現状に満足していない者だけが他人に嫉妬する。
嫉妬するということはまだあなたが自分に、もしくは自分の置かれている状況に満足していないからである。
しかし人の成功を祝福できないものは人としては最低である。
人の喜びを見て、それを喜べないものは最低である。
そういう人が一人でもいれば、世界は悪い方向へ向かって行くだろう。
人の成功を見て、それを祝福し、人の幸福を共に喜ぶことが大切である。
自らが不遇の時、評価されない時、理不尽な目に遭う時、失意の時にこそ、成功者を祝福してほしい。
成功者を祝福し、人の幸福を自らの幸福としてほしい。
これがまず、人としてあるべき最低限の姿である。
私は苦しい時や気持ちが後ろ向きになったとき、毎回、英霊の言の葉を読んでいる。
英霊の思いを感じることで、涙を流すとともに、
必ずや彼らの名誉を取り戻して見せる。
そのために私はこの命を捧げようと、もう一度決意を新たにするのである。
日本の英霊たちがその命を引き換えに守った日本を必ず繁栄させると私は心に決めるのである。
300万の英霊の死を無駄になどしない、必ず勝利すると私は誓うのである。
この身は破れてよい。わが命はいらぬ。わが名誉などいらぬ。私など、いらぬ。
私一人の幸福などそんなものはいりません。
そんなものは溝に捨ててしまおう。
私は、この使命を達成することに命を懸けたい。私は、この命と引き換えにしてでも必ず名誉を取り返して見せる。300万の英霊の誇りを、名誉よ。日本の誇りを。魂を。
そして正しき神の名を。もう一度私は天照を日本の神々として取り戻す。
私は、そのために死んでもよいのだ。私の幸福などそんなものはいらぬ。なんとでも侮辱すればいい。なんとでも言えばいい。そんなものはいらぬ。ほしくない。
私の身など惜しむものか、私の名誉など溝に捨ててしまえ、誰かの評価などいらぬ。
私は、神から命を受けたのだ。私を捨てろ、己を捨て、その人生を日本のために、尽くせ。
と命を受けたのだ。そして私は誓ったのだ。300万の英霊の誇りを取り戻すためにこの命を使い果たすとそう誓ったのだ。私は破れることは無い。負けることは無い。
私は必ずこの命と引き換えに、私一人のつまらない幸福と引き換えに、使命を果たす。
日本のために命を懸けた人たちに、日本国民が感謝することすらできない。
それは悔しいことです。許せないことです。
あなた方日本人が彼ら先祖を犬死扱いしているのです。
許せないのです。
そして他国が、自分の国の先祖を慰霊することにまで口を挟む。
これは許せないのです。
これが内政干渉でなくてなんなのですか。
あなた方は、他国の国民の感情を損ねる云々言いますが、何よりも先祖の感情を損ねるでしょう。
どれほどその行為が自国の先祖を悲しませるか、考えたことがありますか。
内政干渉だとなぜ言えないのか。
神も仏もない、先祖も何もない。そういう考え方のどこに人間性があるというのですか。
私はこれが許せない。
自分たちのために戦って命を捧げた先祖に対して、頭を垂れることさえできなくてもそれでも人間か、血が通っているのか。と私は問いたいのです。
時間はかかったとしても必ずや私はあなた方の無念を晴らして見せる。
私は必ずあなた方の無念を晴らして見せる。
あなた方の死が、大いなる意味があったこと、価値があったことを私はこの命を懸けて証明してみせる。
英霊の思いを感じることで、涙を流すとともに、
必ずや彼らの名誉を取り戻して見せる。
そのために私はこの命を捧げようと、もう一度決意を新たにするのである。
日本の英霊たちがその命を引き換えに守った日本を必ず繁栄させると私は心に決めるのである。
300万の英霊の死を無駄になどしない、必ず勝利すると私は誓うのである。
この身は破れてよい。わが命はいらぬ。わが名誉などいらぬ。私など、いらぬ。
私一人の幸福などそんなものはいりません。
そんなものは溝に捨ててしまおう。
私は、この使命を達成することに命を懸けたい。私は、この命と引き換えにしてでも必ず名誉を取り返して見せる。300万の英霊の誇りを、名誉よ。日本の誇りを。魂を。
そして正しき神の名を。もう一度私は天照を日本の神々として取り戻す。
私は、そのために死んでもよいのだ。私の幸福などそんなものはいらぬ。なんとでも侮辱すればいい。なんとでも言えばいい。そんなものはいらぬ。ほしくない。
私の身など惜しむものか、私の名誉など溝に捨ててしまえ、誰かの評価などいらぬ。
私は、神から命を受けたのだ。私を捨てろ、己を捨て、その人生を日本のために、尽くせ。
と命を受けたのだ。そして私は誓ったのだ。300万の英霊の誇りを取り戻すためにこの命を使い果たすとそう誓ったのだ。私は破れることは無い。負けることは無い。
私は必ずこの命と引き換えに、私一人のつまらない幸福と引き換えに、使命を果たす。
日本のために命を懸けた人たちに、日本国民が感謝することすらできない。
それは悔しいことです。許せないことです。
あなた方日本人が彼ら先祖を犬死扱いしているのです。
許せないのです。
そして他国が、自分の国の先祖を慰霊することにまで口を挟む。
これは許せないのです。
これが内政干渉でなくてなんなのですか。
あなた方は、他国の国民の感情を損ねる云々言いますが、何よりも先祖の感情を損ねるでしょう。
どれほどその行為が自国の先祖を悲しませるか、考えたことがありますか。
内政干渉だとなぜ言えないのか。
神も仏もない、先祖も何もない。そういう考え方のどこに人間性があるというのですか。
私はこれが許せない。
自分たちのために戦って命を捧げた先祖に対して、頭を垂れることさえできなくてもそれでも人間か、血が通っているのか。と私は問いたいのです。
時間はかかったとしても必ずや私はあなた方の無念を晴らして見せる。
私は必ずあなた方の無念を晴らして見せる。
あなた方の死が、大いなる意味があったこと、価値があったことを私はこの命を懸けて証明してみせる。
とても単純なことです。
Give&takeではなく、giveなのです。
報酬を求めず、見返りを求めずまず与えるのです。このことを忘れてはなりません。
何かを求めて、見返りがないと思ったらやらないのでは意味がありません。
見返りなど求めずにまず自分でやるのです。
世の為人の為に正しいことを行うのです。
そういう正しいことを行えばそれは将来の自分への自己投資でもあるのです。
世の中に役に立つことをすれば、それは必ず未来の自分を助けてくれるのです。
そう信じてください。
誰かが与えてくれるものではなく、自ら与えるものなのです。
幸福を誰かから与えてもらおう、と思っているうちは、決して幸福にはなれないのです。
自らの手で幸福を生産しようと思って幸福を生産しそれを出荷することが大切なのです。
