昨夜もまた、不思議な夢をみた。
朱色の大きな太鼓橋(たいこばし)を渡ると、
目の前に、同じく朱色の鳥居が見えてきた。
その向こうには、小さな池がひとつあって、
その周りをぐるりと囲むようにして、小さな石碑が30本ほど立ち並んでいた。
それも、規則正しくならべられるようにして。
よく見ると、何やら、梵字のような文字が刻まれている。
何かとても大切な意味が…、重要なメッセージが込められているように感じた。
そして、まぶしいほどの強烈な光に照らされたかと思うと、ハッと夢が覚めた。
実は、先日、丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)へ立ち寄ってきた。
夢に出てきたような太鼓橋を渡って参拝した。
やはり、その事と何か関係があるのだろうか。
しかし、夢の中で見た小さな池は、実際には本殿の社(やしろ)があって、小さな池はない…、
同神社はお大師様や高野山とも非常にご縁が深い。
謎は深まるばかりだが、ひとつ気になったことがある。
それは、夢の中で見た30本ほど並んだあの小さな石碑は、
光明真言の梵字、一文字、一文字をあらわしたものだったのかも・・・、
昨日のブログにも書いた光明真言曼荼羅碑。
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昔、チベットで修行をしている時に、こんな話を聞いたことがある。
※ 塔公(ラガン)現地語で「ターゴン」のゴンパ(寺院)
私たちは、就寝中に、この肉体から“魂(たましい)”が離れて、世界中をどこへでも旅する。
それも、瞬時に、瞬間的に。
そして、ときとして、時間や空間を超える。
つまり、過去・現在・未来という三世(さんぜ)の時空を瞬間に移動できるという。
さらに、その“魂(たましい)”は、仏の世界(仏界)とも通じ、生きとし生けるもの(衆生界)、すべてがひとつの「大いなるいのち」として結びつき、つながっていると聞いた。
いすれにせよ、私たちには不思議な力が、秘められているようだ。
お大師様が高野山を開山された一番の理由とは何だろうか。
それは、結論からいえば、禅定(瞑想)によって得られる心の平和のため、だったのかもしれない。
そして、瞑想によって私たちの“魂(たましい)”が解放された時に、すべてとつながることができる、
そのことを、お大師様は悟られていたのかもしれない。
またこのことに触れて書いてみたいと思う・・・、
それでは、本日も、生かせいのち!!
同行二人
南無大師遍照金剛
合掌