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逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

日本だと無名に近い人物だけど、ニュージーランドの論理学者 M.J.クレスウェル


可能世界論を巡って「唯物論的組み合わせ主義」というアイデアを発表している。



これは、世界を「4次元+存在の有無」 = [(x, y, z, t), u]


という要素の組み合わせから成る極小粒子(※時空点)の集合として


様相を考える、という発想なんだってさ。



可能世界論における現実主義の中でも、唯名論的な立場にある理論らしい。



ただし、他の唯名論的現実主義が「命題」や「事態」といった非物質をネタにしているけど、


組み合わせ主義は、あくまで物理的な現実空間を極小の点にまで切り刻んだ上で


その点が 3次元からなる物質と時間、更に存在の有無という情報を


持っているという前提で可能世界を考えてみたらどうだろう、という発想だとか。



現実主義的な意味では理論的に破綻している、という評価もあるけど、


クレスウェルの発想は、ループ量子重力理論を先取りした考え方だと思う。



まあ、当の本人は高度な数学理論というよりは、


時空を無数の線形代数っぽく表現してみよう、という程度のお話なんだろうけど。


(※というか、3D ゲームを実装するときのプログラミングと全く同じだね)



ちなみに、神の存在証明で有名なA.プランティンガ は、「事態」で可能世界論を展開している。


(※プランティガは「ノートルダム大学」じゃなくて、「 ノーターデイム大学 」の教授だぞッ!)

アイドル歌謡の PV ごときを批評しても詮無き事、とは分かってはいるんだけど、


『へたっぴウィンク』の アバンタイトル における演出が気になっている。




具体的に以下のような感じ。


0. フェードイン → 渡辺麻友の顔のアップ


1. 「本番行きます!」


2. まゆゆの顔は、どこか神経質で不安そう


3. 「よーいッ!」 顔を隠すようにカチンコが出される


4. 隠れた顔と同時に背景がボケる


5. 「スタート!」 カチンコが離れる


6. 瞬時に顔にピントが合う


7. 先程の表情とは一変して、完全な営業スマイル


8. ウィンクに失敗して、NG カットになる




この演出の何が面白いかというと…


まず、渡辺麻友の顔がいきなりアップで映るから、視聴者は驚くでしょ。


で、「あれ、何で不安そうな顔をしてるのかな?」と疑問を持つように誘導してる。



その後、一連のやり取りがあってウィンクに失敗すると、


視聴者は納得するわけよ。「あ、ウィンクに自信がなかったんだなー」と。


(※もちろん、これはすべて演出上のことですが)



ようするに、このアバンタイトルだけで、


『へたっぴウィンク』という主題を見事に表現してる、と言っても良いんじゃないかな。


名前は知らんけど、演出家さんは良い仕事してるッス。



あと、前にも書いた けど、この PV は味のあるカメラレンズを使っていて


アップのときは被写体深度が極端に狭い上、ボケ味がキレイなんだよね。



そのレンズ特性を上手く使って、


不安な顔 → 営業スマイル という急激な変化を鮮やかな演出してる。


そこら辺のカメラワークのせいなのかな、すっごくヨーロッパ映画っぽいんだよね。



それに関連して、監督周辺の人たちが映る場面では、


最後に決定的な役割を果たす CM のクライアントさんが


ボケた背景の中に必ず(関係なさそうに)映り込んでいる、という演出も心憎いと思う。



あれは何気に存在感が引き立つ 笑




関係ないんだけど、まゆゆの表情の変化がなかなか巧みな感じ。


演技指導は入っているんだろうけど、失敗した後に目が泳ぐところとか、良い演技してるやん。


少なくとも、前田さんよりは素質があるような気がうわにすんだやめくぁwせdrftgyふじこlp



まあ、これだけのことで判断するのは拙速かもしれんけど、


AKB48 卒業した後、まゆゆは女優になるのが正解ってゆーか、


女優にならないのは国益に反するっぽくね? しかも、ワリと真っ当な映画女優の方向性で。



ファンでもない人間がこういうことを書くと、ガチなファンに叩かれるかもしれんけど 汗

形而上学 の起源を求めるのは難しい。


常識的には 古代ギリシャ を発祥地と看做すべきなのだろうが、


古代インド にも知識の膨大な蓄積があり、ギリシャ哲学に勝るとも劣らない。



どちらにしろ、双方いずれかの文明を生きた哲学者や思想家たちは、


人類に対して「存在」に関わる優れた諸考察を残してくれたものの、


その究極の答えを見出すことは出来なかった。


(※両者とも、文明が終焉を迎えるに従って 神秘主義 の傾向を強めていく)



