
レコード・コレクターズ誌の特集『昭和歌謡 名曲ランキング 1960年代編と1970年代編』。
“歌謡曲”でなく“歌謡”としてあるのは、インスト曲を含まない歌唱がメインの楽曲ということだろう。
また“名曲”となっているが、リストを見ると“ヒット曲”とした方が妥当なように感じる。
1964年の東京オリンピック開催に向けて、1960年代に入ると一般家庭にテレビが急速に普及してゆく。
当初のテレビは“魔法の箱”。家の中で一番偉い存在だったろう。 テレビが生活の中心。
したがってバラエティー番組や歌番組など親と子の2世代が同じ番組を見る(家庭によっては祖父母を含めて3世代)。そのため、好き嫌いに関わらずヒット曲はほぼ全世代の人が知っていた。
1960年代半ばまでは歌の世界には確固とした専属性があった。各レコード会社ごとに専属の作詞家、作曲家、編曲家、演奏家、そして歌手が居るという閉鎖的な業界で、歌手のレコード・デビューは簡単なことではなかった。
“商品”として売り出すにあたりレコード会社、プロダクションが万全の体制を組み、確実にたくさん売ることが正義。 工業製品のようでもある。
前時代的で不自由な業界だったような気がするが、これはマイナス面だけではなかった。熟練の職業作家たちは生活をある程度保証されながら「売れることが目的」という制約さえ外さなければ、曲作りの中でかなり自由に実験的な取り組みをすることが出来た。
世界中のいろんな音楽の要素を積極的に取り込む。ポップス・ラテン・タンゴ・ソウル・リズム&ブルース・ジャズ・フォークなどを日本人の嗜好に合うようにアレンジした楽曲群は、今の耳で聴いても驚くほどバラエティーに富む。歌謡曲の豊潤な時代だったように思う。
ただ、まったく未知の音楽が新たに生まれる可能性は低かった。
ところが1960年代後半になると、海外(欧米)から数年遅れで革新的なスタイルの音楽が入って来る。Bob Dylan、Beach Boys、Beatles……。
一般リスナーにとっては彼らの音楽が衝撃だったが、歌手やミュージシャンにとっては彼らの方法論が衝撃だった。
『自分たちで曲を作ればいいのでは?』
『そして自分たちで演奏すれば良いのでは?』 海外の彼らは実際にそのやり方で商業的にも成功しているし。
日本でもそれはフォーク・ミュージシャンから始まり、グループサウンズ(GS)も初期は職業作家の作った曲を演るだけだったが、すぐに自分たち自身で作り出す。
こうして歌手・ミュージシャンが自分たちで曲を一斉に作り出したことにより、日本の音楽シーンに様々なスタイルの音楽が同時に生まれることになった。
ちょうど世界的に激変していく政治状況を反映して、世界(欧米諸国)の音楽も急激に多様化してゆく。
ちょうど世界的に激変していく政治状況を反映して、世界(欧米諸国)の音楽も急激に多様化してゆく。
1960年代は幅広い世代に支持された曲がヒットしたが、1970年代に入るとスタイルの多様化を受けてリスナーの好みも多様化し、ヒット曲のジャンルはどんどん細分化してゆく。
従来の歌謡曲や演歌に留まらずアイドル・ロック・ニューミュージック・シティポップ……。
隣の席に座る音楽好きの学友が、いったいどんな音楽を聴いているのか見当も付かないことになった。
メガヒットが生まれても、音楽ファンの誰もが知っているわけではない。逆にマイナーな曲、ミュージシャンが突然脚光を浴びることもある。
1960年代はヒット曲とその時代の世相が緊密に結びついていたが、1970年代(の後半)になるとその時どきを代表するようなヒット曲は生まれなくなった。
2000年以降は、誰もが知っている(耳にしたことがある)曲はアニソンぐらいか。
1960年代や1970年代のヒット曲をまとめて聴く機会はまず無い。ヒット曲を単発で聴いても楽曲の良し悪しは分かるが、その曲が出た時代の背景を知らなければなぜヒットしたのか分からないケースもある。
単純に楽曲そのものを楽しめばそれで良いとも言えるが、何か大切な部分が薄れてゆくように感じる、
『歌は世につれ世は歌につれ』
〈雑感〉
歌謡曲としては明らかに異質な曲だったザ・キング・トーンズの“グッド・ナイト・ベイビー”(1968年)。奇跡のような名曲・名唱だし、後にドゥーワップやR&B・ソウル系のコーラス・グループに興味を持つきっかけになったリスナーも多いと思う。
新谷のり子の“フランシーヌの場合”(1969年)。こんな妖艶なジャケットとは知らなかった。曲の内容に合ってないような気がするけど、半世紀以上経ってから文句を言ってみても仕方がない。実際にはなんてことのない曲なので、時代背景を知らなかったらヒットした理由は分からないだろう。
サザンオールスターズの“勝手にシンドバッド”(1978年)。たまたまテレビ初出演時のライブハウスからの生中継を見たが、ハチャメチャに弾け倒した元気の良さに圧倒された。
その時は一種の泡沫コミックバンドかと思ったが、後の“いとしのエリー”(1979年)で国民的大スターになる。
後年、雑用係券記録係としてインタビューに同席する機会があったが、桑田はファンがイメージするような賑やかなバンドマンという感じではなく、繊細なアーティスト気質でとても生真面目な人だった。
荒井由実の“あの日にかえりたい”(1975年)。抑揚に乏しい平板な歌唱。しかし最初の“荒井由実”名義の4枚のアルバムは素晴らしい出来栄えだった。みずみずしい叙情性という陳腐な表現しか思いつかないが、手を触れると壊れそうな繊細さはバックの演奏と合わせて今聴いても鮮烈。
自分の感性に絶大な自信があったユーミン(そりゃそうだろう)。経済的にも、またセンスのある人たちとの交遊関係によっても自分はブルジョワジー階級という自負のあったユーミン(そうなるだろうなぁ)。
そんな彼女が心底嫌ったのは感性に乏しく凡庸な一般労働者階級予備軍。しかし彼女を熱烈に支持したのはその彼ら彼女たちだった。








