じつは「間違っているよ」って話ですw

 

 

 

「辞書の定義」には、すでにたくさんの問題点が含まれているのですが

 

ぜんぶ言えるかなあ…w

 

 

 

 

 

すごいめんどくさいw

 

(↑頼むよw)

 

 

 

ま、私が書くの飽きたらそこでおしまいってことでw

(↑もう飽きだしてるだろ?w)

 

 

 

 

 

とりあえず「結論」めいたことを書いておきますと

 

 

 

釈迦は「そんなこと」言っていない

 

ですですw

 

 

 

「そんなこと」の内容は

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

にある

 

 

 

「仏になるための教え」

「八正道によって解脱し涅槃に至ることを説く」

 

ですですw

 

 

 

 

 

これは仏教界からすれば「ものすごい異端」であることは重々承知していますw

 

仏教にお詳しい方ほど「怒る」ことも分かっていますw

 

 

 

でもそうなのー!

(↑わがままかw)

 

 

 

いえいえw

 

 

 

 

 

ちゃんといえば

 

「仏になるための教え」ではなく

 

「仏の世界はちゃんと存在するよ~ってことを説いたら、みんな軽くなった」

 

でして

 

 

 

「お前らみんな今生で仏になれ!」

 

とは「釈迦は言っていない」のです

 

 

 

 

 

「八正道によって解脱し涅槃に至ることを説く」ではなく

 

釈迦はいちおう八正道も解脱も涅槃も説いたけれども



「八正道こそが解脱や涅槃の道だ!」

「お前ら今生で解脱や涅槃を目指せ!」

 

とは「釈迦は言っていない」のです

 

 

 


 

なぜそんなことが分かるんだよ?

 

っていうことを説明する面倒くささを思うと

 

ほんと気持ちが萎えそうなのですがw

 

 

 

そうなのー!

(↑うるせえw)

 

 

 

 

 

【おまけ】

(ヾノ・∀・`)ムリムリ

 

 

「仏教の変化」だってよ~

 

 

 

「仏教」の辞書による「定義」はこうです

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

「仏教は自由」ですので、これに異を唱えても自由ですw

 

 

 

それはダメだぞ!

 

っていうカタブツさんにお聞きしたいことがあります~

 

 

 

辞書には

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

 

と仏教が定義されていますが

 

じゃあ現代までに「仏」って何人出たの?w

 

 

 

八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

ってあるけど

 

現代までに「解脱」して「涅槃に至」った奴って何人いたのよ?w

 

 

 

 

 

こうやって書くと

 

ジーナさん!私の尊敬する○○先生は解脱されてますよ!

 

ってコメントいただくんですが

 

 

 

うっせーわ!w

それちげーからw

てか、そもそもそれ

人間信仰じゃんw

 

って、あらかじめ書いとくので、そういうコメントは要らないですー

m(__)m

(ちゃんと理由があるので怒らないでくださいw)

 

 

 

 

話を戻しますとw

 

現代までに「仏」は何人出たのか?

現代までに「解脱」して「涅槃に至」った人は何人出たのか?

 

って話になりますと

 

 

 

ほとんど出ていない

 

っていうのが、なんとなーくの結論でしょう?

 

 

 

 

そこでお聞きしたいのは

 

「仏」も「解脱者」も「涅槃者」も

現代までに「ほとんど出ていない」

 

のであるならば

 

 

 

仏教は「欠陥宗教」である

 

ということなんですw

(↑はい、お前火あぶり決定~w)

 

 

 

 

 

いやいやw

 

でもそうじゃん?

 

 

 

「わり算のやり方」が書かれてある本の通りにやっても

「わり算ができない」人が続出したら

 

その本は欠陥書である

 

ということでしょう?

