知恵を求める人のためのブログです。

不機嫌さを表に表す人は霊的には既に死んでいる。

人は誰しも思い通りにならないと不機嫌になるものです。
どんなにキリスト教の精神である寛容と許しを持った人でもです。
その不機嫌を面(おもて)に出すか出さないかでもその人の人格がある程度分かるものです。
感情的に抑えられないと言う「病的」な人もいます。
短気な人もいます。

現実は不機嫌になっても「何も解決しない」のですが、分かっていても不機嫌になってしまうものです。

生きていると良いことばかりではありません。
失敗することもあれば騙されることさえあるのです。
不注意は時に惨事を招くことさえあります。

人の失敗という点では、高齢ドライバーのいわゆる踏み間違いは後を断ちません。
その都度、人を殺してしまうことさえあるのです。

この点動物から学べることはあるでしょうか。
動物観察していると、蚊のように執拗に付きまとう虫もあれば、蜂のように追い払うと攻撃してくる虫もあります。
熊やタヌキやハクビシンなどは威嚇すれば逃げて行きます。
ただ、餌に関しては執着心は非常に強いです。
生きるためです。
人に攻撃されたなどということよりも餌の方が重要なのです。

野生動物は自分では食べるものを植えたり育てたりすることは、殆どしないので、自然であれ人であれ食べ物を見つければ、命の危険があっても食べようとします。
食べることはすなわち命であり生きることだからです。

おそらく、食べ物があってもそれを食べずに、いわゆる断食をしたり餓死することが出来るのは人間だけです。

生きていれば良いことの悪いこともあることは誰でも知っています。
生きていれば良いこともあるさ」ということを言う人は自分に対してであれ他人に対してであれ悪いことがあったことから立ち直ろうとする場合です。

悪いことから脱出出来ないと人は絶望してしまいます。
それで自死を選択する人さえいます。

若者の自殺が増えていることは事実です。
なぜ、若者の自殺が増えているのでしょうか。
それは、若者の思いや希望が大人よりも強いからであり、また、悪いことに対する落胆や絶望も大人よりも強いからです。
つまり、若者は人生経験が少ないので「他の選択肢」を「考えられない程思い詰める」ことが多いのです。

人生経験を積むと、悪いことが起きた時の対処方法を身に付けようとするものです。
それは「いろんな形」で現れ、人によって様々です。
黙る人、怒りを爆発させる人、引き籠る人、酒や女(男)に逃げる人、ゲームに没頭し忘れようとする人などなど。
昔から「怒ったら飯を食え」と言われています。
空腹であると人は不機嫌になり易いものですが、お腹が満たされると「感情」も落ち着く場合があるからです。

しかし、感情は「心に傷」を付ける場合があるので、その傷が癒えるには、例えば、手を切ってしまった場合のように「時間がかかる」のです。

実際の傷は自分では治療することしか出来ませんが、自らの体が傷を修復してくれない限り治りません。

 

心の傷」の場合は物理的な傷ではないので、直接傷に薬を塗るということが出来ません。
精神的な治療が必要となります。
例えば、暗示にかかり易い人は誰かの助言で直ぐに癒えるかも知れません。
疑い深い人や短気な人はなかなか癒えないかも知れません。

腹が立った時、自分の好きなものを食べると少し落ち着くのはこの「心の傷」が少し癒えるからではないかと考えられます。

つまり、食べることで体に安心感が生まれ、それが心にゆとりをもたらすからです。

実際、不機嫌などの「悪い感情」は「心に傷を付ける」ので、それを治すにはいわゆる外傷のように時間がかかるということです。

泣きじゃくる子供や駄々をこねる子供をなだめる親がいますが、子供の肉体がそうであるように心の傷も治り易く、直ぐに機嫌を直すことがあります。
それは、例えば、欲しいものを与えたなどの場合です。
もし、この時親が子供に欲しいものを与えないとその子供には「心の傷」としていつまでも残ってしまうのです。

親に対する不信感の始まりです。

こうしたことが度重なると、その子供は親の言うことを聞かなくなっていきます。

甘やかせろと言っているのではありません

子供を納得させる必要があると言っているのです。

説得は、その子供の気持ちを抑えつけることですから、するべきではありません

この点、親は知恵と細心の注意が求められますが、殆どの親は「力で子供を抑えつけています

愚かなことです。

世間一般の考えでは、子供が欲するものを何でも与えたら、それは甘やかしだと言います。

子供が欲するものを力で抑えることは、我慢することを「強いる」ことであり、すなわち、いわゆる「」となります。
 

犬の場合が良い例です。
犬の場合は「訓練」で繰り返し教えることで「躾」を身に付けさせることが出来ます。

 

人間の子供の場合は犬より知能が高いので犬のようには行きません。
しかし、自分の子供を犬と同じようには考えてはいないとしても、やっていることが同じということは多いものです。

 

親が子供に「何度言ったら分かるの」と繰り返し言っているのを聞いたことがあるかも知れません。
その親は自分の子供を躾けることが出来ていないからです。

 

人間を躾けるには、子供自身がそうすることが悪いことだと十分認識する必要があるのです。
つまり、
子供にも善悪の分別が出来るようにすることが「人間に対する躾」なのです。

最初の人間アダムとエバが神により禁じられた「善悪の知識の木の実」を食べ罪を犯しそれが故に、女は産みの苦しみを与えられ、男は額に汗して働かなければ食物を手に入れられず、病気になりついには死ぬという罰を与えられたことを思い出す人もいるかも知れません。
そして、神は人間に対して「人は善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった」と宣言されました。
つまり、人間は善悪を自ら知り判断しなければならなくなったということです。

アダムが罪を犯す前は、人は犬を躾ける時のように「して良いこととしてはいけない」ことを教える必要のある者だったのです。
(参考:人は善悪を知らなくても、いわゆる完全な人間だったということです。
 完全と言うと何でも知っている、何でも出来るというイメージで考えがちですがそうではない「良い

 例」です。
 罪を犯す前のアダム、つまり、善悪を知らないアダムは完全な人間だったのです。
 神が善悪の知識の木の実を食べてはならないと言ったのは、いわば、人間に対する「躾」だったの

 です。
 人間はその神の躾を守らなかったので罰を与えられたのです。
 親が子供を躾ける時に似ていませんか。)

しかし、罪を犯し善悪に関して神から離れてしまった後は、人間が自ら善悪を判断しなければならなくなったのです。
そして、人間がどんな決定をしても神はその人にその責任を「問う」のです。
つまり、悪いことをする人、悪を行う人は「神により裁かれる」のです。

人間が犬を躾ける時、犬がその躾を守らなかった、あるいは、守れなかった時、繰り返し同じ訓練をし「餌を与えないという以外は決して罰を与えません
もし、犬を躾ける時出来なかった時罰を与えたら、その犬は人間不信に陥り躾を守るどころか攻撃的な犬になってしまうでしょう。

しかし、人間の子供には知能がありますから、つまり、考える力がありますから、なぜ罰を与えられたかを考えることが出来るのです。
普通、犬は決してこうしたことは考えません。
それでも、忠犬というくらいですから、一度人間の命令に従うと死ぬまで人間に忠実になるという「利点、効果」があるのは犬の特徴です。
逆に、人間の場合は犬のようなことは殆どありません。
自ら、善悪を考えるからです。

ですから、動物に罰を与えることは「間違い」ですが、人間に罰を与えても「効果」がある場合もあるのです。

例えば、サーカスでライオンを「調教」している場面を見たことがあるかも知れません。
サルを調教する時とは違います。
ライオンの場合は「ムチ」と「餌」を用いますが、サルの場合は「餌」だけを用います。
これは明らかにサルの方が考える力があることを示しています。
サルは調教している人の言うことを聞かないと餌が貰えないということが分かりますが、ライオンはそうは考えない、あるいは、考えることが出来ないのです。

人間の場合の躾は、いわば、善悪を教えるということですが、
不機嫌という「心の傷」は、善悪を超越した「感情の痛み」の現れです。
良い悪いは別として、理由は分かりませんが、人はあることに対して「不機嫌」になるのです。
それは、冒頭に述べましたように、人それぞれなのです。

人間が善悪を超越した感情である「不機嫌」に対処する方法は「自制」しかないのです。
人は不機嫌になってもそれを「怒りや不満」と同じく、その感情を抑えることしか出来ないのです。

おそらく、その人は「みじめな思い」をすることになります。

この点、昔の人は辛抱強かったと言えます。
ところが、現代の殆どの人は我慢や忍耐をすることを「蔑(さげす)み」不機嫌さを怒りで爆発させ感情を露わにする人を「恐れ」ているのです。
この「恐れ」は、そうした感情を抱く人にとっては脅威となります。
そのような人を大抵嫌うものですが、利害関係があるとそうした人に「従ってしまう傾向」を示すものです。

しかも、不機嫌によるその人の「心の傷」は周囲の人の「心」をも傷付けるのです。

感情の伝染です。

 

また、人は不機嫌になると、体中に電気が走ったようになり「自分の感情を抑えることが難しく」なり、どんどんその感情が「増幅」されることが多いという特徴があります。

こうして「目には見えない傷」があたかもウィルスのように伝染し、住みにくい社会を形成していくのです。
犯罪の連鎖はこうしてすべての人に影響を与え、現代のような犯罪の増加に原因の一つとなっています。

おそらく、殆どの人はこうしたことを「直感」では分かっていても説明出来ないのです。
つまり、理解していないのです。

不機嫌さを表に表す人は、いわば、刀を振り回しているようなものであり、周囲の人を傷付けるだけではなく、自らをも傷付けているのです。

すべての人は何らかの形で「心に多くの傷」を負っています。
その傷は容易には治りません。
中には、生涯、傷跡のように残る場合もあります。
それが記憶として繰り返し脳裏をよぎり、その人の人生や生活に大きな影響を与えます。

パウロは、こうした罪の奴隷から解放されるための方法として次のように述べています。
ガラテア5章
1キリストは,このような自由のためにわたしたちを自由にしてくださったのです。ですから,堅く立って,再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい
(この自由とは律法を守ることからの自由ですが、律法は人を罪に定めるものでしたから、
 この自由とは、奴隷のくびき、いわゆる罪からの自由ということです。

 文字通り、罪からの許しという解放のことではなく、精神、気持ちの持ち方を言っているのです。)
・・・
19 さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。
24 さらに,キリスト・イエスに属する者は,肉をその情欲や欲望と共に杭につけたのです。
25 もし霊によって生きているのであれば,また霊によって整然と歩んでゆきましょう。
26 自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう。
-ガラテア5:1、19-26


肉の業を行う人の特徴は「自制」しないことです。
霊の実を行う人の特徴は「自制」していることです。

自分の情欲や欲望を自制しない人は、既に「霊的には死んだ人」なのです。
これを自制している人は「霊的に生かされた人」です。

それは、自制するようにと、いわば、命じているのが「神」だからです。

神はその人を生かすのです。

神は、人間の命の与え主なのです。


自制することは、文字通り「命」に関係しているのです。
それでも、あなたは不機嫌による感情を自制せずに「表に出しますか」
そうすることが「自殺行為」でもですか?

そうです、自分の感情を自制しない人は「自分の命を失う行為であり、自殺行為」なのです。
これを理解し同意することが出来るなら、あなたは、もしかすると「文字通りの命」を保てるかも知れません。
自制しない人は、長い人生を綱渡りしているようなものでいつかは「奈落の底」に落ちることは必定です。
そのように定めたのは、そのように人間を造ったのは、自分でも人間でもなく「神」なのです。

 

この点において、人間が納得するかどうかは問題外なのです。
それは「神の定め」だからです。

究極的には自分の命選択を自ら行うということになるのです。

イエスも滅びに至る道ではなく命に至る道を通りなさいと、いわば警告しています。
13 「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。
14 一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。
15 「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。
16 あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。
17 同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。
18 良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。
19 りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます
20 それでほんとうに,あなた方はその実によってそれら[の人々]を見分けるのです。
マタイ7:13-20

イエスは神やイエスではなく、人間が「それらの人々を見分ける」ことが出来ると述べています。
イエスは間接的にそれらの人々から「離れなさい」と警告しているのです。

 

離れる」ことは命に至る門と滅びに至る道の手前でのことです。
どちらの道を選択するかはあなた自身の選択です。

 

不機嫌さを表に表す人は「それらの人々」の一人であることは間違いありません。
あなたは「それらの人々」から離れていますか?
こうした点は、信仰の道を歩んでいる人であれそうでない人であれ真実なこと」です。
どちらの人々もそうした人は存在してるからです。

 

命に至る道を歩んでいるという信仰の仲間でも不機嫌さを表に表す人々からは「離れ」なければならないのです。

  

不機嫌さを表す人は「誰の目から見ても明らかに見える」のです。
子供でも分かります。

さて、あなたは不機嫌さを表す人に対してどのような態度を取りますか?
その人から離れますか?
それとも、傷付けれるままに「我慢」しますか?
こうした「我慢」は必要のない「我慢」です。
また、そうした「愚かな人」に立ち向かってもなりません。

  

こうした点での聖書の助言は次の通りです。  

 

20 賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う
21 罪人たちは災いに追われる者となり,義なる者たちは善をもって報われる。

-箴言13:20、21

  

6 さて,兄弟たち,わたしたちは,主イエス・キリストの名においてあなた方に命じます。あなた方がわたしたちから受けた伝統にしたがわないで無秩序な歩み方をするすべての兄弟から離れなさい

-テサロニケ(二)3:6

 
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。

2 というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,3

 自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,

4 裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,

5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい

-テモテ(二)3:1-5 

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若者や夫婦の在り方に対する助言です。

現代は男女平等、プライベートに干渉しないなどを理由に他人に余り関わらない社会となってしまいました。
こうした傾向は夫婦の間でも見られます。

そもそも、男と女はそれぞれ役割も体の作りも感情も思考も異なります
神はそのように人を創造されたのです。
つまり、男女が協力して物事を成し遂げるように創造されたのです。-創世記2:18-24
例えば、もし世界に、男だけ、あるいは、女だけということが有り得るでしょうか。
答えはです。
子孫が生まれないからです。
男の体や思考は肉体労働に適しており、女の体や思考は子供を産み育てるのに適しています。
どうして男が女のように、あるいは、女が男のようになって良いでしょうか。

こうして考えますとLGBTは、もし、肉体や精神が正常ならば「病気」としか言いようがありません。
病気なら治療をする必要がありますが、そうせずに社会でその状態で生活をしています。

現代ではLGBTの人を治療しようとすると「人権侵害」だと訴えるかも知れません。
しかし、肉体と精神の事実は「病気」であることを示しているのです。

こうした人々は別として、健全な肉体と精神を持っている男女は冒頭に述べた通りなのです。
世界人口が増加しているのに、日本では人口が減少しています。
これは、日本の若者たちの考え、思い、思考、感情などが健全でないことの裏返しです。
つまり、現代の社会の風潮の影響を受け、結婚しない、子供を産みたくない、子供を育てられないという気持ちが空気のように蔓延しているのです。

 

昔は隣り近所の人の付き合いがあり、また、その地域が、ある意味一つに纏まりプライベートなことまで良く知りまた援助などをしていたものです。
ですらか、自分が上手く子育てが出来なくても周囲の人々がいろんな形で助けてくれたものです。

 

ところが、
現代はプライベートだからと言って他人への干渉を避ける傾向にあり、周囲の人々と仲良く暮らし何かあると助けて貰うということが出来ない、しない社会となってしまいました。

 

裏を返せば、自分の思うように生きたいということですが、こうして周囲の人を避けることで、子育てなどを困難なものにしているのです。

これが社会問題化すると、政府や自治体は子育て支援と言って、お金や育児休暇などで補おうとしていますが、それでは殆ど効果を上げていないのです。
それは、子供の出生率の低下にも現れています

つまり、今の社会を作って来たのは国民自身なのです。
勿論、こうした傾向の背景に便利な社会、科学の発展、就職が難しい、職場が合わず離職するなどが関係していることは明らかです。
つまり、
若者の生活が安定していないからです。

個人の思いや感情を考慮から外し生物学的に考えますと、これは「異常なこと」です。
自然界を見ていて分かることは人間のような動物は何処にも存在しません
単に、動物と人間は違うで片づけられる問題ではないのです。

つまり、子孫を残すことは人生の最大の目的の一つなのですが、それを日本の若者の多くは捨てているのです。

 

しかし、その反面性に対する衝動は以前よりは増加していることは事実です。
これは何を意味しているのでしょうか。
それは性に対する間違った考えです。
つまり、セックスを子供を設けるための手段と考えるのではなく、性を欲望や快楽のための手段としてしか考えていないということの現れです。
ストーカー、痴漢、性暴力、セクハラ、姦淫、淫行などはこうした点の現れです。

神はこうした状態を「悔み」繰り返し警告をし、また、実際のそのような人々を滅ぼして来ましたし、これからもそうします。-参考 ノアの大洪水とソドムとゴモラの滅び。

神は
ある程度までは性の快楽を求めることを禁止していません
それは、結婚したての若い夫婦に対して初めの1年は結婚生活を楽しむようにも述べているからです。
-申命記24:5

現代の、「スマート」な若者や夫婦を見ていると、一見健全な人や夫婦に見えても、その実態は極めて不健全なものになっている場合が多いのです。
簡単に離婚するのもその現れです。

こうした現象は、若者たちが物事を簡単に考え、上手く行かなければ別れれば良いという安易な考えから来ていることは明らかです。

つまり、現代の若者の多くは、感覚を優先させ思慮分別、熟慮と言った「物事を成功させるために最も重要なこと」を蔑(ないがし)ろにしているということです。

多くの若者は、これに反論するかも知れません。
しかし、事実は「思慮分別が足りない」ことを示しているのです。

 

気が合った時に、どんどん先に進もうとする傾向にあるのは理解出来ますが、

何事もスピーディーに行えば良いと言うものではありません

 

私の持論から言えば、ゆっくり、じっくりやって失敗は殆どないということです。

「善は急げ」と言いますが、逆に「急いては事を仕損じる」ということも言われています。

何事も、急ぐことや焦りは失敗のもとです。

 

単に「良いと思った」では失敗することが多いのです。

物事は「確信」を抱いてから行うのが最善です。

そうすることで、失敗してもその原因は明確になり改善ややり直しも容易になるのです。

さて、あなたは今の社会の中の若者や夫婦をどのように見ていますか?
問題があるからと言って、こうした若者たちに「
直接、助言」してはなりません。
不親切ということではありません。
彼らは自分で物事を決定する責任があるからです。
下手に助言すると「怒り」や「恨み」を買う場合もあるかも知れません。
こうしたことも、現代が異常な社会であることを示しています。

  

若者や夫婦の在り方を批判しましたが、彼らがより健全になるために「直接助言」が出来ません。
昔は、常識的なことを助言すれば済んだ時代もありました
これは、社会がまだ健全だった時代です。

しかし、現代は「自分だったこうする」という考えはありますが、そうした考えに若者たちが「同調」しませんし「通用」しないのです。

そのため、なるべく関わらないような傾向になってしまったのです。

 

健全な若者を見かけることがありますが、そうした若者が育った家庭環境が健全なものである場合が殆どです。

 

従って、若者や夫婦がより健全になるためには彼らが育つ家庭環境を健全なものにする必要があります。

つまりは、この責任は「親にある」ということです。

 

それでも、「人の心は御しがたい」もので、子育てが必ずしも成功するとは限りません。

それゆえ、子育ては「通り一遍」ではなく「適宜、慎重」に「思慮分別」を働かせ、また、自分たちの置かれている「立場」も考慮する必要があります。

 

「みんなと同じことをしなければならないわけでも、する必要もない」のです。

「善いこと」に関しては、他人の助言に耳を傾けつつ自分を貫くことも大事なことです。

「我を張る」ということではなく、思慮分別を働かせ、何を言うべきか、どのように言うべきか、どのように行うべきかなどを良く考え、周囲を納得させる必要もあるのです。

 

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この点、例えば、ものみの塔では家庭内の夫婦や子供たちの「在り方」に関して、聖書に基づく「多くの助言」をしています。

彼らの夫婦や若者たちは「健全」でしょうか

答えはです。

彼らの夫婦や若者の多くは「より多くの問題」を抱え、また、その問題のために家庭が分裂している場合も少なくありません。

 

ですから、ものみの塔の家族についての「助言」は役に立たない「上辺だけのもの」なのです。

現代の若者たちの心を知り、理解した健全な助言が全く出来ていないのです。

 

なぜ、こうしたことが起きるのでしょうか。

それは、ものみの塔の考えが「個人を重視するアメリカ人」によるものだからです。

人の内面や思いやりを重視する日本やアジアの人に対する「適切な助言」にはなってはいないのです。

 

自分たちの「考えのお仕着せです。

彼らの思いや考えが正しいわけではありません

 

第一、アメリカの社会の若者と日本の社会の若者は「全く異なる性質なのです。

これを理解せず、杓子定規に助言をしているのも事実です。

それゆえ、ものみの塔の助言は役に立たないと言っているのです。

 

アメリカ社会の若者の「悪さ」の点でも、常に「最先端」を行っています

もし、彼らに対する助言が正しければ、その助言に同意する若者が多く存在し、アメリカ社会も健全になっていても不思議はありませんが、現実はそうはなってはいません。

  

ものみの塔の愚かな面は、主義主張が異なる、生活習慣も異なる、文化や伝統も異なる、考え方や思考も異なる「あらゆる国の民」に、こうした背景を全く考慮せずに「一律に、同じことを要求」している点にあります。

  

それゆえ、現代のものみの塔の信者の若者たちは「反発」し、信仰から離れているのです。

この責任は、ものみの塔にあります

 

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イエスは、人によって与える助言を巧みに違ったものにしていました

 

この点、ペテロやヤコブやユダやヨハネなどは「慎重」に振る舞っています。

イエスの弟子の一人ひとりの思いを重視し自分の思いや感情だけでは助言をしていないのです。

誤った助言をしないためです。

 

しかし、パウロの場合はかなり「突っ込んだ助言」をしています。

おそらく、この違いは「律法」に対する知識と理解の違いからきているものと推察されます。

パウロはいわゆる「律法教師」から律法について、普通のユダヤ人よりも詳しく学んでいたからです。

改宗する以前は「義に過ぎる」点がありましたが、イエスに諭されて、メシアに関する正しい考えを諭され、それを受け入れてからは「持ち前の熱心さ」を示し続けました。

パウロの発言は、元来パリサイ人でもあったパウロの熱心さがさせているのです。

 

