クリスマスは、
お祝いの膳を用意する教会が殆どのようですが、
イースターの場合は、
それをしない教会もあるそうです。
 
復活祭が、移動祝祭日であるせいもあるでしょう。
3月か4月かという違いは、
日本では年度を異とすることになりますから、
年度中に二度イースターを迎える場合と、
一度もイースターがない場合とがあるわけです。
ですから、いっそのことイースターは派手にしないで、と。
 
イースターの象徴は、
新しい命、永遠の命に思いを馳せます。
卵が、その役割を果たします。
 
卵料理が満載の昼食だった教会も、
きっとたくさんあることでしょうね。
それは、神秘。
信じられない、という声もありましょう。
 
逆に、私が怖いと思うのは、
「あるんちゃう?」と軽くいなされて、終わり、というもの。
バーチャルとリアルとのボーダーが怪しくなって、
復活? だから何? と受け止めてしまう感覚。
 
自分の罪を痛感して悔やむ心がなければ、
復活もただのおとぎ話。
 
福音書記事で確かなのは、
その墓が空虚であった、ということ。
天使のような若者や
復活のイエスに出会ったという記事は、
疑おうと思えば疑うこともできるでしょう。
でも、墓が空だった、ということは疑いようがありません
 
罪を悔い、それを十字架にイエスに赦された者は、
自分自身を一度墓に葬ってしまう経験をした後に、
そのような死の床を、空虚にすることができます。
あなたは、よみがえりのイエスに、出会うのです。
 
復活のイエスとの出会い。
そこに、幸せの源があるのですが、
その出会いは、
あなたがここから経験してください。
この日は、なんのためにあったのでしょう。
カトリックのほうでは、
いろいろと伝統的に物語ができているとも聞きます。
 
が、聖書にもまず殆ど何も記されていない
この、間の一日。
 
私たちは、静寂を必要とします。
あまりに忙しく、慌ただしく、
結果をすぐに求められている日常に、
何もない一日、ただ待つしかない時を、
抱きしめていたってよいのではないでしょうか。
 
ユダヤの安息日でした。
仕事ができません。
でも何もしないということは、
それだけ思いが駆けめぐるということにもなります。
 
その思いは、どの方向を向いていますか。
どの希望を、見つめていますか。

引かれていくあなたを、誰も助けられない。
でも、逃げることなく、ここから見ていたい。
 
すでに鞭打たれぼろぼろになった体で
杭を背負い歩いていく。
 
今、せめてそれだけの思いをこめて、
見つめ続ける
もうほんの少しだけでも、
見逃すことはしたくないと思いながら。
目を背けたくなるのを我慢して。
 
憎しみや罵声が零れることはなかった。
そこには、祈りの言葉があった。
そして、苦しみが長引きすぎることもなく、
息が絶えた。
とは、風であり、神の霊であった。
 
この人は、ほんとうに神の子だった。
そう、異邦人兵士が呟いた。思わず。
 
それは、惨い、いけにえ。
犠牲の小羊なら、まだ我慢できたものを、
それが人だなんて。
しかも、あなただなんて。
 
私が、そうさせたのです
「ほかならぬ、この私が」

晩餐に入るとき、
イエスは、弟子たちの足を洗ったといいます。
いわゆる「洗足」。
 
最後の最後まで愛し抜く姿勢と共に、
その意味を考えさせる
衝撃的な行為でした。
だって、それは奴隷の仕事だったから。
 
それからイエスは祈りのためにゲッセマネの園へ。
最後の最後まで、
祈りが力でした。
このときには多分に、血と汗の祈りでしたが。
 
裏切ったユダの案内でユダヤ権力者たちが
イエスを捕らえます。
それから裁判に、おそらく六度も引っ張り回されます。
律法を授けた神が、
律法を操る人間に裁かれるのです。