「危険の認識 」でも書いているように、人間は体験しないと理解する事が出来ない動物だ。
恐らくこの意見には異論があると思う。
まず、危険の認識で書いている事は、赤ちゃんの事であって大人は違うと思う人もいるだろうが、何ら変わりは無い。
例えば、これだけニュースでも振り込め詐欺の特集が組まれ、注意を呼びかけていて、振り込め詐欺の手口を知っているにも拘らず、振り込め詐欺の被害は減らない。
「自分は大丈夫」と思っていた人も簡単に引っかかってしまっている。
霊感商法がスピリチュアルと名前を変えただけで、また引っかかってしまう。
それは、危険の認識で書いた様に、赤ちゃんがハイハイで認識した危険と同じ危険を、つかまり歩きでは同じ危険と認識出来ない事と同じだ。
子育ても、その延長線にあり、自分が育てられた様にしか子供を育てられない。
違いは「価値観の異なる両親」によって育てられる事。
これはDNAに似ている。
父と母のDNAを半分づつ受け継いで赤ちゃんが生まれるのと同じく、価値観も父と母の異なる価値観からそれぞれ部分的に受け継ぐ。
父親の価値観と母親の価値観が対立する価値観であれば、相反する価値観を共有する事になり、そこに自己矛盾が生じ、それは精神や情緒の不安定を意味する。
早い話が夫婦仲が悪い家庭と、夫婦仲が良い家庭の違いとでも言うような問題である。
夫婦喧嘩と言う物は自己主張のぶつかり合いでもある訳だが、ここに関係してくるのが「協力と分け合い 」で書いた事だ。
親がここで書いている「未熟な分け合い精神」のまま育っていれば、自己抑制が出来ずに自己主張が強い大人になり、両親共にこれだと喧嘩は絶えないだろうし、自分の子供の「未熟な分け合い精神」に気付くことも無く、是正する事も出来ないだろう。
なぜならば、未熟な分け合い精神しか持っていなければ、それが当たり前の事と感じ、当たり前と思っていればそれが間違だと気付くことも無い。
虐待を受けて育った子供が親になると自分の子供を虐待してしまう。
親に愛されていると感じて育たなければ自分の子供を愛せない。
過保護に育てば過保護に育ててしまう。
そしてそれは親から子へ子から孫へ伝播して行ってしまう。
正に「子は親の鏡」である。