メンヘラブログ メンヘラにどう立ち向かうべきか

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メンヘラ、心を病む、いったいどこからやってくるのか?

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いくつかメンヘラの特徴というのは話をしていきたいと思います。

一つ目にあるのは自己憐憫的傾向があるということですね。自分がかわいそうという風に思いがちですね。何かこう石に躓いた時にその石を強く責める傾向があります。その石を責めることによって傷が癒えるわけではないし、むしろただ傷を広げていくんです。

 

あまり論理的思考が得意ではないということも二つ目の特徴としては言えると思います。彼らと話をしているとあまり論理的ではなくて、論理的な矛盾や飛躍が多々登場いたします。

彼らは自分の論理展開が破綻しているということにあまり気づいていない場合があります。ですから論理的に考える力のあまり高くない人がそういう風に感情的に物事を捉えていているというのはあります。

 

三つ目の特徴としては自分を特別視するという傾向があります。例えばそういうことはあなたの周りだけではなくて世界中で起きていることなのです。どんな人もそれなりに逆境があり苦しんではいるんですが、それを私が特別苦しんでいる。「私が特別」という風に考えてゆく傾向があります。ただこれは先ほどの非論理的な考え方をしがちということとも重なります。つまり現状を正しく客観的・論理的・定量的に捉える能力が足りないが故に間違ったものの見方をしている。頭があまり良くないと言うと失礼かもしれませんが、そういう部分もございます。

 

感情の起伏も非常に激しくてどちらかと言うと動物的・本能的・直情的な感じを受けます。

ですから動物的な本能の延長線上にまだあり、あまり高度な知性的判断ができているわけではないといえます。もう少し本を読んだり勉強されたり論理的なものの見方考え方をやることが必要です。

 

最後は運動不足ですね。基本的にあまり体が強くない。あまり体力がない。こういう人も非常に暗い考え方になっていくときがあります。体力的な面でメンタルもダメージを受けているということもあります。そういう意味では実は体を鍛えていくと心も健康になっていくということもあります

 

メンヘラと言うか病んでいる方に関しては外部から救うということは不可能で自分で自分を変えようという風に決意しない限りは難しい。人に頼って外的要因に責任を求めて行くところに原因があるので、それは一歩間違うと共依存状態に陥っていきます。でその人がご自身で変わっていくという方向性をしっかりと示してしていく必要がございます。そうでなければいくら周りが助けようとしても助けることはできないです。自分で強く変革を起こして行かない限りは、何も現状は変化することはありません。現在こういう状況が自分の前に展開しているのは外的要因とか自分以外のところに何か責任があるのではなくて、自分の責任であるという風に価値観を変えていく必要があります。自分の責任であるという風に認知できれば自分の行動によって変えていくことができます。な口を開けば外的要因ばかりを口にされますので外的要因ではないところに実は問題があってご自身の問題であるという風な認知をされていない方がいます。これはとても面白いのですが、彼らは人のことはよくわかるのに、自分のことはよく理解できてない。こういう人は自分を変えるのではなくて周りを変えて行くことにすごくエネルギーを費やしていきますし、それを強く周りに要求していていくわけです。それが叶わないと今度は拗ねて、自己憐憫を始める。結局、自己憐憫の根源にあるのは、怒りです。簡単に言えば極めて自己中心的な考え方になりがちであり、それが今の悪い元凶を呼び作り上げている、という風に理解する必要があります。彼らに対しては「自分の力で自分の人生ぐらい変えて行きなさい。」これ以外はなくて、「自分の人生なんだから、いつまでも人に依存し甘えて頼る生き方はもうやめなさい。」とこれ以外にはないです。

外的環境を変えていくというのは実は近道のようで、すごく難しいことです。

「自分の考え方に誤りがあります。」ということを認知できるかどうかが第一歩になります。基本的に外的要因に責任転嫁をしていった場合には、その延長線上には周囲を攻撃したり非難したりすることしかできなくなります。こういう人が社会において高く評価されていくことは、あまりなくて厄介者になっていきます。いつまでも自己憐憫に陥ってめそめそするのは自由ですけども、それが本当にあなたの心からの望みなんですかということは聞いていきたいと思います。

ですからこういう方に対しては、あなたは本当に幸福になりたいのかどうか?ということを質問しないといけない。結局どこかで不幸に酔いしれている自分がいませんか。

 

