知恵を求める人のためのブログです。
ものみの塔に組織として欠けている部分。
それは沢山ありますが、その一つに福祉があります。
ものみの塔は「信仰があれば必要なものは何でも神が与えて下さる」と教えています。
そして、それがあたかも真実であるかのように実例として雑誌や大会などで公表しています。
しかし、現実にはその日の必要なものまで事欠く信者が多数いるのは事実です。
そうした人々には信仰が欠けているとでも言うのでしょうか。
明らかに、ものみの塔は「偽善」なのです。
つまり、実際には起きていないことを起きていると嘘をついているのです。
また、こうした点を指摘する信者を霊的に疎外したり信仰がないと非難したり時には背教者と同列に置くことさえしているのです。
ものみの塔の信者なら書籍や雑誌などで「実例」としてそのような内容の記事を読んだことがあるかも知れません。
ものみの塔に疑問を抱いたり指摘する信者を、集会や大会などで公にあからさまに非難することさえありました。
現実には、神とイエスに信仰を持ち、聖書が神の言葉で正しいと「純粋に」信じているからこそものみの塔の発信や行いに疑問を抱いているのです。
信仰の欠如でも背教でもないのです。
ものみの塔はただ自分たちに従わないことが「気に入らない」だけなのです。
ものみの塔は「羊の皮を被った狼」とさえ言えるのです。
人を従わせる点で狡猾なのです。
つまり、会衆や組織の「純潔」を守るために背教や排斥のレッテルを貼るのはそのためです。
ものみの塔の信者は本部や統治体を「雲の上の存在」と思っている人も多いかも知れません。
なぜなら、末端の信者と直接の交流が全くないからですし、そうした人々の日常の実態を見たこともないからです。
しかし、現実にはものみの塔は「人間の組織」なのです。
そのように見なせば「合点」の行くことが多いことに気が付くでしょう。
宗教では福祉に関しては「神がこれを担う」ものとして考えていて、時折「祈り」の中でそれを含めることが多いものです。
しかし、現実には、どの宗教でも同じですが信者に対する福祉活動は殆どが個人に委ねられています。
宗教が大々的に福祉活動をするということは殆ど聞いたことがありません。
福祉活動は、宗教ではなく、誰かれなく「人間(個人や組織)が行うもの」と考えているものです。
一般的には、
1 児童福祉
2 母子、父子、寡婦家庭に対する福祉
3 高齢者福祉
4 障害者福祉
などがあります。
こうした活動の殆どは、国や地方自治体やNPOやNGOなどが行っています。
ものみの塔の信者の中にも当然これらに該当する人は少なからずいます。
しかし、ものみの塔の信者が公的機関を利用しているその実態は他の信者には殆ど知らされてはいません。
なぜなら、会衆の長老たちが「秘密」にしているか、信者が会衆に対して「秘密」にしている場合が多いからです。
公的機関を頼らない人は個人で、家庭で行うことになるのです。
その場合、一体誰がそうした人々を援助するのでしょうか?
本来は、ものみの塔が組織的な取り決めのもとに行うべきことです。
そのための信仰の仲間でもあるからです。
勿論、金銭的な援助や日常の世話なども行うべきですし、1世紀のクリスチャン会衆では実際に行われていました。
パウロは会衆の監督の立場にあったテモテに次のように述べています。
3 本当にやもめであるやもめを敬いなさい。
4 しかし,やもめに子供や孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです。
5 さて,本当にやもめで窮苦にある女は,神に希望を置いており,夜昼ひたすら祈願と祈りを続けます。
6 しかし,肉感を満たすことにふける女は,生きてはいても死んでいるのです。
7 それで,こうした命令を絶えず与えなさい。その人たちが,とがめられるところのない者となるためです。
8 当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです。
9 六十歳以上のやもめを名簿に載せなさい。それは,一人の夫の妻で,
10 子供を養育し,見知らぬ人をもてなし,聖なる者の足を洗い,患難にある人を助け,あらゆる良い業に勤勉に従ったなど,りっぱな業に対する証しを立てられている人です。
11 それに対し,若いやもめは断わりなさい。その性的な衝動が自分とキリストとの間を隔てると,彼女たちは結婚することを望むようになり,
12 自分の初めの信仰[の表明]を無視して裁きを受けるようになるからです。
13 同時に,彼女たちは何もしないでいることも覚え,家々をぶらつき回ります。そうです,何もしないでいるだけでなく,うわさ話をしたり,人の事に手出ししたりする者となって,[話す]べきでないことを話します。
14 それでわたしは,若いやもめが結婚し,子供を産み,家庭をあずかり,反対する者に悪口の誘いを与えないようにすることを望みます。
15 事実,ある人たちはすでにそれて行ってサタンに従うようになりました。
16 もし信者である婦人のもとにやもめたちがいるなら,その人に彼女たちを助けさせ,会衆がその重荷を負わなくてもよいようにしなさい。そうすれば,[会衆]は本当にやもめである人たちを助けることができます。
-テモテ(一)5:3-16など。
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個人的には、こうした点で公的機関を利用することは「信仰に反する行為」だと考えています。
公的機関を利用するか否かは個人の自由ですが・・・。
ものみの塔におけるこうした人々はただ神に祈り日常の苦痛や試練を耐えるだけです。
時々仲間の信者が支援してくれることはあっても、組織としては皆無なのです。
これで、同じ仲間と言えるでしょうか。
同じ信仰の仲間が支援して初めて「その宗教の価値が評価される」のではありませんか。
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他の宗教と大きく異なる点は、ものみの塔は生活のために働くことよりも「伝道活道」を優先させるようにと「繰り返し」信者に勧めている点です。
これは、今は終わりの日で間もなく事物の体制が終わるので、世の事柄や自分のことにかまけていてはならないというのがその理由の一つです。
ものみの塔が良く使う例えは、沈みゆく船(事物の体制)のために働くことの無価値さです。
更には、パウロの次の言葉を曲解して自分に必要なものを備えることさえ批判する信者もいるのです。
