優秀さは評価されるとは限らない。
この事実は、優秀な人間にとって初期の最大の試練でもある。
優秀な人間は自分が優秀だということがわかる。
それを知っているからこそ、それの事実が社会に浸透していないことが許せない。
自分は優秀なのに、なぜ世界はそれを認めないのかと考える。
それが理不尽だと思う。
こうやって最初の悩みが出現する。
特に人生の最初期においては、外見や、家柄、生まれた時の頭脳などで評価されることが多い。優秀な人であってもそれがなかなかわからない。
人生の最初期においてはその人の真価は評価できず、顕在化している部分ばかりが強調される。
例えば、我々が幼少期のリンカーンに出会ったとしても彼がそれほど偉大な人だとはわからないだろう。それはやはりその人が死ぬ時までわからないのである。
若いうちは、忍耐の時代が続くだろう。優秀であるという自覚が強ければ強いほどそれを理解できない人々に対しての怒りが溜まるだろう。しかし弛まず努力をするほかはない。
優秀ならば最初はこのような試練が必ずあるのだ。
しかし、人に認めらないということはまた一つのモチベーションになるのである。
人に評価されてしまうと人はそこで満足してしまい努力を厭うようになる。
「認められないことはおかしい」という感情がまた自分を高めるためのモチベーションにもなるのである。
その時にさまざまな方法がとられる。
①人を相対的に下げて、自分の価値を高めようとする。
これは、比較的簡単な方法である。人の価値を下げることで、自分の価値をたかめることできる。そのように感じることができる。しかしこれは一時的な自己満足にしかならない。
優秀な人には他人の弱点や欠点などすぐにわかる。人を責め立てて屈服させることは容易である。弱いものを攻撃することは簡単である。効果的に痛めつけることができる。
しかしこういう方法ではいつまでたっても自分の能力は向上しないし、嫌な人だと嫌われるようになる。自分の劣等感を満たすために、自己満足のために人を攻撃するのはあまりお勧めできない。そういう人はだんだんと人からさらに疎まれていく。
②何かの権威を求める。
これは学生時代には学歴に向かうだろう。自分の優秀さの証明として、どれだけ偏差値の高い大学に進学するかということを競う。しかしどれほど優秀な大学に行ったとしてもその劣等感は満たされることはない。大学に進学すれば、自分よりも優秀な人がたくさんいることを知るだけだ。自分と同じような人は山ほどいると気づくだけである。
そして大学という勲章をひけらかせば、ひけらかすほど、嫌われていく。
そのほかに弁護士や、医者などいろいろな資格を求める人もいる。
有名な会社を求める人もいる。
しかしその多くの試みは失敗する。
本当に人を医療の分野ですくいたいという熱い情熱があればこそ、医者になれる。
しかし自分は本当は医者の仕事には興味がないが、ただ自分の劣等感を満たすためになったという人に診てほしいと思う患者はいるだろうか。
自分の心を捻じ曲げて、自分の夢を変節させてまで劣等感を克服する意味はあるだろうか。
人に評価されることをあきらめる。
優秀な人は認められるべきだ。
というのは確かに素晴らしい理想である。確かに素晴らしい。
しかしこれは理想でしかない。
あのイエスが、十字架にかかったことを、しかし、その後何億という人々が彼を尊敬している。思い出してほしい。
素晴らしさとは、やはりわからないことがあるのだ。
人間は自分より優れたものには、評価ができないのである。
皆さんも、芸術作品の評価はできないだろう。難しいプログラムの難しさはわからないだろう。これは専門家でないからだ。
ある程度の知識がなければ、よい、悪いくらいの評価しかできないし、さらにレベルが下がれば、よいかわるいかもわからない。
50年前には共産主義と資本主義の優越もわからない人ばかりであった。それは結果がでないとわからなかったのである。
優秀な人には、この理不尽さが理解できない。受け入れられない。
素晴らしい作品が評価されず、つまらない作品が評価されるのかと義憤にも似たものを感じる。
しかしそれが現実と理想のギャップである。
それをまずは受け入れなければならない。
優秀な人であればこそ、そういう寛容さ必要になる。
一度、別に人に認められなくてもよい。自分の真価は自分がわかっているのだから。
と開き直ればよい。
わからないのである。あなたがそれほど素晴らしい人だったとはわからない。
あなた自身もそうでしょう。周囲の人のすばらしさを正しく理解していない。
これは悲しいことである。
自分のこと以外は実際よくわからないのである。
人の評価を求めず、ひたすらに主張し続ける。
同じことを言っても人は認めてくれないときもある。どんなに素晴らしいことを言っても理解されないことはある。しかし、それでも主張し続けてほしい。
あなたの書いた素晴らしい言葉を、つまらない。と呼ぶ人もいるだろう。
あなたの素晴らしい考えを馬鹿にする人もいるだろう。
その苦しみを受け入れてください。
正しいことをしているのに、評価されない苦しみを。
誤解される苦しみを。理解されない苦しみを。
そして許してください。
誰もあなたを嫌っていているわけではない。害しようとしているわけでもない。
ただ、単にあなたを理解できない。評価できない。
ただそれだけなのだ。それを知ってください。
そしてあなたも同時に人の素晴らしい考えに大して唾を吐きかけることがあるのだ。
人の偉大な言葉や作品を嘲笑することがあるのだ。
しかしそれはあなたが、積極的な悪意をもっているからではない。
ただわからないのである。素晴らしさを評価できないのである。
お互いにそういう人たちが生きているのがこの社会のなのである。
まずこの理不尽さを感じてほしい。そしてこの理不尽さを受けれて認めて、許してほしい。
