2011年の東日本大震災、日本人として何もできないまま10年が過ぎた。
いろんなチャリティイベントに参加したり、企画しても、
無力感に揺らされながら時は過ぎた。
ウクレレを手にして、いろいろなことがあったけど、
チャリティイベントに参加した、あの日のことを思い出した。
”牧伸二さん”との出会いである。
2011年ハワイのコンテストでMVPを受賞してから、数か月後、
ウクレレ友人の”タロケン”さんから「面白いイベントあるんですよ」と、
お誘いいただいたのが、原宿クロコダイルで開催の”ウクレレ・エイド”だった。
要はプロ・アマ関わらずオープンマイク的に1,2曲演奏し、
その参加費を東北などを含めいろいろな被災地に届けるチャリティ・イベントの1つだった。
このイベントは現在も牧さんの従弟の鰯屋猫助さんが続け、たくさんの人が演奏してきたのだが、
特に印象的な日が何日かあり、そのうちの一つをご紹介したい。
1000円か500円の参加費で、あるその日に集まった演奏家。
・斎藤RIOくん
・渡辺海智くん
・名渡山遼くん
・IWAOさん
・tamamixさん
・FlipFlapさん
・ヒロ先生(ウクレレ雑技団)
そして、私。
息をのむような演奏家たち。もはやオープンマイクではなく、大イベントのようなゲストたち。
その後もいろいろとかわいがってくださった故・浦上さんが、
「お前かー日本人初!のハワイ王者は!」と明大柔道部らしい、
がっしりした双肩でグっと抱き寄せてくれた。
その時だった
浦上さん:「牧伸二師匠にはあったことがあるか?」。
私:「いえ、もちろん面識ありません」。
浦上さん:「よし、来い」
と楽屋に連れてってくれた。
お世辞にも広くないクロコダイルの楽屋には、
牧師匠と付き人の方が2人で、深めのソファーに沈んでらした。
”この人が牧伸二。本物か。。。。。”
浦上さんが僕のことを紹介してくださり、横に座らせて頂いた。
いろいろウクレレのこと聞いたのだが、あまり口数の少ない方で、
私が少し話す度、手癖の様にちょちょっとウクレレを弾いてくださるのだが、
ソプラノの”G-Strings”から、”3連”、”ロール”など何とも言えないJazzyなフレーズが聞こえた。
今でも思い出せます。
何とも味わいのあるコードだったので、
私:「師匠、今のはディミニッシュ・コードですか?」
牧師匠:「ん。。。そうかな」
とまた少し違うフレーズを弾いたりする。
なんか、はっきりと教えてくれないw。
すると
付き人の方:「師匠出番です」。
牧師匠「お」。
牧師匠の出番は少し早め。あまり遅い時間までいるのは体力的に厳しいとのこと。
私がお会いしたのが晩年だったのか、牧師匠の足も弱く、
付き人の方と私で抱きかかえるように、楽屋のソファーから立ち上げた。
正直、「あんな感じで演奏なんて、出来るのかな。。。」という心配は、驚きに変わった。
ステージに立つ牧師匠は、そんな心配が嘘のような舞台を見せてくださった。
「やんなっちゃった節」。はじめて生で拝見。
オケを流しながら、ラインではなく、マイクでの牧師匠の右手は、
年季の入ったソプラノG-Stringsを手に、
3連ストラムやロールが混じったコロンとした音色を奏でていた。
下ネタ交じりの牧師匠の漫談に会場は、ドッと笑いが絶えなかったが、
私は牧師匠の右手を、じっと舞台袖から見ていた。
この人、ウクレレ奏者じゃん。。。。
これまで、何かで見る師匠の演奏は、「やんなっちゃった節」を中心とした
漫談が多く、大多数の方はその印象が強いのではないでしょうか。
でも、私は師匠をみた。師匠のウクレレ演奏をみた。
あの右手を。ウクレレ・プレイヤー牧伸二を。
その後、何度も、師匠の演奏をこのステージで拝見し、
演奏後、師匠直筆の格言の色紙をオークションするお決まりの展開の中、
師匠の色紙をGETした。その色紙は今、僕のウクレレ教室にずっと飾られている。
「皆さんから頂いたお金で一杯飲むのさ」と嬉しそうにw。
その後、師匠の訃報を聞いたときは、とても悲しい気持ちだったが、
ウクレレ好きな師匠がいなかったら、
IWAOさんも、名渡山遼くんもいなかったのではないだろうか。
そう思うと、なんだかウクレレを弾く度、どこか思い出す。
稀代のウクレレ王・牧伸二を。
ほんの数10分だったけど、あの楽屋での師匠のウクレレ、わすれません。
牧師匠、いつまでも天国で弾いていてください。
※ ウクレレ雑技団の方の動画を拝借しました。
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