リブログ記事英賀城史
英賀城史西木馨 著駟路の会 発行昭和51年5月1日発行第一篇 総説及沿革三木城の別所長治とは従兄弟である英賀城九世三木通秋第二篇 城廓西から山科口野中口(英賀神社西を北へ出た辺り)岡芝ノ口(英賀神社東を北へ出た辺り)一名木村口とも言う。北辻口(宮町桑原古物商の北辺り)河下口(飾磨農協支店辺り)大木口(英賀郵便局辺り)井ノ上口(英賀薬師を北へ抜けた辺り)芝ノ口(中浜町東北部高町道への出口)広辻口(一名飾磨口とも称して柏原酒店辺に英賀橋=今はなし=を東へ渡った地点)現在本丸の址碑の建てられている地点は、城内のはずれで、内濠の址であり、たまたま同地の寄贈があって、やっと碑の建立を見ました。第三篇 吉川時代英賀における吉川時代のことにつきましては、あまり詳しい記録はないようです。元暦、文治(1185) の頃は吉川家の守護するところであった、ぐらいのことしか書かれていないようです。第四篇 赤松時代第五篇 三木時代三木通近、嘉吉元年(1441)英賀城主になる。その後十世を継ぐべき安明まで、 約150年を三木の時代が続きました。天正8年正月に始りました秀吉の英賀城攻めの戦は、城内より内通者が出て、秀吉の軍勢を城内へ誘導したことにより、実に悲惨極りない敗戦となりました。英城記では天正8年正月より、一ヶ月余をかけて領下の諸構が抜かれ、2月10日より本城攻め、13日落城。この戦いで三木家の死者2,700余人、秀吉側700余人を記しております。実に悲惨きわまりない、大戦であったようです。これにつきまして姫路城史では、かゝる大戦なれば、少くとも秀吉関係の、史書に記されてある筈ではあるが、僅かに総見記に4月24日、宇野氏を攻めることを書き、「この競をもって、直に河賀へ取掛候処に、芸州毛利方へ人質を出し置候者ども、舟に取乗立退候間、一戦に及ばず、河賀寺内に打入り云々」、とあるのみとしております。文中河賀は阿賀のことであり、「寺内に打入り」は英賀御堂のことで、秀吉が入った記録が英城記に見られます。尚姫路城史に豊鑑、太閤記、豊臣秀吉譜等にも、何らの記載がないこと。その外月日に若干の相違ある点を挙げて、英城記の記録を強く否定しております。また三木氏のために、誇張粉飾若しくは虚構して書いたともしております。筆著思うに、古来より戦記には勝者の記録と、敗者の記録には大きな相違のあることを、第二次世界大戦により充分学び得たのであります。英賀城の戦につきましては、なる程秀吉が、戦には勝利を治めております。しかし、敵の将を逃したことは、秀吉一生の不覚というべきでしょう。本来なれば秀吉は、信長から「たわけ者、何故追わぬ」と一喝喰わされるところではないでしょうか。信長は、「敵将は皆殺せ」、と命じております。(読売新聞「播磨物語」司馬遼太郎・270)そうしたところから秀吉は、信長に詳しい報告もせず記録を残すことを嫌ったと考えることは、いけないでしょうか。81歳という老齢で、総頁600頁に余る大冊を篇まれました薬師入道道定が、どんな人物であったかは別として、其の努力は買われて当然と思います。また地元に住む一人として、地元に残る記録を信じ大切にしてゆきたいのです。そうすることが我々の努めでもありましょう。(結局、『英城記』と秀吉側の「記載無し」の、どちらが正しいのか、という話ですか)第六篇 落城以後城主通秋、安明の父子は再起を計るべく九州へ落ちのびましたが、旧地英賀に帰ってきました。通秋父子は三木姓を改めて、旧姓の河野を名乗ったようです。第七篇 系譜第八篇 歴代城主第一世通近○通近英賀城に移る。(1441)嘉吉元年5月20日、当時英賀の城主であった 満祐の弟で、赤松常陸介祐尚が死んだので、通近この祐尚の後を承継ぎ、英賀城に移り、英賀の城主となりました。第四世通武○通武英城を家督(1443)嘉吉元年通武、曽祖父通近と共に、英賀城に入る。同三年英城を継ぐ。(飾磨郡誌)○英賀城破却の風聞あり、通武済(すくひ)川を埋め支族構居四十余家を固む。(1454)済川今宿の西国街道の南なる清水に発源し、土山の前より町坪、玉手の東を南に、英賀の間を海に入る。長さ二里余。(飾磨郡誌、英賀保解村誌)2号国道の今宿の外れに近い所、大井川橋と称して、短い橋が架けてあり、其の上に歩行者のための横断歩道橋があります。この歩道橋に立つと、大井川の流れを展望することができます。第五世通安○通安岩繋城家督(1464)寛正五年英賀城を継ぐ、(飾磨郡誌英城将其三)第七世通秀○通秀英城を家督す。(1519)永正十六年五月五日城の守を家督す。(飾磨郡誌英城将其二)第八世通明○通明英城家督。(1527)大永七年英賀城、(岩繋城)、を継ぎました。第九世通秋○通秋英賀城を家督。(1544)天文十三年通秋英賀城を継ぐ。(飾磨郡誌)天正四年五月、中国の毛利は小寺氏を討つため、軍船を以て飾西郡英賀に兵を上陸せしめた。p75第九篇 落城以後の河野家初代の城主通近の嘉吉元年(1441)以来、河野新平死期明治十年(1877)まで、約440年を城主として、地頭大庄屋となって広く住民たちから親しまれてきたと考えられます。第一〇篇 本徳寺亀山に移る第十一篇 河野家墓所第十二篇 遺蹟第十三篇 英城年譜(附記) 赤松氏、三木氏の文献と研究の読後感と英賀城史のまとめ