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メンヘラブログ メンヘラにどう立ち向かうべきか

メンヘラ、心を病む、いったいどこからやってくるのか?

果たして我々日本人は、先祖から頂いたものをすべて散財し、子孫たちには何も残さないそのような情けない世代なのか。
私たちは、国が沈むその時に何もできない。それほど弱きものなのか。
今、何のためにここにいるのか。ここに生まれたのか。それはただ単に日本の死を見つめるためなのか。
日本が今にも滅びようとするその時にあなた方は、日本から目を背けるのか。
日本よりも自分の一日の予定の方が大事なのか。
泡のように消えるあなた方の一日の幸福のために、日本が滅びてもよいのか。
それでも政治にも、日本にも無関心であると言えるのか。
あなた方は只ひとりあなただけに責任を持っているのではない。
あなた方の行動一つ一つがまた、次の日本を作り、未来の子供たちに通じていくのだ。
その重みを無視して良いのか。
私たちは、先祖から何を頂いたか、先祖からどれほど多くの愛を頂いたか、この国の素晴らしさを感じることは無いか。
それらすべてを捨ててしまうことが私たちに許されるのか。

私たちは、死んだとしても、その先、生まれくる子供たちはどうなる。
私たちは、只一人で生まれて、只一人で死ぬのではない。
私たちの先に未来はあり、子供たちはいるのだ。
日本は続くのだ。

私たち若者が今、日本を思い、日本の未来のために立ち上がらずしてどうする。
それでエリート言えるのか、塾に通い、名門大学に進学したかもしれない。
人気者なのかもしれない。
でもそれでエリートと言えるのか、国家を背負って立つという気概はないのか。
そのどこに崇高さがあるのだ。
そこのどこに、偉大さがあるのだ。
ただ一人自分の幸福の為だけに生きるものが、それがエリートと言えるのか、
そんなものを育てるために、我々の親は我々を育てたのか。日本の国税は費やされたのか、

日本のエリートならば、日本の人々のために、戦いなさい。
つまらない自分など捨てて世の為人の為に努力しなさい。
それが、若者の使命ではないのか。
私たちは、このまま日本が滅びていく、そんなことは断じて許すことができない。
この機に及んでも、まだ若者が立ち上がらないというのならば私たちは、最初に立ちあがり、この身を呈して最初の屍となろう。
私たちの代わりはいくらでもいるだろう。しかしまだ誰もたたぬというのならば私たちは全力を尽くし、最初の一歩を踏み出す。

若者は政治に無関心であると言われる。自己中心的だと言われることもある。でもそのようなことは断じてないはずだ。私たちは、日本を愛しているし、この国に生まれたことを誇りに思っているはずだ。心の中にそんな自分がいるはずである。ならば私たちはそれを目覚めさせたい。

日本の危機、この時にこそ、我々若者が立ち上がり、次の日本を作るのだ。次の日本を作るために、私たちは立ち上り、この国をもう一度よみがえらせる。
老人たちがそれは不可能であると言っても、私たちは決してあきらめることは無い。
若き力によりこの国をもう一度甦らせる。
今後の流れ予測
①仏・米を中心とした連合によるIS攻撃が激化。(2015年11月)

②中国は、人質の殺害を口実に、仏・米に対して支援を申し出て、仏・米との関係を良好化させる。(2015年12月)
中国国内でも参戦支持が増加

③日本は、軍隊派遣が出来ず、金銭支援にとどまる。
(湾岸戦争、第1次世界大戦の二の舞)
米国および、世界的な日本への信頼感の低下

④中国と仏・米の関係は良好化し、日本の存在感が低下。

⑤米国は早期の解決を目指すが、仏は妥協せず。

⑥米国国内では、早期撤退を求める声が増大。

⑦その折米国内部で、大規模テロが発生。
米国は再度、イスラム国への空爆を継続するも、最終的に壊滅させることはできず
人的資源、および資金の喪失に至る。
⑧米国内では、国民の多くが孤立主義を求め、孤立主義、外国への不介入を宣言するものが大統領となる。

⑨先進国の介入は、ただ戦争の激化を招くだけであったという認識が世界全体に共有され、不介入主義が世界的に人気となる。

⑩米国、仏の撤退後、IS国は、その規模を一定規模に制限することを条件に存続を黙認される。
(第2の北朝鮮化する)

⑪中国によるフィリピンへの侵略が実行される。
⑫北朝鮮による日本への恫喝行為が本格化する。中国共産党がけしかける
⑬米国の沖縄撤退が完了する。
(日本側は残留を嘆願するも、最終的には一方的に撤退を開始され、1か月で撤退は完了する)
順次、他の拠点からも米国の撤退が開始される。
⑭フィリピンの一部が中国により占拠されるも、米国はこれを黙認。
⑮台湾の併合。(選挙による併合 中国共産党の軍事的脅威を感じ台湾が屈服する。)
⑯沖縄と、首都圏への同時攻撃。横浜の一部、沖縄、新潟の一時占拠。
⑰核攻撃の恫喝により日本政府が降伏し、沖縄の割譲及び経済水域の譲渡が完了する。
国家とはなにか。
国家を取り戻さねばならぬ。
国を取り戻す。日本とは何か。
というこの問いについて私たちは答えを失ったのではないだろうか。
そして、国はただ拝金主義に陥り、ただ豊かになることばかりを目指した。しかしそれは国家ではない。
ただのお金儲けのための組織である。こんなものは利己主義者の集まりである。
それは国家ではない。
日本は死んでいる。
これは私が作った日本ではない。
私が作った日本はもっと強い国でした。それは、ひとつの考えのもとに国家を束ねていたからである。
組織の構成員が組織の存在意義を失えばその組織は崩壊する。
国家を貫く柱があった。それを失った今、日本の価値があるのか。
この国に何の意味があるのか。自ら国家を貶め、馬鹿にし、侮辱するような情けない国民のために国家があり続ける意味があるのか。私は、戦後の国民に対しても反省を求めたい。そういう弱い国を作ってそれで、何がしたかったのか。
日本は経済的には豊かかもしれません。しかし弱い。極めて弱い国だ。
なぜならば日本人が日本とは何かを理解していないからだ。日本人のくせに日本の存在意義をわかっていない。
これはどんな組織においてもそうだ。組織の構成員が組織の存在意義を失えばその組織は崩壊する。
日本とは何か。こんな当たり前のことがわからぬ愚かな国民ならばそれは国民である資格はない。国家である資格はない。
私が国を作ったときなんといったか。
今、日本がありとあらゆる侵略を前にしている。これは日本を試しているのである。
日本が本当に国家としてあり続けるのか、それとも散り散りになるのか。はっきり申し上げて日本が滅びてもそんなものは、日本人の責任である。
日本がこれまでのように国家を馬鹿にし、祖国の先祖を馬鹿にし、そしてまた亡国の危機が迫るとしても誇りを持たず、他国に貶められることについても何の怒りも感じないというならそれは、もはや国民ではない。そのような国はいらぬ。
そのような情けない民を私は認めない。そのような情けない国を、民を作るために私は国を作ったのではない。私が国を作ったときなんといったか。何を感じ、国を作ったか。今日の「日本のリーダー」と呼ばれるような人たちが何を知っているというのか。何を感じているというのか。何も知らぬ愚かなものどもが、偉そうにしている。そのような国は間違っている。
国があるということは、国を作ったものがいるということだ。なぜこの国を作ったのか。そのことを少しも理解していない者どもが、偉そうなことを言っている。許せないことです。
愚かな人間どもが今度は、わけのわからない思想を持ち出して神を侮辱している。神を侮辱する権利がお前たちのどこにあるというのだ。答えよ。情けない、弱きものどもが。利己主義ばかりの者どもがなぜ神を馬鹿にすることができるというのだ。

