若い時から神に仕えるのは正しいことです | カトリックの神秘

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(「マリー・ラテイストの作品」より)

 

 

(第5巻「宗教全般、特にキリスト教について」第8章)

 

 

「娘よ、若い時から神に仕え、幼年期を神に捧げるのは正しいことです
しかし現実は全くそれとは異なっており、人はまるで自分の人生の中で最も美しい時期を神に捧げるには値しないかのように、それをこの世と罪に対して無思慮に与えてしまうのです

世間が彼らを受け入れるやいなや、若者たちはあらゆる種類の悪にふけり、欲望に流され、自分の好き勝手に振る舞うのです

彼らはいったい神に何を捧げるというのでしょうか?

彼らが捧げようとしているのは老齢化し、朽ち果てる年齢と悪徳によってすり減った身体だけです

しかし。いったい誰が彼らに老年まで生きることを約束したでしょうか?

そしてもし、神が彼らを捕らえ、彼らを止め、彼らが無秩序と犯罪の最中にいるときに彼らを打つなら、彼らはいったい神に何と言うのでしょうか?

どんな言い訳をするのでしょうか?

 

ー誘惑に負けた?

わたしの恵みに対抗できる誘惑はなく、わたしの恵みはすべての人に与えられています

わたしの恵みは海の岩に投げられた水晶のように、欲望を打ち砕きます

 

彼らはどんな言い訳ができるのでしょうか?


ー青春の真っ最中だったから?

しかし、わたしたちが神に仕えなければならないのは、まさにその青春の只中であり、その時にこそ、わたしたちは自分の初めの愛を神に捧げなければならないのです

人生の最初の実りであるこの日々を、わたしたちは力強く、精力的に神に仕えるために捧げなければならないのに、それを神から奪い取るのは、神に対する侮辱ではないでしょうか?

 

ー若さの中に言い訳を見つけようとするのですか?

それなら洗礼の時に約束した、世間とその華やかさと業を捨て、悪魔とその誘惑を捨てて神に従うことを、これまで以上に(若い時に)思い出さなければならないのではないでしょうか?
洗礼は、自分のために、つまり罪の生活を送るために、若い時の時間を確保するためのものなのでしょうか?

洗礼は自分の人生を神に捧げ、神の掟に無条件に従うことを約束するためのものではないのでしょうか?

また、約束に対して条件をつけていないのであれば、そのすべてを守らなければならないのではないでしょうか?

若いうちにこそ、神に仕えるべきなのです

若い時期は必ず通過しなければなりません

そして好むと好まざるとにかかわらず、それはすぐに過ぎ去ってしまうのです

なのに、どうしてこの時期に、悪徳に、罪に、堕落に、神との別離に、神との敵対に移り変わらなければならないのでしょうか?

そのようなことをするのは、神を冒涜することになります

悪は、人生のどのような時期にも許されるのでしょうか?

また、若い時に神に反抗することは、熟年になった時に神に反抗するよりも許されるとでもいうのでしょうか?

神は老人よりも青年を、老人よりも壮年を許されるとでもいうのでしょうか?

神は若い人たちに、若者に強さと快活さのための十分な糧を与えておられるのではないでしょうか?

それとも、青春時代の神は、この世的なものよりも価値がないのでしょうか?

神が評価され、この世が価値を失うのは、老年期だけなのでしょうか?

このように考える人は、愚かなのではないでしょうか?

 

キリスト者になるということは、この世で生きていた時のわたしのようになるということです

わたしは若い頃、御父を敬わなかったでしょうか?

わたしは神であり、そうしなければ行動できないのです

マリアは若い頃、神を敬わなかったでしょうか?

洗礼者ヨハネも、神を讃えたのではありませんか?

また、多くの聖人たちの青春時代も、神とその完全性への絶え間ない賛美だったではありませんか?

ですから、すべての人がそうするべきです
 

若いうちから神に仕えることによって、老年期に神に対して有利になります

すべての人は神に仕えることが出来る時に神に仕えなければならず、まだ来るかどうかもわからない遠い未来にそれを先送りしてはならないのです

この言葉を決して忘れてはなりません

人は若い時に歩んだ道のと同じ道を、老後も歩み続けるものだからです

彼らはどんな言い訳ができるのですしょうか?

 

ーそういう「機会」があったから、と言うのでしょうか?

娘よ、この「機会」についてよく考えてみなさい

それは3種類あります

ひとつは必然的なものであり、もうひとつは状況的なものであり、もうひとつは危険であり禁じられたものです

ここであなたに尋ねますが、危険や罪のために逃げるように命じられているような状況で、人は果たして罪を犯すことができるでしょうか?

この状況が危険であり、悪であり、自分は弱く、欲望に流されやすいと分かっていて、それでもあなあたがその場面に身を晒すなら、あなたは非難されるに値しないでしょうか?

あなたはあえて危険に身を晒し、誘惑に負けます

その堕落が次の堕落につながり、そしてどんどん奈落の底に堕ちていくのです

もしあなたがこの深淵から立ち返ることができたなら、あなたは自分が身を晒したこの危険な機会が、あなたの不幸の原因であったことがわかるでしょう

必然的な機会とは、あなたの心が悪である時ーつまりあなたが自分から進んで悪を行なおうとするときにだけ、あなたに害を及ぼします

そして状況的な場面は、あなたに害を及ぼすことはありません

なぜならどんな状況にある時にも、あなたは常に神の恵みによって支えられているからです

誘惑が大きければ大きいほど恵みは多く、危険であればあるほど神の助けは大きくなるのです

それなのにどうして「機会」が言い訳になるのでしょうか?

