松岡五兄弟 松岡鼎 井上通泰 柳田國男 松岡静雄 松岡映丘
松岡五兄弟松岡鼎 井上通泰 柳田國男 松岡静雄 松岡映丘姫路文学館 編集・発行平成4年10月9日発行松岡五兄弟 姫路文学館長 中西進柳田の民俗学はヨーロッパ学の周到な学習の上に成り立っている。柳田がフレーザーの『金枝篇』を熟読していたことはもちろん、例えば G・L・ゴム編 の“The handbook of Folklore”をヨーロッパ旅行の折に買ってきたことが知られている。後に折口がライフ・インデックスの概念を、この書物から援用し、ほぼ時を同じくして中山太郎もそれに言及している。日本の民俗学を育てたものの大きな源泉として、ヨーロッパに先行した民俗学があったのである。大嘗祭奉仕記念(大正4年)の写真貴族院書記官長時代、官舎にて正装の國男と共に、ロバートソン・スコット夫妻も写る。静雄明治42年(1909)オーストリア大使館付武官に任ぜられる。大正8年(1919)オランダに赴く大正10年(1921)オランダ政府より、日蘭文化交流の功績により、オランエ・ナッソウ勲章を授与される。映丘大正11年(1922)フランスで開催の日本美術展(パリ、グランパレ)に「四月の朝」を出品昭和5年(1930)渡欧。ローマで開催の日本美術展に「屋島の義経」等を出品。イタリア皇帝より「コマンドール・クーロンヌ勲章」を受ける。昭和6年(1931)昭和4年のパリ日本美術展の功績により、フランス大統領より「シュバリエ・ド・ラ・レジョン・ド・ヌール勲章」を受ける。昭和12年(1937)第10回帝展出品作「平治の重盛」がムッソリーニ伊首相に寄贈される。松岡家当主 松岡文雄さんに聞く鼎が通泰に橋の名を相談した時、千葉県と茨城県の境にある橋だから「さかい橋」がよかろうとなった。ところが鼎が町会にかけたら皆びっくりした。この辺りの方言では 「イ」と「エ」への区別がつかない。したがって「さかい橋」は「さかえ橋」、それから「栄橋」になった。鼎は、生涯播州の言葉が抜けなかった。ふしぶしに播州の言葉、イントネーションがあらわれる。他の叔父たちは東京にいたから割と西の訛りは消えていましたが…(國男の娘も、父は播州弁が消えなかったと書いていました)祖父井上通泰と私達 坪内泰子斉藤茂吉はあまり見なりに構わない方でした。お茶をお運びした私が、青山書店の人と思いこみ、「銭形平次の発売はまだですか」と息せき切って催促してしまったところ、急にお茶を持つ手が止まり目が宙に浮いてこられたので、「しまった、とんでもないことをした」と部屋で小さくなっていましたところ、後で祖父に大目玉 で「本を読むなら源氏、歌は萬葉集」といつもと違う迫力のある叱り方で、皆様が怖いとおっしゃるのはこのことかと思いました。父國男と私 柳田為正大陸から帰った父に「やあ、禿げ頭」と申したと、父は「故郷七十年」とかで語っているが、これは父の思い違いかと思われる。当時私はまだ満2歳の赤ん坊だった。父はジュネーブをなぜか「ジェネバ」と言っていた。ジュネーブからの帰国後、あちら仕込みのエスペラントの手ほどきなども、私どもの夕食後の日課となった。大杉栄氏訳の「ファーブル昆虫記」第一巻第十版を、父は私のために買い求めてきた。訳者の非業の死で、二巻目以降は椎名其二氏に代わった。鳶飛んで魚躍る 父松岡静雄のこと 松岡磐木兄弟の寄せ書きに、静雄は「鳶飛魚躍」とだけ書いた。詩経、大雅編からの引用らしい。ビリから2番で入れた海軍兵学校を、トップで出た静雄。当時父は上層部の忌避に触れ、異例の大佐のままで予備役編入となったばかりで、本旨は「自分は海軍を馘になってこれから自在に生きるから、兄國男も誰に憚ることなくもなく本来の英明さと見識をジュネーブで発揮してほしい」という祈りに近い言葉と解した方が正しいようである。父松岡映丘について 松岡道男私が中学に入学して、体育の課目のうち、剣道か柔道か、どちらかを選ばなければならない時、父は「剣道は竹刀で相手を叩くが、柔道は素手で相手と取り組むので、柔道の方が相手に親しみが持てて良い。また柔道は体を鍛えるのに良い」との意見で柔道に決まった。松岡映丘先生 高山辰雄イタリア旅行から得た「聖尼クララの寺」(戦災焼失と伝えられる)は、異国風景を大和絵で描いた特筆される作品であるが、その焼失が惜しまれてならない。常設展セミナーより 井上通泰と柳田國男 永池健二柳田は、伊良湖岬で椰子の実を拾うという体験をした後、東京に帰る前にその足で、岡山の兄通泰のもとを訪ねていたのです。柳田の仮説の根幹のところの発想は、既に國男がまだ少年の頃に通泰が『南天荘雑事』の中で考えていた。