集合的無意識と進化〜(前回記事の補足) | 虚飾を捨てて心に翼を

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生き辛さは成長の機会。思いやりの心と自分の本質を大切に。

私は、誇大妄想の気があって、自分でも恥ずかしくなることがあります(笑)。
 

前回記事人類の役割とは?

ただ、なぜそう言う風に考えたのかというところを書かせてください。
オカルトやスピリチュアル要素ごちゃ混ぜで恐縮なのですが・・・

私はずっと、人間の絆が大事だと思っているのに、人間関係が悪いどころか人間関係を作れないということで、悩んできて(ここ数年でかなり改善しました)、どうしてこんな現実ができたのか、まったくわかりませんでした。
だから正直なところ呪いかとすら思ったものです(苦笑、でも呪いと言うものの本質もイコールかもしれないと思います)。


成功法則と呼ばれるものは、思考を現実化させるために、目標をはっきり設定して、意識的に思考し、意識的に行動するということだと思います。
一方、私が作った現実は、意識的な行動からではありません。

でも、行動しないと、現実は変わらないはずなので、「無意識」に、こうなるような行動をしていたことになります。
ではなぜ「無意識」だったかと言うと、「ガラスのようなプライドを潰される恐怖」という「認めるのが恥ずかしい理由」だったからだと気づきました。
その無意識で行った、一つ一つの行動がどうして、他人も巻き込んでこんな現実を作ったのかというところに、とても不思議なものを感じました。

何者かに操られているようなイメージがわきました。
操っているのは、おどろおどろしい「集合的無意識」という魔物。
操られているといえば、本能も似ていると思いました。
常識も似ているのではないだろうかと思いました。


「個」としての意識が発生した時点で、「競争や争い」は必然になったのだと思います。
人間の輝かしい発展もまた、食物連鎖、味方を守るための戦いという自然の流れから来ていたと思います。
人間は、様々なものを発明し、環境すら変えたので、動物の頃のような危険はだいぶ取り除かれ、科学の恩恵で生活が楽になりました。
現代人の私は、先人や様々な人から恩恵を受け、便利で、自然界の動物に比べると危険のほとんどない毎日を送っています。
その中で、危険ではないことで悩んだり、こういう思索までできるのはとてもありがたいことなので、これから書くことは文明批判ではありません。

ただ、デメリットについては考えます。
楽をすれば身体能力は退化し、常識は人を操り人形のようにする可能性があります。
新しい発見は常識を作って、その常識を元にした新しい発見も時短でできます。
常識に従えば安心安全、心強く感じます。
反面、難しくて原理が分からない私でさえも科学の恩恵にあずかれるということは、自分は何もしないで発明した人に乗っかっているだけということです。

それにも関わらず、常識は、意識から無意識にまで入り込んで、反対意見を受け付けにくくします。
それが正しければ問題はないですが、もし間違っていたら・・・間違いではなくとも、現実の場では様々な要素が影響しているので、単純に応用はできません。
と言うことは、「常識」もまた「集合的無意識」から人を人形のように操っているイメージに(私が無意識で作り出した現実のように)思えてきたのです。


学生時代読んだ、今西錦司さんの本に「人間はものを作り、環境を変えていったために進化の必要がなくなったのではないか、種は一斉に進化するのではないか」というような主旨のことが書いてありました。


必要だと「進化」し、必要ないと「退化」。
「必要」という思いが一定量を超えると「できる」に変わる。
集合的無意識(私は勝手に=アカシックレコードだと思っています)というオカルト的な概念を持ち出すと、いろいろなことがわかる気がするので最近よく持ち出します(持ち出さなくても説明はつくかもしれませんが・・・)。


例えば「本能」とか「進化」です。

種としての経験則も、そこに蓄積され、脳の一部分がそこにつながっていると考えると、脳の中にそれがあるというよりも、私にとって説得力がある解釈に思えます。インスピレーションと同様に。
本能というのは、原初の恐怖のようなイメージですが、種としての経験則が蓄積された場所と考えれば、人間も新たな本能のようなものを作っている最中だと思います。ただ繋がる脳の場所が違うだけで。
危険が減ったため、動物時代の本能は弱くなって、代わりに種としての新たな経験則の影響が強くなっていると思います。

進化は、「必要」の思いが「集合的無意識」に蓄積され、一定量を超えると一斉に進化すると考えるとしっくりきます。

前述の本で、「人間は道具で代用したので進化していない」と納得したのですが、動物も進化していないように見えるのはなぜかということを考えてみました。
「時間は存在しない」やパラレルワールドをふと思い浮かべました(笑)。
つまり、進化論はほとんどの人が信じていると思いますが、そのくせ、実際に目の前で進化が起こることを「そんな荒唐無稽な!」と、意識が容認できないのだと思います。容認できる意識にならないと現実化しない(=波長が違うため、そのパラレルワールドを選択できない)と解釈できます。

私は神を信じていなくて、万物は自然発生して自然に変化してきたと考えています。

そこで先程の、「個ができたから自然に争いが起こって人間もまた・・・」という続きになりますが、
「ワンネス」という概念を、(たとえ虚構であったとしても)もしみんなが信じるとしたら(無理難題な話ですみません)、「恐怖」は架空の概念となり、「争い」は、(人間の体内で、必要な場所に必要な栄養素が運ばれるように)「助け合い」になるかもしれないということです。
それと(私はまだできませんが)「苦しい時に笑う」ということ。これも自然に逆らった素晴らしい行為だと思います。
『自然の摂理を変える』は大袈裟かもしれませんが。

100m走の10秒の壁の話を聞きました。不可能だと思われていたのに、一人破ると次々に破る人が出てきた話です。(思い込みの力)
人間は種としての進化は、していないかもしれませんが、野菜汁だけの方や不食の方がおられるようです。
(不食=食物で争う必要がない。)
これらのことも「集合的無意識」という概念を使うと私にはしっくりきます。

「種としての経験則」と書きましたが、種が違うと共感しにくい(波長が違う)だろうと想像します。

とんでもない話に聞こえるかもしれませんが、「量子論」とか「プランク時間」に比べると、全然荒唐無稽とは思えません。


こういうことを考えていると、思考の流れに癖があると言いますか(笑)、自分の問題や経験が色濃く反映していると感じます。
自分の悩みが、こうしたことを考える動機になったのは間違いないと思いますが、こうしたことを考えるのが好きなのだと思います(笑)。