3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として,苦しみを共にしてください。
4 兵士として仕えている者はだれも,生活のためのもうけ仕事などにかかわりません。自分を兵士として募った者の是認を得ようとするからです。テモテ(二)2:3-4
しかし、パウロ自身は自分の必要のために働き、また、仲間の支援も行いました。
使徒18章
こうした事の後,彼はアテネを去ってコリントに来た。
2 そして,ポントス生まれの人で,クラウディウスがユダヤ人すべてにローマ退去を命じたために最近イタリアから来た,アクラという名のユダヤ人と,その妻プリスキラに会った。それで彼はそのふたりのもとに行き,
3 職が同じだったのでその家に滞在し,こうして彼らは[共に]働いた。天幕作りをその職としていたのである。
4 しかしながら,彼は安息日ごとに会堂で話をして,ユダヤ人とギリシャ人を説得するのであった。
-使徒18:1-4
使徒20章
33 わたしはだれの銀も金も着衣も貪ったことはありません。
34 この手が,わたしの,そしてわたしと共にいる者たちの必要のために働いたことを,あなた方自身が知っています。
35 わたしは,このように労苦して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』との言葉を覚えておかなければならないことを,すべての点であなた方に示したのです」。-使徒20:33-35
しかし、ものみの塔が予告した終わりは未だに来ないため、生活のために十分資本を持っていない人は皆生活に困窮しています。(初めの予告は1975年でした。既に50年も経過しています)
信者の生活困窮は、個人の責任というよりものみの塔の責任です。
終わりが来ないにもかかわらず未だにさせるだけさせて、生活の支援を全く行っていないからです。
従って、上記に加え、
5 伝道活動を優先させる信者の生活支援
も加える必要があります。
世を忌避しているにも係わらずものみの塔の信者の殆どは「国民健康保険や介護保険」あるいは「社会保険」に加入したり、個人の生命保険に加入しています。
最も、これは法律で定められているので否応なしですが。
それでも、世を利用していることには変わりはありません。
もし、本当に忌避しているなら、病気になっても健康保険を用いず自費で医療を受けるはずです。
病院に行くことさえ世を利用していることになります。
こうした行いなども「ものみの塔の主張の矛盾」の一つです。
世を忌避し、世を利用しないなら「世から出なければならない」のです。
それゆえ、ものみの塔は矛盾したことを信者に要求しているのです。
ものみの塔もその信者も宗教団体の一つとして、各国の法律に従う必要があります。
つまり、聖書に記されているように「権威に従っている」のです。
しかし、幾つかの点では「その権威に逆らう」こともしています。
例えば、国旗に手を合わせたりお辞儀(ある意味崇拝行為)をしない、国家を歌わない、選挙で投票しないなどなど。
イエスが弟子たちを伝道に遣わした時には、イエスが彼らの生活を保障していましたので、何も持たずに活動を行うことが出来ました。
しかし、イエスが亡くなった後はパウロが述べた通りなのです。
従って、伝道活動においての生活は自分で確保する必要がありました。
ただ、パウロが述べているように、パウロ自身は自ら働いて他の信者の支援は全く受けないどころか逆に支援をさえしていました。
パウロの例は特別なのです。
パウロには聖書の知識に加え生活のための「技」も持っていたからです。
ものみの塔の信者で、たとえば、高校だけを卒業し直ぐに開拓奉仕に入ったとしても、せいぜい出来ることはアルバイトやパートと言った「知識や技術」を伴わない仕事だけです。
これでは自分や家族のために必要なものを備えることが出来ません。
中には夫が世でいわゆる全時間の仕事に就いて家族を養い妻や子供たちが伝道や集会や大会に行くと言うパターンです。
個人的には違和感があります。
夫が未信者のため世で働くのは当然として、信者である妻や子供たちが夫の収入で生活をし宗教活動をしているという矛盾です。
皆さんは疑問に思いませんか。
あるいは、夫婦が信者でも夫が世で全時間働いているケースもあります。
あるいは、夫婦がパートなどのアルバイトをして生計を立てている場合もあります。
あるいは、独身の信者は自らアルバイトなどをして生計を立てている場合もあります。
各人置かれている状況は異なります。
しかし、ものみの塔の信者は、
立場が異なるにも係わらず「同じように伝道活動を行うこと」が求められているのです。
どんな状況にあってもものみの塔は伝道や集会や大会への出席を免除しません。
勿論、どんな場合でも強制はされませんが、ものみの塔の言うことに従わないと「霊性が低い」とか「信仰が弱い」などと間接的に「批判」するのです。
こうして、立場の異なる信者に対しても同じことを要求しているのです。
特に問題なのは、年齢に関係なく独身で働けなくなった信者にも「個人的な援助以外」組織としては何の助けもしないことです。
勿論、一時的なことはするかもしれませんが・・・
生活保護はものみの塔が忌避している世のシステムです。
これを利用することは信仰の面では「恥」です。
では、パウロが次のように語ったことをどのように考えるのでしょうか。
コリント(一)12章
12章
さて,兄弟たち,霊の賜物について,あなた方に知らずにいて欲しくありません。
2 あなた方も知るとおり,諸国民の者であった時,あなた方はただ導かれるままに,声のない偶像のもとへと導かれていました。
3 それで,あなた方に知らせておきたいと思うのは,神の霊によって話しているなら,だれも,「イエスはのろわれている!」とは言わず,聖霊によるのでなければ,だれも,「イエスは主である!」とは言えない,という点です。
4 さて,賜物はさまざまですが,霊は同じです。
5 奉仕の務めはさまざまでも,主は同じです。
6 働きはさまざまでも,すべての人の中であらゆる働きをされる神は同じです。
7 しかし,霊の顕現は,有益な事柄を目的として各々に与えられます。
8 たとえば,ある人には霊によって知恵のことば,ある人には同じ霊にしたがって知識のことば,
9 ある人には同じ霊によって信仰,ある人にはその一つの霊によっていやしの賜物,
10 さらにある人には強力な業の働き,ある人には預言すること,ある人には霊感のことばを識別する力,ある人には種々の異言,そしてある人には異言を解釈する力が与えられています。
