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逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

3.11 が日本社会に与えた影響は、簡単に言えば次のようなことだ。



大地震や津波により、一瞬にして地域社会が崩壊したということは、


・社会や国家といったシステムは、自立的に安定した存在(※慣性系)ではない


・その持続性は、内部を構成する諸要素の全体に対する干渉に依存する


→ 日本を立て直すには、国民による自覚的なシステム再建が不可欠である


以上の事実を国民の大半が直感的に認識させられた、というわけだ。



それが人口に膾炙したかたちで表象したものが


声高に「絆」や「繋がり」を称揚する昨今の世論である。


言うなれば、「社会に関わること」への自覚が促されている。



逆を言えば、「自己責任論」が一世を風靡していた時代は、


社会というシステムが太陽の運行のごとき自明かつ自然なものであったため、


システムが機能不全を起こすとすれば、それは不適切な干渉によるものと想定されたから、


「関わらないこと(detachment)」が過大評価されたのである。


(※「社会に迷惑をかけるな!」といった言説に代表される)



そして、現在は「関わること(commitment)」が称揚される時代に突入した。



偶然なのかどうかは分からないが、村上春樹氏は昨今の「空気」を先取りしており、


その感性は、エルサレム賞やカタルーニャ国際賞での講演内容とも一致している。

キリスト教原理主義な生物学者さん達は、


世界が聖書で記述された通りに創られた、という作り話でお金を稼いでいる。


「創造科学」という娯楽産業の一種だそうだ。



以前にも書いた けど、旧約聖書にちりばめられた挿話の大半は、


古代メソポタミア文明で書かれた人気小説を


シナイ半島周辺に住んでいる人向けに作り変えただけの代物であって


世界の真実を描いたものではないっぽい。



でも、その手の作り話なら、


キリスト教原理主義者ではない人でも幾らでも創れるよね。



例えば、こういうのはどうだろう。


波動関数 が収縮するのは、神の愛のお蔭である」とか。



この場合、ミクロでは不安定であるはずの世界が


マクロでは優れて安定した実在となっているのは、


神が「波動関数の収縮」という形で「 精妙なる調律 」を行っているからだ、


みたいな与太話が出来そう。



「つまり、聖書は量子力学を先取りしていたんだよッ!」


「な、なんだってーΩΩΩ」



実際、人類が生んだ稀代の大天才 ゴットフリート・ライプニッツ さんも、


これと似たようなことを主張していたけどね(※予定調和説)。



あと、「 ヒッグス粒子 とは、聖霊 のことである」とか。


こうなると、マリアの「処女懐胎」とは、


ヒッグス場による質量獲得の寓意である、といった与太話に転化できる 笑



「つまり、聖書は素粒子物理学を先取りしていたんだよッ!」


「な、なんだってーΩΩΩ」



創造科学のエラい人、ウチを雇ってくれたらエエ仕事しますえ ヾ(゚∀゚`)

アイドルファンにとって最大の禁忌とされるのが、DD である。


DD とは、「誰でも大好き」の省略形とされるが、厳密な意味に翻意すれば、


「アイドルであれば無節操に関心を持つ志向性」を意味する。



アイドル界隈のオタクたちが DD を毛嫌いするのは、


一般的に純愛的な精神傾向、すなわち「一途」であることを


徳目とする文化が存在しているから、とされている。


(※また、それは古式ゆかしい花柳界にも共通する感性でもある)



