人は常に神と悪魔の前にいます | カトリックの神秘

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(「マリー・ラテイストの作品」より)

 

 

(第5巻「宗教全般、特にキリスト教について」第7章)

 

 

以前、救い主イエスは私にこう言われました

 

「娘よ、神は人間を王とされました

人間の王国とは、その人自身の心のことです

しかし、この王は独立した王ではありません

人間はいわば属国の王(支流の王)なのです

なぜなら、人間は常に神の力か悪魔の力かのどちらかを自分の上に(王として)持っており、常にそのどちらかの力に服従しているからです

人間は自分の心、自分の魂、自分の能力、自分の身体を貢ぎ物として捧げる相手に従います

 

人間は、常に神と悪魔の前に居ます

神と悪魔は人間の主人となり、人間に自分を示そうします

それに対して人間はどうするのでしょうか?

人間は、天の永遠の王を選ぶのか、闇の王子を選ぶのかを熟考します


そして神は、その人間が自分のために神がしてくださったすべてのことを思い出させ、人間が神への奉仕に身を捧げるなら、敵を倒すために必要な助けを与えることを約束し、彼が忠実であるなら、無限の報酬と決して終わることのない幸福を保証してくださいます

しかし、もし神を捨て、神に敵意を持って悪魔の側につくなら、その人間には永遠の罰が用意されているのです

 

一方、悪魔は人間に対して財産、名誉、栄光、世間的な評価、快楽、娯楽、快適で楽な生活を約束し、もし神の側につくなら、悪魔は容赦のない憎悪をその人間に向け、あらゆる種類の迫害と制裁をもたらします

 

そして神に栄光を帰し、神に自分自身を捧げたいと思う者(これ以上の正義があるでしょうか?)は神のみ旗のもとに身を置き、神を自分の王と認め、自らを奉献して完全に神に仕え、君主に対する都市の門のように神に心を開き、常に攻撃してくる悪魔の侵入を拒み、その不忠実なあらゆる提案を拒絶し、自分の主、先生として選んだ神に永遠に忠実であることを心に誓うのです

 

一方、悪魔のくびきのもとで頭を下げる者は、恐れることもなく神を捨て、神よりも地獄の反逆の衣を身にまといます

そうすることによって、その人間は神に対してどれほどの侮辱と暴挙を行なうことでしょうか

神の約束と警告を軽んじ、神が自分にしてくださったすべてのことを忘れ、悪魔を王として選ぶことによって、その人間はどれほどの不義を犯すことでしょうか

最初に神を自分の主人とし、自分の主権者として選びながら、その主に反抗し、従順と服従を拒み、心から神を追い出し、嘘と曲解と悪意のある提案で神を欺く悪魔を心の王座に着かせるその行為を、なんと呼べばいいのでしょうか

 

それでも、神は素晴らしい善意に満ちておられます

神はこの恩知らずな人間をすぐには罰することはせず、ご自分のもとに呼び戻し、優しく浄め、赦しと恵みを与え、時には密やかな声によって、時には良心の声を用いて、時には聖職者の声を使って、その人間の心に語り掛けられるのです

そして罪人がこの声に耳を傾けるなら、神はその罪人を親切に迎え入れ、愛をもって受け入れ、その腕に抱きしめ、すべての過去を忘れてくださるのです

それが人間に対する愛と憐れみです

たとえ罪人が神に反抗しても、神はその正義の日まで罪人を待ち続けておられます

それに対して人間はなんと神に恩知らずで無礼なことでしょう」

 

 

 

 



 


 

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