先日興味深い本を読んだ。村上春樹の「やがて哀しき外国語」という単行本で、1994年発行だからちょっと古いものだけど、著者がプリンストン大学の客員教授みたいな形でアメリカに住んでいたときに執筆した本。それ自体は別にどうってことないんだけど、最後のほうに翻訳に関する章があって、それには考えさせられるものがあった。
著者は週1回日本文学のセミナーを大学院学生に教えているんだけど、その学生の一人が吉行淳之介の作品を英語で読んでエッセーを提出したので、採点の必要上著者もその英訳版を読んでみた。そして原作を読んだのははるか昔で手元になかったので、ためしに自分で和訳してみた。そしてこの本の中で、著者の和訳と原作を対比している。
村上春樹はもちろん小説家であり、翻訳作品も出版している言葉のプロである。
その彼でもやはり英語から翻訳したものは、原作と同じレベルにならない。
例を挙げてみよう。
「伊木一郎は陸橋の上で足をとめ、振り返って、眼下に広がる夕暮れの通りを眺めた」という文章がある。これを読んで、別に違和感もないし、小説の中の1つの文章としてなんら文句をつける筋合もないと思った。ところが次に原文が引用されていた。
「陸橋の上で、伊木一郎は立ち止まって、眼下に拡がっている日暮れの街に目を向けた」
さらに翻訳と原文の比較が続く。
「毎日同じ時刻に、彼は仕事に向かった。そして毎日同じように彼はこの橋の上に立ち止まって、それらの通りを眺めた」
「毎日、この時刻が彼の出勤時間だ。そして、毎日彼は橋の上に立ち止まって、街を眺める」
どちらも翻訳文だけを読んだ場合、なんら問題はない。読みやすく正しく訳されている。しかし、原文と比べると急に色あせてしまう。
翻訳をする場合は、最初からその言語で書かれたような文に訳すことを当然ながら心がけている。上記の2つの文章はどうちらも最初から日本語で書かれた文章として立派に通じる。それでも原作にはかなわない。翻訳はどんなに努力してもやはり翻訳にしか過ぎないのだと痛感させられた。
著者は週1回日本文学のセミナーを大学院学生に教えているんだけど、その学生の一人が吉行淳之介の作品を英語で読んでエッセーを提出したので、採点の必要上著者もその英訳版を読んでみた。そして原作を読んだのははるか昔で手元になかったので、ためしに自分で和訳してみた。そしてこの本の中で、著者の和訳と原作を対比している。
村上春樹はもちろん小説家であり、翻訳作品も出版している言葉のプロである。
その彼でもやはり英語から翻訳したものは、原作と同じレベルにならない。
例を挙げてみよう。
「伊木一郎は陸橋の上で足をとめ、振り返って、眼下に広がる夕暮れの通りを眺めた」という文章がある。これを読んで、別に違和感もないし、小説の中の1つの文章としてなんら文句をつける筋合もないと思った。ところが次に原文が引用されていた。
「陸橋の上で、伊木一郎は立ち止まって、眼下に拡がっている日暮れの街に目を向けた」
さらに翻訳と原文の比較が続く。
「毎日同じ時刻に、彼は仕事に向かった。そして毎日同じように彼はこの橋の上に立ち止まって、それらの通りを眺めた」
「毎日、この時刻が彼の出勤時間だ。そして、毎日彼は橋の上に立ち止まって、街を眺める」
どちらも翻訳文だけを読んだ場合、なんら問題はない。読みやすく正しく訳されている。しかし、原文と比べると急に色あせてしまう。
翻訳をする場合は、最初からその言語で書かれたような文に訳すことを当然ながら心がけている。上記の2つの文章はどうちらも最初から日本語で書かれた文章として立派に通じる。それでも原作にはかなわない。翻訳はどんなに努力してもやはり翻訳にしか過ぎないのだと痛感させられた。