11 しかし,これらのすべての働きを同一の霊が行なうのであり,その欲するとおりに各々に分配するのです。
12 体は一つであっても多くの肢体に分かれており,また体の肢体は多くあっても,その全部が一つの体を成しますが,キリストもそれと同じなのです。
13 まさしくわたしたちは,ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと,奴隷であろうと自由であろうと,みな一つの霊によって一つの体へのバプテスマを受け,みな一つの霊を飲むようにされたからです。
14 実際,体は一つの肢体ではなく,多くの[肢体]です。
15 たとえ足が,「わたしは手ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。
16 また,たとえ耳が,「わたしは目ではないから,体の一部ではない」と言ったとしても,そのためにそれが体の一部でないというわけではありません。
17 もし全身が目であったなら,聴覚はどこなのですか。それが聴くことばかりであったなら,においをかぐことはどこなのですか。
18 しかし今,神は体に肢体を,その各々を,ご自分の望むままに置かれたのです。
19 もしそのすべてが一つの肢体であったなら,体はどこにあるのでしょうか。
20 しかし今,それは多くの肢体であり,それでもなお一つの体です。
21 目は手に向かって,「わたしにあなたは必要でない」とは言えず,頭も足に向かって,「わたしにあなた方は必要でない」とは[言えません]。
22 それどころか,実際には,体の中で[ほか]より弱く見える肢体がかえって必要なのであり,
23 また,体の中で[ほか]より誉れが少ないと思える部分,これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。こうしてわたしたちの見栄えのしない部分に[他]より豊かな麗しさが添えられ,
24 一方,麗しい部分は何も必要としません。しかしそうではあっても,神が体を組み立てたのであり,欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて,
25 体に分裂がないように,その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました。
26 それで,一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しみ,ひとつの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体が共に歓ぶのです。
27 さて,あなた方はキリストの体であって,それぞれが肢体です。
28 そして神は会衆内にそれぞれの人を置かれました。第一に使徒,第二に預言者,第三に教える者,次いで強力な業,次いでいやしの賜物,助けになる奉仕,指揮する能力,種々の異言です。
29 すべてが使徒ではないでしょう。すべてが預言者ではないでしょう。すべてが教える者ではないでしょう。すべてが強力な業をするわけではないでしょう。
30 すべてがいやしの賜物を持つわけではないでしょう。すべてが異言を話すわけではないでしょう。すべてが翻訳者ではないでしょう。
31 それでも,より大きな賜物を熱心に求めてゆきなさい。ですが,わたしはさらに勝った道をあなた方に示します。
13章
たとえわたしが人間やみ使いの[いろいろな]ことばを話しても,愛がなければ,音を立てる[一片の]しんちゅうか,ただ鳴り響くシンバルとなっています。
2 そして,たとえ預言[の賜物]を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がなければ,何の価値もありません。
3 そして,ほかの人たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がなければ,わたしには何の益にもなりません。
4 愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,
5 みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず,
6 不義を歓ばないで,真実なことと共に歓びます。
7 すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべての事を希望し,すべての事を忍耐します。
8 愛は決して絶えません。それに対し,預言[の賜物]があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識があっても,それは廃されます。
9 わたしたちの知識は部分的なものであり,預言も部分的なものだからです。
10 全きものが到来すると,部分的なものは廃されるのです。
11 わたしがみどりごであった時には,みどりごのように話し,みどりごのように考え,みどりごのように論じていました。しかし,大人となった今,みどりごの[時の]ことをやめたのです。
12 現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが,その時には顔と顔を向かい合わせて[見るの]です。現在わたしが知っているのは部分的なことですが,その時には,自分が正確に知られているのと同じように,正確に知ることになります。
13 しかし今,信仰,希望,愛,これら三つは残ります。しかし,このうち最大のものは愛です。
(パウロはイエスと同じように最も価値のあるものとして「愛」を掲げているのです)
14章
愛を追い求めなさい。その上に,霊の賜物を,それも,できるなら,預言することを熱心に求めてゆきなさい。
(つまり、信仰の土台は「愛」であると述べているのです)
2 異言を話す人は,人に対してではなく,神に対して話すからです。だれも聴いていないのに,その人は霊によって神聖な奥義を話しているのです。
3 しかし,預言する人は,その話す事柄によって人を築き上げ,励まし,慰めます。
4 異言を話す人は自分を築き上げますが,預言する人は会衆を築き上げるのです。
5 そこで,わたしは,あなた方のすべてが異言を話すことを欲しますが,それよりは,あなた方が預言することのほうを望みます。実際,異言を話す人が[それを]翻訳して,会衆が築き上げられるようにするのでないかぎり,預言する人のほうが優れています。
6 また,兄弟たち,わたしが今あなた方のところに行って異言を話すとしても,啓示,あるいは知識,預言,教えをもって話すのでなければ,あなた方に何の益となるでしょう。
