知恵を求める人のためのブログです。

聖書を最初から最後まで、

 すべてを理解することは「不可能」でしょう。

 

しかし

真の神の目的など知ることが出来ることは「可能」です。

 

預言は何時でも「人間」の理解を超えたものですから、

 完全に「予測」することは「不可能」です。

 

真の神は、

 預言に関しては、

 「しるし」を与えて下さるだけで、

 その「しるしを理解し、かつ、真の神のご意思と調和して生きる人」を

 「求めている」のです。

 

つまり、

 人間に「努力」することを、

 「求め続ける」ことを、

 神は要求しているのです。

 

ですから、

人間が無条件で「神に救わる」ということは「有り得ない」ことなのです。

 

真の神は、

 すべての人が救われることを望んでいますが、

 神の力でそのようには「しない」のです。

 それは、

 すべての人の意思を尊重しているからです。

 しかし、

  各々の責任は「当然求める」のです。

 

仏教の説く「お釈迦様」のように、

誰でも「救う」という存在ではないのです。

誰でもということは、

 善人も悪人もということです。

 これは、

 道理に合いません。

 

仏教思想は、人間が考えた思想で、空想と現実が混じり合ったもの

 です。

 ちなみに、

 「お釈迦様」は存在しません。

  架空の存在です。【信じている人は、無視して下さい】)

 

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聖書の内容は、

 非常に膨大で、

 「長年研究していないと理解することは難しい」ものです。

 

それでも、

一つひとつのテーマについて「体系的」に列挙して考えるなら

「真理」が少しずつ「分かって来る」ものです。

 

こうして、

少しずつ積み重ねた事柄を「受け入れるか否か」は、

 自分自身で決めることです。

 

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と考えると、

生きるために仕事をし働かなければならない「人間」にとって、

こうしたことは「難しく、困難」なことです。

 

加えて、

 家族や周囲の人々との関係や

 社会の様々な出来事や、

 自らや家族の「失敗や事故や病気」などもあり、

 

更には、

 自分自身のための「リラックスタイム」も必要であり、

 

 人生の目標などを考えることはあっても

 

 人生の「意義」や宗教について、

 ゆっくり「考える」ことは「殆どない」ものです。

 

こうしたことを考える人は、

 大抵、

  何らかの「問題」を抱えた人です。

 

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宗教は、

大抵は、

 自分の方から近づくものですが、

 

ある日突然エホバの証人がやって来て

 将来の希望を告げられ、

 それに関心を抱いて「聖書」を学び始め、

  宗教にのめり込んで行くケースは「珍しい」と言えます。

 

ですが、

この「珍しいケース」は功を奏し、信者を増やしてきたことは「事実」です。

しかも、

 世界中の至るところに信者、つまり、エホバの証人は存在している 

 のです。

 

これを統括しているのが「ものみの塔」ですが、

この「ものみの塔」という組織を除けば

 エホバの証人の「伝道活動」は「好ましい」ことです。

 

ただし、

 その教えや制約には、

 「ものみの塔」と同様「問題が山積」していることも「事実」

  す。

 

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いずれにしろ、

人が「真理の道」を、

 見つけ、その道を歩むことは、

 まさに、

 沢山の干し草の中から「1本の針」を探すようなものと言えます。

 

ということは、

人が

 真の神のご意思と調和した生き方をすることは、

不可能に近いくらい難しい」ことだと言えます。

 

イエス・キリストの時代のユダヤ人は、

 神の民であり、律法や預言を与えられていたので、

 イエス・キリストの話や弟子たちの「宣教」については、

 「理解する下地」が備わっていました

 しかし

 その後、

 パウロによってなされた、

 いわゆる、異邦人、諸国民に対する「宣教」は、

  現代と同じく、

  一般の人々には「受け入れることが難しい」ものだったと思われ

  ます。

 

 それでも、

 パウロの行う「奇跡」が多くの人々を「クリスチャン」に導いたこ

 とは、

   聖書に記されている通りです。

 

