知恵を求める人のためのブログです。

創世記からルツ記まで紹介しましたが、
ノアの洪水はBC2370と言われていますから、その当時から改めて人類の歴史が始まりましたが、学校の歴史で習う石器時代や縄文時代というイメージは全くありません。
初めから、今と同じように話をし、道具を用いて農耕をし家畜を飼っていました。
その後BC2000年頃のアブラハムの時代には布か麻による衣服を着ていたのです。
当然、道具を作る技術も布を作る技術もあり、また、サンダルを作って履いていたのです。

生活スタイルは古代では天幕による移動生活で、現代では都市で文明化した生活という違いはありますが、基本的な生活は今と殆ど変わらないのです。

イスラエルがカナンに住むようになってから都市に定着して住むようになりました。
畑で麦を作ったりぶどうを栽培したり羊と山羊や牛などを放牧していました。
ただ、衣類や道具やすることなどが古いというだけで、人の考えや生き方や気持ちなどは今と殆ど変わっていなかったのです。

主に西暦前の人々の状態を考えれば、
1 神エホバによる法による支配と、
2 イスラエル人以外の人々、聖書的な言い方をすれば諸国民の人々の「偶像崇拝と淫行と力」による支配
という異なる支配が存在していました。

アブラハムの子孫が神エホバから律法を与えられたのはBC1513年ですが、
他方では、
BC1750年頃のバビロニアには、いわゆるハンムラビ法典という、律法に似たものが既に存在していましたが、すべての民族がこれに従っていた訳ではありません。
この法典はそれ以前にその地方のシュメール文明の影響を受けていたとも言われています。
ヤコブの息子のヨセフがエジプトへ売られて行った当時のBC1750年頃のエジプトには、既に法律があったとされています。
エジプトでは国家としての法でしたが、ハンムラビ法典はハンムラビ王がバビロニア地方に広く散在させたものといわれていますから、いわゆる国家の法という訳ではありませんでした。

イスラエルの律法は、国家としての法律です。

大別すると二つのグループに分けられますが、それはAD100年頃までのことで、イスラエルが国家として滅ぼされてから一つグループしか存在しておらず、イエス・キリストの使徒たちが死んだ後は、ただ、正確な知識も聖霊も受けていない弟子たちとイエス・キリストのおきてと聖書だけが残された状態と言えます。
それでも、イエスは小麦と雑草の例えで説明しているように、いわゆるクリスチャンの中でも小麦(真のイエス・キリストの弟子たち)と雑草(偽の、背教や分裂をもたらしている弟子たち)の二つのグループが存在しています。

この二つのグループは、収穫の時期、つまり、事物の体制の滅びの時までは共に成長し、刈り取る時に明確に分かるものとなるのです。

そして、その時が「今」なのです。


諸国民の力による支配の歴史は、学校で習う世界史の通りです。
一方、イスラエルの歴史は聖書の中に記述されている歴史ですが学校では習いません。

いわゆる、世界の歴史は諸国民の歴史であり、イスラエルの歴史は「宗教の歴史」であり、
人間の世界神による世界の違いであるため、普通の学校では宗教は扱わないのです。

どちらが「人間の根本問題」をより深く考慮しているかと言えば聖書の方です。

現在の世界の状態を見ても、この問題を人間が解決出来ないことは明白です。

例えば、ロシアのウクライナ侵攻を誰も止められませんし、プーチンに罰を加えることも出来ていません。
ハマスによるイスラエルの攻撃に関しても同様です。
間もなく、ガザはイスラエル軍によって完全に制圧されるでしょう。
それでも問題は解決出来ないのです。

北朝鮮の問題、中国の問題、ミャンマーの軍事政権の問題、アメリカの政治や銃規制の問題、
その他の国々の経済や犯罪の問題、
どれをとっても、人間が解決出来ていないのです。