7 実際のところ,フルートにしろたて琴にしろ,無生の物も音を出しますが,音程がはっきりしなければ,そのフルートやたて琴で何を演奏しているかどうして分かるでしょうか。
8 また,ラッパの出す音が不明りょうであれば,いったいだれが戦闘の用意をするでしょうか。
9 これと同じように,あなた方も,舌で,容易に理解できることばを出さないなら,何を話しているのかどうして[人に]分かるでしょうか。あなた方は,実際には空気に話していることになるのです。
10 世界には非常に多くの種類の音声があることでしょう。それでも,意味を持たないものはありません。
11 そこで,もしわたしが音声の真意を理解していないなら,[それを]話している人にとってわたしは異国人であり,話している人もわたしにとっては異国人であることになります。
12 それで,あなた方自身も,霊[の賜物]を熱心に求めているからには,会衆を築き上げるという目標でそれに満ちあふれるよう努めなさい。
パウロは会衆には様々な賜物を持つ人が存在しておりそれらが一つの体を形成していると述べています。
しかも、それぞれの肢体に優劣はなくどれも必要のものとしています。
そして、これらを超越するものは「愛」であると述べているのです。
ものみの塔のように立場の異なる信者に対して「一律に伝道活動を要求するものではありません」
では、会衆内にいる様々な立場の信者に対して「同じ要求をする」ものみの塔や会衆の長老たちは「一体何者なのでしょうか」
しかも、立場の異なる人の困窮を「世話」をせずに「要求だけ」をしているのです。
会衆の人々や長老たちはこのパウロの言葉に従っていないことは明白です。
指導的な立場にない信者は別として、ものみの塔や会衆の長老たちは矛盾しているのです。
矛盾と言うより「偽りの崇拝」をしているのです。
イエス・キリストはこのようなものみの塔や会衆の長老たちを認め受け入れるでしょうか。
答えは否です。
ものみの塔や会衆の長老たちがしていることは、
表向きは神とキリストに信仰を持っていると言いながら「神とキリストの精神に反している」のです。
(私がものみの塔を離れた理由の一つです)
イエスはマタイ24:45-51で次のように述べています。
45 「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
46 主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。
47 あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
48 「しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,
49 仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,
50 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,
51 最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。
(ものみの塔は信者に対してはこの「食物」を霊的食物のみに適用しています。
そして、文字通りの食物に関しては自分たちの農場(世界中の寄付によって造られた農場です)を作
りものみの塔の本部や組織の上部の「幹部」たちだけに提供しています。
末端の信者がそうした食物を与えられることは特別な時以外ないのです。
これは大いなる「詐欺行為」とさえ言えます。
つまり、こうした農場で作られた食物は信者の寄付によって成り立っているからです。)
更に、マタイ7:15-23
21 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。
22 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。
23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。
ものみの塔や会衆の長老たちは、イエスによこしまな奴隷、不法を働く者と言われた人々のことであることは明白です。
ものみの塔の偽善は伝道活動をいわば「強要」しておきながら、信者の世話を全くしていない点にあります。
しかも、
組織から生活支援を受けられるのは、特別開拓者や巡回監督以上の立場の特別な人たちだけです。
この点、統治体の高齢者たちも例外ではありません。
彼らは信者の寄付で生活をしているのです。
しかも、信者には寄付をすることを当然もしくは義務とさえ主張しています。
それは、「すべてにおいて神の援助や保護があり、寄付は感謝の表れだ」と主張しているのです。
仮にそうだとしても、その寄付をものみの塔は自分たちのために使っているのです。
これ以上の背教があるでしょうか。
彼らはイエスが言ったように 「仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだり」しているのです。
しかも、個々の信者の福祉に関しては「神に荷を負わせて」いて自分たちは殆ど何もしていないのです。
そして、現実には「神はその荷を負ってはくれません」
信仰はどんなに苦しくても「自らが耐え忍ばなければならない」からです
ものみの塔は「嘘」をついているのです。
ものみの塔は信者に寄付を求めることで、いわば「聖書の教えを売り物」にしています。
勿論、寄付は自発的なものですが、日ごろ「神に感謝すべきだ」と言っているものみの塔は信者に寄付を強要しているのです。
1世紀のAD46年頃ローマ第4代皇帝クラウディウスの統治下の時にユダヤ地方に大飢饉が生じた時にエルサレムとユダヤに住むイエスの弟子たちのために「救援活動」が行われバルナバとサウロ(後のパウロ)がそれを届けたことが記録されています。-使徒11:27-30
しかし、それは一時的なもので、恒久的な支援ではありませんでした。
それでも、孤児ややもめなどに関しては別です。-ヤコブ1:27
ものみの塔は自分たち勧めに従い仕事を断念し伝道活動に専念した者たちへの生活支援を組織としての義務を全く怠っています。
ものみの塔は自らの発言の責任を果たしていないのです。
しかも、現実は真逆で、信者に更なる寄付を要求しています。
これでは本末転倒です。
ものみの塔は逆のことをしているのです。
それでもあなたはものみの塔の言うことを信じて従いますか?
