リブログ記事五木寛之全紀行2 スペインの墓標 西欧・南欧編(スペイン・ポルトガル)
(ポルトガルのロカ岬)スペイン70年は、安保をめぐって日本が2つに割れて争う年だという。私たちが60年で経験した事件を、再び同じ形では繰り返さないためには、それを乾いた目で確認した上で、冷めた心の上に熱い行動への志向を重ねねばならぬと思われる。70年代に私たちはどのような時代を持たねばならぬか、というのが私の自分自身への問いかけであった。そしてその答えはこうである。「負けて暗黒、勝って地獄」安保をめぐる反体制の志、啄木のいわゆる「強権に確執をかもす」志の背後にあるものが、「勝てば極楽」というオプチミズムである場合、それが裏切られた場合の落ち着く先は、相も変わらぬ挫折への道であろう。(1969年2月)スペイン戦争で反フランコ軍の一員として戦った人間、を紹介してくれたのは、いわゆるパリゴロと言われる留学生くずれの日本青年で、その青年は東京からやってくる観光客をうまく丸め込んでは生活費を巻き上げる商売を、この10年間続けていたのである。バルセロナの大企業や金持ち連中は、過激な地下組織に定期的に金を払って、施設や家族の安全を守ってもらっているらしい。カタルーニアの完全独立を叫ぶ最も急進的なグループは、本来のカタルーニャ人たちの間よりも、よその土地からバルセロナへ働きに来て住み着いた労働者の2世、3世たちの間に多いという説もあるようだ。その辺、さもありなんと思う。堀田善衛 スペインでガウディなんて言ったって、誰も知らないと思うな。よほどのインテリゲンチャでなければ知らないと思うんですね。だからバルセロナの市民諸君にしたって、あんな変なお寺とも言えないものを、誰がつくったかというようなことは、ほとんど知らないんじゃないですか。そう思いますね。堀田 フラメンコというスペイン語は、第一義的にはフランダース、フランドル。だから、ベルギー、オランダの低地諸国の意味なんですね。堀田 カルメンはジプシーの女であって、スペイン人じゃないですよ。メリメやモーツァルト、ビゼーが悪いと思いますよ。五木 スペイン的なものと我々が考えているものは、いわゆるヨーロッパ的なものと、スペイン的なものとアラブ的なもの、あるいはイスラム教的なものの混血ですね。その辺が一番魅力があると思うんです。堀田 だって、スペイン語という言葉自体が10%アラビア語ですからね。特にエルなんとかかんとか、あれの付くやつは全部アラビア語ですからね。堀田 僕はこの間行った時、横浜から船に乗って行ったでしょう。そうしますと、ラジオを聞いていますと、日本の演歌ね、それから次は朝鮮でしょう。朝鮮の流行歌。その次は中国の歌。その次はベトナムでしょ。それからタイ、マレーシアの歌。インドの歌。今度はアラビア語の歌、地中海へ入って、イタリアとスペイン語の歌ですね。その流行歌を聞いていますと、中国とインドだけが異物ですね(1979年8月)スペインの最もスペインらしい街はバルセロナではない。私はむしろスペインの中で一種コスモポリタン的な色彩を帯びた混交都市、文化が衝突する場としてのバルセロナに、熱い興味を抱き続けてきたのである。そういう都市はどこの国にもあった。 一見、その国はその民族を代表するかのようなイメージを持ちながら、実は極めて異国的な国際都市、ロシアで言うならサンクト・ペテルブルクなどがそうだ。ポルトガル私はリスポンを離れて、シントラという典雅な田舎町に移った。そこには、古いプリンセスの居城があり、小さくて、気持ちのいいホテルがあった。岩石が突起した異様な山肌に夕陽がさすと、その頂上にある古城が蜃気楼のように浮かび上がるのである。ヨーロッパ大陸の最西端に位置するカポ・ダ・ロカの岬を訪れたのは、シントラのホテルを引き払ってすぐのことだった。かつてのパイオニアたちが、そこに立ってヨーロッパ社会の果てる土地から、大西洋の水平線をどのような思いで眺めたかを私は思った。歌うこと祈ること [特別対談]月田秀子五木 ノルウェーのオスロで、フログネル公園に行った時に、ギターのような大きな楽器を弾きながら、橋の上で歌ってる初老の歌い手さんがいた。歌詞がロシア語だったので、ロシアからですか?と聞いたら、「ニェット、私はウクライナから来た」と強い口調で言った。