Give&takeではなく、giveなのです。
報酬を求めず、見返りを求めずまず与えるのです。このことを忘れてはなりません。
何かを求めて、見返りがないと思ったらやらないのでは意味がありません。
見返りなど求めずにまず自分でやるのです。
世の為人の為に正しいことを行うのです。
そういう正しいことを行えばそれは将来の自分への自己投資でもあるのです。
世の中に役に立つことをすれば、それは必ず未来の自分を助けてくれるのです。
そう信じてください。
誰かが与えてくれるものではなく、自ら与えるものなのです。
幸福を誰かから与えてもらおう、と思っているうちは、決して幸福にはなれないのです。
自らの手で幸福を生産しようと思って幸福を生産しそれを出荷することが大切なのです。
自分がやりたいと思うことは自分一人でやらないといけない。
一人では大きなことはできないと思っている人、自分が全力を出す前に人の助けを求めるものを助けたいと思うものはいない。
たとえ誰も協力してくれなくとも、どんなに邪魔をされても私はこれを一人でもやる
と思っていればできるのです。
周りの人が協力してくれて当然である、邪魔しないで当然であると考えるとなかなかうまくいかないのです。
ですから自分の努力以上に自分の夢のために誰かが努力してくれることはありません。
「これはあなたがやりたいと思ったのでしょう。
ならばあなたがやりなさい。一人でやりなさい。」
まずそう言われるでしょう。
一人ではできないと言う人に協力を申し出たいと思う人はいないのです。
貴方以上に頑張る人はいないのです。
たとえ部下が上司が私を邪魔しても、どんなに怠けても私はこれをやりきるのだと心に決めれば、
もはや、そこには敵などいないのです。
敵は己の心それだけなのです。
一人では大きなことはできないと思っている人、自分が全力を出す前に人の助けを求めるものを助けたいと思うものはいない。
たとえ誰も協力してくれなくとも、どんなに邪魔をされても私はこれを一人でもやる
と思っていればできるのです。
周りの人が協力してくれて当然である、邪魔しないで当然であると考えるとなかなかうまくいかないのです。
ですから自分の努力以上に自分の夢のために誰かが努力してくれることはありません。
「これはあなたがやりたいと思ったのでしょう。
ならばあなたがやりなさい。一人でやりなさい。」
まずそう言われるでしょう。
一人ではできないと言う人に協力を申し出たいと思う人はいないのです。
貴方以上に頑張る人はいないのです。
たとえ部下が上司が私を邪魔しても、どんなに怠けても私はこれをやりきるのだと心に決めれば、
もはや、そこには敵などいないのです。
敵は己の心それだけなのです。
人から愛されないと思うことは誰でもよくある。
大体人間の悩みの多くはここにつながってきます。
つまり、愛を感じないということでしょう。
人から愛されないと思うことは誰でもよくあります。
正確に言うと自分の思うようには人は自分を考えてくれないということです。
人に理解されない。人に評価されない、わかってもらえない、誤解される。そういう苦しみはあります。
愛だとおもっていたらそれが1年後には消えてなくなったりもします。
しかし、愛されたいと叫び続けている人は少し視野が狭いのです。
こういうことは些細なことなのです。
自分が愛されなければ幸せになれないと言い続けている限りいつまでも幸せになれないのです
世の中には親に愛されない人もいます。
子供に愛されない親もいます。
恋人ができない人もいます。
いろいろな不満はあります。
しかし、この人に愛されない限り自分は幸せになれないと思うことは間違いです。
それは精神的な依存状態です。
どうかもう少し視野を広くしてください。人から愛されないことくらいいくらでもあります。
星の数ほどあるのです。
でもそれは当然のことなのです。
まぁいいじゃないか、別に愛されなくてもいいやと、開き直りましょう。
そういうことを思い詰めても意味がありません。
色々なものを欲しいと思います。でも別になくてもいいと思えば、済むのです。
なぜ苦しむのかと言えば、それがないと不幸だと思うからです。
必要だと思うから苦しいのです。
小さなものなのです。私たちは1年前にどんなものが欲しかったか、ましては10年前に何を求めていたいか、それはもう覚えていません。
全ては流れていくのです。欲望も流れていくのです。
一瞬一瞬を見れば、欲望を確実に満たしていく人々が成功者のように見えます。そして彼らに嫉妬することもあるでしょう。
しかしそれは局地戦での成功者です。
小さいころに運動会で優勝したとか、中学部の時にテストでいい点数を取ったとか、赤点をとったとかそういうことがどれくらい今の自分の幸不幸を左右しているでしょうか。
長い目で見れば、欲望を満たすことが幸福な人生になるとも限らないのです。
小さな勝負で負けてもいいのです。
韓信の股くぐりという故事があります。別に負けてもよい戦いには負けていいのです。
人間は小さな勝負に勝つことばかり追い求めて、人生の勝利を逃すのです。
局地戦で勝利して自分は成功者だと思っていたつもりが実は、最終決戦の準備が進んでいないことがあるのです。
人生には何度かの決戦があるでしょう。この決戦に勝利することが人生の成否をきめるのです。決して小さな局地戦ではありません。
では、あなたにとっての決戦とはなんでしょうか。それは人それぞれ違うでしょう。
まず自分にとってどうすることが人生の勝利と言えるのかを考える必要があります。
自分にとって何をすることが生きる意味なのかを考えなければなりません。
これがその人にとっての決戦になります。
そしてその決戦の勝利を確実にするためにはつまらないものを捨てなければなりません。
局地戦での敗退や屈辱も甘んじて受けいれる必要が出てきます。
しかし、しっかりと決戦の準備をすることです。夢を実現する準備をすることが大切なのです。
これは簡単なことです。でも人間は日々の欲望に振り回されて、自分が何をしたかったのか、自分の夢は何か、ということさえわからずに死んでいくのです。
欲望の追求が本当の自分の望むことなのかということを考えてください。
本当にそれが、あなたの夢なのか、希望なのか、心からそれを望んでいるのか。
それがあなたの生きている意味なのか。
人生は長いと勘違いして、結局一日一日を浪費していくのです。大して何もできない日々を繰り返して、気が付いたら老人になってしまうのです。
なぜ自己実現ができないのかと言えば、まず、自分が何をしたいのか、がわからないからです。目の前の欲望追求を自分のしたいことと勘違いしているからです。
その勘違いに気が付かないまま死んでしまう人もいます。
死を考えてください。