聖人たちも皆、自ら求めていないのに、そういう機会に身を置いてきたのではありませんか?

ーその時、彼らはどうしたでしょうか?

その時、彼らは祈り、嘆き、神に呼び掛けたのです

そして神は彼らを助け、彼らの勝利をもたらされたのです
 
若い人たちは神に仕えなければなりません

そうしなければ、若い人たちを神から遠ざけている家庭、町、国に災いが降るでしょう

天からの災いが、これらの国、これらの町、これらの家庭に降りかかってくるのです

若者たちが不信心で道楽にふけり、乱れ切っている家庭を見てみなさい

彼らの不従順と不品行によって、どれだけ両親を悲しませていることでしょうか

また、彼らの浪費によってどれほど両親を嘆かせていることでしょうか
それはしばしば、完全な家庭崩壊と最も深刻な不幸の原因となっていないでしょうか?

このように子どもたちの悪い行ないについては、それを改めさせようとしなかった親に対して神の罰が向けられます

神はしばしば青春時代を罪と無秩序の中で過ごした両親を、そこで待っておられるのです
 
そしてこのような不品行、不信心、神を放棄することが、町の若者たちのあいだで一般的なことになり、犯罪と醜態ばかりが目に付くようになり、夜の集まりが密かに行なわれる集会となり、夜陰に応じて悪を行なうようになり、さらには白昼堂々と悪を行なうことを恐れなくなったときー神の道から外れた若者たち、洗礼の約束とわたしの体と血(聖体と御血)との最初の交わり、わたしの父への奉仕における喜び、悩みや後悔のない喜びを忘れ去った若者たちによって、この町にどんな災いがもたらされるか、想像できるでしょうか?

堕落は一般化します

それは若者から子どもへと広がります

子どもたちは悪を見ることによって悪に目覚めます

そして大人になり、年寄りになったとき、彼らは記憶によって若者だった時代にもどり、以前の堕落を思い出し、思考と欲求によってそれを新たにするのです

このような町が、一体どうしたら神の祝福を受けることができるでしょうか?

その町のすべての住民が(神に)反抗しているのです

天の火は、彼らの上に降り注ごうとしています

もし神の憐れみがその正義の怒りを時間的に伸ばしたとしても、それを永遠に抑えることはできないでしょう


それとは反対に、若い男女が忠実に神に仕え、神に従って生きている家庭はどれほど幸せなことでしょう

神に仕えるとは父と母に仕えることであり、自分に仕えることであり、現世と来世においての神の利益ために仕えることです

 

「神に仕えるとは自分の父と母に仕えることです」

それは両親を大切にし、両親を尊敬し、両親に従順であり、両親を愛し、両親の喜びとなり、地上で両親の冠となることです

神を喜ばせたいなら、親を不愉快にさせることができるでしょうか?

神の命じられたことを実行するなら、親に背くことができるでしょうか?

いいえ、わたしの娘よ

神はそれぞれの人に父と母を敬い、父と母に従い、父と母を大切にし、父と母を愛するように命じておられるのです


「神に仕えるとは自分に仕えることです」

若い男女が自分に対してしなければならない奉仕とはなんでしょうか?

それはこの地上と天上での幸福のために働くことです

幸せと安らぎは、この地上では神へ奉仕すること以外にはありません

天国は神への忠誠への報いとして与えられるからです

「神に仕えるとは、現世と来世においての神の利益に仕えることです」 
神に愛されている若者は、秩序のある道を歩きます

秩序とは仕事であり、秩序とは経済であり、秩序とは皆との平和です

秩序とはすべてのものに対する善であり、悪を避け、愚かで無駄な出費を避けることであり、秩序のあるところには必ず豊かさがあります

それが秩序の必然的な結果なのです

そして仕事に励み、そこに神に仕える者をあらゆる面で優遇してくださる神の祝福が与えられるなら、神に仕えることは、たとえ一時的な(この世的な)利益にではあっても、それが神に仕えることになるというのがわかるでしょう

そしてそれは何よりもその人の霊的な利益につながるのです

魂の霊的な利益とは、ここで得られる恵みであり、恵みによって神の生命に参加できるようになります

そして死後、その人は神のものとなるのです
こうしたことは神への忠実な奉仕によってのみ可能であり、若い時から神に忠実に仕えて来た者はますます神に寄り縋り、永遠のための富を日々増やしていくのです

 

神に忠実で、神に身を捧げ、神だけに執着する若者を持つ家庭は幸せです

平和はこの家族の中にあるでしょう

兄弟が同じ意志、同じ思い、同じ考え、同じ目標を持ち、神に結ばれて共に生きることがどれほど幸せかを味わっているからです

 

神に忠実に仕える若者を多く持っている町は幸せです

この若者たちは、100倍の実を結ぶ種のようなものだからです

この若者たちは、神の怒りから町を守る避難所のようなものです
この若者たちは、神のみもとに昇り、神のみ心に触れ、自分たちの住んでいる町に対する祝福を神からいただくのです

この若者たちは、天と地のために立派な姿を見せ、地(この世)はそれを見て嘆き悲しむのです

「この町に祝福がありますように!」

と天は叫びます

「この町に栄光がありますように!

この若者たちは、悪魔と地獄にとって恐怖の対象となっています

悪魔と地獄の前で腐敗はおびやかされ、不誠実な言葉はもはや聞かれず、禁じられた快楽に溺れる誘惑は退けられ、その良い模範は悪魔の誘惑を空しくさせるのです」


喜びなさい

あなたは年齢と徳において成長し、主の戦いを戦うために成長し、あなたの功徳を増大させるために生きるからです

 

 

 


 

 

 

 

 

 

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