

ハンナ・アーレント。
主要な著作をなんとか読もうとするが、どうやっても読み通せない。
論理的で硬い文章。
もちろん翻訳だし日本語で書いてあるので文字は読めるし、単語・熟語もそこそこ分かるし、用語もその都度調べればそれなりに分かるのだが、文意が取れない。
結局のところ、早いうちからこうした文章を読む訓練をしておかなければ、いざ読もうとしても無理ということか。
で、くよくよ考えてても仕方がないので諦めて、これでケリをつけようと初心者向けの新書を読んでみた。
矢野久美子『ハンナ・アーレント』。
伝記を兼ねて彼女の事跡を簡易にまとめた入門書。
1906年、ユダヤ人として戦前のドイツに生まれる。したがって第一次世界大戦、次いで第二次世界大戦へと向かう現実世界の急激な変貌に実生活ごと巻き込まれた。
1932年にナチ党が選挙で第一党となり、翌年にはヒトラーが首相に。
すでに言論活動を始めていたアーレントはまずヨーロッパ各地へ、次いでアメリカに亡命する。
すでに言論活動を始めていたアーレントはまずヨーロッパ各地へ、次いでアメリカに亡命する。
亡命以前のごく若い頃から親しく交流した相手として著名な人物がバンバン登場して驚く。
ハイデガー、ヤスパース、ベンヤミン……etc.
戦前のドイツの思想哲学界はごく狭い世界だったんだろうか。それとも主要な大学に秀俊が集まり、かつ相互に交流があったということか。
(ハイデガーがナチ党に賛同したことでアーレントはいったん袂を分かつが、戦後は交流を復活する)
(ハイデガーがナチ党に賛同したことでアーレントはいったん袂を分かつが、戦後は交流を復活する)
遠く離れたアメリカに移り住み、母語を使っての日常生活が出来なくなってからも戦前~戦中~戦後のドイツ社会の変遷は、アーレントにとって身近で切実な自分自身の問題だった。
彼女の用いる言葉の強さというか強度は、精神世界(学問)と現実世界が密接に繋がっていたゆえかと思う。
1963年、『イェルサレムのアイヒマン』出版により同族であるユダヤ人から猛烈な批判にさらされた。
一 一 ドイツに対して寛容すぎる。
一 一 ユダヤ人は一方的に被害者なのに。
現在でもよく目にする光景ではある。善と悪をはっきり分ければ世界は理解しやすい。
では、加害者は単独で成立するのか。被害者がなんらかの協力(?)をしなければ加害・被害は成り立たないのではないか。
そうした中、アーレントが取り上げたのは民族といった属性ではなく、個々の人間の人間性だった。
彼女が“発見”した「悪の凡庸さ」は今も世に絶えることがない。
〈追記〉
「悪の凡庸さ」については英語表記では “banality of evil” なので、訳語としては「悪の陳腐さ」の方が正しいのかもしれない。この書でも「陳腐さ」となっている。
しかし「陳腐」や「平凡」と言うと、人間が為した行為(個々の事象)を指すことになるような気がする。
それに対し、アーレントの言う思考停止・無思想性を表すには、やはり個々の人間の人間性そのものを指す「凡庸」という言葉の方が適切かと思う。
具体例は今の日本社会でいくらでも見ることが出来る。





