二院制を採る国家において、両院における与野党の力関係に「ねじれ」が生じていたとき、
野党が「首相(与党の党首)が辞任すれば協力してやろう」と交渉を持ちかけてきたとしよう。
もし、その提案を鵜呑みにしてしまったとしたら、その首相は三流以下である。
なぜなら、野党が辞任後に協力する、という保証が全くないからだ。
どのみち、野党側に国会運営の主導権を握られることになるだろう。
よって、その国の首相が合理的思考の持ち主ならば、
「では、野党が協力すれば辞任してやろう」と裏をかいた条件を提示することになる。
リスクのある選択ではあるが、少なくとも主導権を明け渡してしまうことはないだろう。
例えば、ここで政権与党の党首が後者を選択し、
本人が可決を望む諸法案を無事に可決させたとする。
客観的に考えれば、この事態は快挙だ。少なくとも、容易なことではない。
絶体絶命の事態をうまく乗り切った名宰相、とすら評価できるかもしれない。
実際、同じような状況に追い込まれ、上に述べたような快挙を成し遂げた首相がいる。
それは外国の首相ではなく、この日本国における現職の内閣総理大臣だ。
ところが、その総理は評価されるどころか、あらゆる方面から嘲笑と罵倒の対象とされている。
まるで敗戦を招いた責任を取れ、と言わんばかりの騒ぎだ。
(※ところが、実際に敗戦を招いた戦争指導者層は、何故か崇拝対象とされているようだが)
しかし、よく考えてみよう。
その首相は党内抗争や支持率の低下に怯えて首相の座を投げ出したわけでもなく、
お腹が痛くなって公職を放り出したわけでもなく、
自分を客観視した結果として中途半端な段階で辞任したわけでもない。
その総理大臣は、野党との粘り強い交渉の結果、
通すべき諸法案がすべて可決する見込みになったことを受けて辞意を表明したのである。
これはどういうことだろう?
つまり、その政治家はやるべきことをやった、ということだ。
ところで、個人的に「政治家は狡猾であるべきだ」と考えている。
政治における狡猾さとは、「結果を出すためになら手段を選ばない」という胆力のことである。
同時に、任務遂行のためになら「どんな悪評も甘んじて受ける」という覚悟のことでもある。
この考えが正しいとすれば、間もなく正式に辞任するであろう内閣総理大臣は、
戦後史上、稀に見る名宰相であった、と絶賛せざるを得ない。
決して皮肉ではない。
もちろん、人物に対する評価の物差しは多様なものであるから、
その首相が優れた宰相であったという評価は必ずしも正しくないだろう。
とはいえ、誰も評価する人がいないのならば、
せめて一人くらいはその活躍に拍手喝采をしてもバチはあたらないはずだ。
菅さん、お疲れさまでした。