その「たとえ」が、
今の私たち読者には、
却って理解しづらくなっています。
 
生活環境も時代も違いますから
当時の人が持ち合わせていた、
背景や脈絡を知らず、理解できなくなっているからです。
 
これは、ある意味で皮肉な結果です。
分かりやすいようにした話が、
時と場所を異とすることにより、
却って分かりにくくなるのですから。
 
でも、机上の空論ではなく、
誰もが実感できる、
手触りの感覚
等身大の理解というのが、
極めて大切であることは、十分にうなずけます。
 
人はともすれば、
さも理想論のような大風呂敷に、
簡単に騙されてしまうものですから。
イエスは、
しばしば「たとえ」を用いて話をしました。
 
不思議な気がするかもしれませんが、
理論を高らかに掲げるよりは、
「たとえ」という等身大の言葉で語ったのです。
 
昔は、誰もが字が読めて、
誰もが一定の教養をもっていたわけではありません。
そして、そのもたない人たちが、
知識人たちから蔑視されていたのでした。
イエスはそこで、
低い人の立場に立ったのです。
 
だから、地面からの視点と言葉が必要でした。
それが「たとえ」であったのです。
世の中の権威に抑えつけられ、
虐げられる側にある人々は、
マナーがなっていませんでした。
 
ここでマナーと言っているのは、
旧約聖書の文化では、律法のことです。
 
格差もつけられ、その格差ゆえに
マナーができていないので、
差別され、人間扱いすらされていなかったような人々を、
イエスは人間として扱ってくれました。
 
この人たちこそ、
神の国の住人である、と
イエスは見つめ、手を触れたのでした。
奇蹟は起こります
行く手が行き詰まり、
どうすればよいのか分からないとき、
不思議と助ける人が現れます。
事態が思わぬ方向に動いて、
抜け道や解決の道が与えられることがあるのです。
 
モーセが海を二つに分けてイスラエルの民を通し、
その後エジプト軍が来たときに水を戻したため、
エジプト軍は壊滅的な打撃を与えられたのは、
昔話ではありません
 
キリストが人を癒し、
絶体絶命のピンチにある人を助けた多くの記事もまた、
今生きてはたらいている主によって、
まさに日々起きている現実であるのです。
キリスト教というと、
どうしても「奇蹟」が話題になることがあります。
 
――そんなことがあるか。
――奇蹟を信じているなど、幼稚だ。
 
どのように言われても、
真のクリスチャンは何とも思いません。
それは、そんな表面上のことを超えて、
キリストと、出会ってしまったからです
 
救われるはずのない自分
キリストに救われたと確信することによって、
奇蹟は起きるかどうかという問題など、
取るに足らない疑念だということが、分かってしまうのです。