しかし、それから 2,000 年以上の時を経た今、


ついに人類はその解に達しつつあるのかもしれない。



しかも、それは アリストテレス が「第二哲学」と呼び、


「第一哲学」、すなわち形而上学よりも格下と看做した自然科学の成果によるものだ。


(※形而上学 meta-physics とは、physics の後に学ぶべきもの、という 意味 らしい)




「存在」に対する科学的省察は、まず 量子力学相対論 を統一しようとする試みから始まった。


所謂、「 万物の理論 」というものだ。



「万物の理論」を巡る研究が深まっていくうちに、議論はある一定の方向性を持つようになっていった。


すなわち、「存在」に対する「情報」の重要性が明確に意識されるようになったのだ。



また、「情報」の重要性を仲立ちにして、宇宙の演算可能性を巡る議論が活発になっていく。


今や宇宙が演算可能であることは、宇宙物理学における共通理解となっているという。


(※具体的には、FPS のようなコンピュータゲームを思い浮かべると分かりやすいだろう)



そして、宇宙物理学の中には、その認識から更に一歩踏み出した学説が存在する。


すなわち、宇宙は演算可能というより、演算結果そのものなのではないか、という過激な主張だ。


不思議な話だが、こうした哲学的な議論が宇宙物理学の最前線で注目を集めている。



将来、そうした理論に科学的な妥当性が認められたとすれば、


それは形而上学、特に 存在論 における究極解(の候補)と言えるかもしれない。


すなわち、「存在」とは、宇宙という巨大計算機による演算結果、というわけだ。




近年、E・P・ベルリンド 教授は、「重力は基本相互作用ではない」という 理論 で注目を集めた。


教授の主張は優れて科学的であり、どこにもオカルト的なところはない。



だが、その考えを敷衍すると、私たちが住んでいる宇宙は、


コンピュータ上でシミュレートされた 仮想空間のようなもの だ、ということになる。


これは、ブライアン・ウィットウ ォース 教授の「宇宙は仮想現実」という 仮説 と一致する。



また、上記の学説は、J・D・ベッケンスタイン 教授の「宇宙の本質は2次元」


という 理論 から導出されているが、この学説でも「存在」の情報量について考察がなされており、


物理的実体がある種のコンピュータであることを示唆している。


(※ブラックホールは、極限まで圧縮されたコンピュータということになるらしい)



こうした理論は、畑違いではあるが、哲学者である D・J・チャーマーズ 教授が主張するように


「情報」を究極実在として 心身問題 を説明する立場(※ 情報の二相理論 )と


奇妙というよりは、むしろ滑稽なほど正確に符合している。



言われてみれば、量子重力理論 の論争において


超弦理論 の対抗馬と目される ループ量子重力理論 においても、


時空を量子化するスピンネットワーク/フォームという考え方が示されているが、


これは時空をビット(※あるいは 量子ビット )として捉えることも可能だ、


ということを示唆しているのかもしれない。


(※量子コンピュータは、スピントロニクス によって実現可能とする学説と一致する)



