今、話題の美女 北山れい さん LOVENUS ~21世紀のカリスマ・5~ | 今宵もギター・フレーズ&音楽に酔ひしれて

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終活が必要なのにもかかわらずギター、音楽、オーディオをやめられない人間の徒然

 

~(北山れいさんは、正義である・1)~

 

 

昨日書き忘れたことがあった。

先に、私は、北山れいさんの【カリスマ性】に焦点を絞って記事を書き、そこから幾つかの事柄(記事)を分散させて記す、と言ったが、昨日の投稿が、その第1弾。

今日は、その第2弾となるが、サブ・タイトルを設けた。

 

2ちゃんねるだか5ちゃんねるだか知らないが、便所の落書きに興じている低脳な輩に北山れいさんのことを理解できるはずがない。

 

また、今朝、ふと思い立って北山さんのFacebookのタイムラインを大雑把に見たが、北山さんが好き放題に発言していても、不快感を示す輩が見当たらなかった。

2016年末から2017年夏場までには、北山さんの発言に不快感を示すコメントが相応に散見されたものだ。

そうしたコメントを記したのは、決まって、「オヤジ」!

そんな知能の低いオヤジは、55歳になったら勤務先の職場で役定になるだろうし、60歳になったら再雇用制度を利用して勤務先に無様にしがみつくのがオチだ。頭が酷く悪いのだから、仕事ができず、故に100%そういう運命にある。

 

ただ、北山れいさんの発言には、本当に名言が多い。頷くことしきり、だ。

 

その一節を紹介すると

 

『自分のまわりにいる人たちが、自分の価値を表していることになる。

 

自分の価値を決めるのは、自分のまわりにいる人たちの存在であり、自分のまわりにいる人たちが現在の自分の思考と感覚と価値を表している』

 

 

この言葉は、絶対的な真理だ。

 

先ず、他者の存在が、自分の存在を認めてくれて、自分という存在が成り立つ。

例えば、私(甲斐、とする)の前に、私を甲斐と呼んでくれる他者がいることにより、私は社会のなかで甲斐と認知され、存在できるのだ。

次に、これが結論となるのだが、『類は友を呼ぶ』、の諺どおり、他者たちと自分のグレードがほぼ均一でないと、友人関係は成立しない。

金銭的に恵まれた人は、同様に金銭的に恵まれた人たちと友人関係が成立する。貧乏人は、貧乏人たちとしか友人関係が成立しない。

貧乏人は、金銭的に恵まれた人を妬むし、金銭的に恵まれた人は、貧乏人をウザく思う。

頭の良い人、悪い人も同様だ。

換言するならば、友人関係が成立している人たちが、頭が良く、金銭的にも恵まれているのであれば、自分も頭が良く、金銭的にも恵まれていることになる。

 

そう言うことだ。

 

私自身、金銭的に貧しかった90年代の10年間は、頭が良いながらも金銭的に貧しい人たちとしか友人関係が成立していなかった。

ところが、当時、サラリーマンだった私は、21世紀に入るや否や、給与体系に成果主義が導入され(成果主義の是非は脇に置く)、仕事ができた私は一気に年収が1,500万円になり、友人関係がガラッと変わったのだ。頭が良く、金銭的にも恵まれている人たちと友人関係が成立するようになったのだ。元々、ブ男は私の友人にいなかったが。

ここでも換言するならば、私の社会的価値尺度を決めるのは、私の友人たちと言うことになる。

 

但し、例外は幾つかある。

私は、ジャズ・バンド、ロック・バンド、ブルース・バンドを組織して、ギタリストを務めているのだが、金銭的に貧しい人々もいる。

しかし、そうした人々と私をバンド仲間、友人としてつないでいるものは、音楽的価値観とプレイヤーとしての技量だ。

今の私のギタリストとしての力量は、東京に行こうものならば凡百レベル(だと思う)だが、私の地元では名手に入ることから、やはり巧いドラマーやベーシスト等々がバンド仲間となっている。

これも換言するならば、巧いドラマーやベーシスト等々に私が認められているから、まあ私は地元では一角のギタリストとしていられるのである。

 

 

要は

 

 

【カリスマ】の言葉に嘘はない、と言うこと。

 

 

上記の北山れいさんの発言も、北山さんこそが正義である証の1つである。

 

 

 

 

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