多少の逆境とか苦しみとかはありふれていて、星の数ほどあります。でもそれを特別なことであるかのように思い込んで、自分を悲劇のヒロインにしているだけの人もいるんです。タンスに小指をぶつけることくらい誰でもありますが、タンスに小指をぶつけた私はなんてかわいそうなのだ。と思っている人がいるのです。

 

 

進化とは発展と調和である。
発展と調和、これは相反性がある。これは車の前輪と後輪であり、どちらも同じように動くことで進む。どちらかに偏るとこれは、うまくいかない。
調和と発展はそのどちらも大切である。
発展が進みすぎると、発展のみが善であると勘違いし始める。それが行き過ぎると弱肉強食を肯定するようになる。人類の歴史もこの発展と調和を繰り返す。戦国時代は、殺し合い、強さが肯定されるが、やがて江戸が来る。それから、幕末と列強との戦いが来て、また調和の時代がくる。人類史は調和と発展を繰り返しながら進む。

なぜベンチャーは倒産するのか。

発展ばかりを求めると空中分解する。これはベンチャー企業やワンマン社長の会社にありがちである。とにかくモーレツに進むといきなり退職者が増えて、分解していく。
つまり、調和の時間も必要であり、この2つのバランスが偏ると必ず失敗する。
しかし調和ばかりとだと停滞してやがて、滅びていく。
全てのものは調和と発展の中に存在する。人間もそうだ。調和ばかりでは進歩しないが、発展ばかりを求めると今度は摩擦で燃えてしまう。外にエネルギーを放出した分、内部でエネルギーを生産しないといけない。
職場で倒れる人、鬱になる人は放出ばかりで、生産ができない。こういう人は短期的に勢いよく放出するので、短期的には偉大に見える。しかし、生産ができないため、長期的には大したことがない。
営業成績でも、波のある1番よりもずっと2番手、3番手を維持する人が一番すごいのだ。波がないというのは永遠の進化につながる。永遠と言う観点から見たときに永続性のある発展があることは素晴らしい価値である。
過ぎたるは、及ばざるがごとし。
世界は中道で進化する。偏りを持った人間は必ずどこかで躓きが生まれる。
何か偏った考え方を持っている人は、外部の課題か内部の課題が現れてくるのだ。だから
貴方が何か悩みを抱えているところがあるとすれば、あなたのなかで何か中道をそれたものがあるということでもある。

人間は、エネルギーの放出と生産をする生き物

調和型の人間と発展型の人間の両者を活かすのが、経営者の役割。
どのような組織にもこの両方の観点がある。人それぞれ傾向性がある。
調和7:発展3、調和2:発展8と言う風にあるのだ。
しかし、どちらも大切である。どちらの人財も必要なのだ。現代の企業で躓くのはこのバランスが崩れることがあるからである。
規模が小さなうちは発展の割合が8割でもうまくいくときはある。しかし、一定規模を超えても発展のバランスが強すぎる場合は、必ず規模が縮小する。
矛盾するとおもうでしょう。発展を望んでいれば望むほど発展しない時が来るというのは不思議に思えるでしょう。しかしこれは人間の構造がそうなのだ。
人間は、エネルギーの放出と生産をする生き物であり、この両方の能力が高くないと成功できない。
短期的に放出力の高さばかりを評価してこういう人を管理職にすると必ず失敗する。部下に生産の暇を与えないからである。

植物的な部分と動物的な部分の両面を人間は持っている。
植物は太陽の光と水分から、エネルギーを生産する。そして動物はそれを食べる。

強い軍隊とは何か。

統制性は、必要である。しかし、統制性も過ぎれば、発展を阻害する。
統制は実は調和なのだ。調和を維持するために、厳しい決まり、ルールがある。これは調和のために必須なのだ。しかし、調和を維持しすぎて細かい縛りを作りすぎると今度は発展しない組織になる。法律とは、調和のための道具だが、これを増やしすぎると発展を阻害する。しかし無法が良いわけでもない。何かしらの意味で、「人々の調和を維持する要素」は必要なのだ。軍隊組織では、調和が重んじられる。したがって、厳しい軍規がある。しかし発展しないのだ。新しい戦い方は生まれてこないのである。そうしてあっけなく負けることがある。ドイツの大モルトケは、部下の自由判断による敗戦を責めなかった。つまり、強い軍隊と言うと、規律通りに動くものが強いと思うのだが、実際は、現場の兵士が、それぞれのケースに応じて自ら考えて行動できないと勝てないのである。
従って、この調和と発展の両方を共に高めていくことが出来た軍隊は極めて強い。
これは会社においてもそうである。調和が強いと守備力は高まる。しかし攻撃力が減るのだ。調和は守備力であり、発展は攻撃力である。攻撃のできない会社はいつか滅びてしまう。しかし、守備が出来なければ多少の攻撃で滅びる。この両方はどちらも同価値である。
停滞とは腐敗である。水も流れないと腐っていくように、調和も行き過ぎると今度は停滞となり腐敗につながるのである。

