ありのままの生き方ナビゲーター 伊藤直幸です。
今日も、「世界一の幸せもの」を増やしていきますよ(^o^)
【僕の生きる道】と題して、
・自分を大切にして、
・自分本来の、ありのまま姿を取り戻して、
・素直な気持ちで「世界一の幸せもの」で生きるまでに、
悩んだり、迷ったり、喜んだり、笑ってきた【僕の人生の真実】を、赤裸々に語っています。
前回のお話はこちら
前回は、子育ては「お母さん」には敵わないとお話しました。
もう一つが、妻と子育てについてよく話し合っていなかったことです。
「だって、私たち夫婦でしょ」ということが、ぜ~んぜん分からないから恐怖のあまりに逃げていました。
#48●砂漠に落としたビーズを探す
家族が3人になって、「子育てらしいこと」をしてこなかったと、今さら反省をしているのですが、、、
息子が幼稚園に入った頃から、僕の心には「どんよりとした雲」が渦巻いていました。
今から13、4年ぐらい前(33、4歳)のときの僕は、専門学校を卒業して、「何となくいいな」と思った「つむら工芸」に入社してから13年が過ぎていました。
正直、仕事は好きでは無かったけれど、惰性っていうのかな、「習慣?」
「無難に」が表現が近いと思うけれども、淡々とした日々を重ねていた。
だからといって、決して何も無かったことも気持ちの変化がなかったことはないんだけども、「無難」だった。
「無難」って言えるのはそれはそれで、見る人からすればスゴイことなのかも知れないけれども、僕にとって見れば退屈感、人生が窮屈なように思えていたんじゃないかな。
今思うと、本当は「嫌だったんだ」、この仕事が、、、
でも、その時の僕は(何度も言うけれども)、自分の気持ちが分からなくなった「いい子」だったので『仕事が嫌』という気持ちが出てこない。
仕事をする意味も分からない、目標もないになる。
「あ~、そんな日々をよく我慢していたんだな」って、今思ったよ。
この頃に、コンサートや舞台を建てる部署から、大道具を製作する工場の管理事務に異動になった。
現場作業は極端に減って、事務的なことをするようになった。
コンサートや舞台を建てる部署にいたときは、その仕事は好きじゃなかったけれど、何となく立ち回れていた。
そのときは気づかなかったけれど、臨機応変に対応できる能力はあるようで、そこは、スゴイ器用だったんだと僕でも思う。
好きでもない仕事だけど、「まぁ、何となく無難にこなして生きていれば良かった」と、どこかで思っていたんだろうけどね。
それに、対応できる力があったお陰(せい)で、そのときは辞めずに「つむら工芸」にいたと思う。
事務的なこと(材料の手配、計算、人件費の管理、請求、赤字の解消対策)をするのは苦ではなくて、パソコンのエクセルを使って、制作費の集計から請求まで一貫してできるシステムを自分で作ったのは、今の自信に繋がっている。
あのときは、1日6時間ぐらいはパソコンとニラメッコしてたけどね。
まぁ、そんな僕を見て毛嫌いする人もいた。
でも、僕はマジメで人から嫌われていたとしても、上手く立ち回っていたので何とかなる。
労働組合の活動も仕事の合間にしていて。
執行委員として関わるようになって、7、8年ぐらいかな。
このときは、副委員長を勤めていてボーナスの交渉、組合のレクリエーション、労働問題の解決などをしていた。
「働く人の環境を良くしたい!」という思いがあって、いい方向に行く、みんなが楽しくなるようなレクリエーションを考えていた。
そう、誰かのことを考えて「いいなぁ」というのを、自分が創り出したい人です。
僕は。
(*˘︶˘*).。.:*♡
ただ、そういうことに気がつかない(気づけない)僕だったから、僕の心の中では何だろ、無意識に「本当はそのときに感じていたであろう感情」を、ギュウギュウと心の奥へ詰め込んでいた。
楽しい、好きなように見えていたことは本当は「嫌だったんだ」
でも、それを閉じ込めていた。
このときに「中小企業診断士」の資格を取ろうとユーキャンの通信教育を受けて、通勤の行き帰りに読んでた(読んでただけね、、、)
身にはならなかったけど、心境の変化があった。
組合の活動をしていることも相まって、「働く人の環境を良くしたい!」という思いが次第に強くなってくるのです。
砂漠に落としたビーズを探し始めます。
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
次回
>> #49「それ、本当にやりたかったこと?」
お会いできるのを楽しみしています!