死を考えたとき、そこには何が残りますか。
そこには限りある未来があるのです。
日々失われる時間があるのです。
死を考えることで、私たちは、限りある時間を実感できるのです。
人生という戦いにおいて、局地戦ではなく、決定的な勝利を掴むべきです。
そのためには、戦略と力の配分が必要です。
人間に与えられた時間は誰も等しく1日24時間です。
従って、その時間をどう使うかは各人の自由です。
その時間を大して意味のないことや自分の自己実現に寄与しない時間にばかり費やしていたら、何もなれません。
大して何もできないまま死んでしまうのです。
まずここに戦略が必要なのです。欲望を見極め、何が本当に自分の幸福につながるのか、理想の実現につながるのかを見つめなおし、不要な欲望は理性の力で切り捨てていかなければなりません。
大体人間の悩みの多くはここにつながってきます。
つまり、愛を感じないということでしょう。
人から愛されないと思うことは誰でもよくあります。
正確に言うと自分の思うようには人は自分を考えてくれないということです。
人に理解されない。人に評価されない、わかってもらえない、誤解される。そういう苦しみはあります。
愛だとおもっていたらそれが1年後には消えてなくなったりもします。
しかし、愛されたいと叫び続けている人は少し視野が狭いのです。
こういうことは些細なことなのです。
自分が愛されなければ幸せになれないと言い続けている限りいつまでも幸せになれないのです
世の中には親に愛されない人もいます。
子供に愛されない親もいます。
恋人ができない人もいます。
いろいろな不満はあります。
しかし、この人に愛されない限り自分は幸せになれないと思うことは間違いです。
それは精神的な依存状態です。
どうかもう少し視野を広くしてください。人から愛されないことくらいいくらでもあります。
星の数ほどあるのです。
でもそれは当然のことなのです。
まぁいいじゃないか、別に愛されなくてもいいやと、開き直りましょう。
そういうことを思い詰めても意味がありません。
色々なものを欲しいと思います。でも別になくてもいいと思えば、済むのです。
なぜ苦しむのかと言えば、それがないと不幸だと思うからです。
必要だと思うから苦しいのです。
小さなものなのです。私たちは1年前にどんなものが欲しかったか、ましては10年前に何を求めていたいか、それはもう覚えていません。
全ては流れていくのです。欲望も流れていくのです。
一瞬一瞬を見れば、欲望を確実に満たしていく人々が成功者のように見えます。そして彼らに嫉妬することもあるでしょう。
しかしそれは局地戦での成功者です。
小さいころに運動会で優勝したとか、中学部の時にテストでいい点数を取ったとか、赤点をとったとかそういうことがどれくらい今の自分の幸不幸を左右しているでしょうか。
長い目で見れば、欲望を満たすことが幸福な人生になるとも限らないのです。
小さな勝負で負けてもいいのです。
韓信の股くぐりという故事があります。別に負けてもよい戦いには負けていいのです。
人間は小さな勝負に勝つことばかり追い求めて、人生の勝利を逃すのです。
局地戦で勝利して自分は成功者だと思っていたつもりが実は、最終決戦の準備が進んでいないことがあるのです。
人生には何度かの決戦があるでしょう。この決戦に勝利することが人生の成否をきめるのです。決して小さな局地戦ではありません。
では、あなたにとっての決戦とはなんでしょうか。それは人それぞれ違うでしょう。
まず自分にとってどうすることが人生の勝利と言えるのかを考える必要があります。
自分にとって何をすることが生きる意味なのかを考えなければなりません。
これがその人にとっての決戦になります。
そしてその決戦の勝利を確実にするためにはつまらないものを捨てなければなりません。
局地戦での敗退や屈辱も甘んじて受けいれる必要が出てきます。
しかし、しっかりと決戦の準備をすることです。夢を実現する準備をすることが大切なのです。
これは簡単なことです。でも人間は日々の欲望に振り回されて、自分が何をしたかったのか、自分の夢は何か、ということさえわからずに死んでいくのです。
欲望の追求が本当の自分の望むことなのかということを考えてください。
本当にそれが、あなたの夢なのか、希望なのか、心からそれを望んでいるのか。
それがあなたの生きている意味なのか。
人生は長いと勘違いして、結局一日一日を浪費していくのです。大して何もできない日々を繰り返して、気が付いたら老人になってしまうのです。
なぜ自己実現ができないのかと言えば、まず、自分が何をしたいのか、がわからないからです。目の前の欲望追求を自分のしたいことと勘違いしているからです。
その勘違いに気が付かないまま死んでしまう人もいます。
死を考えてください。
死を考えたとき、そこには何が残りますか。
そこには限りある未来があるのです。
日々失われる時間があるのです。
死を考えることで、私たちは、限りある時間を実感できるのです。
人生という戦いにおいて、局地戦ではなく、決定的な勝利を掴むべきです。
そのためには、戦略と力の配分が必要です。
人間に与えられた時間は誰も等しく1日24時間です。
従って、その時間をどう使うかは各人の自由です。
その時間を大して意味のないことや自分の自己実現に寄与しない時間にばかり費やしていたら、何もなれません。
大して何もできないまま死んでしまうのです。
まずここに戦略が必要なのです。欲望を見極め、何が本当に自分の幸福につながるのか、理想の実現につながるのかを見つめなおし、不要な欲望は理性の力で切り捨てていかなければなりません。
特に若いころにおいては、どれだけ人から愛されたか、愛されているかということが人の価値のように見えることがある。
同性異性を問わず、人気があること、大切にされることがとても価値のあることのように思える。
しかし、実際のところ、我々は人から愛されるために生まれてきたわけではないし、人から愛されることが生きる目的にはならないはずである。
人を愛するということの価値を感じてほしいと思います。
人を愛することにこそ本当の価値があり、人を深く愛せる人こそ、本当に素晴らしい人なのだと知ってほしいと思います。
人からあれをしてもらった、これをしてもらったと指折り数えても、そこに価値はないのです。
そうではなく、あなたはどれだけ人を愛し人の為に行動したのか。
その一点のみにおいてその人の価値が計られるのです。
人から愛されないことを恥じたりすることはありません。そんなものに本当の愛はないのです。本当の愛は、人を愛するその瞬間にあるのです。
私たちが愛を語るときその多くの場合において愛は誤解されます。双方向性の愛。