矛盾する中で、バランスを保ち続けることの大切さ。

日本と言う国も、世界もバランスが崩れている。崩れるとどうなるか、今度は文明が崩壊する。文明が崩壊し退化する。

世界の創造主たちはおそらくこの二律背反の世界を作ったことを意図されたのだろう。この2つの矛盾の中での中道。バランスをとることを学ぶことを意図されたのだろう。
勇気もありすぎると蛮勇になる。行動力もありすぎると今度は、無軌道な行動をして迷惑をかける。自信もありすぎると慢心になる。幸せもありすぎると、幸せが分からなくなる。
賢さもありすぎると今度は勇気がなくなる。評論家になっていく。慎重すぎて何もできなくなる。毎回人々は、針を戻そうとして戻しすぎる。だからまた逆に戻す。こういうことは組織でもそうだが個人でもある。
個人で自己評価して、自分は「勇気がないことが悪い」とか「自信がないことが悪いとか」決めつけて、勇気や自信を絶対的善だと信じる。そしてそれから外れた自分を悪と見なす。しかし、これは馬鹿である。どちらも大切なのだ。どちらも必要なのだ。自己否定をしすぎると逆の方向に進みすぎてしまうのである。

共産主義をいくら駆逐しても消え去らないのは、共産主義の中の中に含まれる調和というものは、人間が根源的に求める価値観の一つであったからだ。もちろん共産主義は政治のやり方、経済のやり方として失策だったと思う。だが、姿を変えた共産主義は今も生きている、会社の最低賃金も、勤務時間も会社の自由ではなくなってきている。これは共産主義である。

多くの人々はここが分からない時がある。
この世において、絶対的な善と言うのは少ないのだ。
成果主義も一つのやり方なのだ。アメリカから取り入れるべきところもあった。しかしアメリカ流を礼賛して無条件で受け入れた場合失敗した企業は数知れない。
アメリカとはどんな文明であったのか。

アメリカとはまず、最初キリスト教をもとにして構成された。キリスト教をバックグラウンドにして、他民族の共生社会を作ろうとした。世界中の大陸から人々を集めて世界一の発展と調和の国を作ろうとした。しかし、発展が強く出過ぎた。発展が強く出過ぎたことで発展したが、今度は逆にその発展が行き過ぎて内部にひずみを抱えた。そして人々が選んだのは、調和を重んじるオバマだった。これはアメリカの中に調和を持ち込みたいという人々の意志である。しかし調和を持ち込もうとしても既に発展の信奉者となった人々にはそれは不可能である。調和を意味していたのはキリスト教だったのだ。しかしキリスト教の力が弱くなってしまって行った。もしキリスト教が浸透していればより調和型の社会となり安定的な発展を遂げていたに違いない。

善悪は最高の価値観ではない。

これは世界の真理である。善と悪というのは、価値観の一つであり、
善もまた極端になれば、別の悪を生み出す、悪もまた見方を変えれば善の一部である。
善悪というのはひとつの価値観であるが善悪を超克した価値と言うものはある。
何が正しいか、何が正しくないかと言う判断は実はこれは、非常な難問である。
現代人の最大の課題は「善悪の判断ができると勘違いしていることである」、これは争いの当事者に聞けばいい。お互いに正義を主張する。だからこそ譲れないのである。どちらも降参できないのである。当たり前である正義が負けたらそれは悪いことだと思うからである。
「善悪と言うのは神のみが知っているのである。それくらい難しい問題なのだ。」
善悪の戦いと言うのはどこかで終わりが来る。
この善悪と言う価値観では行き詰まりが来るのである。というか既にもう来ている。
ですからまず、自分たちが正義だと信じているものをいったん疑うといい、悪だと信じているものも疑うとよい。そして自分たちには善悪の決定権はないということを自覚するべきである。
そういう意味では人間たちが相当慢心していることが争いの原因でもあるのだ。宗教があるからではなくて、宗教を信じなくなった。多くの過激派は神の書物を曲げている。コーランにも聖書にも戦わないことを記載されている。しかし戦ってよいと判断するのはこれは人間に慢心があるからである。理由をつけて法を曲げてもよいという慢心があるからである。なぜ神が命じていないのに勝手に解釈できるのか。という判断は必要である。
ですから神と神との戦いが起きているのではなく、神の真意がわかる人がいなくなっているというのは戦争の背景にある。