これは、イエスの他の使徒たちには出来ないことでした。

それゆえ、イエスはパウロの考えを正した上で用いられたのです。

パウロの宣教の仕方は、まずユダヤ人に対して話し、それを聞いていたユダヤ人以外の人の関心を高めるという方法を用いて多くの人をイエスの弟子としています。

そのため、割礼をしたユダヤ人と割礼をしていない人々との間に問題が起きました。

イエスの弟子たちの間で、ペテロ派とパウロ派などのような者たち迄現れましたが、パウロはそうしたことを諫(いさ)めています。

 

そのパウロは、家族関係について最も多く助言を与えています

明文化されたパウロの助言論理的であり表面的なものです。

しかし、現実にはパウロは一人ひとり細かい配慮をしながら助言をしたことは明らかです。

それは、テモテ(父はギリシャ人で母はイエスに信仰を持つユダヤ人でした)に対する助言にも現れています。

 

ものみの塔がこうしたパウロに見習わず表面的な助言しかしないのは助言者がアメリカ人だからです。

アメリカ人のものの考え方がそうなのです

東洋人とは違うのです。

(参考:イエスと使徒たちやパウロは「東洋人」です

  

従って、ものみの塔の家族に対する助言は特に「日本人には合わない」のです。

ものみの塔も日本支部の責任者たちもこうした点を全く理解していないのです。

仮に、理解したとしても自分の考えだけでは勝手に助言出来ない立場にもあることは事実です。

それゆえ、日本の若者の多くは「失望して会衆を離れることが多い」のです。

実に、愚かなことです

 

しかしながら、仮にもし私が日本支部の責任者だったとしても、日本人に合わせた助言をすることは出来なかったと思います。

 

それでも、ものみの塔を離れた今なら出来るかも知れません

各々の家庭の家族の状況はそれぞれ異なりますから、それらを先ず聞いてからの助言となります。

この場合、一般的な助言は「功を奏しない」ことは、ものみの塔の助言にある通り明らかです。

パウロのような「細かい配慮をした助言」でなければならないからです。

 

では、ものみの塔の中で、今日こうした立場にあるのは誰でしょうか。

それは、会衆の長老たちです。

彼らが「適切な助言」をする責任があるのです。

しかしながら、こうしたことの出来る長老が会衆内にはいないのです。

 

その理由は、聖書の考えを踏襲した「自由な思考」が出来ないからです。

そうしたことは、許されていないのです。

ものみの塔に洗脳され、ものみの塔の考えと異なる発言をすることが出来ないのです。

実に愚かなことです

 

人に対する助言は、社会の変化や時代と共に「適応」し変化する必要があることは明白です。

聖書の原則は同じでも適用の仕方は、社会や時代に応じたものでなければならないのです。

 

おそらく、今のものみの塔はこうした点で「どのように適切に行う」べきかを理解していません

そうしたことは、彼らが発行する雑誌や書籍そして毎年行われる「地域大会」での「新しい発表」に現れています。

あなたがものみの塔の信者なら、毎年行われている地域大会での「基調講演」と「その大会でのメインテーマの内容の変化とその適用の仕方」を調べれば分かることです。

  

この四日間の大会期間中、出席者の殆どは、ずーと座って聞いているだけです。

三日目、四日目になると、もはや「疲れ切って」注意して聴くことが出来なくなっている人が多く、

早く、終わることを願っているものです。  

あなたもその一人だったのではありませんか?  

  

ものみの塔の言うことを「信じ切って疑いを持たない人」には「見えない(気が付かない)」事柄です。
さて、あなたがものみの塔の信者なら、こうした点を改めて調べ直すでしょうか?
もし、調べたら、ものみの塔に対する「信頼を失うかも知れません」
しかし、それこそ、あなたの信仰の「更なる進歩」の新たなスタートとなるのです。
それこそは、イエスが言われた「命に至る門」なのです。

知恵を求める人のためのブログです。

楽園となった地球で永遠に暮らすというものみの塔の

おそらく、将来、「楽園となった地球で平和に暮らすという希望を抱いている人」にとっては少しショックな内容かも知れません。

 

仏教では死んだら極楽に行くか地獄に行くと教えています。

キリスト教でも死んだら天国か地獄へ行くと教えています。

こうした教えは、勧善懲悪という「人間の考え」で、おそらく、世界共通しています。

勧善懲悪の目的は、皆が仲良く平和に暮らすというもので、実際に、天国や地獄がある訳でなありません。

しかし、多くの人に「死んだら天国へ行く」という希望を抱かせているもの事実です。

天国では、地上のような苦しみがなく幸せに暮らせると思っている(願っている)のです。

 

こうした考えは宗教だけではなく、人間社会にも浸透しています。

例えば、社会では、道徳という概念は「善行」の勧めであり、は「悪行を裁く」ものです。

その目的は宗教の場合と同じです。

 

聖書でも天の神の王国という存在があり、限られた人々が行きキリストと共に天のシオンの山に立つと記されており、その一方で火と硫黄とで燃える湖に投げ込まれ永久に責め苦に遭う存在も記されています。

  

すべての人に共通している考えは、天であれ地上であれ「若く健康な状態で、平和に仲良く暮らしたい」というものです。
なぜなら、地上には余りにも多くの苦しみや悲しみが満ちており、人々は日々それらを耐え忍んで生きているからです。

それでも、時には「楽しみ」がある場合もあります。
一時の幸せです。

人々が平和で仲良く暮らしたいということの先にあるものは、この「楽しみ」です。
こうした考えは、苦しくて辛い人生から逃れたいという「人間の自然な思い」です。

 

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ものみの塔は、今の世界が神により滅ぼされ、悪魔が底知れぬ深みに閉じ込められ、その後に続く「キリストの千年王国(統治)」では、楽園となった地球で、人々は平和で安全な場所で若さを保ったまま永遠に生きられると教えています。

 

これは、イザヤ書に記されている内容の抜粋に基づくものですが、肝心のヨハネへに啓示これは現代の私たちに向け、神がキリストに、キリストがヨハネに与えた幻)には、一切こうしたことには触れていません。-参考 イザヤ書65:17-25、

 

啓示の書には、「キリストの千年王国」が終わると、悪魔が一時的に解放され、その時生きている人々を惑わし、地上の「聖なる者たちの宿営」や「愛されている者たち都市」を攻撃することが記されています。

そして、天からの火がこれらの人々すべてを滅ぼし、地上から完全に悪を無くすことが記されています。-啓示20:1-10

 

そして、啓示の書では、その後の新しい天と新しい地そして聖なる都市エルサレムに関する記述と、

新しい「崇拝の形式」が描写されているだけです。

 

実際、啓示の書には、命に関連して出て来る言葉は「命の冠」「命の書」「命の水」「命の木」「命の巻き物」「命の霊」という表現で、「永遠の命」を示唆する言葉は出て来ますがこの言葉は出て来ません

 

永遠の命」という表現はイエスが初めて用いた言葉です。

そして、実際、「永遠の命」を得ることがイエスの弟子たちの目標となって来ました。

そして、それは、神の養子(霊者)となって天の神の王国の一人となることで実現します。

そして、そこでは、啓示21:4が成就することになっています。

 

従って、ものみの塔の「地上の楽園で永遠に生きられる」という教えには「間違い」があるということです。

1 地球が楽園のような状態になるというのは、イザヤ書からの「連想」あるいは「思い込み」に過ぎないという点です。

2 ものみの塔は、そこでの生活は「楽しみの場」となるとも述べていますが、ヨハネへの啓示にはそうしたことは一切記されてはいません。  

  

こうした教えをしているのは聖書だけです。
ですが、こうした「教えの」解釈が間違っていて、そのようなことにはならないということが分かったならあなたならどうしますか。

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仏教では輪廻転生という考えがありますが生まれ変わりが同じ人間とは限りませんし、極楽や地獄という概念は空想に過ぎません。
その意図は勧善懲悪という考えです。
人間関係においては、嫌なことを人にしない、親切は功徳であり善行という考えです。
人間の行いは千差万別であり複雑なものであるため、それらすべてを解明しようと、いろいろと物事を定義し体系的に説明もしていますが、それが余りにも多いため大変分かりにくいものとなっています。
中には、事実ではなく空想や創作による記述を概念として説明している部分もあり難解というより理解不能と言った方が正しいかも知れません。
なぜなら、現実に有り得ないことを述べているからです。

キリスト教にしろ、仏教にしろ、イスラム教にしろ、ユダヤ教にしろ、究極の目的は永遠の命を得ることです。
宗教において悟りを開いたり奥義を極めることを目標にしている人もいます。
悟りを開くとは真理を会得する(自分のものにする)ということです。
奥義を極めるとはその宗教の奥深い肝要な事柄を極めるということです。
どちらも、真理を深く追求し物事の本質や真相を会得すること=極めることです。

しかし、神が創造した天地の自然と人間の諸行が入り混じった世界の物事を、人間の概念による宗教思想などで真理を知りそれを会得することは
不可能です。

こうした点最もはっきりしていることは、天地人を創造した神の考えを知ることが最も正しい考えだということです。
それは聖書の中でしか分からないことです。
従って、真理を会得するには聖書を読み多くの知識を取り入れ天地人の仕組みと神の考えを理解する必要があります。

 

初めは聖書に通じた人から教えられ、知識や理解がある程度深まったところで、改めて自らの思考で真理の探究をする必要があるのです。
 

この過程において神の助けがあれば、幾つかの点で真理を理解することが出来るかも知れません。
しかし、すべての点で完全に真理を理解することは
不可能です。
人間の脳力に限界があるからです。
真理は一言で表すことも出来れば極限においてさえ表すことが出来ないものでもあるのです。

 

イエスは「わたしは道であり、真理であり、命です」-ヨハネ14:6
 

と言われましたが、このイエスの言われた真理も限定されたものです。
神を含めた全宇宙の真理のすべてを包含している訳ではないからです。

++++++++++++++++

では、聖書の神の目的という観点から考えて見ましょう。


初め人間は地球上で神の指示に従い、家族を持ち、地球と人を正しく治めることで平和で豊かな生活を永遠に送ることが出来ることになっていました。
しかし、これに一人のみ使いが、疑問を最初の人間に投げかけ、その罠に引っかかって神が禁じた木の実を食べるという罪を犯したことで
神の最初の目的のすべてが変わってしまったのです。

神はその疑問を完全に解決するため長い年月を与えられました。
その長い年月も終わりに近づいていることは確実です。
そして、その疑問が完全に間違いであることが証明された後、神は
初めとは異なる地球を再創造されると予告しておられます。

  

11 「しかしあなた方は,エホバを捨てる者,わたしの聖なる山を忘れる者,幸運の神のために食卓を整える者,また,運命の神のために,混ぜ合わせたぶどう酒を一杯に満たす者である。

12 それで,わたしはあなた方を剣に定め,あなた方は皆ほふられるために身をかがめる。わたしが呼んだが,あなた方は答えず,わたしが話したが,あなた方は聴かず,あなた方はわたしの目に悪いことを行ないつづけ,わたしの喜ばないことを選んだからである」。
13 それゆえ,主権者なる主エホバはこのように言われた。「見よ,わたしの僕たちは食べるが,あなた方は飢える。見よ,わたしの僕たちは飲むが,あなた方は渇く。見よ,わたしの僕たちは歓ぶが,あなた方は恥をかく。

14 見よ,わたしの僕たちは心の良い状態のゆえに喜び叫ぶが,あなた方は心の痛みのゆえに叫び声を上げ,霊の全き崩壊のゆえに泣きわめく。

15 そして,あなた方は自分の名をわたしの選んだ者たちによる誓いのために蓄えることになる。主権者なる主エホバは[あなた方]各人を実際に死に至らせるが,ご自分の僕たちについては,別の名で[これを]呼ばれるであろう。

16 それゆえ,地で自らを祝福する者は信仰の神によって自らを祝福し,地で誓いのことばを述べる者は信仰の神によって誓う。以前の苦難は実際に忘れられ,それらはわたしの目から実際に覆い隠されるからである。
17 「いまわたしは
新しい天と新しい地を創造しているからである。以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない

18 しかし,あなた方わたしが創造しているものに永久に歓喜し,[それを]喜べ。いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造しているからである。

19 そして,わたしはエルサレムを喜び,わたしの民に歓喜する。その中で泣き声や,悲しげな叫び声が聞かれることはもはやない」。-イザヤ65:11-19

(参考:啓示21章の記述とオーバーラップしています

 この記述の一部分は既に成就しており、一部分はまだこれからです)

  

さらに、

 

それからわたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており,海はもはやない

・・・  

5 そして,み座に座っておられる方がこう言われた。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」。

-啓示21:1、5  

  

その再創造された地球は、初めの人間に与えた命令とは全く異なる状態であり状況です。

 

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参考

この点をイエスは次のように述べています。

  

23 しかしイエスは弟子たちにこう言われた。「あなた方に真実に言いますが,富んだ人が天の王国に入るのは難しいことでしょう。

24 再びあなた方に言いますが,富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」。
25 それを聞くと,弟子たちは非常な驚きを表わして,「いったいだれが救いを得られるのでしょうか」と言った。

26 イエスは彼らの顔をまともに見て言われた,「人にとってこれは不可能でも,神にとってはすべてのことが可能です」。
27 その時ペテロが答えて言った,「ご覧ください,わたしたちはすべてのものを後にして,あなたに従ってまいりました実際のところ,わたしたちのためには何があるのでしょうか」。

28 イエスは彼らに言われた,「あなた方に真実に言いますが,再創造のさい,人の子が自分の栄光の座に座るときには,わたしに従ってきたあなた方自身も十二の座に座り,イスラエルの十二の部族を裁くでしょう。

29 そして,わたしの名のために,家,兄弟,姉妹,父,母,子供,あるいは地所を後にした者は皆,その幾倍も受け,また永遠の命を受け継ぐでしょう。-マタイ19:23-29
 

+++++++++++++++++

再創造では、新しい崇拝形式がそこに示されています
啓示21章
10「聖なる都市エルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,
11 そして神の栄光を帯びているのを見せてくれた。」
・・・
24「諸国民はその光によって歩み,地の王たちは自分の栄光をそこに携え入れるのである。
25 また,その門は一日じゅう決して閉ざされることはない。そこに夜はないからである。
26 そして,彼らは諸国民の栄光と誉れをそこに携え入れるのである。
27 しかし,すべて神聖でないもの,また嫌悪すべきことや偽りを行ないつづける者は,だれも決してその中に入れない。子羊の命の巻き物に書かれた者だけが[入るのである]。」
-啓示21:10、11、24-27

ここで示されている聖なる都市エルサレムには神の奴隷、すなわち、子羊の花嫁である14万4000人が神に仕えていて、彼らには

 

「神の天幕が人と共にあり,[神]は彼らと共に住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らと共におられるであろう。
4 また[神]は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」-啓示21:3、4

 

という言葉が成就しますが、
諸国民対してはそのようには記されてはいません
この点ものみの塔は、すべての人々がそのようになると教えています。これは間違いです。)

諸国民のうち、子羊の命の巻き物に書かれた者に関しては、
22章
また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,

2 その大通りの中央を流れていた。そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木が[あった]。そして,その木の葉は諸国民をいやすためのもの[であった]。

-啓示22:1、2
 

と記されているだけなのです。

更に言えば、この都市に入れない諸国民もいるという点です。啓示21:27

ですから、再創造の後の地球は、いわゆる楽園のような地ではなく、天と同じような場所となるということです。

つまり、神の地に対する目的が「天地の悪を一掃し、真の崇拝の回復すること」に変わったのです。

新しい天に属する者はいわゆる「霊的イスラエス」の144000人だけであり、新しい地を受け継ぐのは「諸国民」なのです。

 

キリストによる千年王国は、いわば、悪魔の支配が間違いであることの証のためであり、次の段階、つまり、真の崇拝に至るために準備期間でもあるのです。

 

そのため、急激な変化をするのではなく、その時に生きている人々が混乱しないように、今と同じような生活をさせると思われます。(実際、詳細は記されてはいません。)

しかし、それでも、キリストと神の王国の支配の下で、病気も、死も、犯罪も(犯罪があれば直ちに処罰される)ない状態で平和で安全に暮らすことは間違いないでしょう。

 

こうして、人々は試練の中ではなく平和な状態で「神の崇拝を選択するか否かを試される」のです。

そして、最後には、悪魔の偽りを証明すると同時に、悪に傾く人すべてを地上から一掃することになっています。

 

の状態を楽園と言えば楽園ですがその後の真の崇拝の回復時には、そうしたことは付随した出来事であり、それが神の目的ではないのです。

 

実際、聖書には楽園という言葉は一度も出て来ません。

イエスが杭に掛けられた時、隣にいた罪人に「あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」と言われたことの解釈として、ものみの塔はこれを地上の楽園の根拠としています。-ルカ23:43

しかし、コリント(二)12:4のパウロのパラダイスや啓示2:7のイエスの言うパラダイスは楽園を示唆してはいません。

この点も、明らかにものみの塔の解釈は間違っています

 

繰り返しますが、永遠の命の約束は、イエスが神の王国の一人となる弟子たち対して言われたことであり、それは、死んだ後神の養子として天に霊者として復活した時に成就し、かつ、彼らの目からすべての涙も拭い去られることも同時に成就したのです。

-啓示20:6、21:3-4

 

従って、聖書の一連の記述は、地上の神の崇拝者たちが、地上の楽園で永遠に生きるということではなく、これらは神の王国の人々に対して天において成就するということなのです。

つまり、パラダイスとは文字通り「天国」つまり「天にある霊的な状態」を指しているのです。

 

イエスが処刑される時の隣の罪人(強盗)について、ルカだけが記述していることで、マタイはそのようには記してはいません。

  

しかし、イエスの弟子で罪を犯さなかった人が一人でもいたでしょうか。

皆、それぞれ罪を背負っていてもイエスは彼らを弟子として迎え入れたことを忘れてはなりません。

 

こうした事柄とは別に、

天に行かない地上の民である「諸国民」には「命の川の水」と「命の木の実と葉」が必要であり、これらがなければ長くは生きられないのです。

 

天においては、神のみ座があり、その周りやみ座の前について描写されており、また、大勢のみ使いたちがいる状態が記されています。-啓示4:1-11、エゼキエル1章、ヨブ1:6、2:1
正に、天における崇拝の形式そのものの描写です。
再創造の際には、地も天と同じような崇拝形式となるということです。

  

従って、ものみの塔が言うような全地が楽園となって涙も死も嘆きも叫びも苦痛もない状態になるとは記されてはいないのです。

ものみの塔の信者はものみの塔の「間違った解釈」により騙されているのです。
多くの信者はこの間違った解釈を希望のよりどころとしていることは明らかです。
従って、その肝心な部分が「間違っている」のです。

あなたがものみの塔の信者なら、聖書を良く読むことによってものみの塔の教えの間違いを調べることが出来ます。

最後に繰り返します、
再創造の後の地球は、全地がいわゆる楽園のような地ではなく、天と同じような崇拝の場所となるということです。

そして、人々が平和で安全に暮らすことは間違いありません
なぜなら、そこに「悪」はもはや存在しないからです。
しかし、今わたしたちがしているような「
人々が自分の楽しみを追求するような場所ではない」ということです。

人が楽しく生きられないのであれば、永遠に生きる意味がないではないかという人もいると思います。

 

神は人間に楽しみや歓びを与えたことは確かです。

食べることや飲むこと、人を好きになること、収穫、物事の達成感、趣味を持つこと、技術を身に付けること、欲しいものを手に入れることなどなど。

これらは自己満足であり、人の満足感は人に楽しみや歓びを与えるものです。

 

しかし、それが人の生きるすべてではありません

もっと、大事なことがあるのです。  

そもそもに於いて神が人間を創造したのは人間が楽しみを追求するためではないことは明らかです。

イエスも教えの中で「喜び」には言及していますが、「人が楽しみを得ることに言及」した箇所はありません。

 

聖書の中では、人が個人的な楽しみを得ることを「悪に関連して」出て来る場合が多く、実際、個人的な楽しみを「悪」と結びつけています。


この点、人類は長い間「好き勝手なことをして来た」ので、楽しみの追求を「幸せ」なことだと思い込んでしまっているのです。
 

神の民であった古代イスラエルにおいて、人々が楽しみを追求するようなことがあったでしょうか
答えはです。

 

人間の本質はみ使いと同じなのです。
つまり、神に仕え神への奉仕がすべてなのです。

神という存在が第一にあり、神という存在があっての人間なのです。

愚かな人間にとっては不本意でも、賢い人間にとっては命よりも大事なことなのです。

聖書の中では、賢い人間、思慮分別のある人間、神とイエスに信仰を働かせる人間を高く評価しています。

これに付随して、知識や知恵のある人間の「義の行い」も高く評価し時にはパウロのようにダニエルのようにダビデのようにエズラやネヘミヤのようにイザヤやエゼキエルのように用いられることもありました。-参考 使徒10:35

 

一方で、愚かな人間は、人間を第一に考え自己本位になることが多いものです。

その中には「人が考えて良いこと」とされていることも含まれす。

  

天にいるみ使いが自分の楽しみを求めたなどという記録はありません

至高の神に仕えることとその神の行う業を見て歓喜しているのです。

 

あるべき居所を捨てたみ使いたちだけが地上に来て「好き勝手なこと」をしたことがあります。

しかし、それが楽しみの追求のためであったとは記されてもいません


人間も新しい地ではみ使いたちのように崇拝で満たされるのです。
人の楽しみは事物の体制か、キリストの千年支配の終わりと共に無くなるのです。

あるのは「神の業に関連した楽しみ」だけです。

ものみの塔でさえこのような考えには至っていません
むしろ、間違った希望を伝え、多くの人を信者として来たのです。

楽園となった地球で平和で楽しい生活を送ることが出来ると言って来たのです。

いずれ、それを信じた信者たちは騙されたことに気が付くでしょう。
その時、地団駄を踏んでも遅いのです。

その時には、既に手遅れなのです。

 

実際、キリストの千年王国による支配の期間中、人々が「自分の楽しみを追求している様子」を神はどのように見るでしょうか。

そうさせるために、悪魔の支配を終わらせたのではないと言うでしょう。


しかし、まだ、聖書を調べる時間は残されています
あなたは改めて聖書を調べ直すでしょうか。
そうなれば、真の崇拝と命の道を歩めるかも知れません。

 

それでも、人の知識や理解には限界があることも知っておくべきです。
すべてを知ることは難しく、また、長い年月が掛かるからです。
アブラハムは75歳で神に召され、その後175歳で死ぬまで神に仕えました。
モーセは80歳で神に召され120歳まで神に仕え最後は神により葬られました。
モーセの後継者ヨシュアはおよそ45歳からモーセの従者として神に仕え110歳で亡くなるまで神に仕えました。
アブラハムもモーセもヨシュアも日々苦難の連続でした。
ノアに至っては神に召されたのは600歳の時でした。
ダビデは少年の時から神に仕え40歳でイスラエルの王となり80歳で亡くなりました。
ダビデはその間戦いの日々でした。

 

神に仕えていても毎日が戦いだったのです。
神の崇拝者でありながら誰一人として安穏とした日々を送った者はいないのです。
安穏として暮らすことが出来たのは忠実なイスラエル国民だったのです。

 

指導的立場の人たちには1日として安らぐ日はなかったのです。
それでも神に仕え神を崇拝し続けたのです。

 

彼らに比べれば、現代の神の崇拝者たちは「安穏」としているのではありませんか。
しかし、神を理解する点で熱心さを示している人を私は知りません
少なくとも、ものみの塔の信者でそのような人は一人もいないと断言出来ます。
なぜなら、ものみの塔の言うことを信じ従っているからです。
そのような人は自ら進んで詳しく調べ疑問を解決する努力を十分に行い、ものみの塔にその疑問を投げかけることをしないのです。

 

ものみの塔の信者はこの点実に愚かです。
なぜ、真っ向から疑問をものみの塔に投げかけないのですか
排斥されるのを恐れてのことですか、背教者と見なされることを恐れるからですか、なぜ、過ちを正そうとしないのですか?