つまり、私が愛するのと同じだけあなたにも私を愛してほしいという条件が付きます。
これは、銀行と同じです。貸した金額に利息を付けて返してほしい。返せないのならば貸せないという風になります。
相手から見返りを求めている以上は、深く人を愛することはできないのです。
相手から、何の見返りもないことを前提として人を愛することが出来るか、
相手から全く愛情をもらえないと知っていても愛すること。いやそもそも何の見返りも求めないことが愛であり、もしそこに打算的なものが含まれればそれは愛ではなくなります。
今日、愛というものが間違って解釈されており、その多くに見返りを求める心があります。
しかし愛とは、無償だからこそ愛なのです。あの太陽のようなものです。
ひたすらに与えるからこそ愛は愛であるのです。
同性異性を問わず、人気があること、大切にされることがとても価値のあることのように思える。
しかし、実際のところ、我々は人から愛されるために生まれてきたわけではないし、人から愛されることが生きる目的にはならないはずである。
人を愛するということの価値を感じてほしいと思います。
人を愛することにこそ本当の価値があり、人を深く愛せる人こそ、本当に素晴らしい人なのだと知ってほしいと思います。
人からあれをしてもらった、これをしてもらったと指折り数えても、そこに価値はないのです。
そうではなく、あなたはどれだけ人を愛し人の為に行動したのか。
その一点のみにおいてその人の価値が計られるのです。
人から愛されないことを恥じたりすることはありません。そんなものに本当の愛はないのです。本当の愛は、人を愛するその瞬間にあるのです。
私たちが愛を語るときその多くの場合において愛は誤解されます。双方向性の愛。
つまり、私が愛するのと同じだけあなたにも私を愛してほしいという条件が付きます。
これは、銀行と同じです。貸した金額に利息を付けて返してほしい。返せないのならば貸せないという風になります。
相手から見返りを求めている以上は、深く人を愛することはできないのです。
相手から、何の見返りもないことを前提として人を愛することが出来るか、
相手から全く愛情をもらえないと知っていても愛すること。いやそもそも何の見返りも求めないことが愛であり、もしそこに打算的なものが含まれればそれは愛ではなくなります。
今日、愛というものが間違って解釈されており、その多くに見返りを求める心があります。
しかし愛とは、無償だからこそ愛なのです。あの太陽のようなものです。
ひたすらに与えるからこそ愛は愛であるのです。
人間の目には、「人から愛された」ということが素晴らしいこと。価値があること。
のように見えるかもしれません。
しかし、愛とは、人から愛されることではないでしょう。
やはりその人の価値を決めるのはどれだけ「人を愛したか」
見返りを求めずひたすら愛したか、
というその1点に尽きるでしょう。
そういう人を愛することのできる人が尊敬されるような社会であるべきです。
人を心から愛せる人に憧れを持てることが素晴らしいことです。
その価値観が倒錯して、人からたくさん愛される人が素晴らしい人のように見えるのですが、実際はそうではないのです。
人を愛することに価値を見出してください。
10人から親切にされたということを誇るのではなく、10人に親切なことをしたことを誇る自分でいてほしいと思います。
そしてその10人から感謝されないとしても惨めな気持ちにならないでください。
何か見返りを求めた瞬間にそれは、愛情ではなくて、貿易になるのです。
何かをもらうために人に親切にするのならばもうその時点でそれは親切ではないのです。
与えた瞬間にすべてが完結するのです。
愛した瞬間で、そこに愛があるのです。
たとえ何の感謝をされずとも、人に親切であり続ける人が人生の勝者なのです。
イエスの言葉に、「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」というものがあります。
この言葉に真実があるのです。
人から責められることは、関係がないのです。愛することに相手から感謝されるかどうか、気づかれるかどうかということ関係がないのです。
自らすべてをただ渡すのです。何の見返りも求めずただ与えることが出来る人が本当に偉大な人なのです。
のように見えるかもしれません。
しかし、愛とは、人から愛されることではないでしょう。
やはりその人の価値を決めるのはどれだけ「人を愛したか」
見返りを求めずひたすら愛したか、
というその1点に尽きるでしょう。
そういう人を愛することのできる人が尊敬されるような社会であるべきです。
人を心から愛せる人に憧れを持てることが素晴らしいことです。
その価値観が倒錯して、人からたくさん愛される人が素晴らしい人のように見えるのですが、実際はそうではないのです。
人を愛することに価値を見出してください。
10人から親切にされたということを誇るのではなく、10人に親切なことをしたことを誇る自分でいてほしいと思います。
そしてその10人から感謝されないとしても惨めな気持ちにならないでください。
何か見返りを求めた瞬間にそれは、愛情ではなくて、貿易になるのです。
何かをもらうために人に親切にするのならばもうその時点でそれは親切ではないのです。
与えた瞬間にすべてが完結するのです。
愛した瞬間で、そこに愛があるのです。
たとえ何の感謝をされずとも、人に親切であり続ける人が人生の勝者なのです。
イエスの言葉に、「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。」というものがあります。
この言葉に真実があるのです。
人から責められることは、関係がないのです。愛することに相手から感謝されるかどうか、気づかれるかどうかということ関係がないのです。
自らすべてをただ渡すのです。何の見返りも求めずただ与えることが出来る人が本当に偉大な人なのです。
若い人にとっての大きな関心事は、仕事で評価されたり、異性から人気があったり、友達がおおかったり、
特に男女問わず人気がある人が価値のある人のように思える。
若いころはそう思えることが多々あります。
特にリア充と言ってこういう人が理想形とされることもあります。
同性にも異性にも人気があり、友人としても恋人としても魅力を感じられることが、ステータスのようになります。
これは逆を言えば、若いころは評価が固まらないからでもあるのです。
例えば、50歳になってその人はどういう人かということを考えたときに、そこには、人から人気があるという項目はそこまで重視されず、その人がどういう生き方をしてきたかという生き方で語ることができます。
例え、どれほど能力のある人でも若いころは何も持っていません。
