以前、友人が危篤だと言う電話があった。

 すぐに入院先の地方の大学病院に駆けつけると 「気管支のバイパス手術はうまくいったのだが、肺炎を発症、もはや打つ手がない」と。 そして逝ってしまった。

 その後当方も、膀胱がんで摘出手術を受けることとなった。

 全身麻酔で8時間の大手術。  翌日集中治療室から一般病棟に移され、執刀医が開口一番 「(すでに2度の肺がん切除手術で肺機能も60%に落ちていたこともあり) イヤー、最初から最後まで肺炎を発症しないかとそればかりが心配だったんですよ」 との言葉にそういうことかとうなずくしかなかった。

 

 そして2020年、武漢ウィルスによるパンデミックの発生。  我が国もコロナ、コロナと大騒ぎ。

 安倍政権は、真っ先に 「重篤患者、死者を出さないことに最重点を置く」 と言明、具体的に全国主要医療施設に ‘人工心肺装置’ の設置と臨床体制の確保を進めた。

 恐らくその効果であろう、我が国のコロナによる死者数は欧米に比べ大幅に少なく、また年末の政府発表によると 「例年見られた肺炎による死者数がこの一年は激減しており、コロナによる死者数を加えても死者数は増えていない」 ということだった。

 

 肺炎による死者数が大幅に減ったこの体制は今でも維持されているのだろうか。  尤もこの維持費はまた保険医療費を増やすことになるし、老人ケアにも使われるのは・・・。

 それにしても、安倍政権の判断が的確であったと言うことであろう。

 感染防止対策も、他国はどこも ‘ロック・アウト’ を実施したが国内大混乱を引き起こしただけ。

 安倍政権の 「法的規制は我が国の国情に合わない」 として 「緊急事態宣言」 で対処し他国には見られない社会の安定をもたらした。

 

 東京五輪も素早く1年延期を決定した。  だが、開催に当たっては 「人流は感染者を大幅に増やす」 として無観客となったが、毎日の通勤ラッシュこそが ‘人流’ の実態だと言うことの指摘もない愚策に陥った。

 これが安倍亡き後のお粗末な意志決定の実態の始まりだったのだ。

 なにかと言うと 「国民の議論がなされていない」 など幼稚なことが言われるが、政治はリーダー・シップによって大きく変わるのであり、国民の議論など何の実態もない時間つぶしにしかならないし、新潟・静岡・沖縄のような何もやらない知事がいかに社会悪を作り出しているかを見るべき時でもある。

 政倫審も、政党間対立実戦の場となっている。

 選挙における政党間対立を優位に進めるための追及の場であってはならない。

 

 国会議員は個人個人それぞれの選挙民によって選ばれるもので、政倫審なるもので善悪判断がなされるのはそれが選挙において大きな不利を与えるものであってはならない。

 議員自身の責任も、問われるのは選挙民からである。

 自民党総裁は、党員議員に向けて事務所管理の不十分さを厳重注意することだ。

 個人レベルに罰則を科すようなことではない。

 

 派閥の責任なども国会で論じられるものではない。

 それにしても、対象議員が違法行為を行っていたことを派閥の責任とするなど論外。

 単純な事件を「大問題だ、責任者は誰だ」等追及の場であってはならない。

 

 岸田政権も重要案件だと言い続けるだけで、憲法改正など本来の重要案件を先送りするための根拠にしているだけの腹のない政権運営に見える。

 政党間議論だ党内議論だと、方向性すら示せない政治思想は政権として ‘無能’ ということになる。

 国会議員は国民の代表であって代理人ではない。

 マスコミの世論調査で国民の8割がこう言ったあー言ったに追従するなどただの頭脳ロボット。

 

 モリカケのお粗末に続いて、花見の会の5000万円は高すぎる、国立競技場は経済性を考えろ、国葬費用は高すぎる、どれを見ても ‘けちん坊’ の騒ぎばかり。    

 何より日本人の本質にある 「美意識」 などどこにも見られない。   これも ‘戦後レジーム’ で身についた ‘貧乏人根性’ とでもいうものであろう。

 

 先日の国立競技場でのラグビー国際親善試合、途中で試合が一時中断していた。   ラグビーで一時中断とは何事かと思いきや 「雷が近づいていますので、安全のため一時試合を中断します」 とのこと。   観客も小雨降る寒さの中、黙ってうずくまっている。   これが ‘貧乏人根性’ の慣れの果て。    馬鹿げた話だ。

 

 

 人間の思考が止まることはない。

 それゆえ、当然のように 世界の政治・社会の無秩序化は進む。

 生まれてくる科学・技術の進歩は想像を超え、それに乗って我々の満足度も大きく変わってくる。

 そして産業形態も変わってくる。

 

 特に文化面での ‘広がり’ はすさまじいと言ってもよい。  早いのだ。

 これらの変化は 「集団の合議」 によって見出されるものでもなく、常に個人・個人の力、発想力に端を発するものであり、色々な ‘混乱’ が起こる。

 これに呼応するように社会制度・通商制度も変えていくことになる。

 統制によって混乱を防ぐために。

 統制を行う権力は、中央集権化・強化に向かう、混乱の広がりを抑えるために。

 

 ここで民主主義だグローバル化だと言っても、とても統制は無理。  かと言って混乱も抑えねばならない、自陣有利に。

 かっての ‘東西冷戦’ 時は、国際的権力の2元化によって混乱が抑えられていたと言える。

 だが、冷戦時代が終わったと言え、新たに影響力を持ち始めた途上国はじめ、自国第一の思想も広がっている。

 

 欧米リベラルは、自らの価値観なるものを絶対化して統制範囲を広げるべく、経済制裁・軍事力の行使を拡大し始めている。 

 EU設立時、欧州議会では 「我々先進17か国が定める規範は、即ち国際規範たるべきものであるべきだ」 との思いを強く持っていた状況にあったことを思い出す。

 ‘脱CO2’ もその下で作り上げられた非科学的国際規範の一つなのだ。

 

 さらにウクライナ紛争では、特殊な二国間紛争を自らの価値観を絶対化し、如何にも国際的最悪の事態だと煽り続け、情けないことに ‘西欧かぶれ’ に引きずり込まれたウクライナ国民をいつの間にか破滅の国家へと向かわせている。

 欧米リベラル自らの正義感・価値観の正当性を見せつけるために。   

 「新興宗教」 であり 「論理」 ではない。