結弦君が幸せだと
み~んなも幸せ そして
み~んなが幸せだと
ねこまさむね君も幸せ
When Yuzu looks happy
we are happy,
when we look happy
Nekomasamune too is happy.
ゆんべは あれからまた何度も
テレ朝さんのスペシャルを見ていたサラであります
で・・・結弦君の言葉を文字起こししたんだけど
とりあえず 今朝は前半の紹介
Last night, after updating the blog
yeah, as usual, watche the video
again and agian.
This morning, translated Yuzu's comments
of the first half.
There might be a chance that
your "justice" doesn't correspond to
"justice" of others, how did you manage it
when you think about the theme of Echoes?
勿論、国同士のとか個人ではない正義がぶつかり合って、混とんとした世界になってきたりもしてますけど、本当にちっちゃい眼で見てみれば、個人同士の例えばただの打ち合わせであったとしても会議であったとしても、それぞれの正義がぶつかり合うし、それを飲み込んでしまったら自分の正義は飲み込まされてしまったほうだったら悪にしまうかもしれないし
それは見方によって正義も裏の悪も簡単に揺らいではしまうけど
哲学の根本の基礎のところって結局対話なんですよね
対話によって成り立つんだけども、それって相手の意見を受け入れるばっかりだと、実はそんなに上手くいかなくて
自分の哲学を言った時に相手から質問をされたり、反発をされたりする
その時に自分が、それに対して受け入れて「いや、でもこーこうこう思っているから、こ―いうふうにできるよ。この理論正しいでしょ」って言っていくことによって、だんだん理論が固まって
で、逆に反論されたときに、それを凄く柔らかい心を持っていないと、ただひびが割れてしまう方に行っちゃう
だから受け入れられるスペースを持っていなきゃいけない
それが哲学にとっての柔らかい心なのかなぉ
これ違かったんだなぁとか、正義を貫けなかったとしても、柔軟に相手の正義を受け入れて、それを自分の芯にすることも可能だよねというのは、なんとなく「物語」の後半では言っているつもりです
Nowadays, “justice” which is not individual level, but among countries, collide with each other, and it seems the world is in a chaotic situation.
However, when you look at near affairs, for example, just a work meeting, or consultation between individuals, the justice of each of us may clash, and if you accept other one’s justice, your own justice may become wickedness.
Depending on how you look at, justice and wickedness can be mixed easily.
After all, the fundamental base of philosophy is dialogue.
It's based on dialogue, but it doesn't actually work that well if you just accept the other one's opinion only.
When you express your own philosophy, you may be asked or rebelled by the other party.
Then, accepting them and you can also say “but, maybe there would this way, in my opinion, this may be the right theory, blah-blah-blah, , , “ talking such way, then gradually the theory solidifies.
On the other hand, if you don’t have a flexible mind when you are rebutted, you would be crack up, so that you should have space in your mind, this may call a flexible mind in philosophy.
In the latter half of my “story”, I tried to tell that; even if your thought was wrong or you couldn’t go through in your way, it may be possible that you can flexibly accept justice of the other party and make it your core.
そこなんだよね・・・・
柔軟性・・・かけらもないサラは
もうそこら中ひび割れ・・・・
Yeah, true, since Sarah is not at all
flexible, so that her mind has cracks, and
Sarah cracks others too, , ,
スポーツの世界だったら、すっごく残酷なことを言うと、1位のみが正義なわけであって、2位以下は悪と言っても過言ではないというか
勝者と敗者っていうふうに確実に分かれるんであれば、そうなってしまうなぁと
でも、何かしら一生懸命な姿だったり、本気で勝ちに行ってる姿だったりとか、本気で悔しがっている姿に僕らは感動して、熱をもらえる
僕らはスポーツを通して自分の哲学もアップデートされてるんじゃないかなと思うんですよね
In case of sports, unfortunately, only the person who won the first place is “justice”, others may be called “wickedness”, where there will definitely be winners and losers.