私はそれが許せない。
イエスを殺した後ユダヤの民がどうなったか。
イエスを殺した後ユダヤの民がどうなったか。あなた方のやろうとしていることは同じことだ。神が遣わしたものをあなた方が認めないというならそれは、神を認めないということと等しい。神を求めないものどもに、神がなぜその存在を保証する必要があるでしょうか。
あなた方は大きな勘違いをしている。人間が最初からいたかのような愚かな発想だ。誰が人間を作ったのか。神が自らの半身を分け人間を作りだしたのだ。
その基本を忘れるな。それなのに神の教えに刃向い、愚かなことを続けるというのならばなぜあなた方の存在を保証する必要があるでしょうか。
神にとって、あなた方を消し去ることなど、何の苦労もない。あなた方に与え続けてるエネルギーの供給を止める。それだけで十分です。神を馬鹿にし、侮辱し、認めないというならそれはあなた方自身を批判することであり否定することであります。
親が役に立てば仲良くし、役に立たなければ見捨てる
そのような存在をいつまでも神が保護し保障する必要はありません。
神はあなた方に命を与えたのだ。命を与えたのにそれ以上、何をもとめるというのですか。
あれもこれも欲しい。大して努力もせず神にすがり付く。自分たちにとって有用なら神を信じ、有用でなければ信じないというのか。あなた方は、大変失礼なことをしている。命をもらい、自由をもらいながら、そのようなことを言えるのか。親が役に立てば仲良くし、役に立たなければ見捨てる。そういうレベルの考え方だ。本当に恩知らずで利己主義者だ。そんなものどもでよいのか。

幸福ならばいいというならそれは人間の自由意思を捨てること
なんと情けなく依存心に満ちたものでしょうか。命を頂きながらそれに感謝もせず、不平不満ばかり。なぜ不平不満が出てくるかというと、依存しているからです。自分一人の幸福さえ自分では幸福になれないと言っているからです。自分の幸せくらい自分一人で用意しなさい。そんなものまで全て神に頼り求めるな。あなた方の自由は、権利でしょう。自由があるからこそ幸福にも不幸にもなれるのです。自由でありたいと言いながら、不幸は嫌だ。失敗は嫌だ。ただ幸福ならばいいというならそれは人間の自由意思を捨てることです。自由が欲しいといったのではないのですか?
あなた方は本当に我儘で矛盾している。そろそろ気づきなさい。
自由であることの価値を知りなさい。
何度も申し上げていますが、国家とは何か。日本とは何か。なぜ必要なのか。
この問いをまず答えなさい。
自分一人と国家とどちらを守りますか。
そしてあなたは自分一人と国家とどちらを守りますか。
この問いが今後10年間で日本人一人一人につきつけられる問いである。
もし、自分が大切ならもう日本の意味はないのです。日本はなくなればよいのです。
依存心に満ちた国民のあつまりならばそれは、もはや不健全なだけの組織です。不要です。滅びてよろしい。
国家におりながら国家からの貢献だけを求め、自分は国家には寄与しないという利己主義者の集まりならば、これは不要です。
あなた方の教育は国家より個人をとるのでしょう。それは、一見正しいように見えるかもしれません。ですがそれはつまり国家の意味がないことを意味します。国家は個人の幸福追求のためにあるのではありませんし、幸福追求こそが人間の価値であるというようなちっぽけな考え方は間違っております。国家とか人間とかいうものにはもっと大きな価値と意味があります。ただ一人一人が幸せに暮らすためとかいうレベルで存在するのではなくより大きな意義があるのです。

部署のために会社があるのではない
国家は地球をどうすべきというビジョンから生まれたものです。
地球のビジョンの実現のために国家を作ったのです。
当たり前でしょう。会社で言えば、会社のために営業や、広報やといった部署ができてくるのであり、部署からできたわけではないのです。ですから不要な部署は当然縮小したり、解散したりしますし必要な部署は創出し増員します。
このように地球そのものがどういう方法性に向かうべきかを考えてそれを束ねている存在は確かにあります。それが地球の主導権を決めていると言えます。このようなことを無視して、たかが部署の連中たちがわけのわからないことを言うなら当然その部署は解散させます。当然でしょう。
ですから私が言いたいのはたかが人間の分際で、生意気なことを言うな、わきまえろということです。
あなた方の一番愚かなことは隣国を批判するが自分たちの過ちを認めないことだ。
もしその中であなた方がまだ生き延びたいなら、自分たちの意義をしっかりを考えなさい。日本とはなにかしっかりと考えなさい。その有用性を示してみなさい。
残念ですが、今のままでは日本はいりません。弱い弱い国です。情けない国です。いりません。
まずは認めなさい。自らの誤りを求めなさい。あなた方の一番愚かなことは隣国を批判するが自分たちの過ちを認めないことだ。
はっきり言ってあなた方の考え方は間違ってます。でも誰一人としてそのことをはっきりと認めない。

