出雲神話(古事記)の舞台と遺跡を訪ねて | 日暮し三昧

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 令和4年の7月20日(水)から21日にかけて古事記「出雲神話」の舞台である出雲を訪ねた。

 

  今回の目的は出雲の「国譲り」とは神話だけで無く史実であったのではないかと思い現地を訪れた。

 

 初日の「西谷墳丘墓」(出雲弥生の森博物館)皮切りに、翌日は出雲大社をお参りしてから「古代出雲歴史博物館」を経て、「荒神谷遺跡」(荒神谷博物館)を訪ねる。

 

 

 

 ⇒現地を調査する前に出雲神話(古事記)をおさらいしておくと

 

①出雲に降り立った須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)退治して櫛名田比売(くしなだひめ)を娶る。

 

 

②稲羽の白兎伝説で有名な大国主神(おおくにぬしのかみ)が八上比売(やがみひめ)を娶る。

兄の八十神(やそがみ)や須佐之男命の試練にも須世理毘売(すせりひめ)の協力を得て堪えしのび成長する。

 

③海の彼方から現れた大物主神(おおものぬしのかみ)の協力で国造りを完成させる。

 

④大国主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使いの武御雷之男神(たけみかづちのかみ)と談判ののち国譲りを承諾する。(条件として立派な宮殿をもらう)

 

      稲佐の浜 国譲りの談判

 

 さて、本題の現地調査を開始する。

 

 

【西谷墳丘墓】

 

 20日(水)の午後3時前に出雲市駅に着くと、お決まりのレンタカーを借りて早速、斐伊川の西にある「四隅突出型墳丘墓」(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と「出雲弥生の森博物館」のある西谷に到着した。

 

      

 四隅突出型墳丘墓が出来た時代は卑弥呼が女王になった頃の弥生後期である。

 

 その特徴は四隅が突き出した墳丘墓で、その貼石(はりいし)は古墳時代の前方後円墳の葺石(ふきいし)の原形とも云われている。

 

 

 墳丘墓のある小高い丘に登ると、そこは蒸し暑さが無く心地よい風が吹き、出雲王に対する民の畏敬が伝わる、ほのぼのとした気配を感じた。

 

            2号墳(復元)

 

2号墳(約46m×約29m×約3.5m)は、貼石で復元されていて弥生当時の姿を表している。緩い勾配の突出部は墓上へ登る通路として造られたと考えられる。

 

 

【出雲弥生の森博物館】

 

 墳丘墓のあとは道を挟んだ向かいにある博物館に戻る。

 そこには島根大学の調査により発見された3号墳から出土品した復元模型が展示されていた。

 

   二重構造の木棺から出土したガラス勾玉や鉄剣のほか、出雲王の埋葬の様子や男王や女王などの復元されている。

  弥生時代の王や庶民の生活が見事に表わされていることに驚きを感じた。

 

 

  また、四隅墳墓ができた時の造成や、棺を埋めた後の巨木の柱を建てた様子が再現されていて興味深い。

 

 

 

【駅前で泊る】

 

  弥生の墳丘墓を見終わると出雲市駅北の「ホテルエリヤワン出雲」にチェックインした。

 ホテルの窓から見える出雲の町を一望すると、おもむろに夜の駅周辺の居酒屋を探した。

 

  駅を南に渡ると「日本海庄屋」が現れた。山陰は海の幸が豊富なので活きな魚で前祝いを行った。

 案の定コリコリとした刺身や鱧の湯引きで心地よい酔いを味わう。

 

 

 

 

 【出雲大社】

 

 翌日21日(木)は早朝7時にホテルを出て9km北の出雲大社へ向かった。

 今にも泣き出しそうな空の下、勢溜(せいだまり)の二の鳥居からお参りを開始した。

 

        二の鳥居

 

          松の参道

 

       稲羽の白兎と大国主命像

 

 早朝の参道は人通りが少なく静粛な空気だけが漂っている。

 大国主と稲羽の白兎の像を眺めながら四の鳥居をくぐると拝殿が現れた。

 

 拝殿に着くと2拝4拍手1拝の拝礼で出雲大社にお参りできたお礼をしました。

 

        拝 殿

 

       本殿(大社造り)

 

 拝殿でのお参りを済ますと奥には遷宮を終えたばかりの巨大な本殿が迫ってくるが、

 楼門より奥は入れないので本殿の大社造りの特徴である千木と鰹木だけをアップで撮る。

 

 本殿をもっと見たい人は正門で終わらないでぐるっと一周すると本殿が見えやすい場所が現れてきます。

 