 

そうした振る舞いは神とイエスには明らかに見えているのです。
裁きの日、何と言って言い訳するのですか?
イエスはそのような人を知らないと言って退けると明言しているのですよ。-マタイ7:21-23

  

最後に、  

神とイエスの言葉に「無駄」は一切ありません
それゆえ、人が聖書をどんなに読んだとしても「見落とし」は必ずあるものです。

その「見落とし」に気が付いたら、改めて考えて直して見ることです。

場合によっては、見解が180度変わることもあるかも知れないのです。

ですから、何度も繰り返し聖書を読み、細部に至るまで注意を払うことは重要です。

当然、分からないことが沢山出て来ます。

その時には、無理に結論を出さず、一端保留にすることです。

勿論、その時点での考えを書き留めておくことも重要です。

後で、優れたアイデアが出た時に比較検討するためです。

考え続ければ、いつか分かる時が来るかもしれません。-伝道の書9:11

知恵を求める人のためのブログです。

ものみの塔の主張を覆すことは容易なことではありません。
巧妙に仕組まれているからです。

  

毎週の集会、季節毎の大きな大会、雑誌や書籍などで聖書の言葉を巧みに用いて神とキリストに従うようにと繰り返し述べることで、信者を洗脳し、誘導しています。

 

ものみの塔の信者は、旧統一教会の信者と同様に「教えを信じ切って、従っている」ので、信者の頑(かたく)なさはまさにカルトそのものです。

教えを疑うことを禁じ、疑うならば「信仰を否定している」とさえ断言しています。

それゆえ、信者は、信者たちの間ですら「迂闊なことを発言出来ない」のです。

 

普通、物事を納得させるのに「弁証法」により、二つの相反する主張を論じ「矛盾」を解消していくものですが、

分かりやすく説得力のある文章を示すためには、必要なものは三つです。

明快な意見が述べられ、論拠が客観的な事実で示され、論理的に展開されること。

このうち、論理的な思考法には帰納法、演繹法、弁証法の三つがあります。

帰納法とは共通点から結論を導き出すこと。

演繹法とは論を順に積み上げて結論を導くこと。

弁証法とは肯定と否定の対立から新たな論理を見いだすこと。

 

こうしたことは、必ずしも「哲学」の分野だけの話ではありません。

現代では、あらゆる方面でこうした方法が用いられて説明されているのです。

 

イエス・キリストの話し方は「断定的」です。

なぜなら、話すこと「すべて」が真理だからです。

一方、使徒たちの話し方は「論理的」です。

既に、イエスに信仰を持った人たちの「過ち」を正すためです。

つまり、分かり易く納得させる必要があったからです。

 

聖書の記述には間違いはない、真理であると教えています。

これは真実です

しかし、ものみの塔は聖書を完全に理解し、すべてのことを分かっている訳ではありません

問題なのは、聖書ではなく「ものみの塔の解釈」と「自分たちの解釈に信者を従わせている」ことです。

ものみの塔が「偽りの預言者」であるという証拠は、自分たちでさえ理解出来ないことを、「自分たちの見解」を「聖書の正しい見解」であるとしている点です

その間違いの一つ例は、1975年に事物の体制が終わるという見解です。
それ以前には、「終わりの日のしるし」として「地震や犯罪の増加、人々の愛が冷える」などの社会現象を証拠として繰り返し強調していましたが、「その通りにはなりませんでした」

あれから、今年で丁度50年が経ちますが、まだ「その日」は来ていません。
明らかに、ものみの塔の見解が間違っていたという「証拠」になっているのです。

間違いの二つ目の例は、いわゆる神の王国を形成する144000人に関することです。
既に、これらの人々を集めることは完了し、復活し天でキリストと共に存在していると考えられるのに、未だに、いわゆる「主の記念式」で「パンとぶどう酒」に与る(食べる)人がいるという点です。
いわゆる統治体の中には、自分は「この天的クラスの一人だと主張」している人がいるだけではなく、「接ぎ木」をされた人々もいると主張しその人たちも与って(食べて)いるのです。

パウロはこの点次のように述べています。

23 わたしは,自分が主から受けたこと,それをあなた方に伝えたのです。すなわち,主イエスは,渡されようとしていた夜,ひとつのパンを取り,

24 感謝をささげてからそれを割き,こう言われました。「これはあなた方のためのわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」。

25 晩さんをすませた後,杯についても同じようにして,こう言われました。「この杯はわたしの血による新しい契約を表わしています。それを飲むたびに,わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」。

26 このパンを食べ,この杯を飲むたびに,あなた方は主の死をふれ告げてゆくのであり,それは彼が到来する時にまで及ぶのです。

(参考:

 パウロの、この言葉によれば「キリストが臨在」した時に「主の記念式」は終わることになってい

 ます。

 ものみの塔は「キリストの臨在」を1914年としています。

 そうであれば、「主の記念式」も、この年に終わっているはずです。

 なのに、未だに「主の記念式」を行っています。

 これは、矛盾したことではありませんか。

 あなたはどう思いますか?)


27 そのようなわけで,だれでも,ふさわしくない仕方でパンを食べたり主の杯を飲んだりする人は,主の体と血に関して罪を負うことになります

28 人はまず自分をよく吟味して確かめ,こうして後にパンから取って食べ,また杯から飲みなさい。

29 食べまた飲む人は,もしその体をわきまえないなら,自分に対する裁きを食べまた飲むことになるのです。

30 そのために,あなた方の中には弱くて病みがちな人が多くおり,相当数の者は[死の]眠りについています。

31 しかし,自分自身がどのような者であるかをわきまえるなら,わたしたちは裁きを受けることはないでしょう。

32 しかし,裁きを受けるとき,わたしたちはエホバから懲らしめを受けているのであり,それは,わたしたちが世と共に罪に定められることのないためです。

33 そのようなわけで,わたしの兄弟たち,[それを]食べるために集まる際には,互いに待ち合わせなさい。

34 空腹な人がいるなら,その人は家で食事をし,あなた方が裁きのために集まるというようなことがないようにしなさい。 -コリント(一)11:23-34

 

既に、集められることは完了していると思われるのに、未だに記念式で「パンとぶどう酒」に与る人がいて、ものみの塔はこれを「容認」しているのです。

こうした点も、明らかに「間違い」です。

 

信者一人ひとりの罪はそれ程重くはありませんが、組織を束ねるものみの塔の責任は重大です。

 

++++++++++++++++++++ 

ものみの塔の表向きの意図は神とキリストに信仰を抱かせるというものですが、その本心は自分たちの見解と思惑に従わせることなのです。

こうしたことは、組織を束ねる場合の「人間の考え、方法」です。

ものみの塔に限らず、どんな組織でも同様なことをしています。

つまり、

ものみの塔の組織は、神の組織ではなく「人間の組織」だという証拠です。

(参考:もし、神の組織であれば、モーセによるイスラエル国民に対するものと同じになるはずです。

 それは、律法が示すように、また、イエスがそうであったように、すべてが「断定的」な「命令」

 なります。

 ものみの塔には、その「確信」がないことは明らかです。)

 

例えば、その一つに、ものみの塔の信者の一部の人たちは大勢の信者から集めた寄付で生活をしたり活動をしている点があります。
世界本部で働いている人や、統治体の人々は生活のための労働をしていません。
信者の寄付で生活し活動をしているのです。

 

そうした反面、いわゆるベテルで組織に携わっている人以外の信者に対しては生活の支援を全くせず、

自己責任としているのです。
ものみの塔の信者で長年パートで生活をし、いわゆる野外奉仕に専念している人が老齢となって働けなくなった時、会衆の長老たちは自分たちがそうした人々の面倒を見るのではなく生活保護費を受給している人さえいるのです。

 

世を忌避し神に仕えてきた人が生活に困るとものみの塔の組織がその世話をするのではなく世の自治体を頼らせているのです。
これは、自分たちの伝道活動における主張と矛盾する行為です。

 

ものみの塔は組織としてそのような人の老後の世話をする責任があるのです。
そうしていないことは、いわば、背教と見なされます。
ものみの塔自身が背教をしていることになるのです。
この場合、一体誰がものみの塔を裁くのでしょうか。
ものみの塔は信者を裁き、時には排斥をしたり特権を剥奪したりしていますが、自分自身をどうやって裁くのでしょうか。

こうしたことはイエスもパウロも述べてはいませんし勧めてもいません
イエス自身は何千人もの人々に食事の提供をしたり彼らの必要を満たしましたし、パウロ自身は自ら働いて仲間の援助もしていました。

ものみの塔は末端の信者に文字通りの必要を提供していない上に、自分たちは信者の寄付で生活しているのです

こうしたものみの塔の姿勢を神やキリストはどのように見るでしょうか。
イエスは次のように述べています。
21 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。
22 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。

23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。-マタイ7:21-23

更に次のようにも述べています。
48 「しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,
49 仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,
50 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,
51 最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。-マタイ24:48-51

神の王国の144000人を集める業が終わり、既に天に霊者として復活し天のシオンの山の頂にキリスト共に立っている今、イエスが昇天直前大勢の弟子たちに命じた「すべての国の人々」に宣べ伝え弟子を作る業は終わったのです。
16 しかしながら,十一人の弟子はガリラヤに赴き,イエスが彼らのために取り決めた山に行った。
17 そして,[イエス]を見ると,彼らは敬意をささげた。しかし,ある者たちは疑った。
18 すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう話された。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。-マタイ28:16-20

そして、この業が終わった証拠として、
またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]。
2 またわたしは,多くの水の音のような,そして大きな雷鳴のような音が天から出るのを聞いた。わたしが聞いた音は,自分で弾くたて琴に合わせて歌う歌い手たちの[声]のようであった。
3 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような[歌]を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。
4 これらは女によって自分を汚さなかった者である。事実,彼らは童貞である。これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり,
5 その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである。-啓示14:1-5

と記されています。

更に、イエスは次のようにも述べています。
ヨハネ10章
「きわめて真実にあなた方に言いますが,羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじ登る者,その者は盗人であり,強奪者です。
2 しかし,戸口を通って入る者は羊の羊飼いです。
3 戸口番はこの者に対して[戸を]開け,羊はその声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。
4 自分のものをみな外に出すと,彼はその前を行き,羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです。
5 よその者には決して付いて行かず,むしろその者からは逃げるのです。よその者たちの声を知らないからです」。
6 イエスはこの比喩を彼らに話された。しかし彼らは,自分たちに話されていることがどういう意味なのか分からなかった。
7 それゆえイエスは再び言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしは羊の戸口です。
8 わたしに代わって来た者はみな盗人であり,強奪者です。しかし羊は彼ら[の言うこと]を聴きませんでした。
9 わたしは戸口です。だれでもわたしを通って入る者は救われ,その人は出入りして,牧草地を見つけるのです。
10 盗人は,盗み,打ち殺し,滅ぼすためでなければやって来ません。わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました。
11 わたしはりっぱな羊飼いです。りっぱな羊飼いは羊のために自分の魂をなげうちます。
12 雇われ人は,おおよそ羊飼いとは異なり,その羊も自分のものではないので,おおかみが来るのを見ると,羊たちを見捨てて逃げます―そして,おおかみは彼らをさらい,また散らします― 
13 彼は雇われ人であって,羊のことを気にかけないからです。
14 わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。
15 ちょうど父がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます。
16 「また,わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります。
17 このゆえに父はわたしを愛してくださいます。すなわち,わたしが自分の魂をなげうつからです。それは,わたしがそれを再び受けるようになるためです。
18 だれもわたしからそれを取り去ったわけではなく,わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。このことに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」。-ヨハネ10:1-18
(参考:ここで、イエスは羊の囲いの「戸口」であり、かつ、羊を導く羊飼いでもあります。

 そして、その羊飼いはその囲いから羊たちを導き出す述べています。

 囲いの中にいつまでも閉じ込めている訳ではありません。

 羊たちは牧草地に導かれるのです。

 羊たちは囲いの中で安全に守られ、かつ、牧草地に行き来出来るのです。

 そのように導くのは、羊飼いです。

 この例えは、信仰に関する「霊的な事柄」に関するものです。

 この一方で、イエスは弟子たちに「試練」が臨むことを示しています。

 この二つのことは矛盾しません。

 この場合の「試練」は肉的な事柄に関して述べた事柄だからです。-マタイ10:16-22)


イエスが言われた「ほかの羊」、これらはイエスが言われた地を受け継ぐ者たちのことです。-マタイ5:5、詩編37:11
それらの人々の特徴は温和な気質であり、柔和な者たちであると示されています。

私にはものみの塔の指導者たちは、温和で柔和な人たちには見えません
羊の皮を被った狼にしか見えません。

更に、ヨハネへの啓示の書によれば、これらの人々は大群衆であると記されています。
啓示7章
この後わたしは,四人のみ使いが地の四隅に立ち,地の四方の風をしっかり押さえて,地にも海にも,またどの木にも風が吹かないようにしているのを見た。
2 また,別のみ使いが日の昇る[方角]から,生ける神の証印を携えて上って行くのを見た。彼は,地と海を損なうことを許された四人のみ使いに大声で叫んで 
3 こう言った。「わたしたちが,わたしたちの神の奴隷たちの額に証印を押してしまうまでは,地も海も木も損なってはならない」。
4 そしてわたしは,証印を押された者たちの数を聞いたが,それは十四万四千であり,イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押された
5 ユダの部族の中から一万二千人が証印を押され,
ルベンの部族の中から一万二千人,
ガドの部族の中から一万二千人,
6 アシェルの部族の中から一万二千人,
ナフタリの部族の中から一万二千人,
マナセの部族の中から一万二千人,
7 シメオンの部族の中から一万二千人,
レビの部族の中から一万二千人,
イッサカルの部族の中から一万二千人,
8 ゼブルンの部族の中から一万二千人,
ヨセフの部族の中から一万二千人,
ベニヤミンの部族の中から一万二千人が証印を押された。
9 これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。

 

と述べられています。

この大群衆は144000人に証印が押された後の存在です。
144000人に対しては「小さな群れ」とイエスが述べていますから、大群衆とは相当な、地を受け継ぐにふさわしい人数であるに違いありません。-ルカ12:32
更に、そこに復活してくる人々が加わり、こうして、キリストの千年統治の期間中の人口が定まります。

しかも、その数は、
6 第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死は何の権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼と共に王として支配する。
7 さて,千年が終わると,サタンはすぐにその獄から解き放される。
8 彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂のようである。啓示20:6-8

 

と示されていることから推測すると「海の砂」粒よりは「かなり多い数」であることは明らかです。

実際、海の砂粒を数えられる人がいるでしょうか?
いません。
しかも、その時には、それより多い数の人口が地球上にはいるのです。
現代において、人の業でこれらの人々すべてに「しるし」を付けることは不可能です。
ですから、人を分ける業、刈り取る業は「み使い」が行うのです。-マタイ13:39

文字通りには刈り取られるのは「小さな群れ」ですが、「ほかの羊」にも言えることです。
14章
またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼と共に,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて[立っていた]
2 またわたしは,多くの水の音のような,そして大きな雷鳴のような音が天から出るのを聞いた。わたしが聞いた音は,自分で弾くたて琴に合わせて歌う歌い手たちの[声]のようであった。
3 そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような[歌]を歌っている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。
4 これらは女によって自分を汚さなかった者である。事実,彼らは童貞である。これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり,
5 その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである。
6 また,わたしは別のみ使いが中天を飛んでいるのを見た彼は,地に住む者たちに,またあらゆる国民・部族・国語・民に喜ばしいおとずれとして宣明する永遠の良いたよりを携えており,
7 大声でこう言った。「神を恐れ,[神]に栄光を帰せよ。[神]による裁きの時が到来したからである。それゆえ,天と地と海と水のわき出るところとを造られた方を崇拝せよ」。啓示14:1-7

 

この記述から分かるように、144000人が既に霊者として復活しキリストと天のシオンの山に立っていた後、み使いが中天を飛び「地に住む者たち、またあらゆる国民・部族・国語・民」に「神を恐れ・・・崇拝せよ」と大声で言っているからです。

現代のものみの塔は、イエスが言われた「盗人」であり「雇われ人」です。
イエスが言われたように、いずれその正体が暴露されることになります

あなたはそれでも、ものみの塔の言うことに耳を傾けますか?
そして、その[人間の指示や命令]に従いますか

ものみの塔に従うか否かはあなたの自由です。
しかし、ものみの塔に従っても、あなたの願い、思いは彼らの言う通りにはならないのです。

知恵を求める人のためのブログです。

毎年、終戦の日が近づいたり、アメリカに戦争を仕掛けた日が近づくと戦争に関する放送が繰り返されます。

その意図は、戦争の悲惨さ、戦争の真実を伝え、引いては戦争反対、平和への願い、過去の戦争への精算などのためです。

映像の進歩と共にその放送内容には「切実」なものがあります。

 

しかし、毎年繰り返されるこうした放送は、このままでいいのでしょうか。

記憶は記録として残しておくべきではありますが、その惨劇を繰り返し放送する「意義」はどこにあるのでしょうか。

 

普通人間は嫌なことは忘れたいものです。

戦争に関する放送はその嫌なことを何度も繰り返し思い出させるのです。

 

敗戦後の日本はあたかも戦争がなかったかのように、生きるために必死に頑張ったので今日があることは事実です。

つまり、直前の戦争すら忘れて明日を見つめ頑張ったからこそ現代の日本があるのです。

 

勿論、戦争体験者はその悲惨さを忘れることは出来ません。

しかし、敢えてそれを口外せずに前を向いて頑張って来たのです。

 

それなのに、戦後80年も経った今でも、過去の傷をほじくり出しているのです。

 

この80年間に戦争を繰り返して来たのはアメリカとソ連、今のロシアだけです。

他の国は、これらの国に巻き込まれて来ただけなのです。

 

ベトナム、朝鮮半島、湾岸、イラク、アフガニスタン、これらの戦争は共産主義者と民主主義者(自由主義者)、キリスト教とイスラム教の戦いであり、これらの戦争により秩序が破壊されそこにISやタリバンと言った勢力が台頭してきたのです。

 

こうしたすべての責任はアメリカとソ連、今のロシアにあるのです。

いわゆる、冷戦時代と言われた時代がありましたが、彼らの、いわば代理戦争は続いていたのです。

 

アメリカとロシアは、まさに、聖書で預言されていた南の王と北の王であることは明白です。

預言によれば、いずれ共に滅びることになっています。

正しくは、神によって滅ぼされることになっているのです。-ダニエル書

 

 

 

 

過去の悲惨な戦争フィルムを繰り返し放送し言及するのは間違いです。

こうした放送によって、世界が平和になると考えているのでしょうか。

有り得ないことです。

戦争を始める人間は戦争の悲惨さなどは考えないものです。

勝つこと、占領すること、そして、自分の力を誇示することしか考えていません。

それゆえ、誰がプーチンやトランプが核ミサイルを発射させるのを留めることが出来るでしょうか。

彼ら止めることが出来るのは神だけです。

その神ですら、最終局面に至らない限り「決して手を出さない」のです。

それは、人類に「言い訳」の口実を与えないためです。

 

従って、戦争の悲惨さを繰り返し放送することは間違いなのです。

 

人は、楽しい事、前向きなこと、新しいこと、便利なこと、そして、夢や希望や欲望があるので「毎日を元気に生きられる」のです。

過去に拘っていては、気持ちが塞ぐだけです。
 

今や、毎年繰り返される戦争の悲惨な映像は、昔を懐かしむ「ノスタルジー」のようにさえ感じられます。

以前は、なんて酷いことをしたもんだと怒りの感情が沸き立ったものですが、毎年繰り返されることで、視聴者の意識や感情にも変化が生じて来たということです。

 

戦争を知らない若者には別の感情が生じているように思います。

若者は戦争は悲惨なものだという意識が芽生えますが、実体験がないのでアニメや映画を見ている感覚で反戦運動や平和活動や難民などのいわゆる弱者救済などを見ているのです。

 

その一方で、利己的で自己中心的な若者は「過去に拘らず、今と将来の自己の欲望の達成」にのみ関心を示しています。

 

しかし、今の日本の社会では就職や賃金や物価、そして、コロナの影響でどうしても現実に目が行き、どうにかして欲しいと切実に思っているのも若者たちの現状です。

 

その一方で高度成長期に懸命に働いて来た人々が十分な年金を受給し余生を楽しんでいるのも事実です。

こうした事実を見ている若者たちには「不公平な世の中」に見えているはずです。

 

若者の置かれている状況が歴史上かつてない程悪いのです。

こうした社会状況の中で、

毎年、相も変わらず戦争の悲惨な映像を繰り返し放送しています。

その気持ちは理解出来ます。

しかし、こうしたことは戦争を二度と繰り返さないようにいわば「国民を洗脳」しているようなものです。

つまり、「無知な平和主義者」を作っているのです。

それは、戦争に対して無防備な日本を作っていることにもなっているからです。

これは、極めて危険なことです。

 

以前のブログでも書きましたが、今の世界で平和を維持するには「力」が必要なのです。

弱者は強者の餌食になってしまうからです。

ウクライナが良い例です。

他にも、イラク、イラン、パレスチナなども他国の脅威に晒されています。

他の、例えば、メキシコやブラジルやアフリカ諸国などグローバルサウスの国々の政治は安定していません。

先進国の間でもトランプのせいで混乱していますし、これらの国内でも犯罪などが増え暴力的な社会となっています。

 

国内や世界の秩序を保つには「力」が必要なのです。

それも「正しい力の行使」でなければならないのです。

 

毎年繰り返される悲惨な戦争の映像は、こうした今の社会を弱体化させる原因ともなっています。

 

人は「嫌な体験」「失敗体験」をしない時には常に「強気」で物事を行います。

つまり、恐いもの知らずで「イケイケどんどん」で精力的に活動するものです。

しかし、今の若者を見ていると、あたかも「疲れ切った」ような状態に見えます。

つまり、積極的、精力的、活動的、生産的な活動をしている若者をあまり見ることが出来ず、ただ生きるために何かにしがみついているようにしか見えません。

 

あなたには今の若者がどのように見えますか?