謝罪しなければいけないのは、誰ですか。
隣国が悪いのではありません。もちろん隣国に悪しきものは巣食っております。しかしあなた方自身に国家を死に至らしめるものがあることは事実です。
そのことをなぜ素直に反省しないのですか。
なぜ認め謝罪しない。あなたがたが謝罪しなければいけないのは、誰ですか。
神もなんでも騙せる!人は騙せる!嘘をつける!そう思っている情けない心が許せない
あなたがたは本当に謝罪すべき者どもには謝罪していない。
あなた方は悪いとは思っていない。何も思っていない。罪悪感を感じているふりをしているだけです。先祖が悪いとか、そういうことばかり言いますね。
でもあなた方は本当は全然反省していない。何が悪いかもわかっていない。あなた方は反省していないのです。
自分が悪いとは思っていない。何も思っていない。何が悪いかもわからないけど、とりあえず謝るふりをしている。そして騙せると思っている。
深く考えてもいないのです。それなのに形だけで謝ったふりをして、
まぁ神もなんでも騙せる!人は騙せる!嘘をつける!そう思っている情けない心が許せないのです。まったくもって、卑怯です。
あなた方一人一人が自分は何を謝罪しているのかをはっきりさせるべき
何か悪いことをしたのなら何が悪いか反省しなさい。そういう点も卑怯です。口先だけの謝罪ならしない方がましです! 心が伴わない謝罪など何の意味もない。だから本当はあなた方一人一人が自分は何を謝罪しているのかをはっきりさせるべきなのです。
なぜよくわからないのに謝罪しているのかを、疑問を感じるべきなのです。
そうやって、自分たちの先祖が悪かった。私たちは悪くないと先祖を馬鹿にする権利が今の日本人にありますか。それほど素晴らしい方々ですか。そう靖国神社で言えますか。
謝るならば自分自身の愚かさをしっかりと自覚しなさい。自分の愚かさを棚に上げて偉そうに人を馬鹿にするものが多すぎるのです。そういう利己主義者ばかりでどうするのですか。
国家をないがしろにし、利己主義者を育てたことを許せない
私は日本国民に反省を求めているのです。
国家をないがしろにし、利己主義者を育てたことを許せないのです。そして日本という国をあなた方が侮辱しその価値を下げ、弱い国にしたことについて、私は反省を求めているのです。
本当に心の弱い者たちです。もっと強くなりなさい。
先祖のせいにするのはやめなさい。悪いのはあなた方自身です。
国家とは生き物です。傷つければ血を流します。血を流しすぎれば死にます。
ろくに勉強もしないのに先祖を馬鹿にし、それがどれほど国家を傷つけるかわかっていないのです。
あなた方は国に住みながら国家のことは何もわかっていない。
国家とは生き物です。傷つければ血を流します。血を流しすぎれば死にます。
国家は死ぬものなのです。
そして、私に頼るな。そのような依存心に満ちた国民ならばいりません。
私に頼らずあなた方で自分たちの未来を決めなさい。そろそろ自立しなさい。
日本が死を迎えようとしている。
日本は終わりを告げようとしている。
私たちとともに死を迎えようとしている。

日本の国民たちは日本を捨てた。
日本よりも自分たちを選んだ。
たとえ日本などなくとも自分たちが幸福ならそれでいいとおもったのだ。

日本よりも個人が大切。
そういう教育を戦後70年も行ってきた。
そして、それは日本人の常識になった。
だから、誰一人として日本のために己を犠牲にする「馬鹿」なことはできないのだ。

私たちは先祖の死を「犬死」と言った。
彼らは「無意味なもののために無意味に死んだ。かわいそうな人たち」

私たちは彼らを「かわいそうで、愚かな人たち」と言った。

彼らの「過ち」を繰り返さないように。
それが日本人の常識になった。

彼らは過ちを犯して、命を捨てた。
それが日本人の常識である。
どこかで、どこかで私たちは先祖を馬鹿にしていた。

そしてついに日本のために戦うものはいなくなった。
そこにいるのは、日本が何をしてくれるかを求める人たちの集まり。
日本には特別な意味はない。
日本でなくともよい。ただそれが私たちの生活の役に立てばそれでいいのだ。
日本。その言葉はもう深い意味を持たない。
ただの国の名前。

誰一人として日本のために命などかけられない。
それは「馬鹿なことだからだ」それは「愚かなことだからだ」
私たちの心にはもう祖国はない。日本はもうないのだ。死んでしまったのだ。
心の中で死んだ日本が、現実にも消えようとしているだけで、それは当たり前のこと。
最初に私たちの心から日本は消えた。
そして次に日本が本当に消えようとしている。
けれど、もう心の中にないのだから。それはもう死んでいる。
イスラム国と中国共産党の蜜月関係。

①イスラム国は中国共産党からの水面下で軍事援助を受けている。
②表向きは中国共産党はイスラム国に対して否定的な意見を表明しているが、それはブラフであり実際は、蜜源関係にある。表向きは米国・欧米と協調関係を取る姿勢を見せながら、裏ではイスラム国への支援を実施し、さらなる泥沼化を計画している。
③中国人がいくら人質にされても、中国共産党にとっては中国人一人の幸福などまったく関心がない。いくら死んでもよい。
④イスラム国は近い将来アメリカで、大規模なテロを展開するだろう。
中国共産党の目的は、イスラム国によるテロの増大。米国のテロを計画させるだろう。
米国民に大して、多大な軍事出費を求める同時に、「他国の戦争に介入することは無益である」という認識を植え付ける。
→海外戦争への不介入を宣言するものが大統領になるだろう。
→日本と中国が戦争した時にも米国が積極的に介入しないようにする。
⑤イスラム国の内部対立が発生する。
それに乗じて親中の指導者を支援し、擁立させるだろう。
⑥欧州・米国とイスラム国の対立は泥沼化する。
そのあとに中国共産党は本格的な極東への侵略を開始する。
自己顕示欲の塊みたいな人。