However, we are impressed or energised by the they are working hard, the way they are really trying to win or the way they are really frustrated.
I think our philosophy is being updated through sports.
そして結弦君のスケートを観て
哲学どころかサラの人生は
確実にアップデイトされているのであった!
And appriciating Yuzu's skate,
not only "philosophy" but
Sarah's life has kept updating.
ピョンチャンでギリギリだった構成を挑み切るというのは、やっぱ正直、挑戦してみて難しかったですし、でも、その難しさを超えられたところでしか得られない感動と達成感があるんだろうなっていうのは、やっぱりここはピョンチャンのあの構成じゃないとだめだなと思いましたね
Honestly talking, it is too difficult to carry on the programme that was barely possible in PyeongChang, but I thought that there must be a sense of excitement and accomplishment that can only be obtained in a place where the difficulty can be overcome.
バラードさんは今こうしている時には
本当にあんなにガチンコに頑張らなくても
って思うんだけど
でも 何度も見ている録画でも
やっぱり 始まると 興奮の最中に突入
そしてまたとんでもない感動をもらう
Like now, yes, like Matsuoka,
Sarah too feel that
"Yuzu, you don't have to work so hard"
but once she starts watching videos,
although she watched many times, but
once Ballade starts, then
oh, get so excited and thrilled and
then impressed and moved so deeply.
絶対にこれは「表現」という場において、この「強さ」とこの「正義」はたぶん必要なものだったんだと思うんですよ、僕は、どうしても
きっと人間は自分が見た時に「いや オレ あれ出来ないわ」とか、自分の脳で処理できないような凄いことが起きると、感動するんですよ
それをやっぱり「表現」って僕は呼びたいし、それがスポーツにおける「表現の中核」にある気がする
自分が甲子園を見た時の「なんでこんなに涙で得るんだろう」みたいな感じだったり
きっとそこに本気の熱量があって、全てを懸けている姿が、そこに映るからこそ感動するんだろうなって
そこにスポーツの熱さがなくなってしまったら、やっぱふた味ぐらい足りないなぁって思っちゃうので
I think that this “strength” and “justice” are probably necessary in the place of “expression.”
And I also believe that when people see something they feel “no, that’s impossible for me”, or something they can’t process with their brains, they are amazed and moves.
I want to call such as “expression” and I think such matters may be placed in the core of expression in sports.
It’s just like “why am I crying?” when I watch the National High School Baseball Championships.
Probably, there must be real amount of enthusiasm there, and exerting all of their sprits, such scenes were shown that must be why I was moved so much.
So that, in my case too, if such enthusiasm is missing, then the performance too would miss lots charms.
「今回 羽生結弦は羽生結弦を超えましたか?」
いや、毎回超えてます
毎回超えないとできない
「凄い!」
本当に、毎回「無理だろ?」って思って(構成を)組んで、でも妥協したら伝えたいことを伝えきれないよなぁとか
結局、僕もある意味観客の皆さんじゃないけれども、僕も多分想像を超えた部分に夢を見続けるんだと思うし、そこを突っ走ることが僕の正義なんじゃないかな
“Did Hanyu Yuzuru surpass Hanyu Yuzuru this time?”
Oh, every time.
Or every time I should, otherwise, I can’t do anything.
“Amazing.”
Really, every time I say myself “it’s impossible” when I make a plan, but once I compromise, then I can’t deliver what I want to.
Although I’m not audience however, I think I keep dreaming about something that are beyond my imagination, working for such dreams may be my “justice”.
そこに「正義」があるから
だから「羽生ワールド」が
心の宝となって ずっとず~っと
心に住み着くわけよ!