 

+++++++++++++++++++

繰り返します。


日本では毎年8月と12月が近づくと過去の戦争を思い出させる映像が繰り返されます。
確かに、戦争の悲惨さを人々に記憶として知らしめる効果があり戦争反対、平和の必要性を思い知らされるものです。

私は毎年繰り返される戦争の悲惨な映像を目にする度に「アメリカに対する憎悪の念が増します」
それと同時に、戦争を始めた陸海軍総司令部と御前会議も実に馬鹿な決定をしたと繰り返し抱いています。
そこまでして戦争をする意義がどこにあったと言うのでしょうか。
私の父の兄もニューギニアで戦死しました。
中国にいる時余りの居心地の良さに日本に帰りたくないとまで言ったそうです。
それがその通りになってしまったのです。

戦争を始めた後の悲惨さは残酷なものです。

ヨーロッパでの戦争は戦争よりも「残虐行為」による悲惨さが際立っています。
ユダヤ人やポーランド人が大量に虐殺されたからです。

ソ連に至ってはポーランド人に対する虐殺よりも自国民に対する締め付けは更に酷いものがあります。

反政府勢力をシベリアの強制労働に送ったり不当逮捕し長期に渉り刑務所に入れたりしている酷い国です。

しかも、今は嫌がる自国民を強制してウクライナの侵攻のために戦わせているのです。

それも、たった一人の指導者の身勝手な考えで行われているのです。


日本の原爆被害者より何倍もの人々が虐殺されたのです。
やったのはドイツとソ連です。

私は日本に原爆を落としたアメリカそして戦争を始めたドイツとソ連を決して許しません。
神が私に全権を与えて下されば、真っ先にこれらの国を滅ぼします。

しかし、これは間違ったことです。
実際に、実行したのは政治家であり軍の上層部にその責任がありこれらの国民には必ずしも責任はないからです。
しかし、そうした指導者たちは皆死んでしまっていないのです。

口惜しさだけが残ります。
復讐が出来ないからです。

私のような感情を抱く人は少なくないと思います。

しかし、このような反面、繰り返される映像に「意図的なもの」も感じるものです。
こうした放送は「プロパガンダ」そのものであることを誰が理解しているでしょうか?
プロパガンダは何も独裁者や戦争中の軍の宣伝だけではありません。

 

戦争のない現代においても、過去の戦争映像を繰り返し見せられると、それを見た人々の心に「普通でない感情」が芽生えたり「考えや思いが誘導」されているのです。
実体験のない「悲惨な感情」です。
いわば、洗脳のようなもので、実際に経験をしたことがないのに「あたかも経験したかのような感覚」を生じさせるのです。

普通人間は「嫌なこと」があると「忘れたい」ものです。
忘れるからこそ「新たな次」に進むことが出来るのです。
いつまでも過去に拘っていてはこれからすることしなければならないことに「集中」出来ません。
そうなると何をしても「成功」することは不可能です。

反面、人間は「歴史から学ぶ」こともします。
つまり、過去の出来事を分析しどうすれば次には成功させられるかを考察することによって、以前は失敗を繰り返していたこともいつかは成功し次の段階へと進むことが出来るのです。

この点、女性たちを見ていると「今の現実だけを見て行動をしているのではないか」という振る舞いをすることがあります。
勿論、こうしたことは表向きのことで実際には過去や将来についてもしっかりと考えているものです。
つまり、女性は現実的なのです。
男性は「過去に拘る傾向」にあり「今しなければならないことに影響を与える」ことが良く見られます。
従って、過去から、つまり、歴史などから学ぶのは男性である場合が多いのです。
最も、こうしたことは一般的な傾向ですべてではありません。

物事を成功させるには「過去の教訓から学びそれをこれからすることに役立てる」必要がありますが、
そうした分析が終わり「活用」してしまえば忘れて、今これから行うことに集中する必要があるのです。

話を最初に戻しますと、
過去の戦争の悲惨さなどから教訓を学んでそれをこれからすることに役立てる」ことは良いとして、その過去の戦争の悲惨さの映像を毎年繰り返し見せることには「問題」があるのです。
そうしたことは「いわゆる洗脳的な誘導」となるからです。
その「誘導」が「本当に正しいと誰が考えてしている」のでしょうか。
そうした映像を提供する人が「誘導」を考えて行っている場合も問題ですが、もし、深い考えもなしにただ戦争の悲惨さだけを伝えるとしたら、それらの映像は観ている人々に間違った考えを抱かせるものとなります。
映像を効果的に見せるために「監修」している人たちが何を考えて「内容」を作っているかということですが、映像の効果を考えてはいますが、内容が与える影響を考えているようには思えません。
加えて、
時折そうした映像を批判されることはあっても罰せられることはないのです。

毎年行われる記念行事についても同じです。
ただ、その意義や意味を忘れて毎年繰り返されているだけの場合もあります。

毎年、戦争の悲惨さを映像で伝え、原爆の悲惨さを語り継ぐイベントなどを行ったり、毎年同じ終戦の行事を行いその都度同じことを繰り返し語っています。

こうしたことを「良いこと」だと考えている人が実に多いのです。

そして、その影響は何も知らない中学生や高校生にさえ及ぼしているのです。

その結果、すべての人に「平和に関する誤ったメッセージ」を毎年投げかけていることに気が付いていないのです。
ただ、平和や戦争反対を「連呼」しても平和が到来する訳ではないのです。
今の世界情勢では、平和をもたらすには「綿密な計画と努力と忍耐」が求められるからです。
こうした点を全く無視して「決して平和は訪れない」のです。

また、時が経つにつれて人々の関心が薄れて行く場合もあります。
例えば、原爆被害のこと、原爆被害者のこと、拉致被害者のこと、災害被害や被害者のこと、

逆に誰かの立派な業績、
こうしたことは時代と共に忘れ去られて行くものです。
歴史として記録に残る場合もありますがそれを除けば皆忘れてしまうのです。

歴史は繰り返されると言います。
以前の失敗や悪いことを忘れ同じ失敗をすることは良くあることです。
だからと言って、毎年同じ「教訓」を繰り返しても、いや、繰り返すことで「マンネリ」になり、全く意味のなさないものになってしまうことさえあるのです。

 

例えば、日本には大きな地震が度々置きます。

その都度、その教訓を忘れないようにしてきました。

しかし、現実に大きな地震が起きるとそうした教訓が殆ど生かされず多くの犠牲者を出しています。

 

戦争に対する放送も同じです。

幾ら繰り返しても、悲惨さだけが強調され、戦争をしないという教訓にはなっていないのです。

例え、教訓になったとしても誰もプーチンのような人を止めることは出来ないのです。

 

従って、戦争の悲惨さを最も見せるべきなのはトランプとプーチンに対してであり、一般市民に対してではないのです。

以前の失敗を「改善しない限り」前進はありません。
今の平和に対する活動では「未来」は生まれません。
つまり、真の平和は決して訪れないということです。

野生の動物はなぜ自然の状態を続けることが出来ているのでしょうか。
彼らの平和は何によってもたらされているのでしょうか。
それは、以前のことには殆ど拘らないからです。
そのため、同じ罠にかかり人に撃たれることもあります。
しかし、それで野生動物の平和は失われ絶滅の危機に瀕したでしょうか。
確かに、そうなった動物もいるにはいますがそれ程多くの種類がそうなった訳ではありません。
野生動物が絶滅の危機に瀕しているのは人間による自然環境破壊が原因です。
人間が魚を取り過ぎたり殺したので絶滅しかかっている訳ではないのです。
動物は人間に殺されても、人間を恨むようなことはありません。
ただ、警戒心が強まるだけです。

畑の害獣であるハクビシン、アライグマ、アナグマ、その他の熊、サル、鹿、キョン、タヌキ、キジ、モグラなどを許可なく捕獲することは禁止されています。

人間の「身勝手な自然環境保護」のためです。

しかし、農家にとってはこうした害獣は大変な迷惑です。

人間にとっては害獣でも自然界では必要な存在でもあるのです。

 

人間が地球の環境を破壊しなければ、これら野生動物は自分たちのテリトリーを守って山から下りてくることはないのです。

人間の愚かな面は、害獣を保護している反面、殺虫剤を沢山使っていることにも表れています。
これは環境を変えてしまいます。
また、食物連鎖を断ち切り、異常に虫が増えたりその逆の現象を生じさせています。

自然にはバランスが最も大事なのですが、人間の都合でそれを壊しているのです。

野生動物の「平和」を破壊しているのは人間なのです。

同じことが「人間界の平和」についても言えます。
人間の平和を破壊しているのは人間なのです。-伝道の書8:9
物事に対する「過度な考え」や「過度な行い」が社会の自然の状態を破壊しています。
それには、毎年繰り返される戦争の悲惨さを放送することも含まれているのです。

 

嫌なことは野生の動物のように「忘れる」ことです。

常に、前を向き「生産的で建設的な良いことのために一生懸命になることです」
 

人間は忘れないので、自分の身を守るためにより強力な兵器を作ったりします。

こうして、力には力で対抗し、バランスを保とうとしているのです。
今の平和運動や戦争などの放送は「本末転倒」なのです。

戦争の悲惨さを放送しても人間の心に傷を負わせるだけで「真の平和」には全く役に立たないのです。

あなたはこうした考えを理解出来ますか?
物事はすべて「原点に返って考える」ことです。
そうすればより平衡の取れた考えや行いが出来ます。

敢えて、平和運動反対、戦争に関する放映の反対、殺人や暴力や性描写の含まれたドラマや映画や漫画の反対、
痴漢、ストーカー、盗撮、セクハラ、パワハラ、カスハラ、事故や強盗などのニュース放送も反対と「
大声を上げたい」です。
人は善いことも悪いことも真似をするからです。
良いことですら悪いことに利用する悪人も出ています。

社会から「悪」を除きたければ「悪」に関する情報を人々に知らせないことなのです。
人は、何事も知らなければ「悪いことをすることはない」からです。

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話を終戦直後に戻しますと、
戦後の復興のすさまじいまでの頑張りは日本人ならではの気質が良く現れ、時に、世界から賞賛される時もあります。

 

しかし、私の思いは違います。
日本はすべてを失ってしまいましたが、アメリカの支援を断って苦しく困難な時代とすることで、アメリカの責任を追及すべきだったと思っています。
ソ連はそういう日本に付け入って来ることは明白ですが、これとは、断固戦うまでのことです。
もしかすると、アメリカが代わりに戦ってくれたかも知れません。
そうなれば、ソ連の極東軍は壊滅状態となり、北方四島や千島列島や樺太は日本のままだったかも知れないのです。

 

吉田茂も余計なことをしたものだと思います。
しかも、日米安保迄秘密裏に結ぶなんて。
岸信介に至っては巣鴨プリズンに入った人(戦犯者)でありながら、首相となり国民の反対を押し切って日米安保改定に調印をしたのです。
非国民であり国家反逆罪で死刑にしても飽き足らない位です。
そのため、今でもアメリカ軍が日本に居座っているのです。

私はこうした日本を作った彼らも憎い
もし私に権力があれば、彼らを、墓を暴いても罰を与えます。

神が全権を与えてくれれば、今すぐにでもアメリカとロシアを滅ぼしたいくらいです。
しかし、こうした国の統治者たちだけではなく国民、市民は必ずしもこうした考えに同調する訳ではありません。
そうした人々の考えを変えることは困難です。
アメリカとロシアを滅ぼしても国民をコントロールできないのであれば意味のないことです。

 

過去の悲惨な戦争の映像を繰り返し放送することは、戦争を知らない人々に間違った印象を与え、間違った平和活動をさせることに繋がっています。

放送する人もその放送を観る人もこうした点を理解しているますか?
あなたはどうですか?
あなたなら悲惨な戦争の映像を繰り返し誰かに見せたいと思いますか?

知恵を求める人のためのブログです。

人類は新たな局面に突入しました。

今の時代、ネット社会となりあらゆることが可能となり、人間の本性が最大限に発揮される時代となってしまった。
もはや、後戻りは出来ません
昔は、武力が最大の武器でした。
今は、AIであり、ChatGPTであり、フェイクがあらゆる方面での便利さであるだけではなく脅威となっています。
ある者は自分を隠し、ある者は表に姿を表し(フェイクの場合もある)自己主張をし、また、あらゆるものを威嚇や攻撃を加えています。
その被害者は個人に留まらず政府とその機関にまで及んでいます。
その典型がアメリカであり、アメリカはそうした人々に乗っ取られてしまったのです。
アメリカをそうした状態に引き込んだのはトランプです。
そのトランプですら、既にそうした人々に陰で操られているのです。

トランプ自身は何事も自分が決定していると思っていますが、彼にその情報を与えた人々の思惑でトランプが操られてもいるのです

こうした点、プーチンの方が慎重です。

つまり、側近をそれ程信用してはおらず旧KGBの手法を未だに使っているからです。


ですから、ある意味、世界は情報を操る人々に乗っ取られていると言っても過言ではありません。

こうしたことは昔からあったことですが、そのスピードと規模が大きく違います。

ネット社会が情報の拡散を加速させているのです。


彼らの違法性を訴えても殆ど功を奏しないばかりか無視されたり逆に攻撃されるのです。
アメリカばかりではありませんが、現代はそういう社会になってしまったのです。

 

ロシアにしろアメリカにしろ、敵に対する国や人に嫌がらせだでけなく陰謀や殺害すら平気で行う国なのです。

各国の核施設や核ミサイルなどがネットに繋がっていればいずれ誰かに乗っ取られる可能性もあります。
そうなれば、その国の指導者の権限も及ばなくなる時が到来するのです。
まさに、恐怖の時代です。
SFではないのです。

今の時代、善人ぶったり正義感を振りかざしたりすると攻撃の対象となってしまいます。
もはや、社会には道徳も正義も存在せず、嘘と偽善と搾取と暴力で充満した社会になってしまったのです。
正に、無秩序な世界です。
こうした世界情勢は、予告された出来事でもあります。
世界が無秩序な状態になり犯罪が蔓延るようになるということは、今からおよそ40年以上前から警告していましたが、やっとそれが到来したのです。

こうした点で、ものみの塔も警告を発していましたが、ものみの塔の言うことだけに耳を傾け政治や社会に無頓着になっていると、世の中が全く分からなくなり、どのように対処して良いかが分からなくなります

これは、ものみの塔の信者に対する警告でもあります。

そのような人は正に、ものみの塔や世界を乗っ取った人々の餌食となってしまうのです。

クリスチャンでも平和に暮らす人もいれば犯罪に巻き込まれたり迫害に遭遇したり病気で苦しんだりする人も様々いる訳です。

神はこうした世界全体を終わらせる計画はありますが個々の人々に関しては個々の人々の行動にまかせているのです。
特に、信仰が関係している場合は何もしないのです。

一般的には、

信仰があるから神が助けてくれると考えがちですが、そうした考えは「世間の考え」です。

仏教の教えでも同じです。

しかし、

聖書の神は、違います

信仰を示す責任を個人に求めているのです。

こうしたことは聖書を読むと直ぐに分かります


神が人類全体を裁く時には、裁く者に(白い馬に乗っている者)に委ねています。
その裁きを生き残った人々が新しい世界の住人となるのです。
その一人となれるかは個々の人々の[義人としての]振る舞いに掛かっているのです。

 

終わりの日に関するイエスの言葉
7 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。
8 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
9 「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。
10 またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。
11 そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。
12 また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。
13 しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。
14 そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです。-マタイ24:7-14

ここでイエスは「終わりまで耐え忍ぶ」よう求めています。
裏を返せば、神もイエスも自分を信じる者、信仰を抱く者を「奇跡的な出来事で救う訳ではない」ことを示しており、それはいわば信仰の試練なのです。

しかも、イエスは終わりの日の出来事は「苦しみの劇痛の始まり」と述べているのです。
最後まで信仰を全うした者のみ救われることになるのです。

しかし、信仰を持つすべての人に「同じ試練」が臨む訳ではありません

一人ひとり置かれている状況が異なるからです。

なんとなく、終わりの日のクリスチャンのあるべき姿が見えて来たのではありませんか
そうなれば、自分が何をすべきかがわかるでしょう

そして、正しい振る舞い(神の目から見て義人となること)をする人だけが神の裁きの際死を経験することなく、新しい世界で平和に生きられる」のです。

残りの「善人」(一度死んで)復活にかけるしかありません。

実際、誰を復活させるか神とキリスト以外誰も知らないからです。

 

さて、あなたは世界の新たな局面をどのように思いますか。

今、あなたはこれからをどのような振る舞いをすべきかを良く考える時です。

知恵を求める人のためのブログです。

仲良く長く続く夫婦関係は、いわば、神と独立した状態を維持することにあります。

夫婦の間に神を置くと取り決めに齟齬が生まれるからです。

だからと言って、信仰を否定することにはなりません。

長く続く友達関係では、互いを良く知らない方が長く続く場合が多いものです。
目先のやることに気持ちが一致していればそれで十分だからです。
友達は長く続いても、一緒のいる時間は限られていて、プライバシーが守られている場合が多いものです。

ものみの塔の夫婦(共に信者)よりも、世の中の仲睦まじい夫婦の方が、余程安心して見ていられます。
その理由を以下に示します。
ある信者は同意するに違いありません。

恋愛では上手く行っても夫婦では上手く行かない場合があるものです。
恋愛の時と夫婦では付き合い方が違います。
夫婦は一緒にいる時間が長いので、プライバシーは存在しなくなり互いの善い点悪い点が良く見えるからです。

夫婦の場合は阿吽の呼吸という、言葉や考えだけではなく、感覚的な気遣いが必要なのです。
互いに対する気遣いが夫婦関係を長続きさせるものとなります。

どちらか一方の気遣いだけでは長くは続かないものです。
これでは対等というより隷属関係のようなものになってしまうからです。
歪な夫婦関係と言えます。

長く続くというのは互いの関係が上手く行くということであり、互いが互いに対して思っていることやることが違っていても互いがそれを受け入れる場合、あるいは、寛容である場合は上手く行く場合が多いものです。
夫婦が互いのことを良く知っているだけでは上手くは行きません。
互いを受け入れることが出来るかどうかが問題となるのです。

何かのことにいつまでもこだわっている場合それを相手が受け入れないなら上手くは行きません。
仮に、受け入れたとしても限界はあるもので、余りにも受け入れることが難しかったり多かったりしても上手くは行かないものです。

最も短期間で終わる夫婦関係は、互いが互いのことを殆ど気遣うことをせずに張り合っている場合です。
恋愛結婚の場合、互いを良く知っているつもりでもすべてを知っている訳ではありません。
むしろ、知らないことの方が多いものです。

(参考:お見合い結婚の場合は、大抵相手の素性はある程度知らされており、初めから妥協して受け入れているのでギクシャクしながらでも上手く行く場合が多いものです。

あなたの周りにもそのような夫婦を見たことがあるのではありませんか)


恋愛の場合は、相手に受け入れた貰うため「良い恰好」をしている場合もあるものです。

そういう二人が日常生活を共にすることで、今まで知らなかったことが沢山出て来て、時にはケンカになることさえあるものです。

恋愛結婚の場合は、互いが我儘な場合も少なくないのです。
結婚して、いわゆる蜜月期間が終わると「思いが現実に帰る」のです。
その時、それを互いが受け入れることが出来る以上の出来事があれば、その結婚は終わってしまいます。
しかし、子供が生まれていれば離婚したくても出来ない妻がいることも多いものです。
仕事をしながら子育てをすることは容易なことではないからです。
自分の両親が子供の世話をしてくれるなら離婚もありでしょうが、子供は父親なし(あるいは母親なし)となってしまうのです。

初めから相手のすべてを知って結婚する人は殆どいないのに、長く続く夫婦がいるということは、
互いが少しずつ受け入れ成長しながら夫婦生活を続けて来たからに他なりません。
最終的に互いを良く知り互いに対する敬意や気遣いや思いやりを示すことが出来るようになれば更に長く続くものです。

ものみの塔が「あなたの家族生活を幸福なものにする」という本の中で言っていることは「絵に描いた餅」です。
第一に、ものみの塔の信者の夫婦は普通の夫婦とは違い、互いが聖書の助言を受け入れることを土台としています。
第二に、にも拘らず、互いの考えや思いが異なる場合、容易に合意しない場合が多く、時には口論に発展する場合があります。
第三に、ものみの塔は互いが良く話し合ったり、時には、会衆の長老に相談することも勧めています。
第四に、夫婦や親子間では互いに許し合うことを助言しています。
問題が生じた時には、互いに対する気遣いを「愛」という一言で済ませている場合もあります。
コリント(一)13:4-7
4 愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,
5 みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,
6 不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。
7 すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。
このパウロの助言に従うことを勧めているのです。