愚かなことです。
それゆえ、ものみの塔を離れた元信者たちは「ものみの塔に感謝する人は一人もいない」のです。
「永遠の命」に対する未練はあっても、ものみの塔に温情を感じて離れ難く思った人は一人もいないと思います。
ものみの塔が信者の「永遠の命の保障」をしてくれるわけではありません。
ただ、希望を抱かせているだけなのです。
加えて、個人の福祉に関して「実際には何一つものみの塔の言う通りにはなっていない」のです。
終わりが来るのが遅いと言っているのではありません。
ものみの塔の「発言」と「信者に対する対応」が問題なのです。
実際、個人や会衆に問題が生じそれを協会に訴えても「実質的なことは何もしてくれません」
ただ、会衆の長老に対応させたり、協会が立場の上の長老を派遣して「ことば」で対応を伝えるだけなのです。
自分の手で物を動かすことさえしないのです。
また、ものみの塔は「苦情」は全く受け付けません。
殆どの場合は「だんまり」を続けます。
なぜなら、会衆の長老や支部の責任者たちにはその権限がないからです。
ただ、時折一部の長老が「個人的」にその「苦情」に対応することもありました。
そのため、信者の中には「不満を募らせる人」も少なくないのです。
以前のブログでも書きましたが、信仰は生活基盤があって初めて成り立つのです。
飢えに苦しんでいる人の信仰は「ただ、神に助けを祈る」しか出来ません。
伝道活動や集会や大会などへ出席出来る余裕すらないのです。
これでどうしてものみの塔の言う信仰の歩みが出来ると言うのでしょうか。
それでも、「神が助けてくれるという信仰を持ちなさい」というのであれば、なぜ生活保護を受給している信者がいるのですか?
その人たちは本当に信仰を持っていないのですか?
実に、詭弁ではありませんか。
この点、ものみの塔は「嘘つき」なのです。
つまり、困っている信者がいるのに助けようとはしないのです。
私がイエスの立場なら「偽善者よ、わたしから離れ去れ!」と告げます。
ヤコブは次のように述べています。
13 憐れみを実践しない人は,憐れみを示されることなく[自分の]裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
14 わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか。
15 兄弟か姉妹が裸の状態でいて,その日の食物にも事欠くのに,
16 あなた方のうちのだれかが,「安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それは何の益になりますか。
17 このように信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいるのです。
-ヤコブ2:14-17
このヤコブの言葉は例えですが、ヤコブは仲間の信者に対して「ことば」だけではなく「実際に援助する必要」を述べています。
信者に対して十分な生活支援を行わないことは、ものみの塔の信仰は「死んだもの」なのです。
更に、いわゆる全時間奉仕者だけが特別扱いを受けることは間違いです。
イエスはルカ21:1-4で次のように述べているからです。
21章
さて,[イエス]が目を上げると,富んだ人々が自分の供え物を宝物庫の箱に入れているのが見えた。
2 次いで[イエス]は,ある貧乏なやもめがごくわずかな価しかない小さな硬貨二つをそこに入れるのをご覧になって,
3 こう言われた。「あなた方に真実をこめて言いますが,このやもめは,貧しいとはいえ,彼ら全部より多く入れました。
4 これらの者はみな自分の余っている中から供え物を入れましたが,この[女]はその乏しい中から,自分の持つ暮らしのもとすべてを入れたのです」
生活などのためにわずかしか伝道活動を行えない信者の振る舞いは、生活に余裕がある全時間奉仕や協会の援助で奉仕している巡回監督やそれ以上の立場の人よりも「価値のある奉仕」をしたことになるのです。
ものみの塔や会衆の長老たちは悪行以外はただ奉仕時間の多少のみで判断しています。
明らかにイエスの見方、考え方とは異なるものです。
イエスの言葉によれば、ものみの塔は自分たちの教えを教理として教えている[背教者]なのです。
-マタイ15:9
極論から言えば、ものみの塔の活動は、ヤコブの例えと同じで「死んだ信仰」であり、無駄な事なのです。
つまり、言うだけで業が伴っていないのです。
伝道活動という業や世から離れ信仰において忠実を保っているから「業が伴っている」と主張するかも知れません。
この主張は間違いです。
そうした活動は「自分自身の行いだけ」であり人々や他の信者などに対してはただ「言うだけ、言葉だけ」のことで「実質が伴っていない活動」なのです。
ヤコブの言う通りです。
イエスも山上の垂訓の最後に次のように述べています。
13 「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。
14 一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。
15 「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。
16 あなた方は,その実によって彼らを見分けるでしょう。いばらからぶどうを,あざみからいちじくを集めることなどないではありませんか。
17 同じように,良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。
18 良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。
19 りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。
20 それでほんとうに,あなた方はその実によってそれら[の人々]を見分けるのです。
21 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。
22 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。
23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。
-マタイ7:13-23
まさに、ものみの塔は22節にあるように主張するのではありませんか?
