昨日は移動メインだったので、今日の分と合わせて。
草津PAを8時に出発し、浜名湖へ。
ひたすらに名神と東名を東進するが、さすがは日本の大動脈、交通量が他の地方の比ではない。
基本的にどちらの車線もいっぱいいっぱいで、豊田JCTの先では合流による交通集中で結構な渋滞にはまった。
浜名湖SAに着く。浜松と言えばうなぎ。
SAのいかにも高そうなレストランにズタボロの恰好で入り、うな重の「松」と白焼きを注文。
蒲焼きも白焼きも身がふわふわで、噛むたびに脂が染み出してくる。
白焼きの皮目はパリパリになっており、わさびを乗せて醤油をちょっと垂らして食べるとめちゃくちゃ美味しかった。
蒲焼きにかける山椒も、ミルで挽いた瞬間からとても良い香り。
いま写真を見ているだけでお腹が空いてくるほど、またいつか食べたいと思える経験だった。
再び近畿地方へ戻り、今回初めて名阪国道を通った。
既に時刻は20時を回り、しかも天気は雨。
路肩は狭いしカーブは急だし合流車線は短いしでとても走りにくい。
それでいて慣れている地元ドライバーやトラックはガンガン飛ばす。
程よいスピードのトラックに金魚のフン作戦でついて行くのが大変だった。
道の駅「レスティ唐古・鍵」で雨の降る中車中泊。
翌日は6時半に起床。
今日は父親と奈良の観光をする。
8時にJR奈良駅前のホテルに迎えに行き、まず向かったのは「石舞台古墳」
今回はたっての希望でこうした遺跡を回らせてもらうことにした。
石舞台古墳は蘇我馬子が埋葬されている説が最も有力らしい。
孫の入鹿はクーデターによって首塚としてしか残されていないので、大化の改新以前の蘇我氏の権威が感じられる。
かつては一般的にある古墳と同様、この石室の上は土で覆われていたらしいが、江戸時代には既に現在の形だった記録が残されている。
中に入ると分かりにくいが非常に広大なスペースが取られており、排水用の溝も掘られていた。
7世紀前半に造られたというから、およそ1400年はこの石室の姿は保たれているということになる。
当然現在のような緻密な設計などできる時代でないのに、今日まで崩れていないというのは不思議なことだ。
続いて訪れたのは「高松塚古墳」
歴史の教科書で一度は見たことがあるであろう、石室内に壁画が描かれていた古墳だ。
1972年の発掘調査の際に壁画が発見され、四方に青龍・玄武・白虎と(朱雀は盗掘された際に漆喰が剥がれ落ちたかで現存せず)有名な女子群像や男子群像が築造当時の姿をほぼ残していた。
しかし、石室を開けたが最後、カビの侵食が一気に進み、現在では石室をまるまる移設して修復作業を行っているようだ。
石舞台古墳とは反対に、1000年以上その姿を保っていたものが、発見後数十年でボロボロになってしまうというのは、まるでパンドラの箱を開けてしまったようだ。
古墳横にある壁画館では原寸大の模写が見られるので、古墳時代ファンはぜひ行くべき。
盗掘穴の再現もされてたりするので結構面白かった。
続いては邪馬台国があったとされる「纒向遺跡」へ。
…ここはそんなに観光地化されておらず、目の前に広がるはただの広い野っ原。
特段見るものもなかった。
そろそろ11時になり、お昼は天理ラーメン。
彩︎華というお店にお邪魔したが、開店後すぐだったのに30分くらい待つほどの人気店。
期待を裏切らない美味さだった。
新幹線の時間があるので14時半には京都駅に向けて出発したいところ。
まだ少しだけ余裕があったので法隆寺へ行くことに。
日本で最初の世界文化遺産。
中学校の修学旅行では、遠いからと半ば行くのを禁止されていたので今回が初めての訪問。
回廊に囲まれて左に五重塔、右に金堂が建つのが法隆寺独特の伽藍配置。
高校で日本史を学んでいた時は「なんのこっちゃ」と思っていたが、実物を見るとすぐに理解出来た。
雨の降る中の見学はあまり気乗りしなかったが、それはそれは風情があった。
龍安寺石庭を見た時もそうだったが、寺は雨の日が一番良い。
京都駅へ向ける。
バカ正直に京都駅まで車で行ってしまうと道が混むだろうということで、手前の竹田駅に車を停めて電車で行くことに。
ここなら京都南インターがすぐそこなので、別れた後にすぐ和歌山方面へ行ける。
地下鉄で京都駅へ降り立つと、ありとあらゆる国の人々が歩いていた。
551蓬莱の豚まんを買ってその場で食べ、頼まれていたお土産を買い、栃木へ帰る父と別れた。
竹田駅に戻り、高速に乗って一路和歌山へ。
御坊市のスーパー銭湯で風呂に入り、現在は潮岬の根元の町、串本町。
明日は潮岬と樫野埼灯台へ行ってから伊勢神宮へ。
出来れば白川郷を日の暮れる前に見ときたい。