昨日は、ナチスによるユダヤ人大量虐殺、ホロコーストのメモリアルデーだった。
英語では、Holocaust Remembrance Day、ヘブライ語では、Yom HaShoah(ヨム・ハショア)という。
主人と以前話をしていたときに、第二次世界大戦があったのは「昭和」という年号だったという話をしたら、「え、Showaなんて、Shoahと同じじゃん、何か怖いね」と主人が言っていたのを覚えている。
ルシュキちゃんとクアちゃんは、白シャツ指定で学校へ行った。ホロコーストについてどこまで学校で学ぶのかはわからないが、Yom Hashoahが大切な日である、ということは二人とも認知している。
イスラエルでは、午前10時に2分間に渡って国中にサイレンが鳴り響き、ホロコーストの犠牲者に黙とうを捧げる。ニューヨークだと午前3時になるので、さすがに寝ていたが、起きてからすぐに、2分間、黙とうを捧げた。
ただ「ユダヤ人であるから」というだけで無残に殺された、約600万人のユダヤ人。
親友のユダヤ人女性も、おじいちゃんがホロコースト生存者(すでに他界)で、彼以外の家族は全員殺された。そんな友人が大勢いる。
とまれ。
私は、小学生の2年生のときに、杉原千畝について学んだ。
杉原千畝というのは、第二次世界大戦当時のリトアニア在住の日本人外交官で、その際、政府の考えに逆らって1500枚あまりのビザをユダヤ人に発行し、6000人に上るユダヤ人を救ったと言われている(1家族1枚のビザでよかったため)。杉原千畝が発行したビザは「命のビザ」と呼ばれ、イスラエルには杉原千畝ストリートができたり、ホロコーストミュージアムにも杉原千畝の名前が飾られているほど、ユダヤ人にとって大切な日本人である。
私がお世話になっているラビのおじいちゃんも、この杉原千畝の命のビザで神戸へと逃れた一人である。日本人に助けられたユダヤ人の孫がラビとなり、そのラビが私と知り合った、というのは、神様のお導きなんだろう。
私は、彼の勇気と人道性、善行に8歳ながらに感銘を受け、そのときに、
「大きくなったら杉原千畝のような外交官になりたい」
という夢を抱いた。
だから、8歳以降の私の文集には、毎年、「夢は:外交官」と書いてある。
大人になって、外交官にこそなれなかったが、ユダヤ教徒となり、ユダヤ人家族となったのには、何かしらつながりがあるのかもしれない。杉原千畝の家族と知り合いのユダヤ人に何人もお会いした。いつか、千畝さんのご家族にお会いできる日が来るといいな、と思っている。
そして、杉原千畝外交官や、彼👇のような人間でありたいと思う。
ホロコースト・メモリアル・デーに、世界平和を心から願った。
Never Again.
Never Again is NOW.