ということで・・・
多分半分にも行ってない気がするけど
続きはぽちぽちと・・・
(文字起こしは ほぼほぼ出来ているので
欄外に続きを入れておきます)
Yeah, there's "justice" that why
it will remain in our heart
as "Hanyu World" forever, , ,
Now, more and more Yuzu commented
so, this will continue little by little, , ,
(when you enjoy the translation,
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続き・・・
「Echoes of Lifeはスポーツなんですか?」
掛け算なんですよね
僕はもともとスポーツをやっているアスリートであって、昔から変わらない超スポ根野郎みたいな人間なんで、でも、それだけじゃアイスストーリーじゃなくて、フィギュアスケートというアーティステックな部分であったり、プラス、MIKIKO先生はじめ本当に様々な世界トップのアーティストが、こうやって集って創り上げたアートでもある
アート×スポーツっていうのが、アイスストーリーなのかなっていうことに、アイスストーリーが「唯一無二」なれる糸口なんじゃないかなぁっていうふうに思いました
氷上だったらこれできないけど、氷上でこれするためには今まで使ってきた技術のどれを使うかというところまで行っているんですよね
だからそこが所謂掛け算の部分になるんだと思います
「わたし」は羽生結弦ですか?
いや、「わたし」は「わたし」でしかない
ラベルが張られる前の「命の形」?みたいなものですかね
僕らは例えば修造さんのことを「修造さん」と呼んじゃうけど、修造さんは「修造」という生を付けられる前は何もないですよね
それが「わたし」なんですよね
名前って、付箋じゃないけどタグ付けみたいなものなんですよね
「羽生結弦」って誰?って言われたら、それは親が付けた名前で、最終的にたどり着けるし、例えば「オリンピック金メダリスト」とかで片付けられることもできる
けど、その前の全部取っ払った真ん中にある、心臓がもっているのか脳みそがもっているのか分からない意識的なものは、なんとも呼べないんですよね
だから「わたし」って誰?
「命イコール生きるとか…生というものをどのように羽生さんは捉えているのかな?」
みんなそれぞれが生きる意味なんて、す~っごいやんわりしているんですよ
でもなんか人間って生物である限りは、勝手に細胞は生命活動を続けてしまうんですよね
でもそれってきっとその細胞たちは「生きたい」と願ってしまってるわけなんですよ
でも生きることがこんなに難しいと思うのは、目的を持つのが凄い難しくて、社会に触れれば触れるほど、自分の価値とか、命の意味とか、わかんなくなるじゃないですか
だって自分いなくても社会は動くし
だから凄く難しいとは思うんだけれども、なにもかも信じられなくなったら、たまには「細胞勝手に生きてくれてるな」と思うだけでも心休まるかもしれないなと
生物ってそうやってずっと頑張って頑張って生きていると思うんですよね
だから、みんなそうやって一生懸命生きてるから大丈夫だよーっていうことは、伝えたいですね
あのぉ凄く・・・僕、北京終ったあとプロに転向するって決めて、未来がわかんなくて怖いって凄く思ったんですよ
でも、今は結局、未来なんて誰も証明できないから、怖くて当たり前だし、怖くて当たり前だから、今っていう時間を凄い一生懸命、意味のあるものにしようと、もがくんだろうなって思ってます
意味を持たせようと必死な気がする、今という時間に
生きる意味は本当にもろくて弱いけれども、その瞬間瞬間で変わってもいいから、きっかけを与え続けたいというか、僕は
僕はたぶん僕自身のためにずっと生きることが不可能な人間なので、自分のためには命を燃やせないなって思ってて
期待してくれて、観てくれて、何かしらを感じたいと思ってくれている人に対して、1人1人の違った形になるかもしれないけれども、生きるきっかけになりたいなぁって思いながら滑ってますね
それが自分にとっての生きる意味というか・・・
プレッシャーも半端なくて、ケガもできないし、ケガもできないけれども妥協したら表現として自分としては成り立たないと思っちゃうし
逃げたらほんとにそこに生きる意味がわかんなくなっちゃうんですよ、僕の場合は
それが僕の正義なんですよね
「正義」だし、「わたし」だし、「命」なんですよ
👏👏👏まとめた