沼津たより10-2
編集 松本 徹中国の自動車会社で仕事をしている時に、なぜ試作が必要なのかと聞かれた事がある。それまでその様な事を考えた事がなかったので試作について色々と調べる事になった。本田の朝霞研究所に入社した当時、僕には試作の知識はなかった。しかし仕事を始めるとすぐに研究所では試作車を作り、それで色々なテストを実施する事が分かって来た。そうして試作の時は量産と違う作り方をしている事も分かった。例えばアルミを使って試作する時は砂型を使って部品を作ったり、総削りで部品を作ったりしてテストをしていた。しかしそれがなぜなのかは良くは分からなかった。当時の研究所では技術は見て盗めと言う雰囲気が漂っていたので、そんな事も先輩には聞き辛かった。また聞いても10年早いとか自分で調べろとか言われて大体相手にされなかった。1980年代の研究所はそんな感じだった。試作車でテストが終わると本型を作るためのイベントが実施され、OKになると本型を作成して量産品の部品出しが始まった。そうして本格的に部品テスト、実機テストを実施してOKになると量産が始まった。当時のアルミ屋は決まって試作品より本型品の方が性能は良いので、問題ないと言う事を良く話してくれた。僕は表面処理の開発をやっていたので、試作時は一品料理で行い、量産メーカーが決まると初めて量産ラインで部品を流し、その部品で性能テストを実施した。当然量産ラインを流した方が性能は劣るので、アルミ屋の話してくれる事が理解出来なかった。当時の表面処理屋の感覚では量産になると性能が1ランク劣るので、慎重に評価し対策する。そんな感覚だった。しかしアルミ屋は本型で作った部品の方が性能は良いと話してくれた。当時の僕は金型の知識はなく、木型だとか砂型だとか言われてもピンとこなかった。更に金型がなぜ必要なのかそんな事も理解していなかった。それから数10年が経ち、僕は中国の会社で仕事をしていた。たまたま日本に帰国している時東京の展示会で紅品科研と言う中国の試作会社と知り合いになり、深圳に行った時工場見学をさせて貰った。この会社に行ってまず驚いたのは、社員が1000人近くいると言う事だった。更に自動車の完成車も試作で出来る工場を建設していると言う説明を受けた。更には試作だけではなく量産もやっていると言われた。そんな説明を受けてますます試作と言う位置付けが分からなくなって来た。前々から金型を用いなくて部品ができれば良いと考えていた僕の疑問にも、彼等は3Dプリンターのある部屋で数年先の方向性を説明してくれた。今後試作の分野では3Dプリンターが主役になる可能性があり、樹脂部品も金属部品も作れるようになると説明してくれた。そんな事もあって試作に対する仕事に注目するようになって行った。日本で仕事をしている時は試作メーカーと付き合いはなかったので、勿論試作工場の見学はおろか試作そのものに興味はなかった。今年になって天津で試作会社浅野の会長との出会いがあり、この度群馬県の工場を見学させて頂ける機会を頂けた。工場に行くと朝霞研究所時代開発したタンク用の表面処理鋼板を使って多くのバイク用のタンクを試作していた。また馴染みのある部品を久しぶりに見る事が出来て苦労した昔を思い出した。ここ数年自動車メーカーより試作時も量産に近い形で生産して欲しいと言う要望が高まり、設備含め量産を想定して部品が作られていた。また設備も進化しレーザーカット、レーザー溶接が主流になりつつあり、ボディもギガキャストと言われる一体成形が主流になりつつある。特にギガキャストは従来なら100点近くある部品をアルミの一体成形で作れるので大幅なVAが可能となる。一日かけて浅野で試作に関する勉強をさせて頂き充実した時を過ごさせて頂いた。仕事が終わり浅野会長と伊香保温泉に行き自動車の将来について意見交換をさせて頂いた。さて小説「遥か向こうにはいつも夢が見えていた」をタチエスに寄贈させて頂いた。タチエスとの仕事の関わりに関しては以前の沼津便りに書かせて頂いたが、締め付けのワーキンググループで一緒にルール作りをやらせて頂いた。自動車用シートフレームの締め付け箇所は重要工程に指定されている工程が多く、この工程で問題が発生するとリコールになる可能性があるので、量産になるまで工程監査を含め多くのイベントをクリアーしないと量産移行出来ないのである。その様な内容をこの小説にも書かせて頂き、仕事に活用して頂きたく小説を寄贈した次第である。勿論今回の工場見学の時浅野にも小説を寄贈させて頂いた。浅野会長の「社員300名の生活を支えるために常に新しい事に挑戦していかなければならない。」と言う言葉の意味を考えながら帰路についた。そろそろ伊香保は紅葉が始まり温泉街を秋色に染めて、僕の感覚さえも変えてしまう事になるのだろう。