春から夏、夏から秋、秋から冬、
そしてまた、春。
そんなふうに、季節が巡ること
ごく当然のことだと、私たちは思い込んでいませんか。
 
かんたんに、
誰それの生まれ変わりです、なんて言われて、
そうなんだ、と思ったりする――ほんまかいな?
 
時間は、始まりから終わりへ向けて
ひたすら一方通行で進んでいきます。
 
あるいは、時間の中に生きる私たちが、
進んでいるのでしょうか。
 
これに気づいたとき、
しあわせ」というのも、
ちょっと見え隠れしてきたように、感じました。
「救い」って、何でしょう。
よく、言いますけど。
 
簡単に言えるものじゃないから、
救いなのかもしれませんけどね。
 
たとえば、それは、
「つくりかえられる体験」と言ってみても
さしあたり嘘じゃないかも。
 
困っているところから助けられた、
そんなちゃちなもんじゃないんですよ。
 
自分が、つくりかえられるんです。
どうやって?
うーん、説明できるかな……。
何より、
聖書というのは、逆転の発想の本
いつだって、兄より弟が優遇され、
貧しい人が金持ちよりも祝福されます。
 
私たちが、
自分を幸せにしたい、と思っているかぎり、
どうしても全き喜びなど得られません。
ところが、自分を捨て
まずは神を礼拝に集まることで、
思っていた以上の祝福を与えられるのです。
 
日曜日に教会に集まることで、
クリスチャンたちは、
ごろごろしているのとは比べものにならないくらい、
深い休息を得ていることになるのです。
でも、教会に日曜日に行きたくても
行けない人がいます
 
お仕事がどうしても、ある人。
それを断れば、
解雇されるかもしれないので
休みを下さい、などとは言えない……。
 
もちろん、病気などで動けない人もいます。
 
家庭に居ながらにして、
礼拝が見える、ネット礼拝というのもあるのかしら。
 
そういった人のことを
思いやっている、教会の人もたくさんいます。
また、日曜日のほかでも
教会では集会や交わりのチャンスがありますから、
神を礼拝するのに、
時はたくさんあるのだ、と
元気を出していくのも、信じる力なんでしょうね。
一番の力は、
神の言葉
 
語られるものが聖書の言葉であるかぎり、
それを人を活かすはたらきがあります。
苦悩に打ち克つ力がそこにあります。
 
聖書が解き明かされるとき、
そこに私たちは幸せを覚えます。
未来に希望が与えられます。
それに確信が与えられます。
 
だから、日曜日は
やっぱり教会に行きたいと思うのです。