我々は人の気持ちがわからない。だからつまらないことで殺し合い、憎みあい、傷つけあうのだ。しかしそこには、実はそれほど大きな悪意はないのだ。人を憎むときにその人そのものを憎むことは実際はあまりないのだ。実際はその人の行動や、言葉、を憎んでいるだけで、その一端を憎んでいるだけで、本当はそれほど理解していないものを悪だと決めつけて憎んでいることが多いのである。
もしその人のことを本当に理解できれば、憎しみなど、その人に対する憎しみなど大して生まれては来ない。その人の考え方や行動への不満はあるかもしれないが、人そのものへの憎しみが生まれてくるだろうか。もしあなたの家族が同じことをしたらどうか、それほど憎むだろうか。それはただ、その人を知らないから。知らないから勘違いして憎んでいるのである。勘違いして憎むほうにも間違いはないだろうか。
例えばイスラム国によるテロを理解できる人はいるだろか、100名以上の人々が殺されたということについて犯人の心境を理解できるだろうか。私たちは多くの場合、「理解できない」と拒絶する。しかしそれでは私たちは相手を許すことができない。どうか理解してほしい。
彼らがどうして100人も殺さなければいけなかった。人を殺すことに対して抵抗はある。それでもそうしなければならなかったのはなぜか。彼らの想いを忖度してほしい。
忖度しなければ、私たちは永久に彼らを理解できない。理解できなければ許すことはできない。
とにかくイスラーム国としては、言いたいことがたくさんあるのだ。
その言いたいことをまずは理解してほしいと思っている。別に受け入れなくてもよい。
とにかく言い分を聞いてあげる必要がある。しかしこれはよほどフランスや米国の懐が広くないとできないことでもある。
なぜ北朝鮮で、人権を無視した強制収容所が存在するのか、どうしてそういうことを肯定できるのか、北朝鮮の首脳は何を考えているのか。理解できるだろうか。そんな恐ろしいことがなぜできるのか?と我々は拒絶するがそれを考えてほしい。つまり同じ人間であってもそういうことができるのである。同じ人間であってもそういうことができるのだ。私たちも人間である。つまり我々の心中にもそういう残虐なものがある。そのことを思い出してほしい。自分は違うと思わないでほしい。
例えば日本人が嫌いだという中国人も日本人のことをよく知らないし、日本人も中国人のことはよくしらない。お互いのことをよく知らないまま、行動の一端を見て憎んでいるのである。中国人は反日デモを行い、日本の商店に石を投げればそれに対して日本人は怒りを感じるだろう。しかし、それは彼らのなかでは義憤によるものなのだ。彼らなりの正義なのだ。その背景には彼らの教育がある。国内の情勢がある。そして彼らなりの正義としてそれが発現しているだけである。もし我々日本人も中国で生まれていたら同じことをしたかもしれない。問題はその教育が嘘であるということで、その国の人民一人の罪ではない。
私たちは、人を理解できないと勘違いしている。
人を理解できないと勘違いしているが、それは、自分の知識や経験がないだけである。
理解できないということはそれだけ知識が足りない。忖度が足りないのである。
そのことを顧みずに人を拒絶することは愚行である。
人を理解することに対しては積極的になる必要がある。
自分が理解できないものにこそ、自分の弱点がある。知らない部分がある。
それを理解できれば、それだけ人の器が広がる。
善悪の判断はそう簡単にできるものではない。
私たちにとってこれは最大の難しさがある。何が善で何が悪か。
そして大きなことをなすために小さな悪が許されることもまたあるのだ。
善悪はその評価軸により変化する。
例えば、釈迦はその法を説く際に王子としての身分を捨て、国を捨てている。
見方によっては、責任ある立場に生まれたのに、放浪の旅に出たようなものである。
それは、国の人々にとっては困ったことかもしれないし悪に見えるかもしれない。
しかし後世の人々にとっては、彼がすべてを捨てて、法を求めたことが評価される。
ですから一面から見れば、悪に思われることもあるがそれが大きな善行になることもある。
残念なことはそれが本人にもわからないことである。
今やっていることが一体どんな影響になるのか、それは判然としない。
しかしそれでも未来を信じてやらないといけないことはある。
一つの評価軸があるとすれば、自分の行動は、10年後、100年後の人々にとっても善たるか、ということだろう。
しかしそれでも確証はもてない。それでもある程度は信じてやるしかないこともある。
戦争中に相手の国を理解できるだろうか。
戦争中には相手の国が悪に見える。
しかし実際はそうでもない。ドイツとフランスが戦争するときはそうであったけれども、実際はお互いにお互いの言い分がある。それなりの理はあった。
戦争が起きても相手の心境が理解できれば、泥沼化を避けることができる。
これはどんな交渉でもそうだ。
例えば競合他社の担当者が何を考えているか、わからない。しかしここを考えないと戦略的に勝利することはできない。
敵と思えるものにであったら、その心を理解してほしい。
理解できない相手には勝つことができない。
ですから勝ちたいと思えば、相手の心境になり切って理解してほしい。
ブッシュがフセインを空爆した時に、ブッシュには、フセインの気持ちは理解できていなかっただろう。だからいつまでたっても勝てなかったのである。
私たちが正義という言葉を使うときにその正義という言葉が、相手への理解を拒絶するための免罪符になってはいけない。
これは戦略的にも負けないという意味で大切である。
日本がアメリカに負けたのは、アメリカ人の心が読めなかったからである。
アメリカ人の行動心理、価値観を理解していればもう少しうまく戦争を進められただろう。
敵の心を読めれば、基本的には相手の動きは読めるのである。
心が読めれば、そこから推測して次の動きを見抜くこともできるようになるのである。
そして共存が可能かそれとも殲滅しなければならないか、という落としどころも見えてくる。殲滅しなければならないときは殲滅しなければいけないときもある。