では、こうしたものみの塔の助言に従っている信者の夫婦の現実はどうでしょうか。
表面上は立派な夫婦に見える場合がありますが、その実態は、つまり、家に戻って周囲に仲間の信者いなくなると、「信者になる前の自分に戻っている」のではありませんか。
知識としては「どうすべきかは分かっています」がそれを、誰も見ていないと信者となる以前のように振る舞うのです。

例えば、毎日晩酌をしたり、クラシック音楽を聴いてゆっくりくつろいだり、テレビの娯楽番組を観たり趣味に没頭したり普通の人たちと同じことをしている信者も少なくないのです。

実際、これらは大きな罪に問えるようなことではないからです。

しかし、会衆内と家庭内での振る舞いの違いは「二重人格」のような状態を示しています。

実際、無理に、ものみの塔の助言を適用すると「多くの問題を抱える」ことになる場合が多いのです。

私はものみの塔の夫婦が互いが信者の場合、「仮面を被った夫婦を沢山見て来ました」が本当に仲良く睦まじい夫婦を知りません。
なぜでしょうか。
それは、聖書では夫や妻にそれぞれの立場として要求されている事柄があり、問題が生じるとそれぞれ要求されていることを自分にではなく相手にそれを適用するように話し、相手を責めることが多いからです。
ものみの塔の信者はプライドが高く自信過剰な人が多いのです。

そしてそれは「見せかけの謙遜」という態度に現れるものです。

ある意味偽善でもありますが、本人としては求められている「人間像」になろうと努力しているのです。

ストレスが溜まり、時にはそれが理由で「してはいけないこと」をする場合もあるのです。

 

ものみの塔の信者も普通の人間ですから「欲」もあります。

そのため自分の欲求を我慢できず「罪」を犯してしまうことも少なくないのです。

淫行の罪を犯した信者を沢山知っています。

パウロは特に若いやもめに注意するように述べています。-テモテ(一)5:11-16


ものみの塔の信者の夫婦が普通の夫婦と決定的に異なる点は、共に神とキリストを崇拝している点にあります。

各々が信者としては問題がなくても、夫婦としては問題がある場合が少なくないのです。
特に、妻が夫より神とキリストに従うという態度を示す場合です。
それは、ものみの塔の助言に従って「家族生活」を送る場合の欠点とも言える部分です。
つまり、信者となる以前は夫の言うことに耳を傾けていた妻が夫に全面的に従わなくなってしまうのです。

なぜなら、ものみの塔では夫の取るべき振る舞いについて述べているので、妻は夫にそれを適用し、それを出来ない夫の姿を目の当たりに見ているからです。
そのため、夫を軽視するようになり、夫の言うことではなく、会衆の要求、伝道、集会、大会、そしてものみの塔の出版物に記されていることを優先させるのです。

こうして夫婦の間に亀裂が生じて来るのです。
そのため、時に夫は苛立ちを見せ「激怒」することさえあります。
これは、多くの場合妻の「思い違い」からきています。
つまり、神権的立場は、神-キリスト-夫-妻-子供の順なのですが、妻が、いわゆる「頭の権」を無視し、夫以外の聖書の教え(実際にはものみの塔の教え)に従い、もし、夫が正しくない振る舞いをすると、夫を責めたり、時には、軽蔑することさえあるのです。
更には、夫が妻の言うことを聞いてくれないので口論になったり「諦めてしまう」場合もあるのです。

あなたはこうしたものみの塔の信者の夫婦の実態をどのように思いますか?
面と向かっては聞けないことですから、良く観察するしかありませんが。

時には、夫や妻が愚痴をこぼすのを聞いたことがあるかも知れません。

実際、聖書の教えを完全に適用出来る人は一人もいないのに、自分には寛容でも相手には厳格に適用することを求めることが多いのです。

こうした過ちをしているものみの塔の信者の夫婦が実に多いのです。
あなたの身近な夫婦にも必ずいます。
もし、あなたの両親が共にものみの塔の信者ならこうした点を良く観察して見て下さい。
ただし、夫婦間のことに子供は口出しすべきではありませんから、気が付いても「必要がないのに発言をするべきではありません」
いわゆる、火に油を注ぐだけだからです。

こうしたことは、聖書の教えが間違っているということではなく、ものみの塔の教えとその適用が間違っているからなのです。
つまりは、ものみの塔の解釈、教えが間違っているということです。

もし、ものみの塔の解釈や教えが正しけれ問題のある夫婦が殆ど出ないはずであり、それを誇りに思って伝道活動などで度々口に出てくるはずです

ものみの塔の信者が家族関係について話す時は、ものみの塔の「家族生活」という本の内容の受け売りであり「実践的なものではない」のです。

パウロがテモテに宛てた手紙にある通りです。
5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい。

6 こうした人々の中から,[あちこちの]家族の中にそれとなく入り込み,罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者が出るのです。[その女たちは,]さまざまな欲望に引かれ,
7 常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。
-テモテ(二)3:5-7
パウロのこの助言では「女」が悪いような内容になっていますが、夫と子供にも適用されるのです。

ものみの塔の信者が「家族生活」に書かれてある内容に沿って話すことは「わたしは聖書の教えを信じています」というパフォーマンスに過ぎないのです。
実際には、ものみの塔の言うことを信じてそのまま話しているに過ぎないのですが。

そして、現実の自分の家庭では「分裂」しているのです。

これは大いなる矛盾であり偽善です。

なぜ、ものみの塔の信者の夫婦が上手く行かないのでしょうか。

それは、上に述べた通りですが、
繰り返しますと、互いに聖書の教え(実際にはものみの塔の教え)を「押し付け合う」からです。
何かあれば、直ぐに「聖書にこう書いてある」とか「ものみの塔ではこうしなさい」と言っているなどと、相手を責めたり要求ばかりしているからです。
そして、自分の至らない天については「寛容」なのです。

彼らは決定的な間違いを犯しているのです。
ものみの塔の「家族生活」の本を読むと分かりますが、ものみの塔は「要求」ばかりしています。
こうしてものみの塔はすべての信者を「ものみの塔の奴隷のように」しようとしているのです。
ものみの塔が「こうすべきだ」と言う時には「思惑」が含まれているのです。

つまり、ものみの塔の信者の夫婦はこうあるべきだと「理想的な夫婦像」を押し付けているのです。
その結果、「見せかけだけの信者の夫婦」が増えていることに、ものみの塔は気が付いていないのです。

もし、あなたがものみの塔の会衆で疑問に思ったり不快な気持ちになったとしたら「ものみの塔の思惑という空気」のためである場合が少なくないのです。

騙されてはなりません、ものみの塔も「嘘や偽善」を働くのです。
表面上のことで「騙されてはなりません」
もし、騙されたら「あなたの永遠の命の保証はありません」
注意を怠らないことです。
不審に思ったらいつでもものみの塔から離れることです。
そうすれば「命の道」に戻れるかも知れません。

++++++++++++
キリスト教の精神は寛容と許しなのです。
ものみの塔は「家族生活」でこの点を明確に教えてはいません。

夫婦間で寛容と許しが行われると「不都合」なことが生じる場合があるからです。
それゆえ、ただ、聖書の言葉を「杓子定規」に記述し適用するようにと言っているだけなので上手く行かないのです。

何事も聖書の通りにはいかないものです。
コツが必要なのです。
例えば、パソコンを使うに当たって、取説などを参考に自分の知識だけで使おうとすると上手く行かないものです。
上手く使いこなすには「コツ」が必要なのです。
つまり、パソコンやOSなどについて良く知っている必要があり、それらを使いこなすには、その特徴を受け入れることです。
それをしないで、パソコンを「完全視」し、出来るとか出来ないとか言って持て余しているのです。
実際には、自分の「無知」が原因なのですが。

更に言えば、ハサミはハサミとしては使えても包丁にはならないのです。
パソコンでも出来ることは限られているのです。
勿論、分かっていると言うかも知れませんが、パソコンやOSやソフトのすべてを知って使っている訳ではないので、上手く使いこなせないことが生じるのです。

夫婦関係や家族生活でも同様なのです。
互いを良く知り寛容さと許しの精神があり、互いが相手を裏切らなければ聖書の教えに頼らなくても夫婦関係や家族関係は上手く行くのです。

聖書に書かれている夫婦関係や家族関係は、提案や指導と言った「大義」であって、詳細な取説ではないのです。
微妙な点に関しては、イエスがペテロに言ったように「何回でも許す」ことが求められているのです。
つまり、寛容と許しが必要なのです。

繰り返しますが、ものみの塔の信者が夫婦である場合、互いに対する「理想像」が聖書に示されています。
しかし、現実にこれを完全に適用出来る夫婦は存在しないのです。
夫婦間に、何か問題が起きる度にこれを持ちだしたら「夫婦関係は破綻」することは目に見えています。
なのに、このような夫婦が実に多いのです。

パウロが言ったように、律法は「罪を明らかにするため」なのです。-ローマ5:13
なのに、互いが聖書の理想を当てはめようとしたら上手く行かないのは当然のことです。

あなたがものみの塔の信者ならこうした光景を数多く見ているはずです。
なのに、なぜものみの塔の教えに、説明に、助言に、指導に「疑問」を抱かないのですか。
上手く行かないのは「自分たちの霊性が低いからだ」と思っていませんか?
そうではありません。
ものみの塔の聖書の解釈と適用が間違っているのです。
間違っているので、ものみの塔の教えに従っても上手くは行かないのです。

ものみの塔は奇麗ごとばかり言って、信者の不都合は余り公表しません。
現実に破綻している夫婦は多いのです。
夫婦関係を維持していても「見せかけの偽善夫婦」である場合が多いのです。
完全に聖書の教えを守れる人は一人もいないからです。

ですから、互いを裏切らない限り寛容と許し合うことで正常な夫婦関係を維持出来るのです。

ものみの塔は自分たちの教えに関して、また、夫婦関係に関して「過ちを隠すのではなく認めるべき」です。
そして、ものみの塔の教えではなく、どうすれば良い夫婦関係を築けるかを夫婦が互いに良く考え話し合い実行することです。
問題が起きる度に何度も話し合って、互いの気持ちや考えを理解しそれを受け入れることです。
聖書を何度も読んで、なぜそのように書かれているのかを理解し、自分がどのようにそれを適用出来るかを考えることです。

いつまでも、幼子のようにものみの塔の教えに従っていたのではキリストの弟子としては全く成長していないのと同じです。-コリント(一)14:20
クリスチャンは成長することが求められているのです。

初めのテーマの結論は、
夫婦は互いの考えや気持ちを理解し、互いを裏切らない限り思いやりと寛容と許しがあれば、夫婦関係は仲良く長く続きます
それは「幸せであり満足なこと」なのです。

必ずしも聖書の助言を必要とはしていないのです。

無理に聖書の助言を当てはめようとしなくても良いのです。
聖書の助言が必要なのは「崇拝行為」と関係のある事柄に対してです。
何をするにしても、偶像に犠牲として捧げられたものや血を食べることや淫行に関係していなければ、そして、犯罪に関係していなければ、大抵のことは何でも出来るのです。-使徒15:28-29

(参考:これはペテロがクリスチャンは割礼を受けるべきかどうかに関して語った言葉です。

 つまり、モーセの律法に従うべきだという主張に対する結論です。

 モーセの律法の中には夫婦の在り方についても記されています。

 更に言えば、間もなくユダヤ人たちは律法から解放される時が来ようとしていたこともあります。

 しかも、この結論を出したのは、使徒たちだけではなかったのを皆さんは気が付いていましたか?

 聖霊が、つまり、モーセの律法を与えた神が出した結論でもあるという点です。

 -参考 民数記30:16)

 
道徳的であることやいわゆる品行方正であることなどは、その人の「質」の問題です。
必ずしも、こうした点はいつも問題となる訳ではありません。
それでも、クリスチャンとして「ふさわしくあるよう」絶えず努力し続けるべきです。
そうすれば神はあなたを、あるいは、あなた方を認めて下さるかも知れません。

 

信者でない普通の夫婦の方が仲良く睦まじくいられるのは、夫婦の間に「神もキリスト」も存在しないからです。

それゆえ、妻は夫に敬意を示し同じ考えを持ち従いやすいのです。

 

ものみの塔の信者の夫婦でも、各々個人としては信者として全うしつつも、夫婦の間には「神とキリスト」を介入させなくても良いのです。-創世記2:24

各々が聖書の助言(夫もしくは妻に対する)を個人として適用することです。

相手を責め「裁く権限」はないのです。


++++++++++++
参考:祈りに関して
以前、祈ることを止めたと言いました。
その理由を再度繰り返します。
自分の祈りを吟味して見て下さい。
大抵の場合、身勝手な祈りが多いのではありませんか。
自分のことに関して○○をして下さいとか、○○になりますようになどと祈ることは利己的かもしくは身勝手だと考えています。
神にそのような負担を強いることは誰も出来ないですし神もそのような祈りには耳を傾けることはしません
イエスが弟子たちに教えた祈りの仕方で十分なのです。-マタイ6:9-13
それに、自分の個人的なことを加えても「神は決して聞いて下さらない」のです。
それは、日々祈っているあなた自身が良く知っているはずです。

本当に必要なことでも祈るべきかは考えるべきです。
あなたは神は全能なので何でも聞いて下さると思っていますか
それは、間違いです。
実際、聞いては下さらないのです。
イエスは「王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば、これら他のものは皆あなた方に加えられるのです。それで、次の日のことを決して思い煩ってはなりません」-マタイ6:33-34
と言われました。
個人的な必要を祈りに含めることはこのイエスの助言に従ってはいないことになります。
つまり、イエスに信仰を働かせていないという証拠なのです。

あなたは気が付いていましたか。
個人的なことを祈りに含めることは不信仰を示していることなのです。

私は個人的なことで神を煩わさせることはしないと決めたのです。
当然ですが、自分で出来ること何でも自分ですることに、また、努力することにしたのです。
勿論、ある人たちは神に祈っても努力はしているでしょうし、それによって、心の負担が少し軽くなるということもあるかも知れません。
それは、甘えです。
信仰は甘いものでも楽なものでもなのです。
このように書くと信仰なんてまっぴらだと思う人もいるかも知れません。
しかし、それが現実なのです。
命に至る門は狭くて厳しいのです。
マタイ7:13-14
13 「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。
14 一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。

マタイ6:5-13
5 「また,祈るとき,あなた方は偽善者たちのようであってはなりません。彼らは,人に見えるように会堂の中や大通りの角に立って祈ることを好むのです。あなた方に真実に言いますが,彼らは自分の報いを全部受けているのです。

6 しかし,あなたが祈るときには,自分の私室に入り,戸を閉じてから,ひそかなところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば,ひそかに見ておられる父があなたに報いてくださるでしょう。
7 しかし,祈る際には,諸国の人々がするように同じことを何度も繰り返し言ってはなりません。彼らは言葉を多くすれば聞かれると思っているのです。
8 それで,彼らのようになってはなりません。あなた方の父であられる神は,まだ求めないうちから,あなた方がどんなものを必要としているかを知っておられるのです
9 「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません
「『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。
10 あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように。
11 今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください。
12 また,わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許しましたように,わたしたちの負い目をもお許しください。
13 そして,わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください』。

あなたが神とイエスに信仰を持ち、義人となるよう努力しているなら、もしかすると、すべてを知っておられる神の憐みがあなたにもたらされるかも知れません。

また、必要なものを備える点におけるイエスの言葉です。
25 「このゆえにあなた方に言いますが,何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。魂は食物より,体は衣服より大切ではありませんか。
26 天の鳥をよく観察しなさい。種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。それでも,あなた方の天の父はこれを養っておられます。あなた方はそれらより価値のあるものではありませんか。
27 あなた方のうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビトを加えることができるでしょうか。
28 また,衣服のことで,なぜ思い煩っているのですか。野のゆりから,それがどのように育っているか,教訓を得なさい。労したり,紡いだりはしません。
29 しかしあなた方に言いますが,栄光を極めたソロモンでさえ,これらの一つほどにも装ってはいませんでした。
30 では,神が,今日ここにあって明日かまどに投げ込まれる野の草木にこのように衣を与えておられるなら,ましてあなた方に衣を与えてくださらないことがあるでしょうか。信仰の少ない人たちよ。
31 それで,思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。
32 これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。
33 「ですから,王国と[神]の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これら[ほかの]ものはみなあなた方に加えられるのです。
34 それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。-マタイ6:25-33

更に、何か問題が発生した時に参考となるイエスの言葉です。
38 「『目には目,歯には歯』と言われたのをあなた方は聞きました。
39 しかし,わたしはあなた方に言いますが,邪悪な者に手向かってはなりません。だれでもあなたの右のほほを平手打ちする者には,他[のほほ]をも向けなさい。
40 そして,もし人があなたと一緒に法廷に行ってあなたの内衣を手に入れようとするならば,その者には外衣をも取らせなさい。
41 また,だれか権威のもとにある者があなたを一マイルの奉仕に徴用するならば,その者と一緒に二マイル行きなさい。
42 求める者に与え,あなたから[利息なしで]借りようとする者に背を向けてはなりません。
43 「『あなたは隣人を愛し,敵を憎まなければならない』と言われたのをあなた方は聞きました。
44 しかし,わたしはあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛しつづけ,あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい。
45 それは,あなた方が天におられるあなた方の父の子であることを示すためです。[父]は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです。
46 というのは,自分を愛してくれる者を愛したからといって,あなた方に何の報いがあるでしょうか。収税人たちも同じことをしているではありませんか。
47 また,自分の兄弟たちにだけあいさつしたからといって,どんな格別なことをしているでしょうか。諸国の人々も同じことをしているではありませんか。
48 ですから,あなた方は,あなた方の天の父が完全であられるように完全でなければなりません。
-マタイ5:38-48

こうしたイエスの助言は祈りの仕方がどのようなものであるべきかを教えています

知恵を求める人のためのブログです。

聖書の言葉、真理に対する人々の反応は人を分けるものとなります。

聖書の真理を述べ聖書の内容や出来事を記述し、それを基に聖書の見解を述べたり社会の出来事の批判をブログで公開していますが、その反応は様々です。

それは、実は内容は人を分ける「神の道具」の一つとなっています。

どんな形にせよ、聖書に記されている「ことば」を公開することは良いことなのです。
 

聖書の言葉、記述をそのまま人々に提供することで、それに対する反応は必ず生じます。
人々のその反応の仕方によって「一人ひとり分けられている」ことになります。
イエスは次のように述べているからです。
31 「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に[到来する]と,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。
32 そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます
33 そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう。
34 「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい。
・・・
41 「ついで彼は自分の左にいる者たちにこう言います。『のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入りなさい。
・・・
46 そして,これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります」。
-マタイ25:31-46

すべての人は聖書の音信に対して「それとは思わずに自分の思いで反応する」と思いますが、それで良いのです。
そうでなければ、その人の反応には誰かの「意図的な作為」が含まれ「人を正しく分ける」ことが出来なくなってしまいます。
つまり、嘘や偽善が含まれるということです。

自分自身の反応を「隠す」ということがあり得るでしょうか。
「人は自分を騙す」などということが昔から言われて来たことです。
正直な自分の気持ちや考えを「隠し」真逆のことをすることは良くあることです。
善に対して悪を、悪に対して善を行うことさえあります。
欲に対して無欲を、無欲に対して欲を、独善、利己的、客観など様々あります。
つまり、人は嘘をつく生き物なのです。

他人の嘘にも騙されやすいものですが、自分自身に対しても騙すのです。
二重人格と言っても過言ではありません。

しかし、心の反応や感情は「常にその人自身」そのもので「嘘も隠し」も出来ないものです。

しかも、神やキリストは人の心や動機を調べると聖書には記されているので、このお二人に自分の心の内を隠すことは「出来ません」-参考 詩編7:9、エレミヤ11:20、17:10、啓示2:23

「終わりの日」の今日は「人を分ける時」でもあります。
イエスは「様々な例え」で繰り返し述べています。
人をなぜ分ける必要があるのでしょうか。
人を「永遠の命」に至る者と「永遠の切断」の至る者のいずれかに分けるためです。
-マタイ25:34-46

分けてどうするのでしょうか。
「永遠の命」に至る者たちにこの地球上で平和で安全に暮らさせるためです。

天地人の創造者である真の神は人が平和な場所で幸せに生きることを望んでいます。
しかし、聖書の中で度々「悪人」が滅ぼされていますが、いわば、欠陥品を取り除くようにそうした人々を除き地球を平和で住みよい場所とするためです。

天と地に悪をもたらした存在も取り除かれます。

神ならばそうした悪人を改心させ善人、または、義人と共に永遠に生きられるように出来るのではありませんかと思う人もいるかも知れません。
しかし、神はそのようにはしません
なぜなら、
1 一人ひとりの意思を尊重している
2 神に対する信仰は「各々の責任」
だからです。

神は公平な方ですから、すべての人に神と神の考えを知る機会を与え、その上で各人にどうするかを決めさせるのです。
そのための手段の一つとして「復活」と「神の王国による千年支配」によって、悪が蔓延(はびこ)り、また病気や死や争いがある今のような世の中ではなく、平和で病気も死も争いも苦しみも悲しみもない状態で1000年(中には復活によっては少し短くなります)生き続けさせることで「真の神がどのような方か、神の地に対する目的と真理を理解する時間が与えられることになります。
つまり、真理を理解するのを妨げるすべての要素を取り払った状態で生きさせることで一人ひとりが正しい決定をすることが出来る土台を据えることです。
そして、その上て最後にアダムとイエスが受けた「悪魔の誘惑」という試練を受けることになります。
この「悪魔の誘惑」を退けることで「永遠の命」のための「水」と「食物」が与えれるのです。
同時にすべての悪と苦しみと悲しみの終わりとなります。
「悪魔の誘惑」を退けることに失敗した人々は「永遠の切断」に入れられ、つまり、永遠に滅ぼされることになります。
その点で人に言い訳が出来ないようにさせるためでもあるのです。

そうであれば、[今]人々を分ける必要はないのではないかと思う人もいるかもしれません。
今分けられる人々には「唯一の特権」があるのです。
それは「今の時代の滅びを生き残り」神の王国の支配における地球上の初めての人類となる特権です。
つまり、「唯一死を経験しない世代」となるという特権です。

こうしたことの始まりが「人を分ける」ことなのです。
既に、キリスト共に地(地球)を支配する神の王国の人々は選ばれ、復活して天でその時を待っています。
残りの人々はその神の王国が支配する地球で暮らし始めるのを待っている状況です。