何かの実績もなく真っ白なのです。
ですから、わかりやすい人気がそのまま人間の価値基準になります。
特に異性問題というのは優秀な人でもなかなか苦しい部分があり、とても賢く優れた人でも、必ずしも異性から人気が出るとも限らないのです。
かなりの面を、わかりやすい性格や容姿、というもので左右されるでしょう。
性格というものは分かりやすい面もあれば、わかりにくい面もあるのです。
本当に長い間付き合って初めてその人の性格がわかることも多々あります。
1年一緒にいてもわからないけれども5年一緒にいればわかることも多々あります。
つまりこういう本当の性格というものは短期的には見えず、心の中で腹黒いことを考えていてもわからないのです。
ですから、あまり若いころの評価、他人からどう見られるかということを気にすることは無いのです。
自分を認めてくれない人だらけです。
自分をしっかりと理解してくれるのはその実自分だけなのです。
自分が自分の裏も表も知っている。その上で自分を肯定的に評価できれば、それでいいのです。
あまり、一喜一憂しないでください。
若いころの挫折や屈辱というものはあります。しかしこれらは、一瞬のものです。
例えばおもちゃ売り場で、欲しいおもちゃが手に入らずに泣き叫ぶ幼児を思い出してください。
皆さんも一度は見たことがあるでしょう。
大人の目からすれば、それは虐待行為でもなんでもないのです。
そんなつまらないものを手に入れても大して価値がないことをわかっているから、
私たちは親を責めることはないのです。
こんな子供だましのおもちゃ一つ買ってもらわなくても別にその子の幸不幸には関係がないと思っているからです。
しかし、大人でも同じことをしている人はたくさんいます。
人を好きになって、別れたくないと喚いてみたり、同期が先に出世して怒り狂ったり、こんな馬鹿な話が沢山あります。
つまり、それは一瞬のことなのです。長い人生から見れば、
それらの小さな欲望を満たす、満たさないということは、その人の幸不幸にはほとんど関係ないのです。
逆に欲望が満たされすぎると人は勘違いします。勘違いしてとんでもない人になることもあります。
自分が優れていると勘違いして努力する人を馬鹿にしたり、何でもできると勘違いするのです。
こういう人になれば必ず大失敗するでしょう。
ですから欲望が満たされず、挫折することが長期的に良いこともあるのです。
万事塞翁が馬と言います。小さな目で自分の幸不幸を、運を考えないでください。
そして私たちが悩んでいることの殆どすべては、1年もたてば、消え去ることがほとんどです。
私たちが悩むのはつまらない自分の欲望を満たすために、つまらないことで悩むことがほとんどなのです。
ところがそうやって一生を終えれば、その人には何が残るでしょうか。
その人には、只欲望に振り回された一生が残るのです。
果たして人間は、欲望の奴隷となるために生まれてきたのでしょうか。
それがその人の生まれた意味だったのでしょうか。
つまり欲望は尽きることがないし、欲望を満たしても幸福にはならず、それは塩水を飲むようなもので、一瞬の快楽しかないのです。
その一瞬の快楽を得るために、人生を使うことを果たして良いことなのか。
そこに後悔はないのか。
ましては欲望を満たすために、多くの人を痛めつけ、苦しめたとしたらそこには、何がのこるでしょうか。
そこには、多くの人を苦しめるために生まれてきた。という事実しか残りません。
果たしてそれが幸福なのでしょうか。
私たちはその多くの欲望を満たすものを見れば、羨ましいと嫉妬します。
しかし、欲望をいくら満たしても幸福になどなれないのです。
塩水を飲み続ける人にあこがれる意味がありますか?
そうではなく、真水を求めなければならないのです。
欲望から解放されるためには、まず欲望を満たすことは幸福にはならないという事実を
認めることが大切です。
欲望などというものは一生消えないし、尽きないのだ。
だからこそそれを積極的に追い求めるのではなく、
むしろそれらを超越したものを求めるべきなのです。
欲望に振り回され、日々を棒に振るのは、愚かなことです。
一生を振り返り、その時に自らの幸福感になんら寄与しないがらくたを集めても意味がないのです。それは誇りある死を迎えることはできません。
かつて宗教があった自体には、それらは多くの場合死後の世界を示してくれました。
しかし今日においては先進国を中心に無神論が増えています。
つまり人間とは死んだらそれでおしまい。死ねば終わり。という考え方です。
それでは、目先の快楽を追求しよう。という快楽主義者の言い分もわからないではありません。どうせ死んでしまって消えるのならば、確かに今自分ができることは、この世界で自らの欲望を追求することだと言っても、否定できません。
悪を為しても地獄に落ちないと言われたならば、それは悪への免罪符になります。
悪をして地獄に堕ちると言われば、悪いことはできませんが、
地獄などない。と思えば何でもできます。ばれなければ、何でもできると思うのも仕方のない面があるでしょう。
日本においては宗教というものは画一的に、その価値が理解されていませんが、
宗教には人が無制限に堕落することを制限し、モラルを守るという側面もあるのです。
特に男女問わず人気がある人が価値のある人のように思える。
若いころはそう思えることが多々あります。
特にリア充と言ってこういう人が理想形とされることもあります。
同性にも異性にも人気があり、友人としても恋人としても魅力を感じられることが、ステータスのようになります。
これは逆を言えば、若いころは評価が固まらないからでもあるのです。
例えば、50歳になってその人はどういう人かということを考えたときに、そこには、人から人気があるという項目はそこまで重視されず、その人がどういう生き方をしてきたかという生き方で語ることができます。
例え、どれほど能力のある人でも若いころは何も持っていません。
何かの実績もなく真っ白なのです。
ですから、わかりやすい人気がそのまま人間の価値基準になります。
特に異性問題というのは優秀な人でもなかなか苦しい部分があり、とても賢く優れた人でも、必ずしも異性から人気が出るとも限らないのです。
かなりの面を、わかりやすい性格や容姿、というもので左右されるでしょう。
性格というものは分かりやすい面もあれば、わかりにくい面もあるのです。
本当に長い間付き合って初めてその人の性格がわかることも多々あります。
1年一緒にいてもわからないけれども5年一緒にいればわかることも多々あります。
つまりこういう本当の性格というものは短期的には見えず、心の中で腹黒いことを考えていてもわからないのです。
ですから、あまり若いころの評価、他人からどう見られるかということを気にすることは無いのです。
