先日、以前録画していたけど少ししか見ていなかった「マイケル・サンデル究極の選択」という番組を通しで見た。
私は白熱教室は結構好きで、全て録画している。
お題は「究極の選択」
なかなか面白いテーマだ。
学生達の意見も面白い。
しかし、何と言うか多面的視点に欠ける様な気がするし、綺麗事を並べ立てているような気もする。
最初のお題は「ビン・ラディン殺害に正義はあるのか」
賛成と答える者、反対と答える者、双方の意見が飛び交う。
反対派は法治国家である以上裁判を受けさせるべき、賛成者は脅威の排除や、裁判は更正させる目的だが更正は望めない等の意見が合った。
なかなか面白い。
しかし私の意見は賛成でもなく反対でもなく、アメリカの反省であり、お互いがお互いを知り、お互いの文化や宗教を尊重し認め合う事だと思う。
お互いにお互いを知らず、お互いを理解し、尊重し合っていないから、お互いに脅威を感じる。
この番組の学生達の論議を聴いていると、事件その物にしか目が行っていない様に感じた。
しかし、9.11に至るまでアメリカや西欧諸国がアラブで何をしてきたか?
そこに思いをはせる学生はいなかった。
日本の真珠湾攻撃と9.11に大差は無い。
もし、ペリーが大砲を突きつけて開国を迫らなければ真珠湾攻撃はなかっただろう。
ハリスが不平等条約を結ばなければ、真珠湾攻撃は無かっただろう。
欧米諸国がアジアを侵略して植民地化していなければ、日本は軍国への道を進まなかっただろう。
国力に任せて大砲で相手を脅しながら交渉するのは今も同じ。
その反省が無ければ同じ事は繰り返される。
一人の日本人学生の意見
「アメリカは民主主義国家です・・・」
その認識は正しいとは言えない。
アメリカは民主主義国家である前に、世界最大の宗教国家である。
9.11は以後の戦いは、宗教戦争の側面も持っている事も忘れてはならない。
二つ目のお題は「敵への通報を防ぐ為、民間人を殺せるか」
なるほど、究極の選択らしきなって来た。
これは実際にあったアフガニスタンの戦闘が問題として使われている。
敵の部隊のリーダーを殺害し、壊滅させる作戦の4人の偵察部隊がヤギ飼いと遭遇、開放すれば居場所を通報される恐れが有るが、相手は武器も持たない民間人。
あいにくとロープは持っておらず、縛り上げる事も出来ない。
そんな民間人を殺せるのか?
論議の中で日本人の一人がこう意見を述べた。
「殺しても殺さなくても、兵士は後で感情的に苦しむと思う」
それは私の考えに最も近かった。
どちらか選ばなければならない場合、双方の価値は等価である。
つまり、どちらを選択しても後悔する事になる。
それは、正解の無い選択である。
しかし、私は究極の選択のような二者択一は好きではない、そうした不自由な選択は自己の判断を制限してしまう事になるので、常に第三の道を考える。
私ならどうするかと考えた場合、ロープが無いなら作れば良いと直ぐに頭に浮ぶ。
まあ私なら、そのヤギ飼いには悪いが、ヤギ飼いの服を脱がしてそれを縦に切って紐を作り、それで縛り上げるだろう。
クルクル捻ってヨリを入れればかなり強くなるし、手足だけ縛れば然程長いロープは必要ない。
そんな私の意見は置いといて、その舞台は結局ヤギ飼いを解放し、その直後タリバン兵に囲まれ4人のうち3人が戦死、救助に来たヘリも撃墜され16人が死亡、生き残った兵士の頭にはその光景が焼きついている。
そのヤギ飼いが通報したのかは定かではない。
そうした結果を聞いても、学生達の意見は変わらない。
しかし、もしその現場を目の当たりにしたならどうだろう?
その場の空気、臭い、音、そんな物を自分で体験しても、意見は変わらないのだろうか?
