本の都市リヨン(Ⅱ~終章)
(リヨンの街並み)Ⅱ リオン出版業の産声4 ものを書く商人リヨンには知の核なるべき2つのシステムが欠如していた。大学と高等法院である。リヨン大学の創設は19世紀末である。リヨンの人たちの目指す大学はどこだったか?神学とか自由七科ならパリ大学へ、医学を修めるならユダヤ並びにイスラム医術の伝統を有し、パリをもしのぐモンペリエ大学へ、法律を学ぶんならオルレアン、アヴィニョン、ヴァランスの大学へと赴いたのだ。5 二つの中心パリとリヨン 揺籃本の世界書物という精神の所産は、首都パリにおいてはそれにふさわしく大学構内で産声をあげた。かたやリヨンでは、フランス各地はたまた国外から訪れた商人たちが行き交い、商品を満載した荷馬車やラバが通るメルシエール街界隈で活字本が誕生した。Ⅲ 自由の代償6 騒乱都市ヨハン・クレーベルガー(1485/86-1546)ニュルンベルク生まれ7 排除と監禁の時代Ⅳ 〈大食らい団〉とストライキ8 印刷職人の秘密結社パリから列車で南仏に向かうとする。列車がリヨンのパール・デュー駅を出てローヌ河沿いを走ると、しばらくは工場地帯が続く。やがてトンネルを抜けたあたりから、急に視界が開けて、地中海の陽光が待ち遠しくなるはずだ。「緯度でニ度南に来た感じ」と、かのスタンダールは巧みに形容した。リヨンよりも古い歴史を擁するヴィエンヌはまさにこんな場所にあって、今も落ち着いた佇まいを見せている。とはいえローマの古跡が、そしてゴシックの大伽藍がそびえる由緒正しいこの都市も、ルネサンス時代にはいささか落ち目で、近くのリヨンの繁栄を指を咥えて眺めるだけだった。9 出版業者エティエンヌ・ドレの運命エティエンヌ・ドレという異端の思想家は、リヨン出版界の低迷期に最も派手に出版活動を展開した人物彼の銅像はモーべール広場にあったが、第二次世界対戦で壊されたままである。Ⅴ 出版の黄金時代10 本作りに携わる人びと当時のリヨンは地中海沿岸の市場を最優先にしていた。言い換えればパリを含む北ヨーロッパでは、シェアが低かった。税関(ドゥアーヌ)という言葉の起源は、このリヨンの入市関税なのだ。語源辞典を紐解けば、この言葉が税関を意味するアラビア語ないしトルコ語に由来すると判明する。イタリアではこの用語がとっくに採用されていたから、リヨン在住イタリア人あたりが命名したに違いない。パピルスと羊皮紙がエクリチュールの支持体として覇権を争ったのは紀元4世紀であったらしい。行政に関する公文書の原本が完全に紙に切り替わったのは、なんとフランス革命後の1792年というから驚かされる。ある個所は印刷開始後直ちに訂正され、ある個所はその半ばで、あるいは刷了間際に訂正され、 これ以外全く直されなかった。今日残る16世紀の刊本は同一の版本などまず存在しない。11 書籍商カンパニーの誕生Ⅵ リオン・ルネサンスの祝祭12 祭りと反乱13 『いとも華麗なる入市式』1548年というリヨン・ルネサンスの絶頂で挙行されたアンリ二世の〈入市式〉こそは、おそらくこの市場都市の相貌を最も忠実に反映しているはずである。Ⅶ 危険な書物14 ピエール・ド・ヴァングルと檄文事件1534年にカトリックのミサ聖祭を否定するビラがまかれて、貼られた。そのいわゆる激文事件をきっかけとして、カトリック対プロテスタントという対立の図式がもはや否定しえぬほどに顕在化し、不寛容の時代が到来する。フランス語書物の発行地としてアントウェルペンが、重要な役割を担っていた。16世紀前半のアントウェルペンは、ヨーロッパ最大の金融市場として繁栄していた。リヨンがフランソワ1世の資金調達地だとすれば、このフランドルの貿易港は皇帝カール5世のそれであった。共に大市で栄える両都市の関係は想像以上に緊密である。15 検閲の時代1537年にフランスで納本制度ができた。16 異端者ミシェル・セルヴェの処刑スペイン生まれの医学者・神学者ミシェル・セルヴェⅧ 出版誌を彩った人びと17 セバスティアン・グリフィウスドイツ南部のロイトリンゲン 出身18 ジャン・ド・トゥルヌ父親はリヨンの金銀細工商。金銀細工という職業こそは印刷術の母体シヴィリテ体はフランスの字体19 アントワーヌ・ヴァンサン改革派商人の典型20 ギヨーム・ルーエトゥーレーヌの地方出身でヴェネチアで修行Ⅸ 危機の訪れ21 自由都市の黄昏1536年リヨンは初めて市債を募集した。パリでは1520年に市債が実施された。ルイーズ・ラベという女性詩人。綱具屋小町(ラ・ベル・コルディエール)と呼ばれた。フランスに宝くじを持ち込んだのは、カトリーヌ・ド・メディシスという通説にどの程度の信憑性があるのかは知らない。いずれにせよ1539年フランソワ1世が国庫収入の一つとして宝くじを公認した。やがて宝くじはブームとなるが、主催者はほとんどイタリア人なのだった。22 ベストと梅毒の世紀リヨンでベストが大流行していた時、シャルル9世は巡行の真っ最中であった。彼は1564年1月24日にパリを出発し、以後2年後の3月1日まで、のべ 829日に渡り、ひたすら国内巡礼の旅を続けなければならない。国王とカトリーヌ・ド・メディシスはその間201回移動を行った。Ⅹ 亡命と回心23 ユグノーのリオン占領 『ジャン・ゲローの日記』から24 「浄められた都市」改革派による占領という非常事態のおかげで、都市リヨンはその容貌を新たなものとすることができた。第1次宗教戦争とはギーズ公とカトリックの拠点である首都パリと、コンデ公とコリニー提督を擁する改革派の都市オルレアンとの決戦であった。25 カトリックの春・プロテスタントの秋リヨンには大学も高等法院もなかった。名士たちは大学不在の穴を少しでも埋めるべく、トリニテ学寮という世俗の教育施設を設立した。 1529年の話だから、大暴動の年ということになる。26 リヨン晩禱の虐殺終章 メルシエール街の落日サン=バルテルミーの虐殺直後の1572年9月だけで、フランスからの亡命者700人の氏名がジュネーヴの住民簿に登録された。リヨンとジュネーヴの力関係も完全に逆転してしまう。フランスの活字本誕生から1世紀余りが経過していた。本の街メルシエール街は大市の都市リヨンの没落と運命を共にした。 わずか100年ほどで、その歴史的使命を終えたのである。