KBIの図書室。今、生駒を一望できる街を見つめながら。
楽しそうに話し合っている学生を横目に。
パソコンを前にして、書き出している。
どうしても書いていかなきゃいけないという、僕を駆り立てる思い。
なぜ、このように文章を書くことを駆り立てられているかといえば、
「あなたの考えていることは大切なことだ、あなたの感じていることは大切なことだ」と教えられたからだろう。
先ほど、近藤由美先生の「読書会」という授業を受ける中で、
自分に与えられている五感を用いて活用していく必要性について分かち合われていた。
見ること。聴くこと。嗅ぐこと。話すこと。肌で感じること。
人には、神様から与えられている賜物があって、その一つが五感である、と。
「自分は感じて良い。それは私。他の人と違うことを考えても良い。」
この言葉を聞き、みんなユニークで、自分が考えることはみんなと違うんだと思った。
「自分の感じたことを表現し、言い表すことに恐れを感じてしまう。
人を通して、神の言葉が伝えられていく。その人じゃないと伝えれない神の性質がある。」
自分が感じたことを表現する時、僕も恐れを感じることがある。
でも、語らなければ、神様の素晴らしさは人々の心に届かないのだ、と教えられた。
「今日、私はなにを感じているのだろうか?」
僕が感じていること、それは、学んでいることを「言語化して伝えていきたい!」ということだった。そのことばを通して、人々が神様の素晴らしさを知って欲しい…!と。
「応答するのは、自分の全存在を使わないとできない」
もし、僕が人々に伝えていこうと思うなら、僕の全存在を使っていく必要がある。
「生きる」とはそういうことだ。
「見て、悟ること。聴いて応答すること。」
今、自分が見ていること。聴いていること。悟ったこと、それに応答して生きたい。
「皆さんは、どれくらい自分が思っていることを言葉化する力があると思いますか?」
僕には、言葉化するチャレンジが必要だ。
インプットするだけじゃなく、アウトプットしていこう。
それによって、さらに自分自身が学ぶことができ、恵みを分かち合うことができる。
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ1:1
神様は、言葉であった。
そして、言葉によって、世界は造られた。
ことばという賜物を人間は受けている。
僕は、最近、様々なことを考え、様々なことを感じている。
また、自分の日記を毎晩書いている。しかし、最近は開示していなかった。
それはなぜか。
その最たる原因は、人からの評価、人からどう見られるのかという恐れからくるものだった。
もうひとつの理由は、時間がかかること。
しかし、たとえ、恥をかいても、人からどのような評価を受けたとしても、時間がかかっても、
言葉を紡いでいかなければ、人の心に届くことはない。
そして、今、僕が感じて、主から教えられていることが、
このブログを読んでくださる方の心に届き、励ましとなることを願っている。
言葉によって人は救われ、神の素晴らしさに出会う。
このブログという媒体を通して、言葉を紡いでいこうと思う。
神様が言葉で創造されたように、
僕も言葉を届けていきたい。
神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
ヨハネ1:1