そして3つ目のお題。
「自爆テロ目的の旅客機を撃墜できるか」(9.11が事例)
この設問に対する学生の意見が、非常に面白かった。
その賛否の意見には然程興味は無い。
双方の決断の結果が等価値で、第三の道も無い場合は単純に数の問題になるだろう。
興味があるのは以下の意見である。
撃墜は間違いだとする一人の中国人の意見
「乗客自身が他の人の犠牲になる事を同意しない限り、どんな理由があれ罪の無い人の命を奪う権利は誰にも無い」
実に立派な意見ではある。
しかし、その意見は自己矛盾を抱えている事に気付いているだろうか?
その旅客機の人命を奪う権利が無いとして撃墜しないという事は、裏を返せば激突されたビルの人の命を奪う事でもある。
サンデル教授がドイツで実際にあったハイジャックされた旅客機の撃墜を容認する法律が可決され、その後ドイツの憲法裁判所で、その法律が妥当かどうか審議され、「飛行機の撃墜が人間の尊厳と言う絶対的な道徳を侵害する」と言う理由で却下されたと言う話をする。
その後にアメリカ人の学生に意見を求めると、学生達は尊厳を口にするようになる。
一人の学生の意見
「人間の尊厳が無ければ命自体が意味有る物ではなくなってしまいます、どうしても白黒を付けなければならない時、人間の尊厳を尊重する事で、私達は正しい側に立ち生きる価値を確認できるのです」
また別のアメリカ人の学生の意見
「そもそもこの問題は人間の尊厳の問題にならないと思います、残念ながら飛行機に乗っている人達は、すでにハイジャックしたテロリストによって、尊厳が侵害されています・・・」
なるほど~!
そうした意見は実に耳障りは良いかも知れないが、アメリカは他国の尊厳を侵害しているのではないのか?
日本でも、普天間に代表される沖縄県人の尊厳を侵害していないのか?
ハリスが結んだ日米修好通商条約は、日本人の尊厳を尊重していたのか?
自国の利益の為に、他国の尊厳を無視してきたのはアメリカではないのか?
この学生達に、自分の国が他国の尊厳を侵害している自覚があるのだろうか?
これはアメリカに限った事ではなく、日本人とて同じであり、中国人も同様である。
究極の選択を考える前に、自覚し反省すべきなのでは?私はと思う。
排除衝動は、知らない事への恐れから起こる。
お互いが交流を深めて、お互いを理解し合い、お互いを尊重しあえば排除衝動は起こらない。
それが究極の選択だと私は思う。
9.11に於いて、この「尊厳」と言う物を考えるのなら、私は4機目のユナイテッド航空93便の乗客が取った行動に共感している。
尊厳とは誰かに与えられる物ではなく自ら掴み取る物だと思う。
無駄とは分かっていても、抵抗を試みる事が自分の尊厳を守る事だと思うし、そうやって生きても来た。
今まで3回ほどあったかな?
最初は高校1年の時、二度目は大学生の時、三度目は40代の頃。
高校の時は、中学の友人と買い物してた時、その友人達が朝鮮高校の奴らに追いかけられて逃げて行き、私一人逃げずに捕まった時。
ボコられるとは思ったが、屈したくは無かった。
朝鮮高校の奴らは、逃げて行った奴らの落とし前を付けろと言われ、どう落とし前を付けるのかを聞き、相手は殴らせろと言った。
私は殴りたけりゃ殴れば良いと言い、相手が殴ろうと振りかぶった瞬間に「痛くしないでね~!」と言った。
すると、相手は腰砕けになり、相手に度胸を認められ事無きを得た。
逃げて行った友人達は、それ以降その朝鮮高校の奴らを見る度に逃げ隠れしていたが、私は逃げる必要も無く笑って会話もしていた。
大学の時は、自分で始めた仕事の関係でヤクザに因縁をつけられ、包丁を持って事務所に出向き、凄まれている最中に包丁を差し出して、自分じゃ出来ないから指を詰めたきゃやってくれと啖呵を切った事もある。
その時は気迫勝ちで、事無きを得ている。
40代の頃は、山口組三代目の姪を名乗るオバハンの息子グループだった。
信号停止中に因縁をつけられて殴られ、警察沙汰になった。
そのグループに呼び出され、囲まれて凄まれても決して怯まず、最終的に侘びを入れさせた。
朝鮮高校の奴らは「度胸」と称したが、それは度胸などではなかった。
それは、例え殺されようが尊厳だけは守り抜くと言う覚悟だったような気がする。
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