人間はなにかしら劣等感を感じることがある。劣等感を感じて、その劣等感を感じすぎると今度は、補填作用が働く。補填したいと思ってつまらないことを自慢するようになる。

人間には自分が素晴らしい人になりたい。自分の力を世の中に示したいという欲望はある。別にそれ自体は自然なものである。しかし、劣等感を満たすために、そのためだけに他人の評価を追い求めるのはあまりお勧めできない。
劣等感とは、人に認められても解消はされない。自分で自分を認めない限りいつまでもある。

自信がないと言いすぎるのは、自意識過剰

自信がないということばかり言うのは、あまりにも自意識過剰である。
例えば、あなたが、ズボンをチャックを開けたまま、外に出かけたらどうだろう。
ほとんどの人は気がつかない。
気が付いた人が何人かいるかもしれない。でも別にそれを指摘してくる人はさらに少ないだろう。

後で気が付くと恥ずかしいとおもうだろうが、別に周りの人はそこまで気が付かない。
あぁ恥ずかしい奴だなぁと思われるくらいで実害はほとんどない。
自意識過剰の人に限って視野が狭い。常に自分のことばかり考えている。
自意識過剰の人には、あなたはどのくらい周りのことが目につくかを聞いてみたらいい。

同じ服を着ても気が付かない。髪型が変わっても大して気がつかない。
でもそんなことは自分のことになると極度に気になる。
つまり、あまりにも主観的すぎるのである。

別に自信なんてなくてもいい。別にそんなものはいいやといったん自分から離れたほうがいい。自分のことばかり考えていてもあまり意味がない。視野が狭くなるだけだ。
国家存亡の危機にありながら、いまだ立ち上がることのなき若者たちよ。
かつての日本人ならばできたことが今の我々にはできないのである。
しかしそれが果たして正しい態度であるか、
中国の核ミサイルに脅され日本が屈服する未来が私には見える。
いやあなた方にもそれは見えるはずだ。しかし見えていないふりをしている。
面倒なことは言わずに、余計なことは言わずにただ自分の一日の生活ばかりを重んじる生き方。これが人としてあるべき姿か、特に日本の大学生やエリートと呼ばれる者たちであっても国家の未来よりも今日の晩飯のほうが大切なのであれば、誰が日本を守ることができるだろうか。
あなた方は本当は自分たちが嫌いなのだ。そういう自分たちに罪悪感を感じているのに、それをすべて政府のせい、国家のせい、日本のせいにして目を背けている。
大人たちもこれを叱責できない。
マスコミも国民を叱ることなどできず迎合する。
この国に正義はあるか、この国は本当に日本国民にとって必要なのか。この国に意味と価値はあるのか。
どこにもその身を投げ出し国家のために戦うものはおらぬか、もし国家のためになどばかばかしいと思う国民ばかりの国ならばそれはもはや国ではない。
もう日本は死んでいる。
精神的には死んでいる。




恐怖心とは何か。

恐怖心とはその実、実体のないものです。
多くの人はあの人は怖いといいますね。その人の中の何かを怖がっている自分がまた、いるということです。
怖いものを見たとき、人は逃げます。幽霊とか、もそうですね。とにかく、怖いと思ったら走って逃げます。なぜならば、それは害されるのではないかという恐怖を感じるためです。
動物ならばそうですね、天敵にあったら一目散に逃げます。
そうしないと、食べられてしまうからです。
人間が恐怖を感じるとき、その時には、「害されるのではないか」という思いがあります。
私たちは、そして自分の心の中に恐怖を生み出しているのです。

恐怖に打ち勝つ方法は一つだけあります。それは戦うことです。
恐怖には勝つ必要はありません。負けてもいいのです。しかし逃げずに戦えばそれで、その恐怖は恐怖ではなくなるのです。またその恐怖に直面しても戦うことができます。

最悪のシナリオと戦うこと

恐怖を感じたならばその恐怖が提示する最も恐ろしい未来を予測してください。
最も恐ろしいシナリオを予測してください。
そしてその通りになると思ってみてください。
それでも戦ってみてください。そうすれば、その恐怖には勝ちます。

例えば好きな人に告白するときに怖いのは、断られたらいやだという思いですね。
気まずくなって話せなくなったら、ひどく拒絶されたら、口をきいてもらえなくなったら、いろいろな人に言いふらされたら、
こういう恐怖心です。
ですからまずはそれを自覚して、そうなっても構わないと思えば別に恐怖はありません。
いや、そんなの絶対無理だと思うならば告白は無理なので、あきらめるしかありません。
成功するか失敗するかはわからないのです。失敗する可能性をゼロにすることはできません。最悪を覚悟するからこそ、恐怖と対峙できるのです。

告白して振られるだろうが、別にそれでよい。と思っていれば別に怖くなどありません。
私たちが、その失敗のシナリオを恐れて何もできないのですが、一度最悪のケースになってもよいと思って腹をくくれば恐怖は消えていきます。

私たちは私たちの脳みそで恐怖を肥大化させて実際以上に恐れていることがあるわけです。

よく考えてみたらわかるでしょうが、好きな人がいても告白しなければ、それ以上進展することはないのです。つまりどこにも進まないのです。そのまま時間とともに疎遠になって、一生付き合うことはないでしょう。ですから、考えてみれば、振られて失うものはないのです。別に現時点で何もないのですから、別に失うものはほとんどないのです。

気まずくなりたい相手ならそれは恋愛対象にしてはいけない。

振られたら、気まずくなるじゃないかという方もいるかもしれませんが、
それならばそもそもその人とは付き合うべきではないのです。
一度付き合ってそれから別れたらそのほうがずっと気まずいでしょう。
ですからこの人とは絶対に安定した関係を保ちたいと思うならば、これは、告白する相手ではないので、別の相手にしたほうが賢明です。

恋愛ものの映画などを見ていると、随分と馬鹿なことをしているようなケースがよくあります。
賢いと呼ばれる人でも恋愛問題になると愚かになるケースもよくあります。しかしそれではなかなか成功することはできません。

両想いにならないということは縁がない。

人間が誰かを好きになるときはその人を一人好きになります。
考えてみれば不思議なことです。世の中には似たような人はたくさんいます。
それでもその中の一人がいいと思って直進していくのです。
しかし片思いが両想いにならないことはよくあります。
お互いの愛情には差があるのです。自分が思うほど相手が自分を愛してくれないとか、そういうことで悩む人がいますが、これは当たり前のことなのです。