 

 

 

 

同じように

 

釈迦の教え(とされている)通りに「仏」を目指しても

歴史的に「仏になることができない人」ばかりなら

 

その教えは欠陥だらけ

 

ということなのですよ

 

 

 

 

まあ、面白おかしく書いてますが

 

ここにはいろえろな問題点が含まれていますw

 

 

 

 

 

火あぶりはイヤなので

 

仏教は欠陥宗教ではない

 

を出発点としますと

(↑そうしとけw)

 

 

 

仏教の定義が間違っている

 

ということなのです

 

 

 

 

【おまけ】

毒蛇ヤマカガシ

(ヾノ・∀・`)ムリムリ

 

「目次」w

 

○「仏教の常識」
「信仰」について
「仏教の変化」について←いまここw

○「釈迦の教えのゆがみ」
「根本分裂」について
「釈迦の実像」について

○「無智亦無得」

「お経」について
「玄奘三蔵の実像」について
「無智亦無得」について

 

 

 

キリスト教は「信仰」する宗教です

(イエス本人の思いとは別)

 

仏教も「同じ道」をたどりましたw

 

 

そこで「仏教の変化」をつらつらとw

(議論は一切しないことお許しくださいm(__)m)

 

 

 

 

 

「仏教」の辞書による「定義」は

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

こんな感じです~

 

太文字下線部について、ほとんどの仏教者に異論、反論、オブジェクションは「ない」でしょう

 

 

 

私ジーナを除いてw

 

 

 

 

 

本題に入る前に「確認」しておきたいことは

 

仏教は自由である

 

ということです

 

 

 

 

キリスト教を思い出してください

 

キリスト教とは何か?

キリスト教徒であるとは何か?

 

「聖書で定義されている」ので「動かしよう」がありませんでしたw

 

 

 

ついでに「救われる方法」まで「定義」されていますので

 

キリスト教徒はマジで幸せ者なのですw

 

 

 


 

それに比べて嗚呼仏教よ…w

 

お前はなんと自由なのだ!w

 

 

 

「仏教の自由さ」が分かるのは、冒頭の辞書の

 

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。
日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。

 

のところでも分かります~

 

 

 

のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展

多くの学派・宗派がある

 

って「なぜなのか?」といえば

 

 

 

解釈が自由!

 

だからですw

 

 

 

 

キリスト教では「聖書に書かれていることは絶対」なので

 

異を唱えた瞬間「異端者」とされてしまいますw

(正確に言えば「聖書を解釈するその当時の権威者たちが『絶対』」w)

 

 

 

しかし、仏教には聖書のような「絶対の聖典」はありません

 

だから、「いろえろな解釈」が許されており

 

このブログの私のような「異端者」も

 

安心して自由に火あぶりされずに発信できるわけですw

 

 

 

 

 

するとですよ?

 

上の辞書による「仏教の定義」の

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

に「異を唱える」こともできるのですw

(↑おいおいおいw)

 

 

 

いえいえw

 

だからこそ「多くの学派・宗派がある」わけですからw

 

 

 

 

そもそも、上の辞書のような「仏教の定義」って誰がしたの?w

 

釈迦がしたの?

 

 

 

違うよね?w

 

 

 

釈迦の死後、残された弟子たちによる言動

(「生前の釈迦の思い」とは離れてしまったけれど)

 

が「言い伝え」られて

 

 

 

それを現代の辞書が拾って

とりあえず定義した

 

わけです

 

 

 

キリスト教とは、「かなり事情が異なる」のですね

 

 

 

 

 

【おまけ】

本能

 

 

般若心経、いったん休憩~w

 

 

 

小さなお子さんを持つお母さん

 

からのご質問には、いろえろあります

 

 

 

 

なかでも頻出なのが

 

 

○母乳が出ないが、ミルクだけで大丈夫か?

○母乳が出ない自分を責めてしまう

 

○離乳食を食べてくれない

○離乳食をつくるのが、とてもシンドイ

 

 

などなどラドンです

 

 

 

 

 

まず、母乳の話からですが…

 

 

 

どうやら

 

「母乳信仰」

 

てえのが、まだまだはびこっているらしく

 

 

 

んなもの気にする必要はない

 

んですよ~

 

 

 

日本の粉ミルクは世界一の品質ですので

 

どうぞ安心されて与えてあげてください

 

 

 

ジーナ家の子どもらーが赤ちゃんの時は

 

私も自分のコーヒーに入れて飲んでいたくらいですw

(↑けっこう美味いw)

 

 

 

 

 

「母乳信仰」はどこから来ているのか?