自分を認めてくれない人だらけです。
自分をしっかりと理解してくれるのはその実自分だけなのです。
自分が自分の裏も表も知っている。その上で自分を肯定的に評価できれば、それでいいのです。
あまり、一喜一憂しないでください。
若いころの挫折や屈辱というものはあります。しかしこれらは、一瞬のものです。
例えばおもちゃ売り場で、欲しいおもちゃが手に入らずに泣き叫ぶ幼児を思い出してください。
皆さんも一度は見たことがあるでしょう。
大人の目からすれば、それは虐待行為でもなんでもないのです。
そんなつまらないものを手に入れても大して価値がないことをわかっているから、
私たちは親を責めることはないのです。
こんな子供だましのおもちゃ一つ買ってもらわなくても別にその子の幸不幸には関係がないと思っているからです。
しかし、大人でも同じことをしている人はたくさんいます。
人を好きになって、別れたくないと喚いてみたり、同期が先に出世して怒り狂ったり、こんな馬鹿な話が沢山あります。
つまり、それは一瞬のことなのです。長い人生から見れば、
それらの小さな欲望を満たす、満たさないということは、その人の幸不幸にはほとんど関係ないのです。
逆に欲望が満たされすぎると人は勘違いします。勘違いしてとんでもない人になることもあります。
自分が優れていると勘違いして努力する人を馬鹿にしたり、何でもできると勘違いするのです。
こういう人になれば必ず大失敗するでしょう。
ですから欲望が満たされず、挫折することが長期的に良いこともあるのです。
万事塞翁が馬と言います。小さな目で自分の幸不幸を、運を考えないでください。
そして私たちが悩んでいることの殆どすべては、1年もたてば、消え去ることがほとんどです。
私たちが悩むのはつまらない自分の欲望を満たすために、つまらないことで悩むことがほとんどなのです。
ところがそうやって一生を終えれば、その人には何が残るでしょうか。
その人には、只欲望に振り回された一生が残るのです。
果たして人間は、欲望の奴隷となるために生まれてきたのでしょうか。
それがその人の生まれた意味だったのでしょうか。
つまり欲望は尽きることがないし、欲望を満たしても幸福にはならず、それは塩水を飲むようなもので、一瞬の快楽しかないのです。
その一瞬の快楽を得るために、人生を使うことを果たして良いことなのか。
そこに後悔はないのか。
ましては欲望を満たすために、多くの人を痛めつけ、苦しめたとしたらそこには、何がのこるでしょうか。
そこには、多くの人を苦しめるために生まれてきた。という事実しか残りません。
果たしてそれが幸福なのでしょうか。
私たちはその多くの欲望を満たすものを見れば、羨ましいと嫉妬します。
しかし、欲望をいくら満たしても幸福になどなれないのです。
塩水を飲み続ける人にあこがれる意味がありますか?
そうではなく、真水を求めなければならないのです。
欲望から解放されるためには、まず欲望を満たすことは幸福にはならないという事実を
認めることが大切です。
欲望などというものは一生消えないし、尽きないのだ。
だからこそそれを積極的に追い求めるのではなく、
むしろそれらを超越したものを求めるべきなのです。
欲望に振り回され、日々を棒に振るのは、愚かなことです。
一生を振り返り、その時に自らの幸福感になんら寄与しないがらくたを集めても意味がないのです。それは誇りある死を迎えることはできません。
かつて宗教があった自体には、それらは多くの場合死後の世界を示してくれました。
しかし今日においては先進国を中心に無神論が増えています。
つまり人間とは死んだらそれでおしまい。死ねば終わり。という考え方です。
それでは、目先の快楽を追求しよう。という快楽主義者の言い分もわからないではありません。どうせ死んでしまって消えるのならば、確かに今自分ができることは、この世界で自らの欲望を追求することだと言っても、否定できません。
悪を為しても地獄に落ちないと言われたならば、それは悪への免罪符になります。
悪をして地獄に堕ちると言われば、悪いことはできませんが、
地獄などない。と思えば何でもできます。ばれなければ、何でもできると思うのも仕方のない面があるでしょう。
日本においては宗教というものは画一的に、その価値が理解されていませんが、
宗教には人が無制限に堕落することを制限し、モラルを守るという側面もあるのです。
若いころは、なかなかその人の内面は評価されない。
外見的にわかりやすい部分が評価されるし、潜在値よりも顕在値が当然評価される。
ですから潜在的に能力を持っている人でも、小さなことで劣等感を感じたりするものである。劣等感というのは、9割くらいの人は感じているのではないだろうか。特に若いうちには必ずと言っていいほど感じるものである。
それは例えば東大に進学しても、頭が悪いと感じることはあるし、かなりの美人でも、自分より美しい人、人気のある人を前にして劣等感を感じることはある。
しかしながら、こういうわかりやすい部分で人と競う必要はない。
ただひたすらに、自分を磨くほかない。
それは忍耐である。ただひたすらに人の目を気にせずに自分を磨くほかない。
自分という鉱脈にダイヤモンドがあると信じて汗水を垂らしながら掘り続けるしかない。
自分には必ずダイヤモンドが埋まっているのだと信じて磨くしかない。
ここで自分を信じるという努力が必要になる。
ひたすらに自分の可能性だけを信じ、努力に努力を重ねる。
これはまさしく修行である。
その道には様々な誘惑があり、妥協がある。そして、諸々の失敗と挫折がある。
しかしながらそれらを乗り越えていくことこそが、その人の真価である。
苦しみの中にあって落ち込むことはたやすい。しかしその苦しみの中で次の光を見つけていくことこそが大切なのであり、雨が降ろうが、雪が降ろうが、着実な一日を積み重ねていくことが大切である。
何よりもまず自分は素晴らしい人間であると信じることである。
まずそう信じて疑わないことだ。
そういう素晴らしい自分、磨けば玉のように光り輝く自分であるからこそ、
人は自分に賭けてみよう。自分を高めていこうと思うのである。
そこにがらくたしかないと思えば努力などできるものではない。それは本当に無駄に思える。
まず、自分は素晴らしい人だ。価値のある人だ。どこまでも伸びていくのだとそう信じることです。
外見的にわかりやすい部分が評価されるし、潜在値よりも顕在値が当然評価される。
ですから潜在的に能力を持っている人でも、小さなことで劣等感を感じたりするものである。劣等感というのは、9割くらいの人は感じているのではないだろうか。特に若いうちには必ずと言っていいほど感じるものである。