人間と言うのは基本的に自己正当化をする癖がある。
どんなことも正しいという結論を導くために曲げるのである。自分の感情も曲げていくことが出来る。本当は、名誉がほしいのに、ボランティア活動をする自分を、ボランティア活動だけがしたいのだと思い込んだりは日常茶飯事である。仕事に集中できないので、仕事の環境のせいにしてみたり、自分がいかに正しいかを自分に言い聞かせるために自分を騙す。これは日常的に誰もがやる。


弁証法的発展が必要である。
世の中には、様々なタイプの人間がおり、みな相反する価値観を持っている。人間が戦争するのはこの価値観の相反である。対立は必ずある。
これは隣国があれば、仲が悪くなるのは、お互いに相手の国より優れていると考えているからであり、片方が片方の国に感服していれば一つの国になる。しかし一つの国になることで調和もしくは発展が阻害されれば今度は、独立し2つの国になる。
神経をすり減らすようなことはあります。
気難しい人との対応に苦慮していますが、私自身もまた気難しい人なのです。
人から嫉妬されて苦しいですが、私も人に嫉妬しています。
目くそ鼻くそを笑うとはこのことです。
どんぐりの背比べです。
自分で天に唾を吐きかけて苦しんでいるのですから、まずは天に唾を吐くことをやめないといつまでたっても苦しみから逃れることはできません。
私たちの多くは人を殴った分だけ人に殴られますが、
多くの場合自分が人を殴ったことには無自覚で、人から殴られたときには理不尽だと思うのです。
人を傷つけたときには無関心で、人から傷つけられると落ち込むのです。
ですから人から傷つけられたくないと思うのならば、まず人を攻撃することをやめないといけません。
貴方がやめてもこれまで人を殴った分は殴られますが、それは仕方がないものです。
人から攻撃されても、甘んじて受け入れることです。決して攻撃し返そうと思わないことです。もともと気性の荒い人はいるのです。気性の荒さは行動力につながることもありますし、正義感につながることもあります。しかし、無駄に気性が荒くとも無駄なだけです。

人から攻撃されることはあります。いくらでもあります。
しかしそれは仕方がないのです。
いちいち傷つかないことです。
なぜ傷つくかといえば、それは、人から認められて当然、人から敬意を払われて当然、人から愛されて当然と思っている自分がいるからです。
人から何かを求めているからこそ、人が少しでも攻撃してくると怒るのです。
しかし、相手にはあなたを攻撃する権利があるのです。言い方が難しいのですが、
人があなたを嫌ったり、攻撃したり、悪意を持って攻撃してきてもそれは相手の自由なのです。
それに対してあなたは抗議することはできます。しかしそれをやめるか継続するかは最終的にはあなたの支配下にはありません。
相手の自由なのです。相手にはあなたを侮辱する権利、傷つける権利、攻撃する権利、悪意を持つ権利等々はあるのです。それは相手の権利なのです。
ですからこれは一定の限界があるのです。人は必ず悪意を抱かれることがあります。
人に攻撃されることは苦しいことではあります。人から侮辱されたりするのも苦しいです。しかしこれはあなたの管理の中にはないのです。これを知る必要があります。そして相手もまたあなたを嫌う権利を有しているわけで、これを制限したり、支配しようと思えばこれは一方では感情統制になるのです。無理な話です。
きっと誰にも「何となく嫌い」「生理的に嫌い」と言う人が一人か二人はいるものです。
その中に含まれることを受け入れてください。
あなたも人を嫌うのですから、人から嫌われることを受け入れてください。
自分は人を嫌ってもよくて、他の人が自分の嫌うのは受け入れられないというのはとても極端な考え方です。自己中心的な考え方です。
人間がでこぼこした生き物である以上、これは仕方がない部分があるのです。すべての人から好かれることは困難なのです。