日本国内でも、経済の問題、人口減少の問題、人々の生活や犯罪などの問題、政治家の不正やモラルの問題、
法律の悪用、あるいは、冤罪、性的暴行や被害の問題、
とれを取っても、全く解決出来ていません

人間は科学技術の進歩を誇っていますが、身の回りのことを全く解決出来ていないのです。

古代イスラエルでは、神エホバのおきてや律法に従っている限り、人々の間には「全く騒乱」はなかったのです。
人々は平和の内に安心して暮らしていたのです。

人間がそれに逆らって欲望を顕わにしたので問題が生じたのです。

皆さんは、この事実をどのように考えますか?

皆さんの多くは、聖書を知らないのです。
聖書に対する理解を深めれば、今の世界の体制が如何に「悪い状態」かが理解出来るでしょう。

聖書は、単なる宗教の本ではないのです。
つまり、人間の考え、振る舞い、行動などの道徳や人生の歩み方を示す本だけではないのです。

他の宗教の教えは、人間個人、あるいは、人間関係のみの考えを教えています。
日本では結婚の誓いを神に、死んだら寺に葬られます。
単なる、儀式に過ぎません。
殆ど意味をなさないものです。

聖書はそうではありません。
おきてや律法や司法上の定めや法令で「人間」を正しく導くための在り方を示してるだけではなく、
人間が抱えているすべての問題を解決する方法をも示しているのです。

政治の腐敗、独裁政権、公務員の不正、人々の不正、犯罪、姦淫、淫行、病気、そして死とあらゆる問題の解決策を示しており、
しかも、そうする力も能力もあることを、既に実証されてるのです。

今の私たちは、その実証を目の当たりにすることは出来ません。
しかし、それは事実として聖書に記されているのです。

信じるか否かはその人自身の問題です。

しかし、それによって、自分の命が関係していると言えばどうでしょうか。

誰も、信じなければ「ダメだ」などとは言いません。
決めるのは「あなた自身」だからです。

脅しでもありません。
あなたは自由に生きることは出来ます。
しかし、その生き方に「神は責任を問われる」ということを知る必要があるのです。

医者が言うように「輸血しなければ死にます」というものでもありません。

信じるか否かに対する「条件」は一つもないのです。
ただ、信じた後は「従う必要」が生じるというものです。

聖書を信じる、突き詰めればイエス・キリストに信仰を働かせ、イエスの教え、命令に従うなら、少なくとも自分自身に関するすべての問題は解決するのです。

聖書を知らない人は、この「イエス・キリストに信仰を働かせる」ということはどういうことなのかを知る必要があります。

単に、自分が「世の終わりを生き残る、つまり、救われる」ということだけではないのです。

すべての問題が解決されるのです。
そうした状態、状況の中で生きられる、過ごせるという「希望」を得ることが出来るのです。

これを読んで、聖書を読んで見よう、調べてみようと思った人は「幸いな者」となるかも知れません。

まず、聖書を自分で読んで内容を知って下さい
聖書の読み方は、わたしのブログを参考にして下さい。

 

 

 

 

これらを順番に読んで下さい。

そうすれば、誰の影響も受けずに、偏見を抱かずに純粋に聖書を読む方法が分かります。


ただし、
くれぐれも、キリスト教の教会やものみの塔に行ってはなりません。

彼らは、誤った方向と考えに人を導くからです。

真理を自分のものにしたければ、自分自身で理解をする必要があるのです。
勿論、聖書を良く理解している人の助言、助けは参考にはなりますが、それを鵜呑みにしてもならないのです。

わたしも助言や参考となることなどを示すことは出来ますが、また、知識を与えることも出来ますが、理解し信じるか否かは自分で決めることです。

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追記
もしかすると、聖書にこのようなことが書いてあるのを始めて知ったという人もいるかも知れません。
また、
ある人は、
聖書を読んでいても、神話や物語であるとしか受け止めていなかったかも知れません。
更には、
聖書を調べている人でも、聖書の中の現実を「詳細にイメージ出来ず、単なる参照や根拠にしか捉えていなかったかも知れません。