それは例えば東大に進学しても、頭が悪いと感じることはあるし、かなりの美人でも、自分より美しい人、人気のある人を前にして劣等感を感じることはある。
しかしながら、こういうわかりやすい部分で人と競う必要はない。
ただひたすらに、自分を磨くほかない。
それは忍耐である。ただひたすらに人の目を気にせずに自分を磨くほかない。
自分という鉱脈にダイヤモンドがあると信じて汗水を垂らしながら掘り続けるしかない。
自分には必ずダイヤモンドが埋まっているのだと信じて磨くしかない。
ここで自分を信じるという努力が必要になる。
ひたすらに自分の可能性だけを信じ、努力に努力を重ねる。
これはまさしく修行である。
その道には様々な誘惑があり、妥協がある。そして、諸々の失敗と挫折がある。
しかしながらそれらを乗り越えていくことこそが、その人の真価である。
苦しみの中にあって落ち込むことはたやすい。しかしその苦しみの中で次の光を見つけていくことこそが大切なのであり、雨が降ろうが、雪が降ろうが、着実な一日を積み重ねていくことが大切である。
何よりもまず自分は素晴らしい人間であると信じることである。
まずそう信じて疑わないことだ。
そういう素晴らしい自分、磨けば玉のように光り輝く自分であるからこそ、
人は自分に賭けてみよう。自分を高めていこうと思うのである。
そこにがらくたしかないと思えば努力などできるものではない。それは本当に無駄に思える。
まず、自分は素晴らしい人だ。価値のある人だ。どこまでも伸びていくのだとそう信じることです。
優秀さは評価されるとは限らない。
この事実は、優秀な人間にとって初期の最大の試練でもある。
優秀な人間は自分が優秀だということがわかる。
それを知っているからこそ、それの事実が社会に浸透していないことが許せない。
自分は優秀なのに、なぜ世界はそれを認めないのかと考える。
それが理不尽だと思う。
こうやって最初の悩みが出現する。
特に人生の最初期においては、外見や、家柄、生まれた時の頭脳などで評価されることが多い。優秀な人であってもそれがなかなかわからない。
人生の最初期においてはその人の真価は評価できず、顕在化している部分ばかりが強調される。
例えば、我々が幼少期のリンカーンに出会ったとしても彼がそれほど偉大な人だとはわからないだろう。それはやはりその人が死ぬ時までわからないのである。
若いうちは、忍耐の時代が続くだろう。優秀であるという自覚が強ければ強いほどそれを理解できない人々に対しての怒りが溜まるだろう。しかし弛まず努力をするほかはない。
優秀ならば最初はこのような試練が必ずあるのだ。
しかし、人に認めらないということはまた一つのモチベーションになるのである。
人に評価されてしまうと人はそこで満足してしまい努力を厭うようになる。
「認められないことはおかしい」という感情がまた自分を高めるためのモチベーションにもなるのである。
その時にさまざまな方法がとられる。
①人を相対的に下げて、自分の価値を高めようとする。
これは、比較的簡単な方法である。人の価値を下げることで、自分の価値をたかめることできる。そのように感じることができる。しかしこれは一時的な自己満足にしかならない。
優秀な人には他人の弱点や欠点などすぐにわかる。人を責め立てて屈服させることは容易である。弱いものを攻撃することは簡単である。効果的に痛めつけることができる。
しかしこういう方法ではいつまでたっても自分の能力は向上しないし、嫌な人だと嫌われるようになる。自分の劣等感を満たすために、自己満足のために人を攻撃するのはあまりお勧めできない。そういう人はだんだんと人からさらに疎まれていく。
②何かの権威を求める。
これは学生時代には学歴に向かうだろう。自分の優秀さの証明として、どれだけ偏差値の高い大学に進学するかということを競う。しかしどれほど優秀な大学に行ったとしてもその劣等感は満たされることはない。大学に進学すれば、自分よりも優秀な人がたくさんいることを知るだけだ。自分と同じような人は山ほどいると気づくだけである。
そして大学という勲章をひけらかせば、ひけらかすほど、嫌われていく。
そのほかに弁護士や、医者などいろいろな資格を求める人もいる。
有名な会社を求める人もいる。
しかしその多くの試みは失敗する。
本当に人を医療の分野ですくいたいという熱い情熱があればこそ、医者になれる。
しかし自分は本当は医者の仕事には興味がないが、ただ自分の劣等感を満たすためになったという人に診てほしいと思う患者はいるだろうか。
自分の心を捻じ曲げて、自分の夢を変節させてまで劣等感を克服する意味はあるだろうか。
人に評価されることをあきらめる。
優秀な人は認められるべきだ。
というのは確かに素晴らしい理想である。確かに素晴らしい。
しかしこれは理想でしかない。
あのイエスが、十字架にかかったことを、しかし、その後何億という人々が彼を尊敬している。思い出してほしい。
素晴らしさとは、やはりわからないことがあるのだ。
人間は自分より優れたものには、評価ができないのである。
皆さんも、芸術作品の評価はできないだろう。難しいプログラムの難しさはわからないだろう。これは専門家でないからだ。
ある程度の知識がなければ、よい、悪いくらいの評価しかできないし、さらにレベルが下がれば、よいかわるいかもわからない。
50年前には共産主義と資本主義の優越もわからない人ばかりであった。それは結果がでないとわからなかったのである。
優秀な人には、この理不尽さが理解できない。受け入れられない。
素晴らしい作品が評価されず、つまらない作品が評価されるのかと義憤にも似たものを感じる。
しかしそれが現実と理想のギャップである。
それをまずは受け入れなければならない。
優秀な人であればこそ、そういう寛容さ必要になる。
一度、別に人に認められなくてもよい。自分の真価は自分がわかっているのだから。
と開き直ればよい。
わからないのである。あなたがそれほど素晴らしい人だったとはわからない。
あなた自身もそうでしょう。周囲の人のすばらしさを正しく理解していない。
これは悲しいことである。
自分のこと以外は実際よくわからないのである。
人の評価を求めず、ひたすらに主張し続ける。
同じことを言っても人は認めてくれないときもある。どんなに素晴らしいことを言っても理解されないことはある。しかし、それでも主張し続けてほしい。
あなたの書いた素晴らしい言葉を、つまらない。と呼ぶ人もいるだろう。
あなたの素晴らしい考えを馬鹿にする人もいるだろう。
その苦しみを受け入れてください。
正しいことをしているのに、評価されない苦しみを。
誤解される苦しみを。理解されない苦しみを。
そして許してください。
誰もあなたを嫌っていているわけではない。害しようとしているわけでもない。
