(「マリー・ラテイストの作品」)
(第5巻「宗教全般、特にキリスト教について」第5章)
別の日のごミサの後、私は心の扉の前で深くひれ伏し、イエスが来られて私に語り掛けてくださるのを待っていました
イエスは私のところに来てくださり、私の手を取って、その王座に座られました
私はその日にした自分の不完全な行ないに当惑し、恥ずかしさを感じながら、彼の足元に跪いたままでいました
私はじっと黙っていました
するとイエスは私にこう言われました
「賢い人も、愚かな人も、共に真理を見出しますが、その方法は異なります
多くの人たちは自分が賢いと言っています
実際、その人たちは世間的な意味で賢くなっているのです
けれども彼らの知恵は、やがて神から愚かなものであると言われることになります
そして他の多くの人たちは今は愚か者だと判断されていますが、その愚かさは過ぎ去り、神は彼らがわたしの十字架の愚かさを持っていたことにより、真の知恵が彼らの中にあったということを認めてくださるのです
この愚かな人たちは謙遜です
ですから、わたしが育ててあげましょう
しかし、賢く高慢な者はわたしが打ち倒すので、もう立ち上がることはできません
この世で言う賢者たちは、偉大さと栄光を求めています
そのために休息を犠牲にし、学問に打ち込み、ありとあらゆる危険に身をさらし、何も恐れず、有名になって華やかな名声を手に入れるためならなんでもします
そうですか、それならそれでよろしい!
娘よ、この人は自分の目標に達するためには何でも行ない、あらゆる問題を見越してそれを取り除こうとします
しかしこの人は愚かであり、その愚かさによって、やがて真実を見出すでしょう
この人は死の間際に、それを見出すでしょう
その時、この人は自分がいかに盲目で錯覚に陥っていたかを知るでしょう
この世の栄光も名誉も、この人にとっては無でしかなかったのです
この人は栄誉や賞賛のむなしさを知るでしょう
そして
「世間に従って忠実に義務を果たし、正義を行ない、学問を深め、研究や仕事や啓発によって後世に名を残したとしても、それは何の役にも立たなかった」
と言うようになるでしょう
「私はこの世のためにすべてを与え、神のためには何もしてこなかった
この苦しみ、この労働、この栄光、それがいったい何の役に立つのだろう
すべては虚栄であり、私が神に差し出す手の中は空っぽだった」と
この世の人たちが言う「愚かな人」は、謙遜と屈辱を求めます
その人は迷うことはありません
この人は自分が有名になるために働くのではなく、神を喜ばせるために働くのです
この人は神の利益だけを考えています
この人は、たとえ人生に十字架が立ちはだかったとしても、それを拒むことなく、熱心に背負います
悪には善を返し、敵を愛し、敵をかばうことさえあります
この人は神と結びつくために、地上の富から自分を切り離すのです
世間ではこのような行ないを「狂気」と呼んでいます
そうです、それはまさに狂気であり、私の十字架の狂気、私の屈辱的な十字架の狂気、わたしの赦しの十字架の狂気、わたしの受容の十字架の狂気、わたしの神との一致の十字架の狂気なのです
この愚かさこそが、真の知恵です
わたしの娘よ
神の目に賢いと認められるこの愚か者は、やがてわたしの栄光の王国を共有するようになるでしょう
この2人にはなんという違いがあるでしょう
一方は人間の知恵によって、もう一方は神の知恵によって導かれています
前者は人間からの賞賛を受けるだけで、それが報いとなります
後者は神と天使から賞賛を受け、その賞賛は永遠に続きます
前者は砂の上に家を建てた人であり、その家はやがて崩壊するでしょう
しかし後者は堅固な岩の上に家を建てた人であり、その家は永遠に建ち続けるのです」