形而上学
の起源を求めるのは難しい。
常識的には 古代ギリシャ
を発祥地と看做すべきなのだろうが、
古代インド
にも知識の膨大な蓄積があり、ギリシャ哲学に勝るとも劣らない。
どちらにしろ、双方いずれかの文明を生きた哲学者や思想家たちは、
人類に対して「存在」に関わる優れた諸考察を残してくれたものの、
その究極の答えを見出すことは出来なかった。
(※両者とも、文明が終焉を迎えるに従って 神秘主義
の傾向を強めていく)
しかし、それから 2,000 年以上の時を経た今、
ついに人類はその解に達しつつあるのかもしれない。
しかも、それは アリストテレス
が「第二哲学」と呼び、
「第一哲学」、すなわち形而上学よりも格下と看做した自然科学の成果によるものだ。
(※形而上学 meta-physics とは、physics の後に学ぶべきもの、という 意味
らしい)
「存在」に対する科学的省察は、まず 量子力学
と 相対論
を統一しようとする試みから始まった。
所謂、「 万物の理論
」というものだ。
「万物の理論」を巡る研究が深まっていくうちに、議論はある一定の方向性を持つようになっていった。
すなわち、「存在」に対する「情報」の重要性が明確に意識されるようになったのだ。
また、「情報」の重要性を仲立ちにして、宇宙の演算可能性を巡る議論が活発になっていく。
今や宇宙が演算可能であることは、宇宙物理学における共通理解となっているという。
(※具体的には、FPS
のようなコンピュータゲームを思い浮かべると分かりやすいだろう)
そして、宇宙物理学の中には、その認識から更に一歩踏み出した学説が存在する。
すなわち、宇宙は演算可能というより、演算結果そのものなのではないか、という過激な主張だ。
不思議な話だが、こうした哲学的な議論が宇宙物理学の最前線で注目を集めている。
将来、そうした理論に科学的な妥当性が認められたとすれば、
それは形而上学、特に 存在論
における究極解(の候補)と言えるかもしれない。
すなわち、「存在」とは、宇宙という巨大計算機による演算結果、というわけだ。
近年、E・P・ベルリンド
教授は、「重力は基本相互作用ではない」という 理論
で注目を集めた。
教授の主張は優れて科学的であり、どこにもオカルト的なところはない。
だが、その考えを敷衍すると、私たちが住んでいる宇宙は、
コンピュータ上でシミュレートされた 仮想空間のようなもの
だ、ということになる。
これは、ブライアン・ウィットウ ォース
教授の「宇宙は仮想現実」という 仮説
と一致する。
また、上記の学説は、J・D・ベッケンスタイン
教授の「宇宙の本質は2次元」
という 理論
から導出されているが、この学説でも「存在」の情報量について考察がなされており、
物理的実体がある種のコンピュータであることを示唆している。
(※ブラックホールは、極限まで圧縮されたコンピュータということになるらしい)
こうした理論は、畑違いではあるが、哲学者である D・J・チャーマーズ
教授が主張するように
「情報」を究極実在として 心身問題
を説明する立場(※ 情報の二相理論
)と
奇妙というよりは、むしろ滑稽なほど正確に符合している。
言われてみれば、量子重力理論
の論争において
超弦理論
の対抗馬と目される ループ量子重力理論
においても、
時空を量子化するスピンネットワーク/フォームという考え方が示されているが、
これは時空をビット(※あるいは 量子ビット
)として捉えることも可能だ、
ということを示唆しているのかもしれない。
(※量子コンピュータは、スピントロニクス
によって実現可能とする学説と一致する)
ちなみに、こうした宇宙観は「 デジタル物理学
」と総称され、
J・ホイーラー
教授(※it from bit 仮説
)や E・フレドキン
教授(※デジタル哲学
)、
最近では M・テグマーク
教授(※数学的宇宙仮説
)の主張が代表格と言えるだろう。
以上をまとめると、最新の宇宙物理学が主張する世界観とは、
宇宙に存在するすべての存在、すなわち銀河団や星団、太陽系、地球、
台風、日本列島、東京タワー、私もあなたも、隣家の飼い猫も、その猫が捕まえたバッタも、
およそ物理世界に存在するありとあらゆる実体が計算機的な演算によって産み出されている、
という信じがたい、少なくとも直感に反する非常識的なものだ。
このように、宇宙物理学の最前線は、ほぼ完全に形而上学の領域を侵食し始めている。
さて、これはあくまで個人的な期待表明に過ぎないが、
宇宙物理学の行く末は、きっと形而上学における究極解へと繋がっているに違いない。
その答えに到達したとき、人類は、あらゆる実体をそのように存在させている究極の要因、
すなわち「神の意図」を知ることになるのだ。