どうして「援助交際」という名の児童売春/買春が無くならないのか。
初歩的な経済学の知識があれば、すぐに理由が判明する。
それは供給側にまったく手を付けず、需要側だけを規制しようとするからだ。
ようするに、売春する少女たちを取り締まらないことが深刻な問題を生んでいる。
なお、この記事中では、「売春」と「買春」を厳密に書き分けて考察しているので、
文字の違いに留意しながら読み進めて欲しい。
まず、素朴な市民感覚では「需要が供給を生む」と信じられており、
それ自体は別に間違っているわけでもなんでもない。
しかし、意外に思われるかもしれないが、
「供給それ自体が需要を生む」という事態も、実際の市場では起こり得ることだ。
(※経済学では「 セイの法則
」と呼ばれている)
例えば、ある時点で「女子高生」を相手にした援助交際の相場が
一回あたり ¥50,000 程度であるとして考えてみよう。
ここで、消費者(=需要)側を取り締まる厳しい条例が施行されたとすると、
需要は自然に逓減する(=少しずつ減る)ことになるだろう。
しかし、売春側を取り締まる法律が施行されない限り、
青少年が援助交際の市場に参入するリスクは変わらないので、
援交を希望する少女たち、すなわち市場における供給量は不変と考えて良い。
つまり、条例の施行後は、必然的に「供給過剰」の状態が生まれることになる。
(※売春の動機も多様なので、価格変動によって供給量が急変することは考えにくい)
上に挙げた ¥50,000 という価格相場は、
需要と供給が織り成す 価格調整
の上に成立していたものなので、
需要側の変化によって相場価格にも変化が生じることになる。
実際、この場合は「供給>需要」であるから、値下げ圧力が強まることになる。
すると、一定期間後、相場価格は半値以下にまで落ちるかもしれない。
そうなると、以前の価格に割高感を覚えていた潜在的な消費者層や、
逮捕されるリスクを勘案しても手頃な価格になったと考える常習者層が
少女たちに再接近し始めるようになる可能性が高い。
すなわち、価格低下によって需要が掘り起こされ、
再び援交市場は活況を呈することになろう。
そして、この事態を重く見た行政側が買春側に更なる厳罰を科したとすれば、
これまた同様の経緯を辿って相場価格が低下していくが、
援交市場は乱高下を繰り返しながらも、少なくとも破綻せずに残存し続けるわけだ。
(※そもそも、厳罰化するにも一定の限界があるだろう)
とはいえ、価格低下が行き着くところまで進めば、供給量が先細りすることにはならないだろうか。
確かに、サラリーマンの昼食代程度で春を売る少女がいるとも考えられないので、
理論上、需要規制による援交撲滅作戦は正しい…はずなのだが、
実際には撲滅するどころか、更に恐ろしい事態に発展してしまっている。
すなわち、児童買春の「低年齢化」が進行しているのだ。
商品価格は、その商品の希少価値の高さに比例する。
援交市場は、定義上、児童(=18歳未満の未成年)のみが売買対象となるわけだから、
主流商品が「高校生」だとすれば、それより供給量(=参入数)が少ない「小中学生」が
より高い希少価値を帯びるのは必然的な流れだ。
厳罰化の中、わざわざ高いリスクを犯して
「女子高生」を買おうとする消費者は少ないかもしれないが、
より希少価値の高い「小中学生」には食指が動くかもしれない。
(※こうした年齢層に興味がないならば、最初から児童買春に手を染めたりはしないはずだ)
また、どうせ売春というリスクを犯すならば、出来る限り早く市場に参入した方が
自分をより高値で売ることが出来て得ではないか、と考える児童も少なくないだろう。
事実、児童買春の低年齢化は進んでいるらしく、
相場価格の低下と買春リスクの増大から、消費者側の低年齢化も進んでいるという。
(※つまり、中高生が友人同士で売買春を行っているということ)
結局、供給側をあくまで「被害者」として積極的に規制してこなかったことが
児童買春の闇市場を存続させ、更には低年齢化を招くという失態に繋がっているわけだ。
先程も同じことを書いたが、供給側の参入リスクが変動しない中で
市場が破綻するとは考えにくい。
無論、供給が需要を生むという「セイの法則」は、
既に古典的な考え方であり、必ずしも現実の市場に適用できるとは限らない。
ただし、この経済学上の仮説は、潜在需要が大きく、
耐久財の少ない市場においてより顕著になるという。
その点、援交市場は、「性欲」という人間の基本的欲求を背景としたものであるため、
潜在需要が恒常的に高いと考えられるし、また性行為は耐久財ではないので、
セイの法則が成立しやすいと考えて良さそうだ。
そうであるならば、事態を根本的に解決するには、供給側を規制するしかないだろう。
言い換えれば、児童とはいえ、買春という違法行為を行っている以上は、
科すべき罰が科されるべきである、という常識的な結論に至るわけである。