 

といえば

 

 

粉ミルクのない時代が長かったから

 

という単純な一面があります

 

 

 

昔は「母乳が出ない」というのは一大事でして

 

母乳が出るお母さんを探して「もらい乳」

 

ということをしていました

 

 

 

1度ならよいのですが

 

何度も何度も、となりますと

 

 

 

いただくほうも申し訳ないし

 

あげる方も、毎度気持ち良く「いいのよ~どうぞ~」

 

っていう方ばかりではなかったわけです

 

 

 

そんなこんなで

 

母乳が出るお母さんは偉い!

 

っていう「信仰」が生まれただけです

 

 

 

 

 

次に離乳食ですが…

 

 

 

これも「離乳食信仰」ってのがあるようです

(↑なんでも「信仰」だなおいw)

 

 

 

いえいえw

 

「これが正しい!」

「これ以外は間違っている!」

 

といった「信仰」のスタンスからは

 

 

 

マジでそっと離れる!

 

のが楽チンチンなのです

 

 

 

 

 

子どもが生まれて、しばらく経ちますと

 

「離乳食」というワード

 

を目にしだしますね?

 

 

 

いわく

 

離乳食はこうしよう

これが楽しい離乳食

離乳食のこんな工夫

 

とかね

 

 

 

ただ…

 

それを楽しめないお母さん

だってしっかりいらっしゃる

 

わけですよ

 

 

 

楽しめないくらいなら

 

パウチでいいんだよ!

 

 

 

 

 

いやでも○○ちゃんの健康があぁぁ!

 

とかっていう高血圧のお義母さんには

 

ニッコリ笑って、こう言ってさしあげてください

 

 

 

私、どうやら離乳食づくりが苦手なんですぅ~

 

イライラしちゃうんですぅ~

 

イライラするくらいなら

 

母親の私がニコニコしてるほうが

 

○○ちゃんの健康にはいいんですぅ~

 

ってなー!

 

 

 

 

 

母乳と離乳食を挙げましたが

 

 

完璧な母親はいない!

 

っていうことを知り

 

 

 

完璧な母親になる必要はない!

 

ってことを知って下されば十分です

 

 

 

 

子どもが望んでいるのは

 

手を抜かないお母さん

 

ではなく

 

 

 

笑っているお母さん

面白がっているお母さん

人生を楽しんでいるお母さん

 

ですです~

 

 

 

 

 

【おまけ】

立つのもめんどくさいニャ

 

 

(シリーズを通じて議論はいたしておりませんm(__)m)

 

 

 

現在なされている

 

「辞書による仏教の定義」は間違っている

 

ということですが、これは

 

 

 

仏教が変化した

 

からです

 

 

 

本当はみんな気づいているのですがw

 

仏教は変化して「いない」

 

って「ことにして」続けているわけですw

(一番大きな理由は「釈迦の教えが歪んでいても、これまでやってきた歴史がある」からです。これまで信じて仏教の勉強や修行、戒律的なことをやってきたことを「全否定される」のは、やっぱすお坊さまの誰もがしんどいのです。私は「そういう点」においては「理解がある方」なのでw、他者さまに押しつけなければ仏教の勉強や修行、戒律的なことをやりまくるのだって全然いいよ~っていう立場です)

 

 

 

 

 

重要なことは

 

教えは歪みやすい

 

ってことですw

 

 

 

 

この世界は「あなたがつくって」います

 

これがすべての宗教やスピの「原点」です

 

 

 

ヘミシンクの概念ですと

 

フォーカス12や15,27を体験する

 

と「世界は自分がつくっていた」と分かります

 

 

 

これを玄奘三蔵さんは『般若心経』で

 

「観自在」

=観じるがままの自由自在

=観じる自分が在る

 

って言ってます~

 

 

 

イエスも釈迦も「このこと」を説いたのです

 

 

 

 

 

「聖書」の場合、よく知られているように

 

いろえろ「削ぎ落され」ましたw

 

