みなさんこんにちは!
久保佑輔(くぼ ゆうすけ)です。
開催までのこりわずかとなった「FIFAワールドカップカタール2022」
今回からは今までのサッカー日本代表のワールドカップの戦績を振り返っていきます!
日本代表が歩んできた歴史を理解すると、よりワールドカップが楽しめると思います。
残り時間わずか。あと一歩のところで「ドーハの悲劇」
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まずは日本代表のワールドカップの歴史を振り返るにあたって触れなくてはならないのは「ドーハの悲劇」です。
1993年10月28日にカタール・ドーハにて行われた1994年アメリカ大会アジア地区最終予選の最終節「日本」対「イラク」。
前節である4節目を終えた時点で首位に立っていた日本は最終節のイラク戦を前にワールドカップの出場へ王手をかけていました。
イラク戦でも日本は優勢に試合を進め、三浦知良、中山雅史の得点で2-1で日本が勝っている状況で残り時間はわずか、このまま進めば悲願の初出場が決まると思われていました。
しかし後半のアディショナルタイムにイラク選手が放ったヘディングシュートがGKの頭上を越えてゴールに吸い込まれていきました。
日本代表選手は茫然と立ち尽くし、試合はそのまま2-2の引き分けで試合が終了して同時刻に行われた3位であった韓国が勝利したことにより得失点差で韓国が逆転したことにより日本はワールドカップの出場権を最後の最後に失いました。
現在のサッカー日本代表の森保一監督も当時この試合に選手として出場しており「ドーハの悲劇」を経験しました。
選手時代の苦い思い出のあるカタールでどのような采配をみせるのか期待しましょう!
「ドーハの悲劇」を乗り越えて。「ジョホールバルの歓喜」
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「ドーハの悲劇」により夢の初出場が叶わなかったサッカー日本代表の次の目標は1998年ワールドカップフランス大会での初出場です。
フランス大会アアジア地区最終予選は勝ち進んできた10か国をAグループとBグループに分けられそれぞれホームアンドアウェーで行われ各グループの1位とAとBの2位同士が決定戦の結果、勝った国も出場が決定するというルールで行われました。
最終予選では同グループの強豪「韓国」に首位は明け渡しますが、2位を死守して最終予選を終えます。
Bグループの2位である日本はAグループの2位である「イラン」とアジア地区第3代表決定戦として1997年11月16日にマレーシア・ジョホールバルにて運命の試合に臨みます。
試合は日本の中山雅史が先制点をあげるものの、その後イランに2点を取られ逆転されるも後半に城 彰二が追加点を決めて「2-2」と追いつきながらも勝負を決める1点がお互いに奪えない中で後半を終えていきます。
ワールドカップの出場国を決める大事なこの試合では前半後半の90分で勝負の決着がつかない場合、15分の前半後半の延長戦を行いどちらか先に得点をした時点で試合が終了するという「ゴールデンゴール方式」で行われました。
運命を決める大事な場面で日本代表の岡田武史監督は延長戦が始まる最後の選手交代枠を岡野雅行選手に使うことを決めます。
実は岡野選手は代表に選ばれてはいたもののこの最終予選には一度も試合に出ていない状況だったのですがこの重要な場面で岡野選手が選ばれます。
この局面で試合に出ることになった岡野選手は試合に出るも、GKと1対1の決定機に自らシュートを打たずに味方にパスを出そうとして失敗したり大きくシュートを打ち上げてしまったりするなど空回り気味でした。
そして延長戦も残りわずかとなり決着はPK戦かと思われた延長後半13分についにその時は訪れます。
相手のボールをカットした呂比須ワグナー選手がミドルシュートを放つと相手のイランGKはたまらずはじいたボールに反応した岡野選手が押し込んで得点を決めてついに念願のワールドカップ初出場を決めました。
この試合はサッカー日本代表にとって歴史が変わった日として試合が行われた地名から「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれ遠くは離れた日本でも応援するサポーターが大きく盛り上がった日となりました。
おわりに
今回は日本がワールドカップに初出場するまでの激闘の歴史をご紹介しました。
先人たちが築いてきた歴史を知ると日本代表がどう成長しているのかもわかって面白いですね。
次回もサッカー日本代表のワールドカップの歴史を続編としてご紹介していきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
おわり。
久保 佑輔(くぼ ゆうすけ)
参考文献:ドーハの悲劇とは?当時のメンバーや試合内容について解説! - スポスルマガジン|様々なスポーツ情報を配信 (sposuru.com)