考えてほしいのは、両想いにならないのならばそれは縁がないということです。
いくら片方がこの人と結ばれたい、縁があるのだと思っていても、両想いにならないのならばこれは縁がないのです。残念ですが、縁がないのですからどうしようもないのです。
それなのにあまりにもしつこく一人を追いかけまわすと今度は、どんどんと自分の心を痛めていきます。無駄な時間です。

告白とは宝くじを買うようなもの

もしも好きな人がいるならば、告白してみたらよいのです。これは宝くじのようなものだと考えたら気楽です。買えば当たるかもしれないと思って気楽に宝くじを買う人がほとんどでしょう。当たるとはあまり思っていません。実際当たらなくても、それほど落ち込まないのですが、買わないと当たらないのも事実です。
告白というのは宝くじを買うようなもので、別に好きなだけしたらいいと思うし、何度も失敗すればいいと思うのです。
成功を期待すると、やはりひどく落ち込みます。でも失敗してもいいやと思って、だめもとでやってみたら案外楽にできるものです。
それでだめなら、これは縁がなかったのだと、あきらめてしまったほうが精神衛生上はよいのです。

結局のところ、付き合ったとしても、いつかは分かれます。ほとんど結婚にはつながらないで別れるのです。最初に振られても傷つきますが、長い間交際して別れる時も傷つくのです。どちらにしても傷つくものであると考えたほうが良いでしょう。

自分が魅力のないとしてもそれを自覚すること。

なぜ人に振られたくないかと言えば、それが、自分の魅力がないことの証明になるからではないでしょうか。
確かに、世の中にはもてる人とそうでない人の両方がいます。しかしながら、それは厳然たる事実であり、別に人に振られようが振られまいが不変のことです。
それは自分が魅力がないという事実から都合よく目を背けようとする作用でもあるのです。
あまり自分は魅力的でないなと思う人は、そのことを自覚して、まぁこのくらいの成功率だろうと算出すればいいだけのことですし、成功率が低いのですから振られても、まぁ当然かと思えばよいのです。

若いころは異性にもてるということが、ステータスのように思える。

若いころは異性にもてる、もてないということが人間そのものの価値のように思えます。
それは人間としてあまり差が顕在化しないからなのです。10代、20代で目立つというのは外見や、才能など先天的な要素が多く、後天的な要素はあまり顕在化しません。ですからそういう先天的な要素ばかりが、強調されてしまい、人の価値というものにもどれだけ異性から人気があるかということにすり替わってしまうこともあるのです。

しかし、人間の価値とは、そのような一面的なものではありません。
人間の価値とは、時間がたてばたつほど顕在化してきます。
若いころの自己投資が少しづつ開花して、生まれ持っての才能を超えていくようになります。
何の努力もなく手に入れた外見のようなものや、才能、もともとの頭の良さ、要領の良さなどは、人生の再序盤に最も評価され、時間がたつとともに、消えていきます。

若い方は、自分が、異性にもてない。男として女としての魅力がない。告白しても振られてばかりということを悩むことが多いと思います。それは、まだ先天的な価値しか顕在化しないためです。しかし、それだからと言って恋愛に対して消極的になる必要はないと思います。自分が異性から魅力的に見えると思い込んでいると、現実との格差に頭を抱えることになりますが、
そのそも自分はたいしてモテない。成功確率は低いと思って入れば案外必要以上に落ち込むこともないでしょう。
その成功確率がどのくらいなのかを客観的に理解することはとても大切です。

若いころにもてたとしても、10年後、20年後にも持てるとは全く限らない。

若いころにいくら持てたとしても、それが、10年後、20年後のはどうであるかと言えばそうとも限りません。例えば、25歳くらいの女性で容姿が良ければ男性から言い寄られることも多くあるでしょう。しかしながら、それが35歳であってもそうかと言えば、やはり容姿は衰えていきます。それが45歳であれば、言わずもがなでしょう。
容姿というものは時間とともに劣化していきます。その価値を失っていくのです。これはどんなに美しい人で会っても同様です。必ず劣化して、魅力を失っていくのです。
男性であってもそうです。25歳であれば、容姿の良さが魅力につながることもたたあるでしょうが、35歳や45歳になれば、その人の年収や、社会的な地位、性格というものが容姿以上に重視されてくるでしょう。

容姿とは必ず、劣化していくのです。これは、必ずそうなります。
しかし人生とは60年とか、70年とか、そのくらいの長いものです。
ですから、自分がなぜ人から人気があるかというときに、外見が優れているというだけというのは、少し寂しいでしょう。
こういうものを生まれながらに持ち合わせていたとしても、それが、果たして、その人の成功につながるのかということは一考の余地があります。

成功とは何か。

人生における成功とは死ぬときに充足感に満ち溢れることでしょう。
素晴らしい人生だったと思いながら死ねるのであれば、またそれを客観的に見たとしても、素晴らしいと評される人生ならば、そこには救いがあるでしょう。
逆に死ぬときに後悔ばかりであれば、失敗でしょう。

こういう人生観で人生を見た時に、生まれながらにして多くのものをもっていることが果たして成功に寄与するのかというのは疑問の余地があります。

えてして天才というのは、努力を厭うものです。

考えてみればわかるでしょうが、努力しなくても生まれながらに持っているならば、それは、それを手に入れることがどれほど大変かはわからないでしょう。
自分に酔いしれ、他人が当たり前に行うべき努力さえ、自分には必要ないと考えたならばその人の人生の序盤における自己投資は極めて貧弱なものになることが容易に予想できます。

振り返ってみても、小学校や中学校で、才能にあふれていて、何の欠点もないと思っていたような人たちがその後の10年後、20年後にも置いてそうであるとかと言えばそうではないはずです。
多くの劣等感をもちながらもそれを克己するべく努力した人たちにおいてこそ、本当の意味での才能が開花してくるのです。

人間は生まれながらに多くの才能を持っています。しかし多くの人々はそれを最初からないものだと思い込み、自己投資が不完全なのです。不完全な自己投資ゆえに、大して才能を開花させることができないまま死んでしまうのです。