しかし、イエスの返答は「わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れされ、と」というものです。
この点ものみの塔は言い訳出来るでしょうか?
否です。
そして、神の怒りの七つの鉢の災いと共に大いなるバビロンの一部として、野獣により裸にされ火で焼かれるのです。
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ものみの塔の信者の減少について。
一時期上昇傾向にあった伝道者数も減少傾向にあります。
減少の原因の一つに、ものみの塔の言うことへの「期待外れ」が最も大きいと思います。
それは、終わりがなかなか来ないことと世の中の情勢がものみの塔の言うことと乖離している点です。
確かに、犯罪が増加し災害被害も多くなっていますが、聖書のしるしと考えるにはインパクトが弱いのです。
上昇傾向にある時には「期待感」が大きかったのですが、今は冷めた見方で見ている場合が多いものです。
おそらく、集会や大会などで「終わりの日のしるし」が話される場合多くの信者は「疑念」を抱いています。
話される内容に関して「信じる度合い」が昔に比べて「かなり弱くなっている」のです。
そのため、無理にでも「信仰を保つべき」ことを自分に言い聞かせているのです。
「終わりの日のしるし」は社会現象なのですが、ものみの塔は信者の信仰の強弱で片付けようとしているのです。
社会現象というのは、物事や情報に関して殆ど知り尽くしておりもはやどんなことを知らされても新鮮味も感動もなくなって来て、むしろ、いろいろ懸念されることが増えるという点です。
こうした傾向がものみの塔の信者内でも起きているということです。
知識が増えるとこのような傾向になるのは昔から全く変わっていないのです。
この点ソロモンの言うことについて考慮することは賢明なことです。
先ずソロモンとはどのような人物だったのでしょうか?
歴代誌 第二
1章
そして,ダビデの子ソロモンはその王権の点で引き続き強さを得,その神エホバは彼と共におられ,彼を並外れて大いなる者としておられた。
2 そこでソロモンは全イスラエル,すなわち千人隊および百人隊の長,裁き人,それに父方の家の頭である全イスラエルのすべての長に命令を下した。
3 それで,ソロモンおよび彼と共にいた全会衆はギベオンにある高き所へ行った。そこは,エホバの僕モーセが荒野で造った,[まことの]神の会見の天幕があるところだったからである。
4 ところが,[まことの]神の箱は,ダビデがキルヤト・エアリムから,ダビデがそのために用意した場所に運び上らせておいた。彼はそのために天幕をエルサレムに張っておいたからである。
5 また,フルの子ウリの子ベザレルが造った銅の祭壇がエホバの幕屋の前に置かれていたので,ソロモンと会衆はいつものようにこれに問い合わせた。
6 さて,ソロモンはそこでエホバの前に,会見の天幕に付属する銅の祭壇の上に捧げ物を供え,次いでその上に焼燔の捧げ物一千頭をささげた。
7 その夜の間に,神はソロモンに現われ,彼に言われた,「あなたに何を与えようか,願いなさい!」
8 そこでソロモンは神に言った,「あなたこそ,私の父ダビデに対して大いなる愛ある親切を表わし,彼に代わって私を王とされた方です。
9 では,エホバ神よ,私の父ダビデとのあなたの約束が信頼できるものでありますように。あなたが地の塵粒のようにおびただしい民の上に私を王とされたからです。
10 今,私に,この民の前に出入りできるよう,知恵と知識をお与えください。と申しますのは,だれがこの大いなる,あなたの民を裁くことができましょうか」。
11 すると,神はソロモンに言われた,「このことがあなたの心に掛かり,あなたが富も,財宝も,誉れも,またあなたを憎む者たちの魂をも求めず,またあなたが求めたのは長寿でさえなく,むしろあなたは,わたしがあなたをその上に王としたわたしの民を裁くために,自分のために知恵と知識を求めているので,
12 その知恵と知識とはあなたに与えられている。また,あなたの前にいた王が持ったことのないほどの,そしてあなたの後の者が持つことのないほどの富と財宝と誉れとをわたしはあなたに与えるであろう」。
この記述から分かるように、ソロモンは神により知恵と知識と富と財宝と誉れを与えられました。
そのソロモンが次のようにも語っています。
伝道の書
1章
エルサレムの王ダビデの子,召集者の言葉。
2 「何とむなしいことか!」と召集者は言った,「何とむなしいことか! すべてはむなしい」。
3 人が日の下で骨折って働くそのすべての骨折りに何の益があろう。
4 代は去り,代は来る。しかし,地は定めのない時に至るまで立ちつづける。
5 そして,日もまた輝き出,そして日は没した。それは自分の輝き出る場所へ,あえぎながら来るのである。
6 風は南に進み,循環して北に向かう。絶えず循環を繰り返しながら,風はその循環に帰ってゆく。
7 冬の奔流はみな海に出て行くが,それでも海が満ちることはない。冬の奔流はその出て行く場所へ,そこへ帰っては出て行くのである。