自分を許してください。そうすれば人も許してください。
不完全な自分を許してください。不完全な人を許してください。
厳しさだけでは、世界を導くことはできないのです。
厳しさだけでは人を幸福にはできないのです。
しかし、甘さだけでも人を導くことはできないのです。
人は自分には甘いのです。
これはすべての人間に当てはまるのです。
人は自分にはとても甘く、人にはとても厳しい。
そしてその事実にすら気が付かず、自分は自分に厳しい。人には優しいと思い込んでいるのです。自分の一面的な見方でそう捉えているのです。

人間と言うのは自分が思っているよりもずっとずっと自己中心的です。
そして自分は自己中心的ではないと思っている人が一番自己中心的なのです。
自己中心的であることにすら気が付いていない人が居るのです。

心を磨くというのはとても大変なことなのです。
勇気のないエリートが100人いても、1000人いても、何も変わらないのです。
そんなもので世の中は変わらないのです。
世の中を変えるのは勇気のある一人なのです。一人の勇気なのです。
どうか強い気持ちを持ってください。
勇気を持ってください。
そう簡単に負ける自分ではないと信じてください。
勇気がないのは、自分がつまらないもの、弱いものだと信じているからです。
いいえ、そんなことはありません。人間は自分が思う以上に強いのです。そのことを信じてください。

勇気がないというのは、つまり覚悟がないのです。
侍の心を忘れたのですか、
いざとなったら腹を切るのです。
迷惑をかけたり、失敗したら、腸を取り出して、謝るのです。
こういう覚悟があるからこそ勇気が出てくるのです。
ですから、まずその覚悟を持ちなさい。いざとなれば、腸を取り出す。
いざとなれば、腹を切る。
いくらでも切る。
このくらいの覚悟をもってやりなさい。

北朝鮮のような国家に対して、どの日本人も、どの政治家も面と向かって戦うことができない。
これがとても残念です。
ずるずると引き伸ばしばかりして、決断を先送りしづけてきた。
しかし、こういうリスクに対して、どう日本が対応するか、と言えば、これは北朝鮮の民主化、独裁政権の崩壊以外には
方法はないのです。
しかしそれだけの覚悟のある政治家はいなかったのです。
ずるずると臭いものにふたをして、隣国で何百万と言う人々が収容所に送られていても、それに対して何もできないのが
果たして日本人として正しいことなのか。
これが、本当に先進国の姿なのか。
そういう彼らの状態を見過ごしてきたからこそ、今我々にも危機が訪れているのではないのか。
なぜ勇気をもって言えないのか。
本気で戦う人が必要なのではないか。
多くの人間は、自分が大きな影響力を出せないのは、自分の頭が悪いため、地位がないため、お金がないため、などと考える。
しかし真因はそうではない。
勇気がないからだ。勇気がないから大きなことができないのだ。
なぜ勇気がないのか、それは自分を守ろうとするからである。自分のことが第一だからである。本当に自分を捨てて、自分のことを度外視できたならばできないことなどないのだ。
勇気などいくらでもあるのだ。
勇気を妨げるのは、自己保存、自己保身、エゴイズムである。
自分を守りたいという心である。もはや、自分などどうなっても構わないと腹を括れば人間は何でもできる。本当に大きな影響力が出てくるのである。

維新の志士ができてなぜ現代の若者にはできないのか、現代の若者に影響力がないのか。
それは、死を覚悟していないからである。死を覚悟すれば、なんでもできる。
死んでもよいと思い、自分を捨てればどんな恥ずかしいことでもできる。どんなつらいことでもできる。死を覚悟しなさい。本当に大きなことをしたいのならばそのために自分の幸福など、欲望など、名誉など、そんなものは全て捨ててしまいなさい。
大義のためなら、今日死んでもよいと腹を括りなさい。
この覚悟がないのです。だから勇気がないのです。
死を感じなさい。死を知りなさい。死を思うときにこそ人間は本当の力が出てくるのです。
力はすでにあるのです。すでにあなた方のなかに知恵も力も、あるのです。
ただ勇気が、勇気だけが足りない。

自分を捨てた時にそこには何も守るものはないのです。何もなければ何も失うものはないのです。何も持っていないことを知りなさい。何も持っていないことをしれば何も失うものはないのです。そして大切なものは失われないのです。本当にあなたが持っているものは決して失われることはないのです。失われるのは、全てあなたのものではなかったのです。

本当に私たちが持っているものは誰にも奪うことができない。
本当に大切なものは誰にも奪われることはない。
奪われるのは自分のものではなかったものである。
奪われるのは、無くしてもよかったものである。