    神楽殿と大注連縄(おおしめなわ)    

 お参りの最後の神楽殿に着くと、日本最大級の大注連縄に圧倒される。

 大きさはなんと長さ13.6m、重量5.2トンもあり1000人の町民の手で作られているようだ。  

 

     出雲国造館(千家)

 

 お参りの後は84代にわたって連綿と続く出雲国造(千家)のお館のご門を拝見した。

 そのまま博物館に向かおうとしたが開館時間(9時)まで時間があるので先に、国譲りの舞台である稲佐の浜に向かった。

 

       稲佐の浜

 

 しかし、国譲りで武御雷之男神(たけみかづちのかみ)が降り立ったとされる稲佐の浜は漂着ごみが大量に覆い少しがっかりした。

 

  足早に出雲大社に併設する「古代出雲歴史博物館」に向かった。

 

 

【古代出雲歴史博物館】

 

  ここには中世の出雲大社本殿の心御柱(しんのみはしら)と宇豆柱(うずばしら)が出土された状況が保存されている。

 つまり48mの高層神殿があったことが証明された。

 

       心御柱の発掘時

 

 中には平安時代の出雲大社本殿の1/10復元模型も展示されていて高さ48mもあったとされる高層神殿は史実であったことを物語っていた。

 

     神殿復元模型/10

 

 

【荒神谷遺跡博物館】

 

 出雲大社周辺を見た後は、東へ17km移動して弥生の青銅器が大量に出土した荒神谷遺跡と、

その博物館を見学して弥生にあった出雲の勢力の確証をした。

 

      博物館

 

     銅矛・銅鐸の出土状況

 

 以前の出雲は青銅器の出土しない地域と考えられていたが、この荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から大量の青銅器(銅剣358本)や銅鐸・銅矛が出土したことで覆った。

 

 弥生時代1~2世紀に渡って造られた青銅器は古代出雲の勢力が誇っていた証拠でもある。

 

       銅 剣

 銅、鉛、錫の合金である青銅製の銅剣は2000年経っても腐食せずに残っていた。これまた感動である。

 

 

【荒神谷遺跡】

 

 博物館より200mほど離れた森には銅剣・銅鐸・銅矛が発掘された斜面がそのまま保存されていて古代の不思議な儀式の跡に感慨深い気がした。

 

      出土斜面

 

 

 荒神谷遺跡を最後に午前中に見終わると出雲市駅に戻った。

 話のネタに出雲名物の「割子そば」を食べてから、出雲名産のあご焼き蒲鉾

(あごはトビウオ)を車中でかじりながら、のんびりと岐阜まで帰りつくことができた。

 

 

【国譲りの検証】

 

 今回の出雲の国譲り神話のさとを訪ねて出雲大社と弥生遺跡の一部分ではあるが国譲り神話は史実であったのではないかとの確証を持てた根拠を以下に記す。

 

①四隅突出型墳墓

この弥生後期にできた墳墓の出雲王がヤマト政権ができた巻向遺跡と同時期であり、そのあと出雲は衰退してヤマトが勃興し前方後円墳が全国に広まった。

 

②青銅器の大量出土

荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で発掘された大量の青銅器を持っていた古代出雲の勢力が弥生前期から後期にかけてあったとされ、そのあと出雲は衰退してヤマトが勃興している。

これは国譲りの証拠ではないか。

 

③出雲大社の高層神殿

大国主がヤマトに国譲りをしたときの条件である立派な神殿は発掘調査に基づいて高さ48mもある日本一の高層神殿があった証拠として見つかっている。

 

④出雲の神社とスサノオが祀られた神社

出雲には186社もの神社があり、神話に通じる大きな勢力をヤマトが認めた事でできているとしか思えない。

また、沢山のスサノオが祀られた神社があるが伝説だけでできるものではない。

 

⑤神在月の出雲大社

出雲は旧暦の10月が神在月となっているが、国を上げたこれほどの大神事が連綿と出雲に続いていることはヤマトが出雲の神(出雲の勢力)を崇めた証である。

 

⑥出雲国造の歴史

大宝律令後は無くなったはずの国造が、84代に渡って出雲大社に仕えてきた「千家」は連綿と続いている。 これも出雲が別格の扱いをされていた証拠である。

 

⑦ヤマトと出雲の神

崇神天皇のころ奈良の三輪山の祭神は出雲の「大物主の神」で出雲の祟りを恐れられ祀られている。

 

以上ざっと上げてみましたが、どれも国譲りは史実に基づいて作られた古事記による神話だと思いますが皆さんはどう思いますか。 一度出雲を訪ねてみませんか!