いずれにしろ、聖書の中の内容は、すべて事実であり、冒頭にも述べましたように人間性としては古代の人間も今の人間も基本的には全く変わっていないのです。

それだけではなく、聖書の意義は、
神の存在、天地人の存在、人の悪や死の存在、人の争いや病気や死からの救済方法が記されていることです。

あなたはこうした点でいつまでも無知のままで良いですか?
もし、今変わらなければ、
自分の先祖と同じように死んで行くだけです。

しかし、
もし、聖書で記されている復活や永遠の命を享受することを「望む」のであれば
聖書からその方法を学ぶことです。

人生は、この二者択一しか存在していないのです。

どちらを選択するかは、その人の自由です。
そうです、誰もが行使することを望んでいる「自由な選択」です。

ですが、その選択の結果は全く正反対です。

全体が分かっている人の選択は簡単です。
それでも正しい選択、命を選択するとは限りません

今の生活を自由に謳歌したいと思う人もいるのです。
それはそれで良いのです。
その人の選択であり命に対する自分の責任だからです。

誰も、他人が決めることが出来ない、あるいは、他人に強制されない事なのです。

ただ、聖書の預言に対する理解が正しければ、
今は終わりの時で、残されている時間が少ないということです。
その短い時間の間に「命を選択」し、かつ、それを手に入れる方法を理解し、それを行うことが出来る必要があるのです。

21世紀に入って世界は益々混乱と不安の中にあります。
人間の知恵や科学の進歩、快適な暮らし、自己満足、自己本位の生活などだけに目を止めず、
人類に不幸をもたらしている現実に目を向けるべきです。

科学の進歩は人類を危機的状況に追い込んでいます。
人類はもはや「解決」する限界を超えているのです。

今、直ちに全地のすべてを一掃すれば、地球と人は回復します。
しかし、人類にはその能力がないのです。

あなたは月や火星に逃れたいと思いますか?
しかし、
そこでは、地球のように快適には暮らせないし、生命維持装置が不可欠です。
それが破壊されたら「一瞬の内に死んでしまう」のです。

これは宇宙ステーションでの暮らしも同じです。
第一食糧が直ぐになくなってしまいます。
加えて、隕石や人類が撒き散らしている宇宙ゴミなどの衝突により宇宙ステーションが破壊され死んでしまうかも知れません。
それだけではなく、太陽の異常な程の爆発により発せられる強烈なプラズマは命の危険となるのです。

地球が一番安全な住処なのです。
その安全な住処を人類は破壊し滅亡の危険に曝しているのは「科学の進歩」なのです。

人間は賢いようで愚かなのです。
いわゆる、「浅知恵」というものです。

原子力発電、自動運転、AIによる診断や手術、EV車、太陽光発電、新薬の開発、
遺伝子や物質の解明、人体の解明、衛星と通信技術、AIによるロボット化で正確さと危険回避、
あらゆる機器の遠隔操作などなど、
人類に役立ちそうな技術ばかりです。

更には、斬新で美味しい食べ物の工夫、様々な種類の酒の製造、遺伝子組み換えなどの農業の生産性を上げる技術と農薬、
衣類は捨てる程余っているのに斬新で新しいものを新しい製造方法での大量生産などなど、
良いことづくめのように思えます

しかし、
これらのために、日々地球と地球環境は破壊されているのです。
プラスチックごみやナイロンなどそのままでは自然に還らないものによる環境汚染と破壊もあります。
食料分配の不公平もあります。

今人々に必要なのは、聖書から「救われるための方法」を学び、イエス・キリストのおきてを守り行うことです。
そのためには、イエス・キリストのおきてを学ぶ必要があります。
これに加えて、イエス・キリストの命令「イエス・キリストについての良いたより」を宣明し人々をイエス・キリストの弟子としイエス・キリストの命令を守り行うことを教えることです。