8 すべての物事は疲れを生じさせる。だれもそれについて語ることはできない。目は見ることに満ち足りず,耳も聞くことから満たされはしない。
9 あるようになったもの,それがあるようになり,行なわれたもの,それが行なわれるようになる。したがって,日の下には新しいものは何もない。
10 「これを見よ。それは新しい」と言える物が存在するだろうか。それは定めのない時にわたって既に存在しており,存在するようになったものは,わたしたちよりも前の時代からあったのである。
11 先の時代の人々の記憶はない。後に起こる者たちについてもそうである。さらにその後に起こる者たちの中においても,彼らの記憶はない。
12 召集者であるわたしは,エルサレムでイスラエルを治める王であった。
13 そして,天の下で今までに行なわれたすべての物事に関し,知恵を求めて探究しようと心に定めた。―神が人間の子らに与えて携わらせた,災いの多い営み[に関して]である。
14 わたしは日の下で行なわれるあらゆる業を見たが,見よ,すべてはむなしく,風を追うようなものであった。
15 曲がっているものは,まっすぐにすることはできない。欠けているものは,到底数えることはできない。
16 わたしは,わたし自ら心に語って言った,「見よ,わたしは,わたしより先にエルサレムにいただれよりも大いに知恵を増し加え,わたしの心は非常に多くの知恵と知識を見た」。
17 次いで,わたしは知恵を知り,狂気を知ろうと心を向け,そして愚行を知ることになったが,これもまた風を追うようなものである。
18 知恵の満ちあふれるところには,いら立ちが満ちあふれる。したがって,知識を増し加える者は痛みを増し加えるのである。
(参考:知識[真理]は既に存在しています。それゆえ、求めるのは「理解」なのです)
こうしたことは単にソロモンの時代だけのことでしょうか。
知恵や知識は時代ごとに常に増えていることは確かです。
しかし、どの時代を切り取っても始めと終わりでは人々の思いや感情は異なりますが、その傾向はどの時代でも同じなのです。
従って、BC1000年以前に記されたソロモンの言葉は現代でも同じだと言えます。
その結論は最後の18節にある通りなのです。
物事を良く知らない昔は少しの知恵や知識を喜んだものですが、今はむしろそれが痛みになっているのです。
伝道の書1章で
4 代は去り,代は来る。しかし,地は定めのない時に至るまで立ちつづける。
5 そして,日もまた輝き出,そして日は没した。それは自分の輝き出る場所へ,あえぎながら来るのである。
6 風は南に進み,循環して北に向かう。絶えず循環を繰り返しながら,風はその循環に帰ってゆく。
7 冬の奔流はみな海に出て行くが,それでも海が満ちることはない。冬の奔流はその出て行く場所へ,そこへ帰っては出て行くのである。
8 すべての物事は疲れを生じさせる。だれもそれについて語ることはできない。目は見ることに満ち足りず,耳も聞くことから満たされはしない。
9 あるようになったもの,それがあるようになり,行なわれたもの,それが行なわれるようになる。したがって,日の下には新しいものは何もない。
10 「これを見よ。それは新しい」と言える物が存在するだろうか。それは定めのない時にわたって既に存在しており,存在するようになったものは,わたしたちよりも前の時代からあったのである。
と記されている通りです。
例えば、人体についてかなり詳細な部分まで分かって来ました。
また、物質の最小単位の素粒子にまで分かるようになって来ました。
しかし、これらはソロモンが言う通り昔から存在していたものです。
新しいものは、人間が作った物だけです。
しかし、その人間が作った物が人間が住む地球を壊しているのです。
昔から存在していたものは地球を壊しません。
災害が生じても一時的なもので直ぐに元へ戻ります。
しかし、人間が作ったものは元へは戻らないものが多いのです。
そしてそれが人間やすべての生き物に害を与えているのです。
科学技術の進歩発展は沈みゆく大型客船の内部を改装して新しくするようなものです。
すべては無駄に終わるのです。
ものみの塔の信者の知恵や知識についても同じなのです。
それゆえ、信者の数が減少しているのです。
ものみの塔に生じた様々な出来事だけのせいではないのです。
(ものみの塔を擁護している訳ではありませんので誤解の無いように)
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参考
ものみの塔が信者に「すべきだ、してはならない」と言っていることがら。
1 子供へのムチ(体罰)をすること
2 輸血をしない
3 学校行事へ参加しない
4 信者以外の人と普通に友だちにならない
5 授業で柔道や剣道などがしない
6 国歌を歌わない
7 誕生日やクリスマスをしない
8 祭りに参加しない
9 七夕、ひな祭り、鯉のぼりなどの行事をしない
10 選挙で投票をしない
11 信者以外との恋愛をしない
などなどです。
