今回はメリーランド大学の実験だ。
2歳の二人の子供に別々のパーツで協力し合わなければ遊べないおもちゃを与えると、どうしてよいのか分からず遊べない。


そこで、大人が介入して協力して遊ぶ事を教えると、協力して遊ぶ事を覚える。
三歳児では最初から協力して遊ぶ。


これは、「一つの社会的参照」である。
子供は、協力と言う概念を年長の子供や大人から社会的参照で学ぶと言う事である。


次に「分け合い」と言う概念の実験なのだが、先の実験で協力と言う概念を身に付けた子供に「交代で使う」と言って一つだけ自転車のおもちゃを与える。

二歳児での実験では、早い者勝ちでどちらか早くそのおもちゃを使った方がそのおもちゃを占有する。
すると順番を待っている子供は、自分も遊びたいと言う願望を抑える行動を取る。
そして、自分の順番が来てそのおもちゃで遊ぶのだが、先に遊んでいた子供はかんしゃくを爆発させる。
自分の順番を待って遊んでいた子供は、その「かんしゃくを起している子供」を見て、楽しく遊ぶ事が出来ずに、そのおもちゃで遊ぶ事をやめた。

協力の実験で最初から協力して遊んだ三歳児の子供も、どちらかが最初にそのおもちゃを占有して遊び始め、遊べない子供は最初は声援を送って手を叩いて見ているのだが、やがて「交代して」と自己主張する。
すると、遊んでいる子供は「これ私の」と自己所有を主張する。
しかし、分け合いと言う概念にも目覚め始めている為、自分も遊べて相手も遊べる方法を考えて「後ろに乗る?」と誘う。
つまり、懐柔しようとする。

後ろに乗らせても、面白くなく色々な方法を試そうとするのだが、面白く遊ぶにはどちらかが降りるしかない。
自己の願望と未熟な分け合いの精神に葛藤していた。


これも空間認識の発展形で、カートを押せない子供の実験が自分一人と言う空間認識に対して、この実験は同じ空間に複数と言う空間認識である。


この実験を、大人(親)の視点で見ると「後ろに乗る?」と言う「未熟な分け合いの精神」を「優しさ」と勘違いして容認してしまう場合がある。

分け合いと言う概念は、社会性の基本をなす概念であり、それは「自己の抑制」を学ぶという事である。

未熟な分け合いの精神は、社会に適合する為に必要な「自己の抑制」が出来ない状態である。
大人(親)がそんな行為を褒めてしまう事は、間違った社会的参照を与える事になり、未熟な分け合い精神のまま成長する事になる。
実際、そんな親を何人も見て来た。


これも自己愛性及び境界性人格障害などのパーソナル障害を持つ人に見られる傾向である。


子供は遊びの中でこう言った「協力」や「分け合い」の概念を知る。

私の子供は一人娘だった為に、この概念が薄い事に幼稚園の時に気が付いた。


そこで私が行った事は、家の中での「かくれんぼ」等の遊びである。

仕事から帰ってからの娘との「かくれんぼ」は、幼稚園から小学5年生まで続けた。

「かくれんぼ」は、隠れる側と、探す側の共同作業で成り立っている。

隠れる側には隠れる面白さがあり、探す方も探す面白さがある。

そして、「今度はどっちがやりたい?」と自己主張をさせる事も出来る。

隠れる側ばかり主張すれば「面白くないからやめる」と、私も自己主張する事で、自己主張と自己抑制の感覚も教える事が出来る。

つまり「かくれんぼ」や鬼ごっこは、「協力」「交代」「自己主張」「自己抑制」という社会に適合する為に必要な概念を与える格好の遊びなのだ。


ここで、TVゲームに目を向けてみよう。

TVゲームは基本的には一人で占有して遊ぶ物であり、「分け合い」や「自己抑制」の概念が発達しない。

2人プレイは先の「未熟な分け合い精神」と同じ概念である。

つまり、外で「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」等の共同でする遊びをしないでTVゲームで遊んでいる子供は、社会生活に適応する為に必要な「協力」と「分け合い」「自己抑制」と言う概念が未発達なまま成長していると言う事である。





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