普通、雄弁な人の話はもっともらしく納得させられることが多いものです。
しかし、聖書の音信はそのようなものではありません
ただ、その人に聖書の音信を伝えるだけで良いのです。
話す人の話し方が上手、下手は関係ないのです。
聖書の音信をそのまま伝えるだけでも十分なのです。

理解と説明が必要なのは「信者となった後」正しい振る舞いが出来ない時です。
例えば、イエスの言葉を理解したり納得するか否かという点が問題となる訳ではありません。
イエスの話すことに信仰を置くかどうかということが問題なのです
そして、信者となったからにはイエスの教えに従う必要がありますが、その時正しい理解や知識がない場合は誤った振る舞いや行動をとることがあるので教える、説明する必要があるのです。

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参考 ものみの塔は神とイエスに信仰を抱く者でバプテスマを希望する者に対して、バプテスマを受ける前に「バプテスマの討議」と称して聖書の正しい知識や理解を求め、そして組織に対する忠節もしくは忠実を求めていますが、これは
間違いだということです

例えば、ペテロとその兄弟や、収税人だったマタイがイエスに声を掛けられイエスの追随者、つまり、弟子となった時事前に知識や理解を求められてはいませんでした
そして、実際弟子となってから度々イエスに質問し理解を深めて行ったのです。

こうした事実とものみの塔のすることとは「大きく乖離」していることは明らかです。
ものみの塔は信者になる前から「完全」を求めているのです。

実際、イエスはそのようなことを求めてはいません

おそらく、このように言うと「そうではない」と反論するでしょうが、バプテスマの討議を行いその結果バプテスマを、いわば、許可をするのが会衆の長老たちなのです。
つまり、バプテスマの討議は「信者になるための試験」なのです。

こうしたものみの塔のやり方は「聖書の根拠を持たない偽りの行い」です。

現実には、信仰を抱きバプテスマを受けたいという者を誰一人「拒絶」することは出来ないのです。

 

しかし、それでもものみの塔による「バプテスマの討議」を受けバプテスマを受けた信者たちは知識においても理解においても十分身に付いている人はいません

ただ、ものみの塔の書籍を聖書研究と称して教えられたことを覚えただけの「うろ覚え」であることは明らかです。

討議の際、間違った解釈や考えをしていると、討議している長老に「正される」ことさえあります。

そして、討議が終わった後、長老団がその人がバプテスマを受けるのがふさわしいかどうかを話し合うもとされています。

この点も、討議そのものも疑問を抱かせるものとなります。

繰り返しますが、イエスはそのようなことを初めから求めてはいないのです。
イエスが弟子たちに求めていたのは、イエスの話すことや行いを見て「学ぶ」ことだったのです。
信者になってからのことです。

ですから、聖書の音信を聞いて神とイエスに信仰を持ったらバプテスマを受けて良いのです。
そして、知識と理解を深め行動で示すよう努力するのはその後のことなので、安心してクリスチャンになれるのです。
+++++++++++

さて、あなたは聖書の記述(音信)をどのように見なしどのような態度を取りますか?
それによって、あなたの運命は決定するのです。
今の世の中に合わせたり成功すること真の幸福となることでも命を長らえさせるものではないのです。

知恵を求める人のためのブログです。

今更のウクライナについて[ウクライナの後悔

ウクライナ国民の選択[過去の選択の可能性]
ロシアが工作をしてベラルーシのようにウクライナをロシアの支配下に置くことが出来ていればロシアによる侵攻はなかったと断言出来ます。
しかし、ウクライナはEUなど西側と連携した自由を求めました。
それでも、プーチンはウクライナに対して脅威は全く持っていなかったことは間違いありません


プーチンは隣国であるウクライナが西側の一部になりNATOに加盟し、NATOやアメリカ軍などがウクライナに駐留することを恐れ、自分の力が及ばなくなることだけは避けたかっただけなのです。
ただ、それだけのためにプーチンはウクライナに侵攻したのです。
それも、キーウを短時間で占拠すればウクライナ全体を支配下に置けると考え実行したのです。
ところが、その思惑は外れウクライナの抵抗を受けてロシア軍を引き上げざるを得なくなってしまいました。
ロシア兵もプーチンの思惑を知らされてはおらず、単に演習程度にしか知らされていなかったのです(一部の兵士の証言)。
しかし、ロシア軍はウクライナ市民の虐殺をしたことから戦局は違った方向へと向かってしまいました。

その結果、ウクライナ、ロシア双方に大勢の戦死者を出し今も続いているのです。

確かにプーチンの愚かな行為ではありますが、ウクライナがもっと賢ければ、つまり、ロシアの影響下を我慢すれば不自由でも死ぬことも建物の破壊も家族の分裂もなかったのです。

ウクライナにとって、これは屈辱的なことではなかったはずです。

なぜなら、僅か30年ほど前まではソ連の一部であり、それも核兵器を大量に保管しているソ連にとっては重要な国の一つだったからです。

しかし、1968年に始まった「プラハの春」という世界的な民主化運動が少しずつウクライナ市民にも及んだのです。

 

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参考

プーチンはKGBの対外情報部員として16年間勤務し、1991年に辞職し、サンクトペテルブルクで政治活動を開始しました。その後、1996年にモスクワに移り、ボリス・エリツィン政権に参加し、連邦保安庁長官、連邦安全保障会議事務局長を経て、1999年8月に首相に就任しました。
同年12月にエリツィンが辞任し、プーチンは大統領代行に指名され、翌2000年のロシア大統領選挙を制して大統領に初当選しました。

プーチンの頭の中はKGB時代に考えていた「出世工作(上司への見せ掛けの服従)」と「ソ連のあるべき姿」で満たされていました。

そして、大統領になった時に「本性を出した」のです。

その中に、旧ソ連で解体した以前の共和国をロシアの支配下に取り戻すことが含まれています。

大統領になってからは政権基盤の確立や国内政策に力を注ぎ、それが上手く行くと2014年にウクライナ南部のクリミア半島を一方的に併合したことに始まりそれ以前からの政治工作をウクライナに仕掛けましたが、時代の流れから思うようには進められず、2022年2月にウクライナに軍事侵攻という強硬手段に出たのです。

2020年12月、大統領経験者に従来の在職中のみから生涯にわたって訴追されない不逮捕特権の免責権利の保障を改正法案に署名し、2021年7月から発効しています。

ロシア国民の多くはプーチンに反対していますが、それを弾圧するためでもあります。

こうしてプーチンは自分の悪事が法で裁かれないようにし自身の安泰を図ったのです。

1952年10月生まれのプーチンは現在72歳です。

政治家としては高齢の域に達しています。

ちなみに、トランプは1946年6月生まれの79歳です。

83歳までトランプは大統領に、プーチンはその年まであと11年あります。

ロシアの暗黒の時代は少なくともあと10年は続くことになります。

 

一般に、共産主義国家や社会主義国家の政治指導者は「独裁的」なのに対して、

民主主義国家の政治指導者は「民主的」です。

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ここで少し視点を変えたいと思います。
キリスト教を国教に持つウクライナがもしイエスの助言に従って入ればと考えるのは私だけでしょうか。
マタイ5章
38 「『目には目,歯には歯』と言われたのをあなた方は聞きました。
39 しかし,わたしはあなた方に言いますが,邪悪な者に手向かってはなりません。だれでもあなたの右のほほを平手打ちする者には,他[のほほ]をも向けなさい。
40 そして,もし人があなたと一緒に法廷に行ってあなたの内衣を手に入れようとするならば,その者には外衣をも取らせなさい。
41 また,だれか権威のもとにある者があなたを一マイルの奉仕に徴用するならば,その者と一緒に二マイル行きなさい。
42 求める者に与え,あなたから[利息なしで]借りようとする者に背を向けてはなりません。
43 「『あなたは隣人を愛し,敵を憎まなければならない』と言われたのをあなた方は聞きました。
44 しかし,わたしはあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛しつづけ,あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい。
45 それは,あなた方が天におられるあなた方の父の子であることを示すためです。[父]は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです。
46 というのは,自分を愛してくれる者を愛したからといって,あなた方に何の報いがあるでしょうか。収税人たちも同じことをしているではありませんか。
47 また,自分の兄弟たちにだけあいさつしたからといって,どんな格別なことをしているでしょうか。諸国の人々も同じことをしているではありませんか。
48 ですから,あなた方は,あなた方の天の父が完全であられるように完全でなければなりません。

イエスの助言に寄れば、ウクライナはロシアに抵抗するのではなく、敵であるロシアを愛し、また、祈り、ロシアの求めに何でも応じるべきだったのです。
ウクライナ人も殆どはクリスチャンだと思います。
ロシアが侵攻して来た時「我を忘れて」反撃に出てしまったのです。

勿論、ロシア兵もクリスチャンです。
ですから、クリスチャン同士が戦っていることになるのです。

イエスは次のようにも語っています。
同じくマタイ12章
[イエス]は彼らにこう言われた。「内部で分裂している王国はすべて荒廃に帰し,また内部で分裂している都市や家はすべて立ち行かないでしょう。
26 同じように,サタンがサタンを追い出すなら,[サタン]は内部で分裂していることになります。そうしたら,彼の王国はどのようにして立ち行くでしょうか。

要点はこうです。
両国とも同じ東方正教会の流れを汲むクリスチャンでありながら戦っていることは、いわば、内部分裂です。
ウクライナの宗教は、東方正教会(ロシア正教)72%、東方典礼カトリック教会(ロシア正教の礼式でカトリックを受容)14.1%、プロテスタント2.4%、カトリック1.7%、イスラム教0.6%、ユダヤ教0.2%、その他9%。
一方、
ロシアの宗教はロシア正教で東ローマ帝国の国教だった東方正教が母体となっています。
15世紀に東ローマ帝国が滅びると、聖都として「第三のローマ」を呼号したモスクワが台頭、カトリックの影響を退け、17世紀には東方正教徒のウクライナ・コサック(ウクライナの自治的な武装集団)と同盟、これを基礎として18世紀にはピョートル大帝が帝国ロシアを創設したとされています。

この帝国はロシア人の帝国ではなく「正教の帝国」であって、ロシア正教会は「大ルーシ(今のロシア)、小ルーシ(ウクライナ)、ベラルーシ」という「ルーシ国家の国教」となったのです。

こうした宗教的背景から言えばロシアもウクライナもベラルーシも併せて「一つの帝国」ということになります。
ある意味、プーチンはこれを目指していたのかも知れません。

それはそれとして、
イエスの言葉によれば、ロシアとウクライナの闘いは「内部分裂」であり、どちらも立ち行かないことになります。

今更ではありますが、ウクライナでプーチンの思惑通りベラルーシのようにロシアよりの政権が確立していれば、プーチンはウクライナに侵攻しなかったのです。
しかし、ウクライナはNATOに加盟することを望み、また、国民もロシア寄りの政権を拒否したためにプーチンは危機感を感じウクライナに侵攻したのです。
バルト三国についてはロシアがまだ混乱期にあった2004年NATOとEUに加盟しています。

小国でありロシアにとっての脅威は小さい上にロシアの天然ガスのドイツへの海中パイプの設置場所でもあるので侵攻を強行するには危険が大き過ぎます。
下手をすると「ガスからの膨大な利益」を失うことになってしまうのです。
しかし、ウクライナは別なのです。
ロシアにとってウクライナはベラルーシ以上に特別な土地なのです。

ウクライナのいわゆる西側寄りの考えが国民に浸透してきたのは時代の流れです。
ロシアでさえ西側の文化の影響を受けています。
ベラルーシでもウクライナと同じ動きがありましたがルカシェンコがロシアの後ろ盾を得て政権を長期に渉って維持しているので西側寄りになるのを抑え込んでいるのです。
勿論、ベラルーシでも国民の多くはルカシェンコに反対していますが、力で抑えつけているのです。
それでも、ベラルーシは「賢い選択」をしたとも言えます。
ロシアの脅威に晒されることを防いだからです。
ルカシェンコはまるでプーチンの部下であるようにさえ見えます

この点ウクライナはロシアとドイツに挟まれた位置に存在し、歴史上、戦場の拠点となり度々戦場となって来ました。
そして、その都度復活して来たウクライナはおそらくプライドはロシア人より高く時代はウクライナの完全な独立を望んだのです。(しかし、約20年ほど遅すぎました

それでも、ウクライナがもっと賢ければベラルーシと同じ選択をしたかも知れないのです。
つまり、戦争を回避し多くの犠牲者を出さずに済んだし建物などの損傷も防げたのです。

アメリカ-EUの連合とロシアという対立構造は変わりませんが少なくとも大きな紛争にはならなかったのです。

過去の歴史としてロシア(ソ連時代を含めて)はアフガニスタンに侵攻し10年戦いを続けました。

チェコでは23年間もソ連軍が駐留していました。

いずれにしてもこの侵略は失敗しています。

  

また、プーチンがこうした行動に出た背景に、1991年7月1日にワルシャワ条約機構が解散し1991年12月26日にソ連共産党の解体と解散と共にソ連が崩壊したことにあります。

つまり、西側NATOと戦う仲間がいなくなったからでもあります。

  

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参考

ソ連がアフガニスタンを去った後アメリカが入り、アメリカが去るとイスラム教のタリバンが入り混乱状態が続いています。

つまり、ソ連とアメリカがアフガニスタンという国を「破壊」「衰退」させたのです。

その後のイラクに関しても同様です。

後述のダニエルの預言と関連がありますが、この二つの大国は世界秩序を保つのではなく「破壊」しているのです。

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ウクライナとの戦いがこれ程長引くとはプーチンも思ってはいなかったことは確かです。
プーチンは三日でキーウを占領して一方的に宣言すれば終わると考えていたのです。
しかし、ウクライナがこうした情報を事前に察知してロシアの侵攻に備えていたので、逆に三日で退却させられたのです。
そのため、方針を変え南部からつまりクリミアを足掛かりに侵攻することに変更を余儀なくされたのです。
プーチンの望みはウクライナのロシア化であることは明白です。

歴史上ドイツとロシアに挟まれて戦場になることが多かったのに、ソ連崩壊で独立した時ウクライナはなぜ軍備を強化しなかったのでしょうか。
加えて核ミサイルをなぜロシアに渡してしまったのでしょうか。
ロシアが混乱している間にウクライナは西寄りの政府を確立しロシアの影響を極力排除し軍備を強化する必要があったのにそうしはしませんでした
従って、ウクライナの問題点はバルト三国のようにロシアが混乱している間に西寄りの政府の確立が出来なかったことにあります。

ウクライナの政権に関しては度々ニュースになりロシアよりの大統領がロシアに亡命するなど混乱状態が続来ました。
なぜなのか。
ウクライナ国民はロシアの影響をなぜ排除出来なかったのでしょうか。
ロシアによる工作がそれほど強いものだったのでしょうか。
ロシアが混乱している間に、ゴルバチョフとエリツィンの時に、なぜアメリカ、イギリス、フランスなどはウクライナに手を貸さなかったのでしょうか
アメリアなど彼らの目は、冷戦時代にあったことは確かです。
そのため、ロシアの力を削ぐことに注意を向けていたのです。

ロシアがどんなに反発しても西側寄りの政権の確立を急ぐべきだったのです。
もたもたしている間に、プーチンにクリミアを取られてしまいました。
ゴルバチョフの時代にこうした動きをしていればウクライナはドイツ、ロシアに挟まれても強い国でいられたのです。
ウクライナはフランスが欧州の農産物の産出国であったように旧東側の穀倉地帯でもあるので裕福な国になった可能性は大きかったと言えます。
ポーランドやベラルーシは寒すぎて穀物が余り取れない貧しい国です。
ウクライナは恵まれた土地なのです。
プーチンは昔からウクライナに目を付けてどうしてもウクライナが欲しかったと思います。
それを今になって実行したのは、一つにはバイデンが大統領になったことは大きいと思います。
バイデンに、トランプやオバマやブッシュのような強硬政策はとれないとプーチンは見たのです。
つまり、バイデンはプーチンに侮られたのです。

プーチンとて長引く戦争はロシア経済に悪い影響を与えることは承知しているので、当初は三日で終わらせるつもりで始めた侵攻だったのですが思わぬ反撃に遭い、また、西側がウクライナの支援をしたことから戦争が長引いてしまいました。
プーチンとしても戦争を始めた以上簡単に「矛を収める」ことが出来なくなってしまったのです。

何らかのきっかけがなければこのままずっと戦争を続けることになりロシア経済にとっては最悪の事態になりつつあります。
そのきっかけが何かはプーチンの考え次第でもあります。
今、トランプが度々戦争の終結を働きかけていますが、トランプのロシアへの経済圧力が更に強くなると、もしかすると、突然ウクライナ侵攻の拡大を中止し、今の状態を維持すると言うかも知れません。
これに対して当然ウクライナは反発しますがアメリカやEU諸国がこれを容認すればウクライナに抵抗する術はありません
しかし、ウクライナのEUとNATO加盟のチャンスでもあります。
プーチンはこれに断固反対していますが、もしかするとトランプはプーチンの望みを受け入れるかも知れません
ウクライナにとっては「最後の望み」ですが、トランプにとってはどうでも良いことだからです。
しかし、停戦になれば、ロシアが反発しても、ウクライナは政権と軍備を強化し、農産物の生産に力を入れることは可能となります。
国境地帯に壁や緩衝地帯を設けることも出来るし、監視のための軍を置くことも出来ます。
当然、ベラルーシ側にも同じようにし、いわば、断絶状態を確立することです。

*****
こうした世界情勢を考えると思い出されるのはダニエルの預言です。
おそらく、ダニエル11章の預言の一部は既に成就し残りの部分は、まさに、今成就しつつあると考えています。
その内容は以下の通りです。
ダニエル11章
「またわたしは,メディア人ダリウスの第一年に,彼を強める者またその要害として立ち上がった。
2 それで今,真実の事柄をあなたに告げる。
「見よ,なお三人の王がペルシャのために立つ。そして第四の者は[他の]すべての者に勝って大きな富を集めるであろう。そして,その富において強くなるとすぐ,彼はすべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻めるであろう。
3 「また,ひとりの強大な王が必ず立ち,広範な統治権をもって支配し,意のままに事を行なうであろう。
4 だが,彼が立ち上がった時に,その王国は砕かれ,分けられて天の四方の風に向かう。しかし,それは彼の後裔には帰さず,彼が支配したさいの統治権のほどでもない。彼の王国は引き抜かれて,それら以外の者たちのものとなるのである。
(こうしたことは、メディア次いでペルシャ(今のイラン)次いでギリシャ(アレキサンダー大王の時)次いでローマ帝国に既に実現しています

5 「そして,南の王,すなわち彼の君たちの[一人]が強くなる。これは彼に対して優勢になり,その者の支配力[に勝る]広範な統治権をもって支配することになる。
(この南の王はアメリカを指しているかも知れません)

6 「そして,幾年かの終わりに彼らは互いに盟約を結び,南の王の娘が北の王のもとに来る。平衡を図る取り決めのためである。しかし彼女は自分の腕の力を保てない。彼もまたその腕もずっと立つことはない。彼女自身が引き渡される。彼女を連れて来た者たちも,彼女を産ませた者も,そのころ彼女を強くした者も[同様]である。
7 だが,彼女の根から出た新芽の一つが必ず彼の地位に立ち,その者が軍勢のもとに来て,北の王の要害に向かい,必ず彼らに攻めかかって優勢になる
8 さらに,彼らの神々,彼らの鋳像,彼らの願わしい銀や金の品,[また]とりこたちを携えてエジプトに戻る。そして彼は,幾年かのあいだ北の王から離れて立つ。
9 「次いで彼は南の王の王国にまさに入って来る。だが,自分の土地に戻って行くことになる。
10 「一方その子らは,自ら奮い立ち,群がる大軍をまさに集める。そして彼は進んで行ってまさに入り,みなぎりあふれて通って行く。しかし彼は戻って行く。そして,身を奮い起こして自分の要害へと進む。
11 「それで南の王は憤激し,出て行って彼と,[すなわち]北の王と戦うことになる。彼はまさに大群を立ち上がらせるが,その群衆は実際にはかの者の手に渡される。
12 そしてその群衆は必ず連れ去られる。彼の心は高ぶり,彼はまさに幾万の者を倒す。しかし彼は自分の強固な立場を利用しない。
13 「それで,北の王は戻って来て,初めを上まわる大群を起こすことになる。そして,しばらくの時すなわち幾年かの終わりに,彼はやって来る。大きな軍勢を率い,大量の貨財を携えてそうする。
14 またその時,南の王に立ち向かう者が多くいる
「また,あなたの民に属する強盗の子らは,幻を実現させようとして引き回される。彼らは必ずつまずく。
15 「そして,北の王はやって来て,攻囲の塁壁を盛り上げ,城塞のある都市をまさに攻略する。そして,南の腕は立ち向かうことができない。彼のより抜きの民も[同様]である。こらえて立つ力はないであろう。
16 そして,彼に向かって来る者は意のままに事を行ない,その前に立ち向かう者はだれもいない。さらに彼は飾りの地に立つ。その手には絶滅があるであろう。
(この彼とはスターリンとそれ以降のソ連の指導者たちのことかも知れません)

17 また彼は自分の王国全体の勢いをもって進もうとして顔を向けるが,その者との間で平衡を図る[協約]ができることになる。こうして彼は効果的に行動する。また,女たちの娘に関し,これを破滅に至らせることが彼に許される。だが,彼女は立ち行かず,ずっと彼のものとしてとどまることはない。
18 そして彼は顔を再び海沿いの地帯に向け,実際に多くのところを攻略する。だが,ひとりの司令者が自分のために彼からの非難を絶えさせることになる。[そのため]彼の非難はやむ。その者はそれを彼自身に帰させる。
19 それで彼は顔を再び自らの地の要害に向ける。彼は必ずつまずいて倒れ,[もはや]見いだされることはない。
20 「また,取り立て人を光輝ある王国に通り行かせる者が彼の地位に立つことになる。だが,数日のうちにその者は砕かれる。それは怒りによるのでも,戦いによるのでもない。
21 「次いで,軽んじられた者が彼の地位に立つことになる。彼らは[その]王国の尊厳を決してその者に付そうとはしない。だが,心配なく過ごしている間に彼はまさに入って来て,滑らかさをもって[その]王国を手に入れる。
(この軽んじられた者とはプーチンのことかも知れません)