最初に違和感を感じたのは、クールジャパンという言葉だ。
アニメーションに対して海外が注目すると急に持ち上げようとする。
アニメーションなんてずっと前から日本にあった。しかし日本政府は決して注目してこなかった。インターネットの普及で日本の情報が海外に伝わるとどうやら海外で評価されることが分かった。そうすると急に持ち上げる。
その次には海外から認めれる。海外から評価されるという言葉の多さに違和感を感じる。
まるで海外は価値判断という面で日本よりも優れているかのような言い方である。


日本という国そのものがキョロ充である。と最近は思う。キョロ充というのは、常に人の目を意識して人気のある者たちのグループの一員でありたいと感じる人のことを指すネットスラングである。日本という国は、常に海外の目を気にする。海外から評価されることを求める。海外から褒めてもらうことで、権威付けをしようとする。海外からの評価ははたしてそれほど重要なものなのだろうか。ところで私たちは自らの国がどのような点で優れているのか説明することができるだろうか。

中国の民度

よく引き合いに出すのは中国だ。中国の礼儀作法がなっていない。バスに並ばない。列を守らない。民度が低いとよく叫ぶ。けれどはたして中国と比較することにどのくらいの意味があるのだろうか。中国と比べて民度が高い。それはいったいどれほどの民度の高さなのか。そもそも単一民族の日本と、国家の中でも言語にまで大きな違いがある中国で同じような環境と言えるのか。そのなかで民度などというあいまいなものを取り上げて何の意味があるのか。

比較大好きな国民たち

日本人はとにかく他国と比較をする。比較対象がいることで初めて自分を規定できる。それはあくまで相対的な評価で、何かと比べて優れているとか、何かと比べて劣っているとか。欧米諸国では消費税が何パーセントだとか、欧米平均と比べればとか。
そもそも日本は世界でもトップクラスの経済力を持つ国なのだ。それなのになぜ、自分たちよりもGDPの低い国々の平均値などを比較材料にする必要があるのだろうか。
そしてその比較をすることでそれはどのくらいの意味があるのか、論理的な根拠になるのか、アメリカがこうだから、欧米がこうだから、そんなものがどのくらいの根拠になるのか。BBCがどうかとか、ニューヨークタイムズがどうだとか、それって各国の価値観が多様に出るもので、そんなに日本人が気にすることなのだろうか。

日本人は自らの価値を自らの絶対的な価値観で表現できないのだ。
自らを知らないのが日本人なのだ。
考えてみれば、私たちは、日本の価値を規定できない。世界の中でなぜ日本が必要なのか。
日本が世界にある意味。もっと言えば「日本とは何か」というこの国家のアイデンティティに関する問いに対する答えを見失っている。
「日本とは何か」この問いに答えを出すことが日本にとって非常に重要なことではないだろうか。

自信を失う日本。

一方では日本という国自体が自信を無くしていることもある。
日本自体が、自らの存在意義に迷いを感じている面がある。
そういう国の雰囲気の中で育った若者はやはり自らの存在意義を見失うのも当然の道理と言える。
日本とは何かという
この問いに対する明確な答えを見失い、ここから先日本はどうするべきなのかを見失っている。
明治期に日本が目指したのは、「国家の独立維持であり」敗戦後の日本が目指したのは「経済的な繁栄」であった。しかしながら、バブル期に経済的な繁栄を経験してそののち日本にとっては、もはや目指すべき理想像がなかった。
経済的な繁栄を実現した後、それ以上の目標が見つかることがなかったのである。
日本には、「日本はどうなりたいか」というビジョンがかけていた。
そして「なにをもって日本は日本と呼ぶことができるのか」というアイデンティティも見失った。
経済的な繁栄をすることが日本にとっては答えであると考えていた。
しかし、経済的な繁栄をすることでどういう国家になりたいのかというビジョンがなかった。確かに物質には恵まれた。豊かな国になった。しかし、その先に日本が目指していた理想の日本像がなかった。
「経済的に繁栄して、どんな国になるの?」そこまで頭が回らなかった。
理想の日本像がなかったことが国家として致命的な誤りであった。うじうじと失速し始めて20年。いまだに夢がみつからない。

どんな組織にも必ずミッションがある。必ず存在意義があり、目的がある。
むしろ目的があるからこそ組織が生まれるのだ。
日本という大きな組織は、何のために存在し、何を目指すのか。

若者の夢もこの相対的価値の呪縛の影響を多分に受けている。
「海外に日本の良いところを伝えたい。」「日本と海外の懸け橋になりたい」「日本の国際経済力を取り戻したい」どれもこれも素晴らしいのだけれど、なぜかよく海外が出てくる。
「日本をこういう国にしたい。」とはっきり言えばいいのに。「海外から尊敬される」とか枕詞がついてくる。

例えば日本が世界最大のGDPを持つ国になったとしよう。今の何倍も経済的に反映したとしよう。ではそれは何のためなのか。それはただ豊かな暮らしがしたいからなのか。
日本人は景気が良くなってほしい。経済的に成長した国になってほしいと願う。
けれどその暁に手に入れるものはなんなのだろうか。
きっとまたバブルを自ら潰すだろう。私たちは日本が経済的に反映することを望みながらも、経済的に繁栄することでどういう国家になりたいのかというビジョンを描くことができていない。
「結局は利己の追求なのだろうか。」
そんな疑問を日本人は感じ、やけに利己主義を嫌う日本人はその居心地の悪さから抜け出そうとする。日本は経済的に繁栄するだけの正当な理由を見つけることができていない。
そうしてバブルを自ら潰して、どこか心の奥底ではほっとした。それは経済的繁栄が目標のくせ経済的な繁栄を目標としたことに罪悪感を感じてしまった。拝金主義はよくないと言いながら、景気を良くしてほしい。格差はいやだと矛盾した願いを持つ。
「何がしたいかわからないという若者が多い」と大人たちが記事にするが、「大人たちも自分たちが日本どんな国家にしたいのか、何をしたいのか」わからない。

日本はどんな国になりたいのか。日本はそうして世界にどんな影響を与えたいのか。
この当たり前の問いがわからないのが正直な日本の現状だろう。
これがわからないということはある意味では「日本の意味」を日本人が見失っていることでもある。
組織において組織が組織の存在意義を見失ったとき組織はなくなる。
これは国家においてもそうだ。
国民が国家の存在意義を見失ったときにもはやその組織は不要になってしまう。
ただの金儲けのための組織が日本であるならば、それは本当に日本である意味があるのだろうか。
「日本とはなにか。」この問いはまだ答えが見えない。