しかし、

現代では

 イエスもパウロもおらず、奇跡も目にすることは出来ません

 

であれば、

一体どうやって、

 人々は「真理」を知り、「真理」を理解するのでしょうか。

 

それは、

 聖書を何度も読み、深く理解するように努めることによってです

(人をそのように導くのは「中天を飛ぶ、み使いたち」なのです)

 -啓示14:6-7

 

あらかじめ、救われる人が定まっている訳ではなく、

 その人個人の生き方によって、

  救われるにふさわしい人が、

  中天を飛ぶみ使いたちに導かれるという意味です

 

イエスは、

終わりの時代、

「救われる人々を刈り取るのはみ使いたち」であると言われました。

中天を飛ぶみ使いたちではありません)-マタイ13:39

 

また、

 小麦か雑草、あるいは、羊か山羊かに分けるのは

「み使いたち」ではありません

 

分けるのは

事物の体制の滅びの最終段階に、

 白い馬に乗っている者の口から出る「長い剣で「裁かれる」こ

 とによってです。ー啓示19:11-16

 

それでも、

どのような人が小麦か羊かは、

 聖書全体を通じて示されています

 

どのような人が雑草か山羊かも

 聖書の中に記されています

 

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聖書の重要な点を簡潔にまとめると以下の通りです。

 

聖書に良く通じた人であれば分かりますが、

1 エホバを真の神と認め、

  エホバのおきてに従うこと

2 イエス・キリストを神の子と認め、

  イエス・キリストの立場を理解し、

  イエス・キリストの教えに従うこと

3 イエス・キリストに信仰を働かせること

  -ヨハネ11:25、26

4 イエス・キリストの追随者になること

  -ヨハネ14:6

 

これが、

羊の特徴です。

その特質は、

 -ガラテア5:22-24

 

また、

 律法の精神を抱いている人です。

 -マタイ22:36-40

 

より大事な精神として、

 公正と憐みと忠実を体現している人です。

 -マタイ23:23

 

一方山羊の特徴は、

肉の業と言われることを行う人です。

 -ガラテア5:19-21

 -啓示21:8

 

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更に、

聖書に通じた人であれば分かりますが、

 家族の命は「頭である夫」に掛かっています。

 「頭」が罪を犯すと、

  家族、時には、部族のすべてが「滅ぼされました」

 

ということは、

家族の頭である「」が、

 家族の「運命」の鍵を握っているということです。

 その責任は「重大」です。

 

 妻でも女でも子供でもないのです。

 

信仰は「個人的なこと」で、

 一人ひとりの態度も重要ですが、

 

もし、

家族がいるなら(大抵はいますが)

 頭である夫にその責任があるということです。

(既に自立している子供は、

  父親の頭の権からは除かれます)

 

つまり、

妻や子供が真の神とイエス・キリストに信仰を持ったとしても

 頭である夫が信者ならば

  真の神とイエス・キリストに信仰を持ち、

  家族を良く従わせていなければならないということです。

 

 家族の命は夫に掛かっているのです。

 

もし、

夫が信者でなければ

 妻が夫の代理をすることになりますが、

 その際には「常に頭を覆わなければなりません

 

霊的な事柄で、夫の代わりに妻が何かをする時には、

 常にそうしなければならないのです。

 

(もしかすると、

 子供に懲らしめのむち棒【必ずしも、むち棒である必要はありません

 を与える時には、【教え諭す場合を含めて

 夫の代理として行うこととして、

  頭を覆う必要があるかも知れません)

 

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こうしたことは、

 ものみの塔も同じようなことを、

  信者に繰り返し教えていますが

 

ものみの塔の教えに、あるいは、ものみの塔という組織に

従わなければならないということではないことは「明白」です。

 

上記の事柄は、

聖書に記されている事柄なのです。

 

従うべきは、

エホバとイエス・キリストと聖書であって

 ものみの塔、あるいは、ものみの塔という組織ではないのです。