人間は、受精した時から母親の胎内で進化の過程をたどる。

いきなり人間の形として成長しているのではなく、28日目の胎児は鰓や尻尾があり、魚類から両生類の特徴を持ち、哺乳類へと進化して、人間の形へ成長して行く。

つまり、人間はどんなに進化しようと、体内では進化の過程をたどらなければ人間の形に成長しないと言う事である。

そして出産。


問題は出産後である。

体内で進化の過程を通り人間の形に成長して行く事を考えれば、出産後も動物としての成長過程を通らなければならないと思う。

母体の中でいきなり人間の形でそのまま形取られて成長していく様な不完全変体ではなく、魚類や両生類から哺乳類へ進化して行く様は、完全変態的進化をしている。

そう言った、観点から見ると精神の発達も、原始人から現代人へと言う進化の過程が必要なのではないだろうか?

おんぶ、抱っこで育ち、何度も転んで立てる様になり、転びながら歩き、走って、転んで、喧嘩して、そんな事を繰り返して、学び成長し、知的生命になるのではないだろうか?

文明も、原始的な文明から高度な文明へと進化して行く。

しかし、原始的な文明も持たない民族に、いきなり高度な文明を伝えてもその文明を享受する事は出来ない。

狩猟が主な原始的な民族に、いきなり西欧文明を持ち込んで、富んだ国は無い。

人間の成長も同じだと思う。



最近気が付いたのだが、外出先での赤ちゃんの移動にベビーカーを使う人が多い。


集団ストーカー被害者の「自分に対して」と言う思考を分析すると「自分に向かってくる物が自分で止まる」と感じていると言える。

それと同じ光景が見られる一番古い幼児体験がベビーカーである。

特にフード付のベビーカーはフードで左右と後方の視覚が遮られる為、自分に向って来る風景しか見られない。

抱っこやおんぶは、自分に向ってきた風景が、自分を通り過ぎて後ろへ流れていく所まで見える。

その風景の移り変わりが、精神の成長に必要な事ではないだろうか?


「実験で見る精神の成長」で赤ちゃんの実験を色々書いているが、このベビーカーから見える風景も一つの幼年期の経験であり、それらは人格形成に多大な影響をもたらす。


ベビーカーは、自分に向ってくるだけの世界観を与え、歩行器は転んで起き上がって、歩けるようになる「最初の達成感」を奪う事になっていると思う。

また、危険防止用の柵なども赤ちゃんの世界の広がりを阻害しているのではないだろうか?

その様な育児は、自然界では有り得ない事で、自然の摂理に反している。

人間も、自然の摂理の中で生まれた動物と言う事を忘れてはいないだろうか?


この様な事は、後から修正すれば良いとも思えるのだが、覚えの順序 で最初に間違った世界観が形成されてしまうと、後に修正する事は非常に困難になってしまう。





そして、そう言った育児で育った人が、国を作って行く・・・




集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 1)/古牧 和都