ただし、バプテスマを受けることに関しては、そうする権限のある人にしてもらう必要がありますが、
神の霊を受けたそのような権限のある人を見つけなくてはなりません

現代にそのような、いわば、イエス・キリストの使徒たちのような人が存在していないことは事実です。
ですから、バプテスマに関しては「保留」にしなければなりません。

それでも、
1 心の割礼(心の中の余分なもの、つまり、心の汚れを除き去ること)
-分かり易く言えば、今まで持っていた欲望、淫行など肉の業を除き去ること
2 心でバプテスマ(以前の生活を悔い改め、罪に関して自分を死んだものとし、霊によって再び生きること、神エホバに献身をすること)
-分かり易く言えば、神のおきてを守り行うことを心の中で決意すること
を受けることは出来ると考えています。

ヨハネによるバプテスマも、イエスによるバプテスマも、当時は同じ意味を持っていました。
それは「悔い改め」のバプテスマ、つまり、その人の罪を除き去ることでありました。
罪を告白し、悔い改めたことを示すためにバプテスマを受けたのです。-マタイ3:6

ペンテコステの日に聖霊が天から下り、そこにいた人々に聖霊が配られたことにより、
イエス・キリストによる聖霊でバプテスマを受けると言ったバプテストのヨハネのこの言葉は成就しました。
-使徒2:4(参考:ヨハネ7:38-39)

従って、文字通りのバプテスマは必ずしも必要ないのではないかと考えられます。
なぜなら、施す人が現存していないからです。

ペテロは、「悔い改めさない。そしてあなた方ひとりひとりは、罪の許しのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば、無償の賜物として聖霊を受けるでしょう。」-使徒2:38-42
(聖霊を受けると言っても、病人を癒したり奇跡的なことを行うということではありません。聖霊の賜物は、人によって異なることが分かります。)

また、このバプテスマは、
イエス・キリストを信じる、つまり、イエス・キリストに信仰を持ちそのおきてに従うことの表明でもあります。
「神の王国とイエス・キリストの名についての良いたよりを宣明していたフィリポのことばを信じた時、彼らは、ついで(続けて)、男も女もバプテスマを受けた
しかし、これだけでは聖霊を受けてはいませんでした
そのため、
ペテロとヨハネが派遣され、彼らがその人たちの上に(頭に)手を置いてゆくと、彼らは聖霊を受けるようになった」と記されています。-使徒8:12

更に、
イエス・キリストを信じる者はバプテストのヨハネのバプテスマではなく、イエス・キリストの名によってバプテストを受ける必要がありました。
そして、パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らはいろんな国語で話したり預言したりするようになったと記されています。-使徒19:1-7

(参考:この例から、バプテスマは皆同じではないことが分かります。
 もし、過去にバプテスマを受けた人が「何のバプテスマを受けたのかを自覚」していないなら、
改めて「明確な意思と自覚」のもとにバプテスマを受けることは出来るということです。
こうしたことは、神に受け入れられました。その証拠に聖霊が彼らに臨んだからです。

しかし、現代ではパウロのような施す人が存在していないのです。)

使徒たちがいないとバプテスマを受けても「聖霊」を受けることが出来ないことは明白です。
参考:バプテスマを施すには資格もしくは権限が必要であることも分かります。-ヨハネ1:25

バプテストのヨハネもイエス・キリストの弟子たちも、エホバからその権限を与えられていました
つまり、
現代に使徒たちがいない以上、誰一人としてバプテスマを受けたり「聖霊」を受けたりすることは出来ないのです。
なるほど、バプテスマを受けることが出来るかも知れません。
しかし、聖霊を受けることは出来ないのです。

