宗教の実践を神への捧げものにしなさい | カトリックの神秘

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(「マリー・ラテイストの作品」より)

 

 

(第5巻「宗教全般、特にキリスト教について」)



 別の時、救い主イエスは私にこう言われました。

 

「娘よ、私は以前あなたに宗教について話したことがあります

わたしたちは美しいもの、良いもの、完璧なものを自然に愛します

そしてわたしの宗教よりも美しいもの、良いもの、完璧なものがあるでしょうか?

しかし、人間たちを見なさい

彼らはこの最高傑作を見る目を持たず、ただ地上的なものを見る目しか持っていません

彼らは創造主に対する義務が何であるかを考えることもせず、ある種の生き物のように地面に這いつくばって生きているのです

彼らには永遠の利益ではなく、この世の物質的ではかない利益しかありません

なんという盲目さでしょうか

彼らは神を忘れ、神にふさわしい敬意を払わず、天の富、天の幸福、天の栄光よりも、地上の富、快楽、栄誉を好んでいるのです!

そしてそういう生き方をする者がなんと多いことでしょうか

 

しかし、多くの人々は、自分が宗教を実践していると信じています

彼らは一体何をしているのでしょうか?

彼らは自分の好み、自分の傾向、そして欲求に従っているだけです

なんと多くの人たちが、ただ口先だけで祈っていることでしょう

なんと多くの人たちが、何の注意も払わず、神への尊敬も愛もなく祈っていることでしょう

聖なる場所を見てみなさい

教会は祈りの家です

教会はわたしの住む場所、わたしが肉体を持って住んでいる場所、わたしが栄光で満たし、畏敬に震える天使たちが沈黙のうちに祈りに来る場所、わたしが世の救いのために毎日新たに身を捧げる場所、人間の霊的誕生の場所、その魂が新しい力を引き出すために来る場所、みことばのパンを受ける場所です

そして死後、最後の祝福を受けるために連れて行かれる場所なのです

教会は神の家であると同時にキリスト者の家であり、父と子どもたちという大家族が再会する場所でもあります

 

多くの人たちは教会でどのように振る舞っているでしょうか?

彼らはどこに行くのか、誰を訪ねてくるのか、誰を賛美するのか、そうしたことを自問することもなく、この場所に入ります

彼らは気を散らしたまま、注意を払うこともなく機械的に跪き、いくつかの祈りを唱えるだけです

その場所にいる間、彼らの心はそこで起こっていることに全く気付いていません

彼らは互いに話しをし、この世的なことに関心を向け、(教会の)すべてが永遠のことを語っているにも関わらず、この世の時間の中での生活のことしか考えていないのです

彼らにとっては礼拝に参加することが宗教の義務を果たすということであり、しばしば習慣的に、まるで集会場に集まるかのように、友達に会うため、きれいな言葉を聴くためだけに来るのです

(教会は)彼らの心には少しも触れていません

彼らは聖なる場所を離れると、すぐに娯楽や遊び、気晴らしをしに行きますが、それは多くの場合、罪のうちにある娯楽や遊び、気晴らしです

 

そうすることが自分の宗教を実践することだとでも思っているのでしょうか?

いいえ、娘よ

それは無関心でいるということです

無関心というより、自分の宗教を完全に忘れているという状態です

人間の法律に違反しない程度に神の掟を守っていることで満足している人たちについて、いったい何と言えばいいのでしょうか?

ああ、娘よ

これが罪深いということです

罪深い人は神の正義(私審判)の日に神に拒絶され、罪深い人は裁きの日(公審判)に神から目を背けられるのです

その人が受けるべきものは地獄の罰であり、その人が受けるべきものは怒りと呪いであり、その罪の重さは永遠にその人の上にのしかかるのです

 

無関心な人間、罪深い人間、神に対して不敬な人間を憎まず、自分の宗教をもっと知るようにしなさい

宗教の実践を、あなたの心からの神への捧げものとしなさい

そうすれば神はそれを受け入れられ、神は無限の壮大さと恩恵によってあなたにふさわしい報いを与えてくださるでしょう」

 



 

 

 

 

 

 

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