一身独立して一国独立す

こういう時代にやはり福沢諭吉の言葉はまた響いてくる。「一身独立して一国独立す」
その言葉は今にも響くものである。

日本が海外からの評価を求め続ける限り真の意味で自立することはできないだろう。
これは人間にも言えることで人からどう思われるかということを考え続ける限り、依存関係は続く。人の評価にべったりと依存している限り人は本当に大きなことはできないものである。

すこしでも海外が日本に否定的なことを言うと、すぐに喚くのが日本人だ。しかしそれほど海外からの評判というものは重要なのだろうか。
それは国家の利益を捻じ曲げてても得るべきものなのだろうか。
国民の幸福を犠牲にしてでも守るべきものなのだろうか。

親日国と聞くとすぐに好きになる。日本が嫌いと言われるとすぐに嫌いになる。中学生レベルの感情論に振り回される。別に相手が自分をどう思うか。それがそれほど大切なのか。いちいち反応する必要はあるのだろうか。

たしかに太平洋戦争直前の日本は欧米諸国から村八分にされたような状態だったかもしれない。けれど、有色人種国家の多くは日本をそのようには見ていなかった。世界経済を牛耳っていた国々から嫌われるのと、世界中の国々と嫌われるのは全く別の話である。そしてもっと前から考えれば明治維新のその時から日本は常に欧米諸国から有色人種の国として蔑まれ、いつ侵略されるかわからないという恐怖の中にあった。

それほどまでにして日本が守りたい評判とはなんだろうか。
なぜ日本が海外諸国の評判を守らないといけないかと言えばそれは、日本国民に自信がないからである。
日本国民に自信がない。海外に褒めていただくことで初めて自らを褒めることができるような、弱い自尊心しか持ち合わせていない。少し海外から侮辱されるだけで大騒ぎして関係修復のために走り回るほどの弱い自己肯定感しかないからだ。

通常すべての人と仲良くできないようにすべての国を仲良くなどできないのである。それは人間関係と同様に国家にも多様な価値観があるからである。そして価値観が全く異なるならば対立して当然である。国家しての価値観が違うのに無理に合わせようとすればそれは、国家の価値観を捻じ曲げることになる。それは信用を無くすことであり、同時に国家の理念を曲げることである。国家の価値観を曲げてまで友好関係を築く意味はない。
けれども、どうしてもみんなとなかよくしたい。誰からも嫌われたくないと八方美人になるのは、なぜだ。それはやはり海外の評価でしか自分たちの価値を規定できないからだ。
間違っていると言えないのはやはり自信がないからだ。

そして経済的な繁栄を失うならば日本人には何が残るのか。
そう考えればいい。毎回毎回経済的な話でしか自分をアピールできない日本人とはなんだ。
これは、本当に尊敬すべき国民に映るのだろうか。
ちょうどそれは、劣等感ばかり感じているのに勉強だけはできるような人物だ。こういう人物は勉強ができなくなったらどうするだろうか。

つまり、日本が経済的に落ちぶれたとき日本は、唯一の日本人のプライドを失う
きっと日本が経済的な繁栄を失ったとき、日本人はもっと日本に誇りを持てなくなるだろう。
経済以外に日本が世界に誇るものは何か?この問いに答えることができるだろうか。

この問いの答えが「日本とは何か」につながる。

日本人としてのプライドがないとすれば、日本そのものに対するプライドもなくなる。
そうすれば自然と日本への関心はなくなっていく。

GDPではない、ノーベル賞が何人いるとか、工業力があるとか、自然が豊かだとかそういうものではない。そういうものは本当の自信にはならない。私たちが自らに誇りを持てるものとはなんだろうか。

「日本はこれから何をするのか。」その大きな大志こそが日本という国の自信につながる。まず我々は我々自身を知る必要がある。日本とはどのような生き方をしてきたのか。そのことをまずは知るべきである。そして日本がなぜこの世界に生まれたのかを知る必要がある。日本が世界に生まれたということはそこに日本が生まれる必要性があったということである。日本がなぜ生まれる必要性があったのか。なぜ世界は日本を産んだのか。それを知るべきである。何の意味もないものが世界にうまれることはない。

そして日本は何をして、何を大切にし、何を信条として生きてきたのか。それを知るべきである。そうすれば日本が何かという問いに近づけるはずである。

そして今度は大志を立てなければならない。「日本はこれから何をするのか」この大志こそが今度は日本の理想像となり、やがては日本人の誇りとなり、アイデンティティとなる。
このように組織に明確な目的意識が生まれそれがその組織の構成員の中で深く共有され、共感されたときに国家というものは飛躍的に進化する。
日本が更なる次の進化を望むのならばまず行うべきは「国家の理想像」の共有である。
それを日本国の構成員たる日本国民に深く押し広げる必要がある。

日本人というのは、目的意識を共有したときに飛躍的に力を発揮する国民性がある。だから「何のために、何をするか」というところに必要以上に拘る、それは短所であり、長所でもある。
明治期に日本が描いた理想像とはまず、国家の独立を維持することであった。そのための富国強兵というスローガンはまさしく国民にとって共通の目的意識となった。

現代の国難はこのスローガンを掲げるだけの大きな人間が存在しないということだ。小粒なスローガンはあるかもしれない。けれど、「日本はこの方向へすすむべし」というスローガンを掲げるものがいないことである。

やはり、そういう国家の不安定さは周辺国家にも伝わるものである。
ちょうど中国が日本領土に対してちょっかいを出しても明確な結論が出せないのは、「日本は個人が命をかけてでも守るものである」という国家の基本的な考え方に対して疑問を感じるものが一定数以上いるからだろう。
「国家のために死ぬなんてばかばかしい」と思う国民が過半数なら戦争は起きないしそのような状態ならば国家は必要ない。例えば「別にこの会社は倒産して良い」と思う社員ばかりの会社ならばやはりその会社はなくてもよい。
国家も同じである。
「日本がなくなっても自分が生き延びて平和に暮らせればよい」という人々ばかりの国であれば、やはり国家はなくてもよい。
国家を存続させるためにはその国家を維持したいという強い意志が必要である。その意思が揺らぐような国民たちの住む国家ならばそれはなくてもよいという判断をされても仕方がないだろう。