ただ、単にあなたを理解できない。評価できない。
ただそれだけなのだ。それを知ってください。
そしてあなたも同時に人の素晴らしい考えに大して唾を吐きかけることがあるのだ。
人の偉大な言葉や作品を嘲笑することがあるのだ。
しかしそれはあなたが、積極的な悪意をもっているからではない。
ただわからないのである。素晴らしさを評価できないのである。
お互いにそういう人たちが生きているのがこの社会のなのである。
まずこの理不尽さを感じてほしい。そしてこの理不尽さを受けれて認めて、許してほしい。
我々は人の気持ちがわからない。だからつまらないことで殺し合い、憎みあい、傷つけあうのだ。しかしそこには、実はそれほど大きな悪意はないのだ。人を憎むときにその人そのものを憎むことは実際はあまりないのだ。実際はその人の行動や、言葉、を憎んでいるだけで、その一端を憎んでいるだけで、本当はそれほど理解していないものを悪だと決めつけて憎んでいることが多いのである。
もしその人のことを本当に理解できれば、憎しみなど、その人に対する憎しみなど大して生まれては来ない。その人の考え方や行動への不満はあるかもしれないが、人そのものへの憎しみが生まれてくるだろうか。もしあなたの家族が同じことをしたらどうか、それほど憎むだろうか。それはただ、その人を知らないから。知らないから勘違いして憎んでいるのである。勘違いして憎むほうにも間違いはないだろうか。
例えばイスラム国によるテロを理解できる人はいるだろか、100名以上の人々が殺されたということについて犯人の心境を理解できるだろうか。私たちは多くの場合、「理解できない」と拒絶する。しかしそれでは私たちは相手を許すことができない。どうか理解してほしい。
彼らがどうして100人も殺さなければいけなかった。人を殺すことに対して抵抗はある。それでもそうしなければならなかったのはなぜか。彼らの想いを忖度してほしい。
忖度しなければ、私たちは永久に彼らを理解できない。理解できなければ許すことはできない。
とにかくイスラーム国としては、言いたいことがたくさんあるのだ。
その言いたいことをまずは理解してほしいと思っている。別に受け入れなくてもよい。
とにかく言い分を聞いてあげる必要がある。しかしこれはよほどフランスや米国の懐が広くないとできないことでもある。
なぜ北朝鮮で、人権を無視した強制収容所が存在するのか、どうしてそういうことを肯定できるのか、北朝鮮の首脳は何を考えているのか。理解できるだろうか。そんな恐ろしいことがなぜできるのか?と我々は拒絶するがそれを考えてほしい。つまり同じ人間であってもそういうことができるのである。同じ人間であってもそういうことができるのだ。私たちも人間である。つまり我々の心中にもそういう残虐なものがある。そのことを思い出してほしい。自分は違うと思わないでほしい。
例えば日本人が嫌いだという中国人も日本人のことをよく知らないし、日本人も中国人のことはよくしらない。お互いのことをよく知らないまま、行動の一端を見て憎んでいるのである。中国人は反日デモを行い、日本の商店に石を投げればそれに対して日本人は怒りを感じるだろう。しかし、それは彼らのなかでは義憤によるものなのだ。彼らなりの正義なのだ。その背景には彼らの教育がある。国内の情勢がある。そして彼らなりの正義としてそれが発現しているだけである。もし我々日本人も中国で生まれていたら同じことをしたかもしれない。問題はその教育が嘘であるということで、その国の人民一人の罪ではない。
私たちは、人を理解できないと勘違いしている。
人を理解できないと勘違いしているが、それは、自分の知識や経験がないだけである。
理解できないということはそれだけ知識が足りない。忖度が足りないのである。
そのことを顧みずに人を拒絶することは愚行である。
人を理解することに対しては積極的になる必要がある。
自分が理解できないものにこそ、自分の弱点がある。知らない部分がある。
それを理解できれば、それだけ人の器が広がる。
善悪の判断はそう簡単にできるものではない。
私たちにとってこれは最大の難しさがある。何が善で何が悪か。
そして大きなことをなすために小さな悪が許されることもまたあるのだ。
善悪はその評価軸により変化する。
例えば、釈迦はその法を説く際に王子としての身分を捨て、国を捨てている。
見方によっては、責任ある立場に生まれたのに、放浪の旅に出たようなものである。
それは、国の人々にとっては困ったことかもしれないし悪に見えるかもしれない。
しかし後世の人々にとっては、彼がすべてを捨てて、法を求めたことが評価される。
ですから一面から見れば、悪に思われることもあるがそれが大きな善行になることもある。
残念なことはそれが本人にもわからないことである。
今やっていることが一体どんな影響になるのか、それは判然としない。
しかしそれでも未来を信じてやらないといけないことはある。
一つの評価軸があるとすれば、自分の行動は、10年後、100年後の人々にとっても善たるか、ということだろう。
しかしそれでも確証はもてない。それでもある程度は信じてやるしかないこともある。
戦争中に相手の国を理解できるだろうか。
戦争中には相手の国が悪に見える。
しかし実際はそうでもない。ドイツとフランスが戦争するときはそうであったけれども、実際はお互いにお互いの言い分がある。それなりの理はあった。
戦争が起きても相手の心境が理解できれば、泥沼化を避けることができる。
これはどんな交渉でもそうだ。
例えば競合他社の担当者が何を考えているか、わからない。しかしここを考えないと戦略的に勝利することはできない。
敵と思えるものにであったら、その心を理解してほしい。
理解できない相手には勝つことができない。
ですから勝ちたいと思えば、相手の心境になり切って理解してほしい。
ブッシュがフセインを空爆した時に、ブッシュには、フセインの気持ちは理解できていなかっただろう。だからいつまでたっても勝てなかったのである。
私たちが正義という言葉を使うときにその正義という言葉が、相手への理解を拒絶するための免罪符になってはいけない。
これは戦略的にも負けないという意味で大切である。
日本がアメリカに負けたのは、アメリカ人の心が読めなかったからである。
アメリカ人の行動心理、価値観を理解していればもう少しうまく戦争を進められただろう。
敵の心を読めれば、基本的には相手の動きは読めるのである。
心が読めれば、そこから推測して次の動きを見抜くこともできるようになるのである。
そして共存が可能かそれとも殲滅しなければならないか、という落としどころも見えてくる。殲滅しなければならないときは殲滅しなければいけないときもある。