22 また,洪水の腕について言えば,それは彼のゆえに押し流されて,砕かれる。契約の指導者もまたそのようにされる。
23 そして,彼らとの盟約のゆえに彼は欺きを続け,まさに上って来て,小さな国民によって強大な者となる。
24 心配なく過ごしている間に,彼はまさにその管轄地域の肥えたところに入り,その父たちまた父の父たちも行なわなかった事を行なう。強奪物と分捕り物と貨財を彼らの間に散らす。そして,防備の施された所に対してたくらみを巡らすが,それはただしばしの間である。
25 「また彼は大きな軍勢を率い,南の王に対して自分の力と心を奮い起こす。南の王もまた甚だ大きく強大な軍勢を率いてその戦いに奮い立つ。だが,彼はこらえて立つことができない。彼に対するたくらみが巡らされるからである。
26 そして,彼の美食を食していた者たちが彼の崩壊をもたらす
「また,彼の軍勢についても,それは押し流され,多くの者が打ち殺されて必ず倒れる。
27 「そして,これら二人の王は,その心を悪を行なうことに傾け,一つの食卓について偽りを語り合う。しかし何事も成功しないであろう。終わりはなお定めの時に臨むのである。
(この二人の王とはプーチンとトランプのことかも知れません、二人の話し合いは成功しないとあります)

28 「そして彼は大量の貨財を携えて自分の土地に戻る。その心は聖なる契約に逆らう。そして彼は効果的に行動し,必ず自分の土地に戻る。
29 「定めの時に彼は戻って行き,南に向かってまさに攻め寄せる。しかし,後の時は初めの時と同じにはならないであろう。
30 そして,彼に対してキッテムの船が必ず攻め寄せる。彼は必ず失意させられる。
「それでも彼はまさに戻って行って聖なる契約をひぼうし,効果的に行動する。また戻って行って,聖なる契約を離れる者たちに考慮を払う。
31 また,彼から出る腕があって立ち上がる。そうして彼らは聖なる所を,要害をまさに汚し,常供のものをも除き去る
「また彼らは荒廃をもたらす嫌悪すべきものを必ず据える。
32 「また,契約に対してよこしまな行動をしている者たちを,彼は滑らかな言葉で背教に導き入れる。しかし,自分たちの神を知っている民は,優勢になり,効果的に行動する。
33 そして,民のうち洞察力のある者たちは,多くの者に理解を分かつ。また彼らは,剣と炎により,捕らわれと強奪とによって幾日かのあいだ必ずつまずきに渡される。
34 しかし,つまずきに渡されている時,彼らは多少の助けによって助けられる。だが,多くの者が滑らかさによって彼らに加わる。
35 そして,洞察力のある者たちの中にもつまずかされる者がいる。それらの者のゆえに精錬を行ない,清めを行ない,白くすることを行なうためであり,こうしてついに終わりの時に至る。それはなお定めの時に臨むのである。
36 「そして,その王はまさに自分の意のままに事を行ない,自分を高め,自分を大いなるものとしてあらゆる神の上に高める。また,神々の神たる者に向かって驚くべきことを語る。また彼は糾弾がなし終えられるまでは必ず成功を収める。決定された事柄は遂げられねばならないからである。
37 また彼は自分の父たちの神に何の考慮も払わない。女たちの願いにも,他のすべての神にも考慮を払わず,すべての者に勝って自分を大いなるものとする。
38 しかし要害の神に対しては,自分のその地位からも栄光を帰する。その父たちの知らなかった神に対して,金により,銀により,宝石により,望ましい物によって栄光を帰する。
39 また彼は,異国の神と共になって,最強の防備の施されたとりでに対しても効果的に行動する。彼はだれでも[自分を]認めた者を栄光に富ませ,それらの者を多くの者の中で支配させる。また,代価を取って土地を配分する。
40 「そして,終わりの時に,南の王は彼と押し合うが,これに対して北の王は兵車と騎手と多くの船とをもって強襲する。彼は必ず[多くの]土地に入り,みなぎりあふれて通り行く。
41 彼はさらに飾りの地にも入り,多くの[土地]がつまずきに渡される。しかし,これらは,すなわち,エドム,モアブ,またアンモンの子らの主立った部分はその手から逃れ出る。
42 それでも彼はそれらの土地に向かってしきりにその手を突き出す。エジプトの地は逃れ出るものとはならない。

43 そして彼は隠された金銀の宝をまさに支配し,またエジプトのすべての望ましい物を[支配する]。そしてリビア人とエチオピア人は彼の歩みに付く。
44 「しかし,彼をかき乱す知らせがあって,日の出る方から,また北から来る。そのため彼は非常な激怒を抱き,滅ぼし尽くすため,多くの者を滅びのためにささげようとして出て行く。
45 そして彼は自分の宮殿のような天幕を,壮大な海と聖なる飾りの山との間に設ける。それでも,彼は必ず自分の終わりに至る。これを助ける者はいない

これらのダニエルの預言がどのように成就するかの詳細は確認されていません。
つまり、本当に成就した後でなければ分からないのです。
しかも、その成就は一度とは限りません。
同じような出来事が二度、あるいは、三度あるかも知れないのです。

また、預言の繰り返しの中には成就する部分が異なる場合もあります

つまり、一度目にはなかったことが二度目にはあるという場合もあるということです。
世界の終わりに関する預言に関して、神は繰り返し「警告」をしているのです。

いすれにしても、これらの内容は必ず成就し最後の二人の王、または、その王国は「終わりに至る」ことになります。
しかし、この時代を生きている者としては二人の王が「終わりに至る」ことを待ち望んでいることは間違いありません。

さて、あなたはこのダニエルの預言を読んでどのように考えるでしょうか。

知恵を求める人のためのブログです。

ものみの塔に組織として欠けている部分。
それは沢山ありますが、その一つに福祉があります。

ものみの塔は「信仰があれば必要なものは何でも神が与えて下さる」と教えています。
そして、それがあたかも真実であるかのように実例として雑誌や大会などで公表しています。
しかし、現実にはその日の必要なものまで事欠く信者が多数いるのは事実です。
そうした人々には信仰が欠けているとでも言うのでしょうか。

明らかに、ものみの塔は「偽善」なのです。
つまり、実際には起きていないことを起きていると嘘をついているのです。

また、こうした点を指摘する信者を霊的に疎外したり信仰がないと非難したり時には背教者と同列に置くことさえしているのです。

ものみの塔の信者なら書籍や雑誌などで「実例」としてそのような内容の記事を読んだことがあるかも知れません。
ものみの塔に疑問を抱いたり指摘する信者を、集会や大会などで公にあからさまに非難することさえありました。

現実には、神とイエスに信仰を持ち、聖書が神の言葉で正しいと「純粋に」信じているからこそものみの塔の発信や行いに疑問を抱いているのです。

信仰の欠如でも背教でもないのです。

ものみの塔はただ自分たちに従わないことが「気に入らない」だけなのです。
ものみの塔は「羊の皮を被った狼」とさえ言えるのです。
人を従わせる点で狡猾なのです。
つまり、会衆や組織の「純潔」を守るために背教や排斥のレッテルを貼るのはそのためです。   

ものみの塔の信者は本部や統治体を「雲の上の存在」と思っている人も多いかも知れません。
なぜなら、末端の信者と直接の交流が全くないからですし、そうした人々の日常の実態を見たこともないからです。

しかし、現実にはものみの塔は「人間の組織」なのです。
そのように見なせば「合点」の行くことが多いことに気が付くでしょう。

宗教では福祉に関しては「神がこれを担う」ものとして考えていて、時折「祈り」の中でそれを含めることが多いものです。
しかし、現実には、どの宗教でも同じですが信者に対する福祉活動は殆どが個人に委ねられています。
宗教が大々的に福祉活動をするということは殆ど聞いたことがありません。
福祉活動は、宗教ではなく、誰かれなく「人間(個人や組織)が行うもの」と考えているものです。

一般的には、
1 児童福祉
2 母子、父子、寡婦家庭に対する福祉
3 高齢者福祉
4 障害者福祉
などがあります。
こうした活動の殆どは、国や地方自治体やNPOやNGOなどが行っています。
ものみの塔の信者の中にも当然これらに該当する人は少なからずいます。
しかし、ものみの塔の信者が公的機関を利用しているその実態は他の信者には殆ど知らされてはいません。
なぜなら、会衆の長老たちが「秘密」にしているか、信者が会衆に対して「秘密」にしている場合が多いからです。
公的機関を頼らない人は個人で、家庭で行うことになるのです。

その場合、一体誰がそうした人々を援助するのでしょうか?
本来は、ものみの塔が組織的な取り決めのもとに行うべきことです。
そのための信仰の仲間でもあるからです。

勿論、金銭的な援助や日常の世話なども行うべきですし、1世紀のクリスチャン会衆では実際に行われていました。

パウロは会衆の監督の立場にあったテモテに次のように述べています。
3 本当にやもめであるやもめを敬いなさい。
4 しかし,やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです。
5 さて,本当にやもめで窮苦にある女は,神に希望を置いており,夜昼ひたすら祈願と祈りを続けます。
6 しかし,肉感を満たすことにふける女は,生きてはいても死んでいるのです。
7 それで,こうした命令を絶えず与えなさい。その人たちが,とがめられるところのない者となるためです。
8 当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです。
9 六十歳以上のやもめを名簿に載せなさい。それは,一人の夫の妻で,
10 子供を養育し,見知らぬ人をもてなし,聖なる者の足を洗い,患難にある人を助け,あらゆる良い業に勤勉に従ったなど,りっぱな業に対する証しを立てられている人です。
11 それに対し,若いやもめは断わりなさい。その性的な衝動が自分とキリストとの間を隔てると,彼女たちは結婚することを望むようになり,
12 自分の初めの信仰[の表明]を無視して裁きを受けるようになるからです。
13 同時に,彼女たちは何もしないでいることも覚え,家々をぶらつき回ります。そうです,何もしないでいるだけでなく,うわさ話をしたり,人の事に手出ししたりする者となって,[話す]べきでないことを話します。
14 それでわたしは,若いやもめが結婚し,子供を産み,家庭をあずかり,反対する者に悪口の誘いを与えないようにすることを望みます。
15 事実,ある人たちはすでにそれて行ってサタンに従うようになりました。
16 もし信者である婦人のもとにやもめたちがいるなら,その人に彼女たちを助けさせ,会衆がその重荷を負わなくてもよいようにしなさい。そうすれば,[会衆]は本当にやもめである人たちを助けることができます。
-テモテ(一)5:3-16など。

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個人的には、こうした点で公的機関を利用することは「信仰に反する行為」だと考えています。
公的機関を利用するか否かは個人の自由ですが・・・。
ものみの塔におけるこうした人々はただ神に祈り日常の苦痛や試練を耐えるだけです。
時々仲間の信者が支援してくれることはあっても、組織としては皆無なのです。
これで、同じ仲間と言えるでしょうか。
同じ信仰の仲間が支援して初めて「その宗教の価値が評価される」のではありませんか。
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他の宗教と大きく異なる点は、ものみの塔は生活のために働くことよりも「伝道活道」を優先させるようにと「繰り返し」信者に勧めている点です。
これは、今は終わりの日で間もなく事物の体制が終わるので、世の事柄や自分のことにかまけていてはならないというのがその理由の一つです。
ものみの塔が良く使う例えは、沈みゆく船(事物の体制)のために働くことの無価値さです。

更には、パウロの次の言葉を曲解して自分に必要なものを備えることさえ批判する信者もいるのです。
3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として,苦しみを共にしてください。
4 兵士として仕えている者はだれも,生活のためのもうけ仕事などにかかわりません。自分を兵士として募った者の是認を得ようとするからです。テモテ(二)2:3-4

しかし、パウロ自身は自分の必要のために働き、また、仲間の支援も行いました。
使徒18章
こうした事の後,彼はアテネを去ってコリントに来た。
2 そして,ポントス生まれの人で,クラウディウスがユダヤ人すべてにローマ退去を命じたために最近イタリアから来た,アクラという名のユダヤ人と,その妻プリスキラに会った。それで彼はそのふたりのもとに行き,
3 職が同じだったのでその家に滞在し,こうして彼らは[共に]働いた。天幕作りをその職としていたのである。
4 しかしながら,彼は安息日ごとに会堂で話をして,ユダヤ人とギリシャ人を説得するのであった。
-使徒18:1-4  

使徒20章
33 わたしはだれの銀も金も着衣も貪ったことはありません。
34 この手が,わたしの,そしてわたしと共にいる者たちの必要のために働いたことを,あなた方自身が知っています。
35 わたしは,このように労苦して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』との言葉を覚えておかなければならないことを,すべての点であなた方に示したのです」。-使徒20:33-35 

しかし、ものみの塔が予告した終わりは未だに来ないため、生活のために十分資本を持っていない人は皆生活に困窮しています。(初めの予告は1975年でした。既に50年も経過しています)
信者の生活困窮は、個人の責任というよりものみの塔の責任です。
終わりが来ないにもかかわらず未だにさせるだけさせて、生活の支援を全く行っていないからです。

従って、上記に加え、
5 伝道活動を優先させる信者の生活支援
も加える必要があります。

世を忌避しているにも係わらずものみの塔の信者の殆どは「国民健康保険や介護保険」あるいは「社会保険」に加入したり、個人の生命保険に加入しています。

最も、これは法律で定められているので否応なしですが。
それでも、世を利用していることには変わりはありません。

もし、本当に忌避しているなら、病気になっても健康保険を用いず自費で医療を受けるはずです。
病院に行くことさえ世を利用していることになります。

こうした行いなども「ものみの塔の主張の矛盾」の一つです。
世を忌避し、世を利用しないなら「世から出なければならない」のです。

それゆえ、ものみの塔は矛盾したことを信者に要求しているのです。

ものみの塔もその信者も宗教団体の一つとして、各国の法律に従う必要があります。
つまり、聖書に記されているように「権威に従っている」のです。
しかし、幾つかの点では「その権威に逆らう」こともしています。
例えば、国旗に手を合わせたりお辞儀(ある意味崇拝行為)をしない、国家を歌わない、選挙で投票しないなどなど。

イエスが弟子たちを伝道に遣わした時には、イエスが彼らの生活を保障していましたので、何も持たずに活動を行うことが出来ました。
しかし、イエスが亡くなった後はパウロが述べた通りなのです。

従って、伝道活動においての生活は自分で確保する必要がありました。
ただ、パウロが述べているように、パウロ自身は自ら働いて他の信者の支援は全く受けないどころか逆に支援をさえしていました。
パウロの例は特別なのです。
パウロには聖書の知識に加え生活のための「技」も持っていたからです。

ものみの塔の信者で、たとえば、高校だけを卒業し直ぐに開拓奉仕に入ったとしても、せいぜい出来ることはアルバイトやパートと言った「知識や技術」を伴わない仕事だけです。
これでは自分や家族のために必要なものを備えることが出来ません。

中には夫が世でいわゆる全時間の仕事に就いて家族を養い妻や子供たちが伝道や集会や大会に行くと言うパターンです。
個人的には違和感があります。
夫が未信者のため世で働くのは当然として、信者である妻や子供たちが夫の収入で生活をし宗教活動をしているという矛盾です。
皆さんは疑問に思いませんか。
あるいは、夫婦が信者でも夫が世で全時間働いているケースもあります。
あるいは、夫婦がパートなどのアルバイトをして生計を立てている場合もあります。
あるいは、独身の信者は自らアルバイトなどをして生計を立てている場合もあります。
各人置かれている状況は異なります。

しかし、ものみの塔の信者は、
立場が異なるにも係わらず「同じように伝道活動を行うこと」が求められているのです。
どんな状況にあってもものみの塔は伝道や集会や大会への出席を免除しません。
勿論、どんな場合でも強制はされませんが、ものみの塔の言うことに従わないと「霊性が低い」とか「信仰が弱い」などと間接的に「批判」するのです。
こうして、立場の異なる信者に対しても同じことを要求しているのです。

特に問題なのは、年齢に関係なく独身で働けなくなった信者にも「個人的な援助以外」組織としては何の助けもしないことです。

勿論、一時的なことはするかもしれませんが・・・
生活保護はものみの塔が忌避している世のシステムです。
これを利用することは信仰の面では「恥」です。

では、パウロが次のように語ったことをどのように考えるのでしょうか。
コリント(一)12章
12章
さて,兄弟たち,霊の賜物について,あなた方に知らずにいて欲しくありません。
2 あなた方も知るとおり,諸国民の者であった時,あなた方はただ導かれるままに,声のない偶像のもとへと導かれていました。
3 それで,あなた方に知らせておきたいと思うのは,神の霊によって話しているなら,だれも,「イエスはのろわれている!」とは言わず,聖霊によるのでなければ,だれも,「イエスは主である!」とは言えない,という点です。
4 さて,賜物はさまざまですが,霊は同じです。
5 奉仕の務めはさまざまでも,主は同じです。
6 働きはさまざまでも,すべての人の中であらゆる働きをされる神は同じです。
7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。
8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,
9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,
10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。
11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。
12 体は一つであっても多くの肢体に分かれており,また体の肢体は多くあっても,その全部が一つの体を成しますが,キリストもそれと同じなのです。
13 まさしくわたしたちは,ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと,奴隷であろうと自由であろうと,みな一つの霊によって一つの体へのバプテスマを受け,みな一つの霊を飲むようにされたからです。
14 実際,体は一つの肢体ではなく,多くの[肢体]です。
15 たとえ足が,「わたしは手ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。
16 また,たとえ耳が,「わたしは目ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。
17 もし全身が目であったなら,聴覚はどこなのですか。それが聴くことばかりであったなら,においをかぐことはどこなのですか。
18 しかし今,神は体に肢体を,その各々を,ご自分の望むままに置かれたのです。
19 もしそのすべてが一つの肢体であったなら,体はどこにあるのでしょうか。
20 しかし今,それは多くの肢体であり,それでもなお一つの体です。
21 目は手に向かって,「わたしにあなたは必要でない」とは言えず,頭も足に向かって,「わたしにあなた方は必要でない」とは[言えません]。
22 それどころか,実際には,体の中で[ほか]より弱く見える肢体がかえって必要なのであり,
23 また,体の中で[ほか]より誉れが少ないと思える部分,これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に[他]より豊かな麗しさが添えられ,
24 一方,麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても,神が体を組み立てたのであり,欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて,
25 体に分裂がないように,その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました。
26 それで,一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しみ,ひとつの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体が共に歓ぶのです。
27 さて,あなた方はキリストの体であって,それぞれが肢体です。
28 そして神は会衆内にそれぞれの人を置かれました。第一に使徒,第二に預言者,第三に教える者,次いで強力な業,次いでいやしの賜物,助けになる奉仕,指揮する能力,種々の異言です。
29 すべてが使徒ではないでしょう。すべてが預言者ではないでしょう。すべてが教える者ではないでしょう。すべてが強力な業をするわけではないでしょう。
30 すべてがいやしの賜物を持つわけではないでしょう。すべてが異言を話すわけではないでしょう。すべてが翻訳者ではないでしょう。
31 それでも,より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい。ですが,わたしはさらに勝った道をあなた方に示します。

13章
たとえわたしが人間やみ使いの[いろいろな]ことばを話しても,愛がなければ,音を立てる[一片の]しんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。
2 そして,たとえ預言[の賜物]を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。
3 そして,ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がなければ,わたしには何の益にもなりません。
4 愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,
5 みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,
6 不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。
7 すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。
8 愛は決して絶えません。それに対し,預言[の賜物]があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます。
9 わたしたちの知識は部分的なものであり,預言も部分的なものだからです。
10 全きものが到来すると,部分的なものは廃されるのです。
11 わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,大人となった今,みどりごの[時の]ことをやめたのです。
12 現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが,その時には顔と顔を向かい合わせて[見るの]です。現在わたしが知っているのは部分的なことですが,その時には,自分が正確に知られているのと同じように,正確に知ることになります。
13 しかし今,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です。
(パウロはイエスと同じように最も価値のあるものとして「愛」を掲げているのです)

14章
愛を追い求めなさい。その上に,霊の賜物を,それも,できるなら,預言することを熱心に求めてゆきなさい。
(つまり、信仰の土台は「愛」であると述べているのです)

2 異言を話す人は,人に対してではなく,神に対して話すからです。だれも聴いていないのに,その人は霊によって神聖な奥義を話しているのです。
3 しかし,預言する人は,その話す事柄によって人を築き上げ,励まし,慰めます。
4 異言を話す人は自分を築き上げますが,預言する人は会衆を築き上げるのです。
5 そこで,わたしは,あなた方のすべてが異言を話すことを欲しますが,それよりは,あなた方が預言することのほうを望みます。実際,異言を話す人が[それを]翻訳して,会衆が築き上げられるようにするのでないかぎり,預言する人のほうが優れています。
6 また,兄弟たち,わたしが今あなた方のところに行って異言を話すとしても,啓示,あるいは知識,預言,教えをもって話すのでなければ,あなた方に何の益となるでしょう。
7 実際のところ,フルートにしろたて琴にしろ,無生の物も音を出しますが,音程がはっきりしなければ,そのフルートやたて琴で何を演奏しているかどうして分かるでしょうか。
8 また,ラッパの出す音が不明りょうであれば,いったいだれが戦闘の用意をするでしょうか。
9 これと同じように,あなた方も,舌で,容易に理解できることばを出さないなら,何を話しているのかどうして[人に]分かるでしょうか。あなた方は,実際には空気に話していることになるのです。
10 世界には非常に多くの種類の音声があることでしょう。それでも,意味を持たないものはありません。
11 そこで,もしわたしが音声の真意を理解していないなら,[それを]話している人にとってわたしは異国人であり,話している人もわたしにとっては異国人であることになります。
12 それで,あなた方自身も,霊[の賜物]を熱心に求めているからには,会衆を築き上げるという目標でそれに満ちあふれるよう努めなさい。

パウロは会衆には様々な賜物を持つ人が存在しておりそれらが一つの体を形成していると述べています。
しかも、それぞれの肢体に優劣はなくどれも必要のものとしています。
そして、これらを超越するものは「愛」であると述べているのです。
ものみの塔のように立場の異なる信者に対して「一律に伝道活動を要求するものではありません」
では、会衆内にいる様々な立場の信者に対して「同じ要求をする」ものみの塔や会衆の長老たちは「一体何者なのでしょうか」
しかも、立場の異なる人の困窮を「世話」をせずに「要求だけ」をしているのです。