もちろん、感情の赴くままに次々と「推し」を鞍替えする様は、


お世辞にも美しいとは言えないだろうが、それ以前に DD は疲れる。



まさに「雨後の竹の子」のごとく次々と現れては消えるアイドルたちを


すべて追いかけるのは肉体的・精神的・時空的に困難である上、


その困難さとは裏腹に、その営為から得られるものは決して多くない。



また、「推し」を変えないということは、


「好きな子以外は眼中に入れなくて構わない」という意味で


自分自身を煩悩の底なし沼から「解放」することでもある。


すなわち、単推しとは、アイドルファンとしての自分自身に対する赦しである。



そもそも、アイドルの応援などという行為は、所詮、下賎な代償行為に過ぎない。


しかし、その浅ましい慰めも、適度な抑制さえ効いてれば、


人生に潤いをもたらすものになるだろう。



一方で、その劣情に追い立てられるような楽しみ方をすれば、


却って自らを苦しめることになるに違いない。



アイドルの追っかけは悪いこと、などと言うつもりは毛頭ないが、


自分を傷付けるようなやり方とは距離を置いた方が良いのではないか、


と素朴に思う。

宇宙は散逸構造に満ちている。


以下に例を挙げてみよう。



まず、銀河系は典型的な散逸構造だ。


銀河から構成される銀河団も散逸構造を持つ。



この銀河を代表例として、


散逸構造は渦巻形状となっていることが多い。


例えば、太陽の表面や台風、雲も散逸構造だ。



また、国家や人間社会も散逸構造であり、


そのフラクタルな部分である芸能界も散逸構造だ。



忘れてはならないのが、生命体が有する散逸構造だ。


あらゆる生物は散逸構造なくして存在することは出来ず、


人間もまた散逸構造によって生かされている。



その人間の自己感覚を統合する脳の情報処理系も散逸構造であり、


それゆえ、愛も、そして怒りも散逸構造である。



ただし、散逸構造は本質的に空虚である。


その構造を維持したければ、「それ」は定常開放系になければならない。


閉鎖系の中でも散逸構造は生まれるが、その持続期間は短い。


この流動的な自己組織が壊れるとき、「それ」は死を迎える。



私たちの「心(mind)」は定常開放系にあり、故に時空を越えて散逸構造を保つ。


この散逸構造を古代インドの宗教家たちは、サンサーラ(※輪廻)と呼んだ。


彼らはそれを永久不変のものだと信じて疑わなかった。



しかし、仏教の始祖ゴータマ・シッダッタは、


長い修行の末、サンサーラという散逸構造の崩壊を実体験した。


閉鎖系の中では散逸構造が維持されないことを悟ったのだ。


こうして、彼は「解脱」への正しい道筋を把握した。


人類最初の覚者、ブッダになったのである。



畢竟、仏教の真髄とは、「輪廻」という散逸構造の破壊、という一点にある。



空虚な散逸構造の渦に巻き込まれ続ける限り、我々は永久に苦しみ続けるの。


真の安らぎを求めるならば、「心」を閉鎖系の中に閉じ込めるしかない。

どうして「援助交際」という名の児童売春/買春が無くならないのか。


初歩的な経済学の知識があれば、すぐに理由が判明する。



それは供給側にまったく手を付けず、需要側だけを規制しようとするからだ。


ようするに、売春する少女たちを取り締まらないことが深刻な問題を生んでいる。



なお、この記事中では、「売春」と「買春」を厳密に書き分けて考察しているので、


文字の違いに留意しながら読み進めて欲しい。




まず、素朴な市民感覚では「需要が供給を生む」と信じられており、


それ自体は別に間違っているわけでもなんでもない。



しかし、意外に思われるかもしれないが、


「供給それ自体が需要を生む」という事態も、実際の市場では起こり得ることだ。


(※経済学では「 セイの法則 」と呼ばれている)



例えば、ある時点で「女子高生」を相手にした援助交際の相場が


一回あたり ¥50,000 程度であるとして考えてみよう。



ここで、消費者(=需要)側を取り締まる厳しい条例が施行されたとすると、


需要は自然に逓減する(=少しずつ減る)ことになるだろう。



しかし、売春側を取り締まる法律が施行されない限り、


青少年が援助交際の市場に参入するリスクは変わらないので、


援交を希望する少女たち、すなわち市場における供給量は不変と考えて良い。



つまり、条例の施行後は、必然的に「供給過剰」の状態が生まれることになる。


(※売春の動機も多様なので、価格変動によって供給量が急変することは考えにくい)



上に挙げた ¥50,000 という価格相場は、


需要と供給が織り成す 価格調整 の上に成立していたものなので、


需要側の変化によって相場価格にも変化が生じることになる。



実際、この場合は「供給>需要」であるから、値下げ圧力が強まることになる。


すると、一定期間後、相場価格は半値以下にまで落ちるかもしれない。



そうなると、以前の価格に割高感を覚えていた潜在的な消費者層や、


逮捕されるリスクを勘案しても手頃な価格になったと考える常習者層が


少女たちに再接近し始めるようになる可能性が高い。



すなわち、価格低下によって需要が掘り起こされ、


再び援交市場は活況を呈することになろう。



そして、この事態を重く見た行政側が買春側に更なる厳罰を科したとすれば、


これまた同様の経緯を辿って相場価格が低下していくが、


援交市場は乱高下を繰り返しながらも、少なくとも破綻せずに残存し続けるわけだ。


(※そもそも、厳罰化するにも一定の限界があるだろう)



とはいえ、価格低下が行き着くところまで進めば、供給量が先細りすることにはならないだろうか。



確かに、サラリーマンの昼食代程度で春を売る少女がいるとも考えられないので、


理論上、需要規制による援交撲滅作戦は正しい…はずなのだが、


実際には撲滅するどころか、更に恐ろしい事態に発展してしまっている。


すなわち、児童買春の「低年齢化」が進行しているのだ。



商品価格は、その商品の希少価値の高さに比例する。


援交市場は、定義上、児童(=18歳未満の未成年)のみが売買対象となるわけだから、


主流商品が「高校生」だとすれば、それより供給量(=参入数)が少ない「小中学生」が


より高い希少価値を帯びるのは必然的な流れだ。



厳罰化の中、わざわざ高いリスクを犯して


「女子高生」を買おうとする消費者は少ないかもしれないが、


より希少価値の高い「小中学生」には食指が動くかもしれない。


(※こうした年齢層に興味がないならば、最初から児童買春に手を染めたりはしないはずだ)



また、どうせ売春というリスクを犯すならば、出来る限り早く市場に参入した方が


自分をより高値で売ることが出来て得ではないか、と考える児童も少なくないだろう。



事実、児童買春の低年齢化は進んでいるらしく、


相場価格の低下と買春リスクの増大から、消費者側の低年齢化も進んでいるという。


(※つまり、中高生が友人同士で売買春を行っているということ)



結局、供給側をあくまで「被害者」として積極的に規制してこなかったことが


児童買春の闇市場を存続させ、更には低年齢化を招くという失態に繋がっているわけだ。




先程も同じことを書いたが、供給側の参入リスクが変動しない中で


市場が破綻するとは考えにくい。



無論、供給が需要を生むという「セイの法則」は、


既に古典的な考え方であり、必ずしも現実の市場に適用できるとは限らない。



ただし、この経済学上の仮説は、潜在需要が大きく、


耐久財の少ない市場においてより顕著になるという。



その点、援交市場は、「性欲」という人間の基本的欲求を背景としたものであるため、


潜在需要が恒常的に高いと考えられるし、また性行為は耐久財ではないので、


セイの法則が成立しやすいと考えて良さそうだ。



そうであるならば、事態を根本的に解決するには、供給側を規制するしかないだろう。



言い換えれば、児童とはいえ、買春という違法行為を行っている以上は、


科すべき罰が科されるべきである、という常識的な結論に至るわけである。