そのことを考えてください。我々は人々により何か害されているように思うこともあります。しかし本当に大切なものには傷一つつけることはできないのです。
金も地位も名誉もそんなものはもともと自分のものではなかったのです。それは大切なものではなかったのです。ですから、それをなくすくらいでいちいちめそめそしないことです。くだらない人間関係を守るために、大切な正義をなくしてはいけません。ご馳走を食べるために悪をなすくらいならば、善をなして冷や飯を食べなさい。
正義はいかなるものよりも大切なのです。正しく生きることは何よりも大切な価値なのです。正義を守るためには、つまらないものなど捨ててしまってよいのです。
失意の時に努力できるかどうかで人の器が決まる。

好調な時、成果が出ているときは、楽しい。さらに、努力する気持ちにもなる。
しかし不調の時、スランプの時、努力しても努力しても成果が出ないときがある。こういうときに熱心さは失われていく。
しかし成功を考えるならば、好調の時こそ、おごらず、失意の時こそ、腐らず、
日々淡々と努力を重ねることが肝要である。

また、周囲の人が努力するときにはだれでも努力する。しかし周囲がなまけているときに自分だけ努力するというのは予想以上に難しい。それはひねくれ者に思われるだろう。
しかし、こういう態度が必要である。

人間は必ず劣化していく。放置しておくと劣化していく、覚えたことを忘れ、筋肉は衰える、日々劣化していく。しばらく歯を磨かないだけで、虫歯になる。しばらく食事を抜くと風邪をひく、風呂に入らなければ異臭がする。
つまり人間は規則正しく生きることをある程度義務付けられている。

そして先天的なものは全て失われていく、若いころは先天的なものが評価される、才能、家柄、容姿などわかりやすいものが評価される。
しかし人間の真価は、その死の瞬間に決まる。
死するときに誰もその死を悲しまないとしたら、それは価値のある人生と言えるだろうか。

死を考えることは生き方を考えることでもある。
想像してほしい、自らが70歳の時を、すでに誰も自分の容姿を褒めてはくれない。
皺だらけになり、体も衰える。
その時にどんな自分でありたいかということが将来を考えることである。
そして、70歳の自分が今の自分の一日を見てどう思うだろうか。
もし、それが素晴らしいと思える生き方ならば、70歳の自分が満足する1日ならば、きっとその人は70歳の時に満足感を感じるだろう。
50年後、30年後の自分が見て誇りを感じられる今を、一日を歩むことである。
それが誇りある生き方である、そうしてそういう誇りある1日を積み重ねてきたという自負心こそが自らの自信になり、勇気につながる。

誇りある1日を生きよ。
誇りある今日を積み重ねよ。
死のその時に悔いることなき今日を過ごせ。
それが自尊心にあふれる生涯を過ごすことである。
若者の悩みとして、人から評価されない。愛されない。認められない
というものがあります。
それから自分に自信がないというのもあります。
自分に自信はありません。実績がないからです。地位も名誉もないからです。
若いころは何もないですから自分が金の卵なのかそれとも石ころなのかということも自分では判断できないのです。
しかし、自分が金の卵か、それとも石ころかということを悩んでも意味がありません。
それならばとにかく努力するべきです。

人と比べてどうかとか、世の中が悪いとか、努力したのに成果が出ないとか、
色々と文句を言いたくなる気持ちはあります。
でもそこで文句を言っても何一つ好転はしないのです。
人のせいや、自分の才能のせい、社会のせいにしないで、
ひたすら自らを高めること。
これ以外に向上はないのです。
よそ見をせずに、努力に集中してください。

ここにしか成功はないのです。

若いころは、先天的なものが評価されます。
外見、才能、環境、生まれ。
こういうもので、大体人から評価されます。
その人がどれほど努力したかと言うことはあまり外には現れないのです。
しかし、人生の後半戦に差し掛かるとこれは逆転します。
その人が後天的に積み上げてきた努力の量が、先天的なものを上回っていくのです。
ですから皆さんが努力してもその真価が出てくるのはまだ何十年も先なのです。
努力とは、超長期的投資なのです。
とにかく若いころは忍耐です。努力しても努力しても今一つ成果がでない時が続くでしょう。こんなことに意味があるのか?
と愚痴のひとつでも言いたくなるでしょう。
しかしそれを10年、20年と続けていくと必ず成果は出てきます。

人は為した努力を後悔することない。
努力とは100%確実な投資なのです。このことを信じて若いころに自己投資をしましょう。