この点でも、
ものみの塔の主張が誤りであることが分かります。
1 ものみの塔の長老たちは誰一人「聖霊」を受けてはいない
2 長老たちの言う「権威」も、誰も与えられてはいない
  彼らにエホバの証人たちを「従わせる権威」も「裁く権威」もは与えられてはいない。
3 いわゆる統治体と言われる人々も「聖霊」を受けてはいない
4 ものみの塔は、エホバとイエスの名を語ってはいるが「神の組織」ではない
のです。

更に、
パウロはコリント(一)12:1-14:40で、
神の賜物である「霊の賜物」につてい語っています。
その中で、
霊つまり聖霊は同じでも、賜物は一人ひとり異なると言っています。-12:11
加えて、その「霊の賜物」は廃されるとも述べています。-13:8-10

従って、現代では「聖霊」を受ける人も「霊の賜物」を受ける人も行う人も存在しないのです。

自分の信仰が神とイエス・キリストに受け入れられるか否かは「結果」でしか分かりません。
もし、受け入れられたのであれば、自分の活動に変化が現れるでしょう。

そうでなくても、イエス・キリストのおきてに従っていれば「必ず受け入れられるという信仰」があれば、
必ず受け入れられるのです。
イエス・キリストはそれを約束しているからです。-ヨハネ3:16、3:36、6:35-40

そのためには、
イエス・キリストのおきてを知り理解している必要があります。
もし、知らずに、また、理解もせずに「信仰を持っている」という人は「嘘つきです

イエス・キリストに信仰を持つとは、
ただ、イエス・キリストの名を語り多くのことを成し遂げるということだけではないのです。
イエス・キリストの「真意を本当に理解」し、それを「行っている」必要があるのです。
そうでなければ、イエス・キリストはそのような人を知らないと言っています。-マタイ7:21-23

ヤコブは信仰も業が伴っていないなら、それだけでは死んでいると言いました。-ヤコブ2:17
この業とは、イエス・キリストのおきてと命令を守り行うことです。

他にも、ヘブライ人への手紙やヤコブの手紙には「信仰とはどのようなものか」が記されています。

イエス・キリストを知るとはどういうことなのかを理解する必要があるのです。
イエス・キリストのおきてと命令を本当に守り行っている人は「イエス・キリストに是認」されるのです。

バプテスマを受けることは「自分の意思の表明」であり、聖霊を受けることは「是認されたことの証」なのです。
加えて、
聖霊を受けても「賜物」が目に見える形ではっきりと現れるとは限りません。

実際、神は人の心や考えに「ご自分の考え」を入れることが出来るのです。
しかし、それを人は自覚しない、あるいは、出来ないのです。

現代に於いても、神の霊は誰かに働いていると考えるのは自然であり道理です。
それをイエス・キリストがいわば「差配」するのです。
イエス・キリストにはその権威が与えられているからです。

実際、聖霊を受けた人が行う「霊の事柄」に「誤り」は全くないのです。
なぜなら、それは「神から出ている」からです。

例え、聖霊を受けたと称して「霊の事柄」を行ったり言ったとしても、
その通りにならなければ、それは「神からのものではありません

この点、ものみの塔の言うことは「その通りになりませんでした
ですから、
彼らは「聖霊」を受けていないことは「明らか」なのです。

聖霊を受けていると言うものみの塔は「嘘つき」なのです。
この点で、ものみの塔の信者であるエホバの証人は「騙されている」のです。
ものみの塔は神とイエス・キリストの名を語る「かたり者」であり、彼らに「救い」はないのです。
彼らがどんなに「良いこと」を言っても信じてはなりません。
滅びの道となるからです。

ですから、
聖書を調べ学ぶにしても、「ものみの塔とエホバの証人」や「キリスト教の教会の牧師など」の所へは行ってはならないのです。

信じられるのは「聖書」そのものだけです。
ですから、わたしの言うことを参考にしながら「聖書そのもの」を調べて下さい。

そうすれば「命に至る道」を歩めるようになるかも知れません。