これらはすべて「信仰に関わる」ことなので、各々その理由や聖書的根拠またはそれらしきものを示しています。
これらはすべてものみの塔が「すべきでないと決定したことがら」です。
1項と2項以外は文字通り聖書には記されてはいません。
「世のものではない」「世との交友」などを根拠にしたものです。
信者や信者の子供たちはこうしたことのために「世から疎外」されています。
しかし、その一方でそれぞれの国の法律にしたがい税金を納め、健康保険に加入し、介護保険を支払い、世の中で様々な必要なものを買っています。
さらには、生活保護を受けたり政府の生活支援金を受け取ったり教育無償化、医療費無償化、子供を出産した時や育児などに関する政府の援助などを受けています。
我儘で身勝手のように見えませんか。
世のものとはならない信者が世を利用しているのです。
大いなる矛盾です。
偽善と言っても良いです。
更には、血を避けるようにと言われ、いわば「おきて」のように守っています。
しかし、スーパーで売っている肉を何も考えずに食べています。
ファミレスでステーキやハンバーグを食べています。
必ずしも完全に血抜きをしているとは限りません。
つまり、血を食べている場合もあるのです。
パウロは、市場で売っているものを「何も聞かずに」食べなさいと述べていますから、スーパーで売っている肉やファミレスのステーキやハンバーグを食べて良いことになります。
しかし、「これは犠牲として捧げられたものです」と言われたら食べてはならないとも言っています。
その理由は自分ではなく、そのように言った人の良心のためだと述べています。
当然、言われなければ食べて良いのです。
更に、様々な理由で血液検査をすると思います。
血を避けるならこれも避けなければなりませんが、信者も血液検査を普通に疑問も抱かずに受けています。
あるいは、歯茎から血が出た場合、すべてを吐き出すことは「不可能」です。
つまり、血を飲んでいるのです。
これを避けることは出来ません。
では、どのようにして「血を避ける」ことが出来るのでしょうか。
ものみの塔の言うことは矛盾しているのです。
つまり、
神やパウロが述べている「血を食べてはならない」「売っている肉を食べても良い」という意味を「間違って」解釈しているのです。
ものみの塔とその信者は聖書に忠実だと主張していながら矛盾していることもあるのです。
聖書に通じていてもものみの塔のやることに疑問を抱く人は少なくないと思います。
聖書もものみの塔も教えも知らない人でも「違和感」を抱く人は多いと思います。
それゆえ、信者の子供たちは小学校や中学校では「いじめ」に遭います。
他の生徒と同じことをしないからです。
自分から仲間外れになっているのです。
そうであれば、学校へ行く理由があるでしょうか。
学校で教えている教科内容は学校へ行かなくても学ぶことは出来ます。
小、中学校は「単位制」ではないので「修了」はすることが出来るのです。
高校の場合は単位制ですから単位を取らないと卒業出来ませんが、小中学校はそうではないのです。
つまり、学校を卒業する「十分」な理由はないことになります。
教育を受ける権利は国の法律で定められたものです。
それは
受けたい人の権利であって義務ではないのです。
聖書の規則でもありません。
聖書では親が子供に教えるべであると示されています。
最も、学校というものが存在していない時代のことですが。
また、憲法では国民は勤勉に働くべきことが記されています。
ものみの塔の信者はこの法律に違反していることは明白です。
宗教活動は仕事ではないからです。
憲法では自由と権利も記されていますが義務も記されています。
ものみの塔の信者でも国の法律を守る義務があるのです。
違反すれば罪に問われることになります。
ものみの塔の信者は宗教活動以外では「生きることに関して勤勉ではないのです」
ものみの塔の矛盾それは何を意味するのでしょうか。
信仰の矛盾、信仰の破綻、信仰の偽善、信仰の背教を示しており、半分世のものとなっているという事実を示しています。
もし、あなたがものみの塔の信者なら「どうして良いか分からなく」なりませんか?
ものみの塔とはそのような組織なのです。
実際、使徒やパウロの時代のイエスの弟子たちつまりクリスチャンたちも「真理を正しく理解していない」ためパウロやペテロやヤコブやユダヤヨハネによって教えられる必要がありました。
1世紀当時ですらこのようだったのに、ものみの塔を含めて現代において「すべてを明確に理解しているクリスチャンが存在するのかは疑問」です。
なのに、ものみの塔は信者に自分たちの考えや見解で教え導いているのです。
問題点はこの点なのです。
繰り返しますが、信仰は個人が判断し行うものです。
ものみの塔はこれを逸脱しているのです。
ものみの塔はその責任を問われ裁かれることは間違いありません。
あなたがものみの塔の信者なら「本当に自分で理解し判断し行っていますか?」
ものみの塔の教えをそのまま守っているだけではありませんか。
それであなたは救われると考えているとしたら「間違い」です。