会衆の人々や長老たちはこのパウロの言葉に従っていないことは明白です。
指導的な立場にない信者は別として、ものみの塔や会衆の長老たちは矛盾しているのです。
矛盾と言うより「偽りの崇拝」をしているのです。
イエス・キリストはこのようなものみの塔や会衆の長老たちを認め受け入れるでしょうか。
答えは否です。
ものみの塔や会衆の長老たちがしていることは、
表向きは神とキリストに信仰を持っていると言いながら「神とキリストの精神に反している」のです。
(私がものみの塔を離れた理由の一つです)

イエスはマタイ24:45-51で次のように述べています。
45 「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
46 主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。
47 あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
48 「しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,
49 仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,
50 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,
51 最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。
(ものみの塔は信者に対してはこの「食物」を霊的食物のみに適用しています。
 そして、文字通りの食物に関しては自分たちの農場(世界中の寄付によって造られた農場です)を作
 りものみの塔の本部や組織の上部の「幹部」たちだけに提供しています。
 末端の信者がそうした食物を与えられることは特別な時以外ないのです。
 これは大いなる「詐欺行為」とさえ言えます。
 つまり、こうした農場で作られた食物は信者の寄付によって成り立っているからです。)

更に、マタイ7:15-23
21 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。
22 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。
23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。

ものみの塔や会衆の長老たちは、イエスによこしまな奴隷、不法を働く者と言われた人々のことであることは明白です。
ものみの塔の偽善は伝道活動をいわば「強要」しておきながら、信者の世話を全くしていない点にあります。
しかも、
組織から生活支援を受けられるのは、特別開拓者や巡回監督以上の立場の特別な人たちだけです。
この点、統治体の高齢者たちも例外ではありません。
彼らは信者の寄付で生活をしているのです。
しかも、信者には寄付をすることを当然もしくは義務とさえ主張しています。
それは、「すべてにおいて神の援助や保護があり、寄付は感謝の表れだ」と主張しているのです。
仮にそうだとしても、その寄付をものみの塔は自分たちのために使っているのです。
これ以上の背教があるでしょうか。

彼らはイエスが言ったように 「仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだり」しているのです。
しかも、個々の信者の福祉に関しては「神に荷を負わせて」いて自分たちは殆ど何もしていないのです。
そして、現実には「神はその荷を負ってはくれません」

信仰はどんなに苦しくても「自らが耐え忍ばなければならない」からです
ものみの塔は「嘘」をついているのです。
ものみの塔は信者に寄付を求めることで、いわば「聖書の教えを売り物」にしています。
勿論、寄付は自発的なものですが、日ごろ「神に感謝すべきだ」と言っているものみの塔は信者に寄付を強要しているのです。

1世紀のAD46年頃ローマ第4代皇帝クラウディウスの統治下の時にユダヤ地方に大飢饉が生じた時にエルサレムとユダヤに住むイエスの弟子たちのために「救援活動」が行われバルナバとサウロ(後のパウロ)がそれを届けたことが記録されています。-使徒11:27-30
しかし、それは一時的なもので、恒久的な支援ではありませんでした。
それでも、孤児ややもめなどに関しては別です。-ヤコブ1:27

ものみの塔は自分たち勧めに従い仕事を断念し伝道活動に専念した者たちへの生活支援を組織としての義務を全く怠っています。
ものみの塔は自らの発言の責任を果たしていないのです。
しかも、現実は真逆で、信者に更なる寄付を要求しています。

これでは本末転倒です。
ものみの塔は逆のことをしているのです。

それでもあなたはものみの塔の言うことを信じて従いますか?
愚かなことです。

それゆえ、ものみの塔を離れた元信者たちは「ものみの塔に感謝する人は一人もいない」のです。
「永遠の命」に対する未練はあっても、ものみの塔に温情を感じて離れ難く思った人は一人もいないと思います。
ものみの塔が信者の「永遠の命の保障」をしてくれるわけではありません。
ただ、希望を抱かせているだけなのです。

加えて、個人の福祉に関して「実際には何一つものみの塔の言う通りにはなっていない」のです。
終わりが来るのが遅いと言っているのではありません。
ものみの塔の「発言」と「信者に対する対応」が問題なのです。
実際、個人や会衆に問題が生じそれを協会に訴えても「実質的なことは何もしてくれません」
ただ、会衆の長老に対応させたり、協会が立場の上の長老を派遣して「ことば」で対応を伝えるだけなのです。

自分の手で物を動かすことさえしないのです。
また、ものみの塔は「苦情」は全く受け付けません。
殆どの場合は「だんまり」を続けます。
なぜなら、会衆の長老や支部の責任者たちにはその権限がないからです。
ただ、時折一部の長老が「個人的」にその「苦情」に対応することもありました。
そのため、信者の中には「不満を募らせる人」も少なくないのです。

以前のブログでも書きましたが、信仰は生活基盤があって初めて成り立つのです。
飢えに苦しんでいる人の信仰は「ただ、神に助けを祈る」しか出来ません。
伝道活動や集会や大会などへ出席出来る余裕すらないのです。
これでどうしてものみの塔の言う信仰の歩みが出来ると言うのでしょうか。
それでも、「神が助けてくれるという信仰を持ちなさい」というのであれば、なぜ生活保護を受給している信者がいるのですか?

その人たちは本当に信仰を持っていないのですか?
実に、詭弁ではありませんか。
この点、ものみの塔は「嘘つき」なのです。
つまり、困っている信者がいるのに助けようとはしないのです。

私がイエスの立場なら「偽善者よ、わたしから離れ去れ!」と告げます。

ヤコブは次のように述べています。
13 憐れみを実践しない人は,憐れみを示されることなく[自分の]裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
14 わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか。
15 兄弟か姉妹が裸の状態でいて,その日の食物にも事欠くのに,
16 あなた方のうちのだれかが,「安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それは何の益になりますか。
17 このように信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいるのです。
-ヤコブ2:14-17

このヤコブの言葉は例えですが、ヤコブは仲間の信者に対して「ことば」だけではなく「実際に援助する必要」を述べています。
信者に対して十分な生活支援を行わないことは、ものみの塔の信仰は「死んだもの」なのです。

更に、いわゆる全時間奉仕者だけが特別扱いを受けることは間違いです。
イエスはルカ21:1-4で次のように述べているからです。
21章
さて,[イエス]が目を上げると,富んだ人々が自分の供え物を宝物庫の箱に入れているのが見えた。
2 次いで[イエス]は,ある貧乏なやもめがごくわずかな価しかない小さな硬貨二つをそこに入れるのをご覧になって,
3 こう言われた。「あなた方に真実をこめて言いますが,このやもめは,貧しいとはいえ,彼ら全部より多く入れました。
4 これらの者はみな自分の余っている中から供え物を入れましたが,この[女]はその乏しい中から,自分の持つ暮らしのもとすべてを入れたのです」

生活などのためにわずかしか伝道活動を行えない信者の振る舞いは、生活に余裕がある全時間奉仕や協会の援助で奉仕している巡回監督やそれ以上の立場の人よりも「価値のある奉仕」をしたことになるのです。

ものみの塔や会衆の長老たちは悪行以外はただ奉仕時間の多少のみで判断しています。
明らかにイエスの見方、考え方とは異なるものです。

イエスの言葉によれば、ものみの塔は自分たちの教えを教理として教えている[背教者]なのです。
-マタイ15:9

極論から言えば、ものみの塔の活動は、ヤコブの例えと同じで「死んだ信仰」であり、無駄な事なのです。
つまり、言うだけで業が伴っていないのです。

伝道活動という業や世から離れ信仰において忠実を保っているから「業が伴っている」と主張するかも知れません。
この主張は間違いです。
そうした活動は「自分自身の行いだけ」であり人々や他の信者などに対してはただ「言うだけ、言葉だけ」のことで「実質が伴っていない活動」なのです。
ヤコブの言う通りです。

イエスも山上の垂訓の最後に次のように述べています。
13 「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。
14 一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。
15 「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。
16 あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。
17 同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。
18 良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。
19 りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。
20 それでほんとうに,あなた方はその実によってそれら[の人々]を見分けるのです。
21 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。
22 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。

23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。
-マタイ7:13-23

まさに、ものみの塔は22節にあるように主張するのではありませんか?
しかし、イエスの返答は「わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れされ、と」というものです。

この点ものみの塔は言い訳出来るでしょうか?
否です。
そして、神の怒りの七つの鉢の災いと共に大いなるバビロンの一部として、野獣により裸にされ火で焼かれるのです。

++++++++++++++++++++++++++
ものみの塔の信者の減少について。
一時期上昇傾向にあった伝道者数も減少傾向にあります。
減少の原因の一つに、ものみの塔の言うことへの「期待外れ」が最も大きいと思います。
それは、終わりがなかなか来ないことと世の中の情勢がものみの塔の言うことと乖離している点です。
確かに、犯罪が増加し災害被害も多くなっていますが、聖書のしるしと考えるにはインパクトが弱いのです。
上昇傾向にある時には「期待感」が大きかったのですが、今は冷めた見方で見ている場合が多いものです。
おそらく、集会や大会などで「終わりの日のしるし」が話される場合多くの信者は「疑念」を抱いています。
話される内容に関して「信じる度合い」が昔に比べて「かなり弱くなっている」のです。

そのため、無理にでも「信仰を保つべき」ことを自分に言い聞かせているのです。

「終わりの日のしるし」は社会現象なのですが、ものみの塔は信者の信仰の強弱で片付けようとしているのです。
社会現象というのは、物事や情報に関して殆ど知り尽くしておりもはやどんなことを知らされても新鮮味も感動もなくなって来て、むしろ、いろいろ懸念されることが増えるという点です。
こうした傾向がものみの塔の信者内でも起きているということです。
知識が増えるとこのような傾向になるのは昔から全く変わっていないのです。

この点ソロモンの言うことについて考慮することは賢明なことです。
先ずソロモンとはどのような人物だったのでしょうか?
歴代誌 第二
1章
そして,ダビデの子ソロモンはその王権の点で引き続き強さを得,その神エホバは彼と共におられ,彼を並外れて大いなる者としておられた。
2 そこでソロモンは全イスラエル,すなわち千人隊および百人隊の長,裁き人,それに父方の家の頭である全イスラエルのすべての長に命令を下した。
3 それで,ソロモンおよび彼と共にいた全会衆はギベオンにある高き所へ行った。そこは,エホバの僕モーセが荒野で造った,[まことの]神の会見の天幕があるところだったからである。
4 ところが,[まことの]神の箱は,ダビデがキルヤト・エアリムから,ダビデがそのために用意した場所に運び上らせておいた。彼はそのために天幕をエルサレムに張っておいたからである。
5 また,フルの子ウリの子ベザレルが造った銅の祭壇がエホバの幕屋の前に置かれていたので,ソロモンと会衆はいつものようにこれに問い合わせた。
6 さて,ソロモンはそこでエホバの前に,会見の天幕に付属する銅の祭壇の上に捧げ物を供え,次いでその上に焼燔の捧げ物一千頭をささげた。
7 その夜の間に,神はソロモンに現われ,彼に言われた,「あなたに何を与えようか,願いなさい!」
8 そこでソロモンは神に言った,「あなたこそ,私の父ダビデに対して大いなる愛ある親切を表わし,彼に代わって私を王とされた方です。
9 では,エホバ神よ,私の父ダビデとのあなたの約束が信頼できるものでありますように。あなたが地の塵粒のようにおびただしい民の上に私を王とされたからです。
10 今,私に,この民の前に出入りできるよう,知恵と知識をお与えください。と申しますのは,だれがこの大いなる,あなたの民を裁くことができましょうか」。
11 すると,神はソロモンに言われた,「このことがあなたの心に掛かり,あなたが富も,財宝も,誉れも,またあなたを憎む者たちの魂をも求めず,またあなたが求めたのは長寿でさえなく,むしろあなたは,わたしがあなたをその上に王としたわたしの民を裁くために,自分のために知恵と知識を求めているので,
12 その知恵と知識とはあなたに与えられている。また,あなたの前にいた王が持ったことのないほどの,そしてあなたの後の者が持つことのないほどの富と財宝と誉れとをわたしはあなたに与えるであろう」。

この記述から分かるように、ソロモンは神により知恵と知識と富と財宝と誉れを与えられました。

そのソロモンが次のようにも語っています。
伝道の書
1章
エルサレムの王ダビデの子,召集者の言葉。
2 「何とむなしいことか!」と召集者は言った,「何とむなしいことか! すべてはむなしい」。
3 人が日の下で骨折って働くそのすべての骨折りに何の益があろう。
4 代は去り,代は来る。しかし,地は定めのない時に至るまで立ちつづける。
5 そして,日もまた輝き出,そして日は没した。それは自分の輝き出る場所へ,あえぎながら来るのである。
6 風は南に進み,循環して北に向かう。絶えず循環を繰り返しながら,風はその循環に帰ってゆく。
7 冬の奔流はみな海に出て行くが,それでも海が満ちることはない。冬の奔流はその出て行く場所へ,そこへ帰っては出て行くのである。
8 すべての物事は疲れを生じさせる。だれもそれについて語ることはできない。目は見ることに満ち足りず,耳も聞くことから満たされはしない。
9 あるようになったもの,それがあるようになり,行なわれたもの,それが行なわれるようになる。したがって,日の下には新しいものは何もない。
10 「これを見よ。それは新しい」と言える物が存在するだろうか。それは定めのない時にわたって既に存在しており,存在するようになったものは,わたしたちよりも前の時代からあったのである。
11 先の時代の人々の記憶はない。後に起こる者たちについてもそうである。さらにその後に起こる者たちの中においても,彼らの記憶はない。
12 召集者であるわたしは,エルサレムでイスラエルを治める王であった。
13 そして,天の下で今までに行なわれたすべての物事に関し,知恵を求めて探究しようと心に定めた。―神が人間の子らに与えて携わらせた,災いの多い営み[に関して]である。
14 わたしは日の下で行なわれるあらゆる業を見たが,見よ,すべてはむなしく,風を追うようなものであった。
15 曲がっているものは,まっすぐにすることはできない。欠けているものは,到底数えることはできない。
16 わたしは,わたし自ら心に語って言った,「見よ,わたしは,わたしより先にエルサレムにいただれよりも大いに知恵を増し加え,わたしの心は非常に多くの知恵と知識を見た」。
17 次いで,わたしは知恵を知り,狂気を知ろうと心を向け,そして愚行を知ることになったが,これもまた風を追うようなものである。
18 知恵の満ちあふれるところには,いら立ちが満ちあふれる。したがって,知識を増し加える者は痛みを増し加えるのである。
(参考:知識[真理]は既に存在しています。それゆえ、求めるのは「理解」なのです)

こうしたことは単にソロモンの時代だけのことでしょうか。
知恵や知識は時代ごとに常に増えていることは確かです。
しかし、どの時代を切り取っても始めと終わりでは人々の思いや感情は異なりますが、その傾向はどの時代でも同じなのです。
従って、BC1000年以前に記されたソロモンの言葉は現代でも同じだと言えます。
その結論は最後の18節にある通りなのです。

物事を良く知らない昔は少しの知恵や知識を喜んだものですが、今はむしろそれが痛みになっているのです。

伝道の書1章で
4 代は去り,代は来る。しかし,地は定めのない時に至るまで立ちつづける。
5 そして,日もまた輝き出,そして日は没した。それは自分の輝き出る場所へ,あえぎながら来るのである。
6 風は南に進み,循環して北に向かう。絶えず循環を繰り返しながら,風はその循環に帰ってゆく。
7 冬の奔流はみな海に出て行くが,それでも海が満ちることはない。冬の奔流はその出て行く場所へ,そこへ帰っては出て行くのである。
8 すべての物事は疲れを生じさせる。だれもそれについて語ることはできない。目は見ることに満ち足りず,耳も聞くことから満たされはしない。
9 あるようになったもの,それがあるようになり,行なわれたもの,それが行なわれるようになる。したがって,日の下には新しいものは何もない。
10 「これを見よ。それは新しい」と言える物が存在するだろうか。それは定めのない時にわたって既に存在しており,存在するようになったものは,わたしたちよりも前の時代からあったのである。
と記されている通りです。

例えば、人体についてかなり詳細な部分まで分かって来ました。
また、物質の最小単位の素粒子にまで分かるようになって来ました。
しかし、これらはソロモンが言う通り昔から存在していたものです。

新しいものは、人間が作った物だけです。
しかし、その人間が作った物が人間が住む地球を壊しているのです。
昔から存在していたものは地球を壊しません。
災害が生じても一時的なもので直ぐに元へ戻ります。
しかし、人間が作ったものは元へは戻らないものが多いのです。
そしてそれが人間やすべての生き物に害を与えているのです。
科学技術の進歩発展は沈みゆく大型客船の内部を改装して新しくするようなものです。
すべては無駄に終わるのです。

ものみの塔の信者の知恵や知識についても同じなのです。
それゆえ、信者の数が減少しているのです。
ものみの塔に生じた様々な出来事だけのせいではないのです。
(ものみの塔を擁護している訳ではありませんので誤解の無いように)

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参考
ものみの塔が信者に「すべきだ、してはならない」と言っていることがら。
1 子供へのムチ(体罰)をすること
2 輸血をしない
3 学校行事へ参加しない
4 信者以外の人と普通に友だちにならない
5 授業で柔道や剣道などがしない
6 国歌を歌わない
7 誕生日やクリスマスをしない
8 祭りに参加しない
9 七夕、ひな祭り、鯉のぼりなどの行事をしない
10 選挙で投票をしない
11 信者以外との恋愛をしない

などなどです。
これらはすべて「信仰に関わる」ことなので、各々その理由や聖書的根拠またはそれらしきものを示しています。

これらはすべてものみの塔が「すべきでないと決定したことがら」です。
1項と2項以外は文字通り聖書には記されてはいません。
「世のものではない」「世との交友」などを根拠にしたものです。

信者や信者の子供たちはこうしたことのために「世から疎外」されています。
しかし、その一方でそれぞれの国の法律にしたがい税金を納め、健康保険に加入し、介護保険を支払い、世の中で様々な必要なものを買っています。
さらには、生活保護を受けたり政府の生活支援金を受け取ったり教育無償化、医療費無償化、子供を出産した時や育児などに関する政府の援助などを受けています。

我儘で身勝手のように見えませんか。
世のものとはならない信者が世を利用しているのです。

大いなる矛盾です。
偽善と言っても良いです。

更には、血を避けるようにと言われ、いわば「おきて」のように守っています。
しかし、スーパーで売っている肉を何も考えずに食べています。
ファミレスでステーキやハンバーグを食べています。
必ずしも完全に血抜きをしているとは限りません。
つまり、血を食べている場合もあるのです。

パウロは、市場で売っているものを「何も聞かずに」食べなさいと述べていますから、スーパーで売っている肉やファミレスのステーキやハンバーグを食べて良いことになります。
しかし、「これは犠牲として捧げられたものです」と言われたら食べてはならないとも言っています。
その理由は自分ではなく、そのように言った人の良心のためだと述べています。
当然、言われなければ食べて良いのです。

更に、様々な理由で血液検査をすると思います。
血を避けるならこれも避けなければなりませんが、信者も血液検査を普通に疑問も抱かずに受けています。
あるいは、歯茎から血が出た場合、すべてを吐き出すことは「不可能」です。
つまり、血を飲んでいるのです。
これを避けることは出来ません。

では、どのようにして「血を避ける」ことが出来るのでしょうか。
ものみの塔の言うことは矛盾しているのです。

つまり、
神やパウロが述べている「血を食べてはならない」「売っている肉を食べても良い」という意味を「間違って」解釈しているのです。

ものみの塔とその信者は聖書に忠実だと主張していながら矛盾していることもあるのです。

聖書に通じていてもものみの塔のやることに疑問を抱く人は少なくないと思います。
聖書もものみの塔も教えも知らない人でも「違和感」を抱く人は多いと思います。
それゆえ、信者の子供たちは小学校や中学校では「いじめ」に遭います。
他の生徒と同じことをしないからです。
自分から仲間外れになっているのです。

そうであれば、学校へ行く理由があるでしょうか。
学校で教えている教科内容は学校へ行かなくても学ぶことは出来ます。
小、中学校は「単位制」ではないので「修了」はすることが出来るのです。
高校の場合は単位制ですから単位を取らないと卒業出来ませんが、小中学校はそうではないのです。
つまり、学校を卒業する「十分」な理由はないことになります。

教育を受ける権利は国の法律で定められたものです。
それは
受けたい人の権利であって義務ではないのです。
聖書の規則でもありません。
聖書では親が子供に教えるべであると示されています。
最も、学校というものが存在していない時代のことですが。

また、憲法では国民は勤勉に働くべきことが記されています。
ものみの塔の信者はこの法律に違反していることは明白です。
宗教活動は仕事ではないからです。

憲法では自由と権利も記されていますが義務も記されています。
ものみの塔の信者でも国の法律を守る義務があるのです。
違反すれば罪に問われることになります。

ものみの塔の信者は宗教活動以外では「生きることに関して勤勉ではないのです」

ものみの塔の矛盾それは何を意味するのでしょうか。
信仰の矛盾、信仰の破綻、信仰の偽善、信仰の背教を示しており、半分世のものとなっているという事実を示しています。

もし、あなたがものみの塔の信者なら「どうして良いか分からなく」なりませんか?

ものみの塔とはそのような組織なのです。

実際、使徒やパウロの時代のイエスの弟子たちつまりクリスチャンたちも「真理を正しく理解していない」ためパウロやペテロやヤコブやユダヤヨハネによって教えられる必要がありました。
1世紀当時ですらこのようだったのに、ものみの塔を含めて現代において「すべてを明確に理解しているクリスチャンが存在するのかは疑問」です。
なのに、ものみの塔は信者に自分たちの考えや見解で教え導いているのです。
問題点はこの点なのです。

繰り返しますが、信仰は個人が判断し行うものです。
ものみの塔はこれを逸脱しているのです。
ものみの塔はその責任を問われ裁かれることは間違いありません。

あなたがものみの塔の信者なら「本当に自分で理解し判断し行っていますか?」
ものみの塔の教えをそのまま守っているだけではありませんか。
それであなたは救われると考えているとしたら「間違い」です。