国家のために死ぬのは馬鹿馬鹿しいというならば、国家の意味などない。
国家に貢献する人間よりも国家から何かを得ようという人間が多いなら確実にそれは、悪しき組織であり、滅びるべきである。
あまりに、国家に対して依存心の強いものを増やしすぎたし、福祉国家とはいわば国家に依存する人間を許す仕組みでもある。過度な国家福祉は依存的人間を増やす。
依存的な人間が増えれば、国家に依存することが常識となり、そして国家はもはや、一部の国家に貢献する人間が、国家に依存する人間のために苦労する悪しき呪縛となる。
国家とは国民が貢献することにより存続するものであり、国家に貢献する人間よりも国家に依存する人間が増えたなら国家は崩壊する。

自立した個人があってこそ多様性のある社会は生まれるものであり、
人間は国家が守らなければならない弱いものである。という見方はある意味では人間そのものを過小評価するものでもある。
たとえ国家がなくとも人間は自ら自立し生きることができるという前提は必要だろう。


核武装以外の方法では、日本を防衛することはできない。
日本国の独立を保つためは核武装が必要である。
核武装においてこそ日本は国家の独立を保つことができる。
それ以外の方法、たとえば憲法改正などは、ほとんど意味がない。それは気合を入れる程度のもので、「核攻撃するぞ」と脅されたときに対抗手段がなければ核保有国の侵略を避けることはできない。日本の都市が核攻撃を受けながら、日本が戦争を続けることができるか、それはかなり怪しい。したがって核保有国が本気で侵略行為を始めたならば、核を持っていない日本に勝ち目はない。
滅びは近い。しかし憲法改正、集団的自衛権だけでも思うように国民が納得しない。
これでは核武装はかなり難しい。核武装なしでどうやって核保有国に対して戦争を行い勝利できるのだろうか。しかし核武装などといえば、一気に核武装アレルギーでそもそも議論にすらならないのが現実である。

では、アメリカはいつまでの日本のために核攻撃をする覚悟があるのだろうか。アメリカは、確かに第7艦隊は派遣してくれるかもしれない。しかし、核の打ち合いをしてくれるだろうか。それは随分と怪しい。したがって日本には日本のために核攻撃をしてくれる国が存在しない。これが最大の弱点である。
そうであれば、勝つためには、日本人がたとえば国民の半数を核で死なせたとしても絶対に降伏しないと誓うほかない。しかしそこまでの人命の犠牲の覚悟があるのだろうか。

ほとんどもう詰んでいるというのが現状ではないだろうか。いかに兵装を強化し、法律を改正しても、やはり核がなければ日本は勝てない。

核武装以外のすべては本当のところあまり意味がない。
それ以外の手段では日本を防衛することができない。かなり滅びは近い、ところが軍事評論家も、結局は、F35がどうだとか、イージス艦がどうだとか、パトリオットがどうだという通常戦力の話ばかりでまったく論点がずれている。そういうものははっきり言って「ニュークリアブラックメール」(核攻撃の脅し)に対しては効力がない。

憲法改正も本当のところどちらでもあまり変わらない。日本人は人命が犠牲になればすぐに攻撃を支持する。別に憲法9条にそこまでこだわりがあるわけではない。ほとんどの日本人はあまり深く考えておらず、情緒的に意見を言っているだけである。一度人命が死ねば一気に世論は変わる。しかしその時に核兵器がなければ日本は敗退する。いくら、通常戦力があっても意味がない。

本当は核武装をするべきなのだけれど、なぜか核の重要性がわからない。たとえ日米同盟を反故にしてでも核武装すべきだ。全世界から非難されても核武装はするべきである。米国は日本のために核戦争をするはずがないのだから、意味がない、本当の日米同盟の深化をもとめるなら、「日本が核攻撃を受けた場合、即時攻撃国に対して報復核攻撃を加える」という一文がなければならない。しかしそれはあり得るだろうか。
これがなければ米国も同盟国にはならない。米国が日本の核武装を拒否するならば、核武装せずともよい状態を整備すべきである。日本に核武装をするなと言いながら、同盟国として核攻撃の義務を負わないならばこれは同盟国と言えないはずである。

何よりも自国で核武装することは何より重要だ。民意など戦争が始まればすぐに変わる。人命が死んだら180度世論は変わる。しかしそれを待っていては時期を逃す。核武装には時間がかかる。必要になるときにすぐに発射できるものではない。

日本国内での核武装が厳しいとすればそれ以外の方法はいくつかある。
一つは米国に対して、「日本国が核攻撃を受けた際に、核攻撃の報復攻撃を行うことを義務づけてもらうこと。」しかしこれは、アメリカ国民にとっては、日本のために核攻撃の標的になれということである。果たしてこれをアメリカ国民は承認するだろうか。たとえば、ニューヨークやワシントンが廃墟になりながらも、尚、日本のために核攻撃を続けることをアメリカの民意は支持するだろうか。

他には米国以外の国に対して同じような条約を結ぶことである。しかしこれもまた、そこまで日本のために命をかける国民がいることが前提となる。世界のどこかの指導者が日本のために自国を焦土にしてもよいと思う覚悟が必要である。

それならば、核兵器以外で核兵器並の破壊力をもつ兵器を用意するという方法がある。
核ではないが、核兵器なみの破壊力がある兵器があれば、それは十分、核攻撃の脅しに対して有効である。しかしそのような兵器が世の中にあるのかは不明である。

当然核武装を行えば、米国との仲は険悪となり日米同盟にも影響を与えるだろう、経済的にも大きな影響を与えるだろう、しかし、それでも核武装が必要である。たとえ世界から孤立しても自国の独立を守るという行為を優先すべきである。
つまり核武装をしなければ、日本は近い将来核武装国の侵略に勝てない。しかし核武装をしても日本は世界から孤立し、経済的にも破滅する。どちらにせよよい未来ではない。しかし日本国の独立を維持するために、この苦渋の決断を早期に行うべきである。
核武装さえできれば、あとは優秀なリーダーが不屈の精神をもって戦えば、日本国は何とか次世代に残すことができるだろう。

世界から孤立し、経済力という日本の唯一の自尊心を捨てることができるだろうか
日本人にはその勇気があるだろうか。