イエスは、命を狙われるようになります。
誰に?
それは、宗教的政治的指導者とそれに属する人にでした。
 
福音書は、様々な角度から、
イエスとエリートたちとの対立を描きます。
そしてイエスも、彼らを思いきり非難します。
 
そんなことまで言ったんじゃ、
やばくない? と思えるほどに。
 
その思い切った方法によって、
イエスの味方と敵とが
鮮明に分かれていったのも事実です。
 
地上でも、
羊と山羊とを選り分けることができるのです。
ただ神だけが。
だから、イエスという男が現れても、
それがメシアであるとは、
あまり気づかれなかったのではないでしょうか。
 
ずっと共に生活した弟子たちでさえ、
それを口にすることをためらい、あるいは
信じられなかったようなことが記されています。
 
癒された人々が、イエスをメシアだと言う記事も、
ある意味で稀な例であったからかもしれません。
 
十字架の後、その復活を知って、
「そういえば……」と
初めて気づくような体験を、
弟子たちはしたのではないでしょうか。
そのメシアは、
どんなふうに現れるのだろう。
人々は、聖書、つまり今私たちが手にする旧約聖書の中に、
その登場についての記述を探しました。
それは神の言葉であったからです。
 
結局、簡単には分かりません。
我こそはメシアだ、と現れた有能な人物は時折いました。
リーダーとなって、イスラエルを解放しようと立ち上がりました。
でも、そのたびに、ローマに滅ぼされていきました。
しょせん、神の立てたメシアではなかったのです。
キリストとは、「救い主」の意味でしょうか。
もともと、「メシア」と呼ばれていました。
変なたとえですが、
「ベースボール」が「野球」と呼ばれているような感じです。
 
イスラエル古代の習慣に則って、
油注がれた者、という意味です。
 
イスラエルの地は、
古代から、交通の要地でもありましたから、
近隣の大国に常に狙われる運命にありました。
 
二千年前の頃は、
ローマ帝国に抑えられていました。
 
とくに、宗教的に
その圧政に我慢がならなかったのかもしれません。
このイスラエル、あるいは当時はユダヤでしょうか、
神の民たる私たちを
この苦難から解放してくれる指導者が、望まれていました。
 
だから、多分にどこか政治的な救い主が待たれていたのです。
「みこころ」という言葉があります。
神の心、神の思いということです。
 
でも、「みこころ」って、何でしょうか。
軽々しく、私たち人間が口にしてよいことなのでしょうか。
 
自分が自分の進む道について、
みこころならば、と祈るのはよしとしても
他人の信仰に対して、
それはみこころじゃない、なんて使う例があるからです。
 
神の意志、神の計らいというものは、
地上の人には、ついには分からないものなのです。
それは、私たちにとって、ミステリーです。
 
謎解きを急ぐことなく、
いつか最後の時に明かされるのを、
楽しみにしていたいものです。