リブログ記事回想の明治維新 一ロシア人革命家の手記(前半)
回想の明治維新一ロシア人革命家の手記メーチニコフ 著渡辺雅司 訳岩波文庫 青441-11991年10月5日 第8刷発行書名を見ると堅苦しそうに見えますが、中身は著者の学習と経験に基づく分かりやすい日本論です。訳者まえがきこの本の原題は「日本における2年間の勤務の思い出」といい、19世紀後半のロシアの代表的日刊紙『ロシア報知』に、1883年9月10日(旧暦)から1884年12月30日にかけて、都合17回にわたって不定期に連載されたものである。著者のレフ・イリイッチ・メーチニコフ(1838-88)は、原題が示すとおり、明治7年から翌年の末まで足かけ2年にわたって日本に滞在し、開設されたばかりの東京外国語学校魯語科で教鞭をとったいわゆるお雇い外国人である。同じ幕末維新の外国人の回想記にない本書の特色・著者は維新革命を果たした日本に魅せられた・日本史の古層までわけ入って明治維新の謎を解こうとした・著者は革命家であると同時に、優れた地理学者、民族学者であった。・大山巌、岩倉使節団との出会いによって西郷隆盛から招聘を受けた。1 明治維新の日本へジュネーブにおいて大山巌とランカスター式相互教授(ランカスターが創出した、子供同士が教え合う集団教育法「助教法」のこと)により日本語を勉強した。2 日本近海にて16世紀に、スペインとポルトガルが、無防備なフィリピン諸島のように、日本をも力で征服しようなどとは思いもしなかった。そこでイエズス会の狡猾さをたのんだわけだが、彼らもまた、そのマキャベリ的名声を裏書きすることはできなかった。香港-横浜間の航海は、世界中の海事関係者にとって、最も困難かつ危険なルートと考えられている。日本南岸の岩礁や珊瑚礁で難破する帆船の数は、毎年かなり多い。船内の17名の日本人青年は国家の要請によって、約3年にわたりフランス、イギリス、ドイツの大学やアカデミーに通い、今になって思いがけずも政府によって呼び戻されたのである。彼らを苦しめていたのは、祖国で待っている運命の不明さと、ヨーロッパの遊歩道への郷愁だった。3 日本到着日常語も含め、日本語というものはほとんど全ての中国的教養をうちに取り込んでおり、しかもそれが極めて独創的な形で消化されている。日本における中国語は、中世ヨーロッパにおける炊事場の[間違いだらけの意]ラテン語とは、全くわけが違う。同じ人間でも、身分が同じものと話す時と、身分が違う人と話す時では、いささか言葉つきが変わる。また女同士の場合と、男が女に話す場合とでは、言葉遣いが違う。これに類したことは、バスク語にも一部分残っているが、それにしても程度がまるで違うのだ。人力車の車夫の中には、特に江戸の場合、何人かの士族も混じっていると教わった。彼らは1868年の革命で扶持を失い、さりとて何かもっとも名誉ある生産的仕事につくための教育も受けていなかった小貴族である。4 明治維新の渦中へ5 日本人とは?褌姿など、裸好きの日本人を見て、私の目の前でうごめいているこの群衆の祖先は、気候風土がそのような極楽じみた習俗の原始性を許すはずもないアジア大陸からの渡来民ではなく、今なおほとんど研究がなされていない雑多なマレー・ポリネシア系種族の混血民たちが住む熱帯の島々からやってきたに違いないと。(現在でも相撲や祭りでその習俗が残っているのを見ると、著者に同意します)一般に日本人といえば、モンゴル系ないし黄色人種と総称されるアジア大陸系のタイプ、すなわち我がドン河流域の草原(ステップ)地帯のカルムィク人やウスリー地方のヤクート人などをその純血種とするところのタイプが優勢であると思われよう。だが扁平で頬骨の張ったこのモンゴル系の場合、少なくともその基本的特徴が一様に見られるのに対し、日本の群衆の場合には、それとは逆に豊かな多様性が真っ先に目に入ってくるのである。注目すべきことに、日本人そのものが、日本的類型よりもヨーロッパ的類型(とりわけ女性)を好むのである。白色人種の美しい部分に触れたことのある者は、そのあとではどんなに名うての日本美人の魅惑にも、どうしようもなく軽蔑的になってしまうようだ。かくてかのプチャーチン伯によってペテルブルクに連れて行かれ、大和夫の姓で我が国の政府から年金をもらい、20年ぶりに維新なった日本に帰国した橘耕斎などは、いまだにかのネフスキー通りの娼婦のことを想い出しては、どうにもならない溜息をついているしまつなのだ。(訳注 この話はおそらくメーチニコフが耕斎から直接聞いた話であろう。帰国後増田甲斎と称して千島樺太交換の際に働いた後、隠棲して芝山内に庵室をつくり、念仏三昧の余生を送ったというから、増上寺をしばしば訪れたメーチニコフと逢ったとしても不思議はない。それにしても日露両国の亡命者が、共に岩倉使節団との邂逅によって日本への切符を手にしたというのは奇遇というほかない)6 横浜から品川へ横浜、それは純ヨーロッパ的な創造物である。それまでは江戸の外港の役をはたしたのは金河(神奈川の旧記法の一つ。神奈河、神名川、狩野河とも書いた)だった。7 日本の芝居世界広しといえども、一般に日本人ほど演劇好きな国民はまずあるまい。その日本でも、“東の都”つまり東京、別名江戸の住民は、その熱狂的なまでの芝居つまり演劇好きで群を抜いている。芝居ということばは、直訳すれば草の上に坐るほどの意味だ。皇都京都の城壁の内部の広い緑の草むらに、廂(ひさし)のついた板張りの仮舞台をしつらえると、住民たちは緑の草の上に坐る。芝居なる名称はこれに由来する。徳川時代には、将軍の所業を非難したり、それを舞台で再現することはご法度だったので、戯作作者たちはさして老獪というほどもない常套手段を編み出した。権力の濫用を公衆の面前で罵倒する場合には、足利時代のことにしたのである。足利時代の前には源時代があるが、権現様の家系はこの源家から発している手前、これに言及することもご法度であった。こうした文学上のトリックのせいで、足利家というと日本では人間の屑のように考えられてしまっている。だが日本史を勉強してみて驚いたことに、この足利将軍の中にも実に思慮深く、温厚な人物がおり、全体的に見ても何ら他の時代にひけを取るものではないことが分かったのである。