ちなみに、こうした宇宙観は「 デジタル物理学 」と総称され、


J・ホイーラー 教授(※it from bit 仮説 )や E・フレドキン 教授(※デジタル哲学 )、


最近では M・テグマーク 教授(※数学的宇宙仮説 )の主張が代表格と言えるだろう。



以上をまとめると、最新の宇宙物理学が主張する世界観とは、


宇宙に存在するすべての存在、すなわち銀河団や星団、太陽系、地球、


台風、日本列島、東京タワー、私もあなたも、隣家の飼い猫も、その猫が捕まえたバッタも、


およそ物理世界に存在するありとあらゆる実体が計算機的な演算によって産み出されている


という信じがたい、少なくとも直感に反する非常識的なものだ。



このように、宇宙物理学の最前線は、ほぼ完全に形而上学の領域を侵食し始めている。




さて、これはあくまで個人的な期待表明に過ぎないが、


宇宙物理学の行く末は、きっと形而上学における究極解へと繋がっているに違いない。



その答えに到達したとき、人類は、あらゆる実体をそのように存在させている究極の要因、


すなわち「神の意図」を知ることになるのだ。


二院制を採る国家において、両院における与野党の力関係に「ねじれ」が生じていたとき、


野党が「首相(与党の党首)が辞任すれば協力してやろう」と交渉を持ちかけてきたとしよう。



もし、その提案を鵜呑みにしてしまったとしたら、その首相は三流以下である。


なぜなら、野党が辞任後に協力する、という保証が全くないからだ。


どのみち、野党側に国会運営の主導権を握られることになるだろう。



よって、その国の首相が合理的思考の持ち主ならば、


「では、野党が協力すれば辞任してやろう」と裏をかいた条件を提示することになる。


リスクのある選択ではあるが、少なくとも主導権を明け渡してしまうことはないだろう。




例えば、ここで政権与党の党首が後者を選択し、


本人が可決を望む諸法案を無事に可決させたとする。



客観的に考えれば、この事態は快挙だ。少なくとも、容易なことではない。


絶体絶命の事態をうまく乗り切った名宰相、とすら評価できるかもしれない。



実際、同じような状況に追い込まれ、上に述べたような快挙を成し遂げた首相がいる。


それは外国の首相ではなく、この日本国における現職の内閣総理大臣だ。



ところが、その総理は評価されるどころか、あらゆる方面から嘲笑と罵倒の対象とされている。


まるで敗戦を招いた責任を取れ、と言わんばかりの騒ぎだ。


(※ところが、実際に敗戦を招いた戦争指導者層は、何故か崇拝対象とされているようだが)





しかし、よく考えてみよう。



その首相は党内抗争や支持率の低下に怯えて首相の座を投げ出したわけでもなく、


お腹が痛くなって公職を放り出したわけでもなく、


自分を客観視した結果として中途半端な段階で辞任したわけでもない。



その総理大臣は、野党との粘り強い交渉の結果、


通すべき諸法案がすべて可決する見込みになったことを受けて辞意を表明したのである。



これはどういうことだろう?


つまり、その政治家はやるべきことをやった、ということだ。




ところで、個人的に「政治家は狡猾であるべきだ」と考えている。


政治における狡猾さとは、「結果を出すためになら手段を選ばない」という胆力のことである。


同時に、任務遂行のためになら「どんな悪評も甘んじて受ける」という覚悟のことでもある。



この考えが正しいとすれば、間もなく正式に辞任するであろう内閣総理大臣は、


戦後史上、稀に見る名宰相であった、と絶賛せざるを得ない。


決して皮肉ではない。



もちろん、人物に対する評価の物差しは多様なものであるから、


その首相が優れた宰相であったという評価は必ずしも正しくないだろう。



とはいえ、誰も評価する人がいないのならば、


せめて一人くらいはその活躍に拍手喝采をしてもバチはあたらないはずだ。



菅さん、お疲れさまでした。

近年、マヤ暦の周期性を巡り、「 2012 年までに人類が滅亡する」という 与太話


ジワジワと流行り始めているようです…が、



人類が滅亡するのは、かなーり難しそうだよ?



実際、人類は約7万年前くらいに 2,000 人程度にまで個体数が減少 したらしい。


個体数が数千体とか、野生動物で言ったら「絶滅危惧種」でしょ。



で、現在の 世界人口 って、どうなってんのよ?


実は、「今年中に約 70 億人に達するだろう」と 予測 されてるんだよね。



あのさ、7万年前、2,000 人 → 現在、約 70 億人 ですよ?


何倍に増えたんだよ。桁が違い過ぎて暗算きない (´Д`;)


まあ、350 万倍くらい? とんでもない繁殖力だな。シロアリかよ。



ということは、仮にマヤ暦による人類滅亡の予言が正しかったとしても、


70億に迫る人類の個体数が数千人程度すら残らない大災害って、


人類滅亡というより、地球崩壊って勢いだと思いますよ?



ちなみに、そこそこ大きな隕石が落ちた程度では、地球は壊れません。


(※月の誕生を巡る 仮説 によれば、かつて地球には火星大の隕石が衝突したらしい)



どのみち、地球上では 2,600~2,700 万年周期で


隕石衝突による生物種の大量絶滅が 確実に起こっている そうなので、


あと 1200 万年後くらいには、大半の生命体が全滅しているでしょう。


(※巨大隕石による最後の大量絶滅は、約 1,450万年前 に起こった)



そもそも、21 世紀中には、「全生物種の 3分の2 が絶滅する」と 予想 されていて、


その原因が 人類によるもの とされているんだから、


2012 年とは言わず、出来るだけ早いうち、明日にでも人類が滅亡を迎えた方が


地球に住む多種多様な生き物たちにとっては、好都合なんじゃないかな?



まあ、念のため、お経でも唱えておきますかね。南無南無(-д-人)