大衆をコントロールするためですw

 

 

 

「あなたが神であり、あなたが世界をつくっている」

 

などと言う表現は

 

支配者にとって「都合が悪い」わけですw

 

 

 

「聖書」には、その「なごり」がありますw

 

直接のイエスのことばではないので「生き残った」のかもしれませんw

 

 

 

わたしと父とは一つである」。
そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。
するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。
ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。(ヨハネによる福音書30-34)

 

 

 

青文字のところですが

 

ちゃんと読むと、イエスは

 

「私を拝みなさい」という

「信仰」は説いていない

 

ということが分かります

 

 

 

 

 

これと同じことが仏教でも起こりましたw

 

 

 

 

釈迦も

 

「お前ら自身が仏であり、お前らが世界をつくっている」

 

と説いたのですが

 

あ!っという間に「仏教は変化」していきましたw

 

 

 

 

 

イエスの存命中に「十字架にかけられた俺」は存在しませんので

 

イエスは「十字架を拝めよ」とは説いていませんね?

 

 

 

同じように、釈迦の存命中には

 

仏像も経典も如来も菩薩もマントラも

お寺も住職も阿闍梨も師弟関係も曼荼羅も

写経も仏具も苦しい修行も仏教式葬式も密教顕教も

 

ない!

 

ってことですw

 

 

 

むしろ

 

そういったモノ・コトに頼るなよ~

 

って説いたのです

(いちおうマントラが気になるかもですが、マントラは私も好きですよ。でも、そもそもあれは他の宗教ですw 「諸法無我」のスタンスの釈迦はマントラには否定的でしたが、当時周囲のあらゆる宗教で「普通にやっていた」ので、釈迦の死後、弟子たちによって本格的に取り入れられただけです)

 

 

 

 

 

教えは歪みやすいw

 

ということは

 

 

 

イエスや釈迦本人の体験や思いと

離れてしまっている

 

ということです

 

 

 

現在伝えられている「教え」は

 

まあ、釈迦本人は言ってねえけどなw

楽しいからやるわw

 

って、どこかで思っておくと

 

 

 

「それ」に固執することが薄れますので

 

楽チンチンになります~

 

 

 

ってことで、しばらく「仏教の変化」について見ていきますが

 

ちょっとQK入れて、次回は通常記事をw

 

 

 

 

 

【おまけ】

お風呂はニガテ

 

 

前回

 

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」

っていうスタンスを



「信仰」

と定義しました


 

 

ちなみに「定義」って大事ですw

 

 

 

 

普段意識しませんが

 

私たちは「定義されていることば」を使っています

 

 

 

「爺さん」

「車の運転」

「プリウス怖い」

 

っていうのが分かるのは「定義」されているからです

(↑最後やめとけw)

 

 

 

「ショボンヌくん」

「ボロボロのおっさん」

「ベンキマン」

 

が分かるのも「定義」されているからです!

 

(↑はいよwオールスターかよw)

 

 

 

「氷を見たことがない人」に「かき氷」を説明する

 

のは、まず「話しが通じない」わけですw

 

 

 

 

 

 

前回までに

 

キリスト教とは何か?

キリスト教徒とは何か?

 

を「定義」しましたが

 

あれは「聖書が定義してくれていた」からできましたw

(もちろん、生前のイエスの思いとはまったく違っていますw)

 

 

 

 

 

問題は「仏教」なのですw

 

仏教ってじつは「定義できない」んですよw

 

 

 

「定義大好き」な辞書を確認してみましょう

 

 

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

まあ、たしかにこんなイメージかと

 

ただ、この定義は「間違っている」んですw

 

具体的にいえば、太文字下線部

 

 

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

が間違っていますw

 

 

 

ただ、「辞書に書いてある」し

 

一般的にも「そういったイメージがある」ので

 

「それで今までやってきた」

 

だけですw

 

 

 

 

 

なぜ、仏教は定義できず、辞書の定義は間違っているのか?

 

ってことは

 

これからゆるゆる書いていきます~

 

 

 

 

 

【おまけ】

大きいわんこ、我慢のすえにw